通説にとらわれない新しい歴史解釈
江戸時代における民衆の尊王思想が具体的な行動を伴った例は多く存在する。例えば天明七年(1787年)に全国的な大凶作で米価が高騰し、一揆や打ちこわしが頻発していたとき、京都では御所の築地を巡る「お千度廻り」の示威行動が行われていた。最高1日七万人もの群衆が御所の周りを廻り、南門の前では紫宸殿を遥拝し賽銭を門の中へ投げ入れたという。後桜町上皇は集まった群衆の一人一人にりんごを与えたところ昼までに3万個がなくなったとこともあったという。他に赤飯や握り飯、お茶等が御所に隣接する有栖川宮家や一条家等の公家によってふるまわれた。
大阪から伏見まで淀川を通う淀船の経営者が、通常の半額の運賃で施行船を仕立て千度参りの客を運んだという。(「幕末の天皇」 藤田覚 講談社選書メチエ)−徳川幕府に見切りをつけた大商人や豪農のグループの大規模なバックアップがあったと考えるのが自然であろう。
 光格天皇と後桜町上皇は飢饉により餓死者がたくさんでているということを聞いて非常に不憫に思い、なんとかならないのかとしきりに指図をしたという。この朝廷側からの働きかけによって徳川幕府は千五百石(225トン)の救い米を放出した。(前掲書)
 下って天保十三年(1842年)、天保改革の緊縮財政で西陣の不況が深まったときにも「誰云うと無く、死にたる天神様を祈るよりも、生きたる天神様を祈るべしと云い出て、市中の者共禁裏御所へ千度参りをなして、諸人の難儀をお救ひた給ふ様にとて騒々しき事なるにぞ」(浮世の有様)と伝えられている。
この大規模なものが江戸時代を通じて約60年ごとに発生し、数百万人の民衆を熱狂的に天皇家の始祖天照大神を祭神とする伊勢神宮に駆り立てた「おかげまいり」と「ええじゃないか」であろう。徳川幕府の過酷な武断政治への絶望と表裏一体をなした尊王思想は次第に支配体制の側にも広まって行った。
2008 02/02 22:13:45 | none | Comment(0)
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