通説にとらわれない新しい歴史解釈

2008年 02月 02日 の記事 (5件)


餓死の貧乏人乞食をも敢えて救わず、その身は膏梁(美味な肉と飯)の味とて結構な物を食い、妾宅等へ入り込み、あるいは揚屋、茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑むも同様にいたし、この難渋の時節に絹服をまとい候かわらものを妓女とともに迎ひ、平生同様游楽にふけり候は何等の事哉。紂王長夜の酒盛も同事、其所の奉行諸役人手に握りおり候政をもって、右のものどもを取り締まり、下民を救い候儀もできがたく、日々堂島相場ばかりをいじり事いたし、実に禄盗にて、決して天道聖人の御心に叶いがたく御赦しなき事に候。
2008 02/02 23:50:47 | none | Comment(0)
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是皆、天より深く御誡の有がたき御告げに候えども、一向上たる人々心もつかず、猶小人奸者の輩、大切な政を執り行ない、只下を悩まし金米を取り立てる手段ばかりに打懸り、実にもって小前百姓どもの難儀を、吾等ごとき者草の蔭より常に察し悲しみ候えども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳も無ければ、いたずらに蟄居いたし候処、此節米価いよいよ高値に相成り、大阪の奉行ならびに諸役人共万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸へ廻米をいたし、天子御在所の京都へは廻米の世話もいたさざるのみならず、五升一斗位の米を買いに下り候ものどもを召し捕りなどいたし・・・
2008 02/02 23:22:41 | none | Comment(0)
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幕末に元与力であった大塩平八郎が起こした大塩の乱の時に配布された檄文の中で天照大神の時代を理想化し、その時代に復帰することは難しくともせめて神武中興の政道に戻したいという強烈な尊王思想が吐露されている。それは要約すると下記のようなものである。最初の「四海云々」は国民が衰亡すれば国運も尽きるというほどの意味であろう。
「四海(人民)困窮いたし候わば天禄(天佑、天の恵み)長く絶たん。小人に国家をおさめしめば災害並び至ると、昔の聖人深く天下後世人の君、人の臣たる者を御誡置かれ候ゆへ、東照神君(徳川家康)にも、鰥寡孤独(やもめ、ひとりもの)におひてもっともあわれみを加うべくは、是仁政の基と仰せ置かれ候。然るにここ二百四五十年太平の間に、追々上たる人驕奢とておごりをきわめ、大切の政事に携わり候役人ども賄賂を公に授受とて贈貰いたし、奥向き女中の因縁をもって、道徳仁義をもなき拙き身分にて立身重き役に経上がり、一人一家を肥やし候工夫のみに智術をめぐらし、その領分知行の民百姓へ過分の用金を申し付け、是迄年貢諸役の甚だしき苦しむ上へ、右の通り無躰の儀を申し渡し、追々入用かさみ候ゆへ、四海の困窮と相成り候に付き、人々上を怨まざるものなき様に成り行き候えども、江戸表より諸国一同右の風儀に落入。
2008 02/02 22:50:06 | none | Comment(0)
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江戸時代における民衆の尊王思想が具体的な行動を伴った例は多く存在する。例えば天明七年(1787年)に全国的な大凶作で米価が高騰し、一揆や打ちこわしが頻発していたとき、京都では御所の築地を巡る「お千度廻り」の示威行動が行われていた。最高1日七万人もの群衆が御所の周りを廻り、南門の前では紫宸殿を遥拝し賽銭を門の中へ投げ入れたという。後桜町上皇は集まった群衆の一人一人にりんごを与えたところ昼までに3万個がなくなったとこともあったという。他に赤飯や握り飯、お茶等が御所に隣接する有栖川宮家や一条家等の公家によってふるまわれた。
大阪から伏見まで淀川を通う淀船の経営者が、通常の半額の運賃で施行船を仕立て千度参りの客を運んだという。(「幕末の天皇」 藤田覚 講談社選書メチエ)−徳川幕府に見切りをつけた大商人や豪農のグループの大規模なバックアップがあったと考えるのが自然であろう。
 光格天皇と後桜町上皇は飢饉により餓死者がたくさんでているということを聞いて非常に不憫に思い、なんとかならないのかとしきりに指図をしたという。この朝廷側からの働きかけによって徳川幕府は千五百石(225トン)の救い米を放出した。(前掲書)
 下って天保十三年(1842年)、天保改革の緊縮財政で西陣の不況が深まったときにも「誰云うと無く、死にたる天神様を祈るよりも、生きたる天神様を祈るべしと云い出て、市中の者共禁裏御所へ千度参りをなして、諸人の難儀をお救ひた給ふ様にとて騒々しき事なるにぞ」(浮世の有様)と伝えられている。
2008 02/02 22:13:45 | none | Comment(0)
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今日見られる形式の雛祭りが出現した時期は江戸時代初期頃のようである。右大臣、左大臣の上席に鎮座する一対の雛人形は内裏雛と呼ばれているが「内裏」とは皇居のことであり、天皇と皇后の別称でもあるから雛祭りとは当然天皇家の婚礼を再現したものであって、その誕生の時点では明らかに皇室繁栄への願いが込められていたのだろう。
2008 02/02 22:00:04 | none | Comment(0)
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