通説にとらわれない新しい歴史解釈

2009年 07月 03日 の記事 (1件)


 皇道派は永田鉄山軍務局長をトップとする統制派が対ソ戦の準備という名目の下に対中国との戦争に日本をどんどん深入りさせて行くことに危惧と憤りを抱いていた。
 池田俊彦元少尉は次のように語っている。
「青年将校がなぜ永田を頂点とする統制派の思想や行動を問題にしたかといえば、永田らが官僚や財閥、あるいは宮廷グループと手を組んで国家総力戦体制にもっていこうとしたからですよ。その永田が手を組んでいた人たちこそ、農村の窮乏から目をそらし、陛下にも農村の現状をお伝えせず、根本的改革には無関心だったのです。いや、それ以上に農地改革を含む国家の改造が必要だという主張に反対する最大の勢力を作っていたのです」

「(皇道派の)小畑敏四郎少将が対ソ防衛を第一義とし、日支提携を主張したのに対し、永田少将はまず武力で支那を叩き、足元を固めたうえでソ連に備えるべきだと主張した」(赤塚金次郎元少尉)

「第一、この国は国民全部の国であることが必要であり、一部特権階級本位の国であってはならないこと。
第二、国民の生命を要求する軍である以上この軍は、真に止むを得ない場合にのみ防衛戦争に投入せられることが必要であり、尽くすべき他の手段を尽くさず、悪く言えば、高級将校が勲章を貰うための戦争など絶対に行ってはならないこと。
第三、義務として若人を入営せしめた以上、その入営により、その兵の家庭が窮迫するようなことのないこと」山口一太郎大尉(当時昭和天皇の侍従武官であった本庄繁の女婿 で終身禁固)
「未公開写真に見る2・26事件」新人物往来社刊より

「われわれは今日、兵を教育しておるけれども、今のままでは、安心して、国防の第一線に対して身を捨てるわけにはいかない。捨てるような気持ちにならないし、また部下に対して国防のために死ねと申すこともできない。
 私は夜、週番士官として兵隊の寝室を回ることがあるが、そのときなど、よく寝台で泣いておる兵隊がいる。事情を聞くと、自分は壮丁として兵隊に出たために、家では食べる米もなくて困っておる。自分の妹まで今度は吉原の女郎に売られるそうである、というふうなこういう状態で、兵に対して前線に行って戦えとはいえないし、自分も全く同感である」栗原安秀中尉(刑死)ー「語りつぐ昭和史2 朝日新聞社」

 「全体にやはり農民の窮状や大資本と一般国民の遊離、あるいは政党が政争ばかり繰り返してなんら庶民の窮状を救おうとしないという現実があったわけで、それに対する青年将校の強い不平不満があったことは事実でした。私もこういう状況は何とか早く解決しなければ大変なことになるという気持ちを強く抱いたものです」片倉衷元少将(事件当時は統制派の少佐)
−「未公開写真に見る2・26事件」新人物往来社刊より

 皇道派の満井佐吉中佐は永田が当時の東京ガス重役の大田亥十二の手を通じて三井財閥の池田成彬から別荘を贈られたことを取り上げ、「永田閣下は陸軍部内における一偉才たりしことは、確かに間違いのない事実ですけれども、その終局においては財閥の頤使(いし)に甘んじて、日本を統制経済に置き換え、しらずしらずの間に、財閥の注文通りに動かされて、皇軍を全く私兵化せしむるにいたったのであろうということは、今日世間一般に信じられておるところであります」と批判した。(「軍閥」元東部憲兵司令官大谷敬二郎著 図書出版より)

二・二六事件には直接参加はしなかったが、蹶起した青年将校たちの指導者的立場にあった管波三郎大尉は戦後青年将校たちが蹶起した理由について次のように述べた。「理由の第一は、第一師団の満州移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた 北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼等は勇敢且つ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満州移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時機ではない。国政を改革し、国民の生活安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」
「第一師団が満州へ移駐した後に、必ず陸軍は中国と事を起こすことは、既に同志将校らはわかっていた。北支那への侵略の張本人は永田鉄山少将であることは、我々は誰も知っていた。だから永田局長が満州に来た時、磯部浅一が後を追ってきて暗殺しようとしたのだ」(二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房)



 「現在ノ我国ノ状態ハ軍人モ一般社会モ直情径行名利ニ恬淡ナ所謂国士的人物ハ敬遠セラレ権力者ニ媚ビ諂ウ利欲栄達ノ為ニハ恥オ恥トシナイ卑劣ナ幇間的人物カ重用セラルト云フカ如キ腐敗堕落シタ社会デアリ・・・」安田優少尉(刑死)

「叛乱時に路上で群集に演説したある叛乱将校は、陸軍の不満分子の基調をつぎのように述べた。『われわれはなぜ、三井、川崎、森村などの資本家の利益を守るために満州で戦わねばならないのか』と彼は問題を提起した。『満州ははじめは万事うまくいっていたのだが、今日では満州は、自分自身の利益のために食い物にしている、資本家の狩猟場になっている』『我々は陛下に忠節を捧げ、臣民と陛下との間に立ちふさがっている奸悪な政治家の排除を目的としている』と付け加えた」 「太平洋戦争にいたる道」 W.フライシャー著 刀水書房
 今日でも米国のイラク侵攻が石油利権目当てだったと批判されることがあるが、当時の青年将校達も不純な利益のために下級兵士の生命を犠牲にする形で戦争を利用する大企業と一部の軍人の黒い関係を疑いこれに強い怒りを抱いていたようだ。

 終戦直後の昭和二十年十二月七日に議員の前川正一は次のような発言している。
「小作料は、西欧とくらべてどうであったか。<日本の小作料が現物地代としまして、生産高の四割七分を占めております時に、イングランドではわずかに一割一分、スコットランドにおきましては一割八分、フランスにおいてさえも二割八分の小作料しか取っておらないのであります。如何に封建的土地所有関係というものが、高率なる小作料を要求しているか」(日米戦争はなぜ勃発したか 高橋英之 社会評論社)

 こういう議論はもっと早く二・二六事件や五・一五事件の起きる前にするべきであろう。これでは青年将校たちが政治家は本気で農民を救おうとする気がないと思ってもしょうがないだろう。

 
2009 07/03 20:12:01 | none | Comment(0)
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