通説にとらわれない新しい歴史解釈

2010年 10月 15日 の記事 (1件)


 山本五十六の巡視に同行する予定だった日映のカメラマンで海軍報道班員だった吉田一氏は前日(四月十七日)の夜遅くに突然同乗をキャンセルされた。憤慨した吉田氏は巡視スケジュール計画の責任者だった南東方面艦隊航空乙参謀の野村了介に直接強く抗議したが「GF(連合艦隊)からの指示である」とかたくなに拒否されたそうである。
 結局、危ういところで吉田氏は命拾いしたわけであるが、この野村参謀が戦後、この山本五十六の巡視計画について事実と異なる奇妙な発言をしているのである。それは「最初の計画では護衛戦闘機の数は十八機だったが、イ号作戦の結果、ラバウルの戦闘機隊の整備が間に合わないため、当日になって九機しか出せないということになり・・・・・」「連合艦隊参謀と相談した結果、ソロモンの敵も弱ったようだし、ブインの味方の零戦もいるのだから九機でもよかろうということになった」「九機のうち第二小隊長機がエンジン不調のため列機と共に引き返したため、結局ブインまで行ったのは六機だった」と証言しているのである。

 「当日」になって実際に同行できる護衛戦闘機の数が明らかになるというのもおかしな話であるが、この「九機」という数も「第二小隊長機が引き返した」というのも嘘であることを戦後、証言した生き証人がいたのである。山本長官の護衛に失敗した六人のパイロットは次々と激戦地に出動させられて六人のうち五人が戦死したが、ただ一人柳谷飛兵長だけが戦闘で右手首切断の重傷を負って内地に搬送されたためそのまま戦後まで生き残ったのである。
 この柳谷氏の証言によると「いまになってみれば、どっちでもいいんですがね。でもね、あの日、第二小隊長が引き返したといわれるが、あの日の第二小隊長機は日高上飛曹ですよ。列機までが引き返したそうですが、その第二小隊の三番機が私だったんですからね。あの日、ラバウルの東飛行場を飛び立ったのは、第一、第二小隊の二つだけで、最初から六機だったことは間違いありませんよ」(参照文献:六機の護衛戦闘機 高城肇  中公文庫)

 恐らく野村参謀は山本長官を護衛したパイロットの内一人が戦後も生き残っていることを知らずにあのような嘘を言ったのではないだろうか。でもなぜそのような嘘を言わなければならなかったのだろうか?私はここに陰謀の存在の臭いを感じるのである。単純な遭難死とは思えないのである。

 山本五十六を将兵の慰問という口実で危険空域に誘き出して米軍の手によって戦死させるために、イ号作戦の結果、敵航空兵力もだいぶ弱ったので護衛機の数はそれほど多くなくても大丈夫でしょうと山本一行を説得したというのが私の推理である。
 この巡視スケジュールの作成者である野村了介参謀も当日まで山本と同じ機に同乗する予定であり実際に当日の朝、一番機の機内で山本たちの一行を待っていたと戦後証言している。それが突然連合艦隊から同行者二名が追加されたので野村参謀は急遽同行を取りやめたそうである。(戦後、月刊丸に寄稿した手記より)、何か非常に怪しい話であると思うのだが。

 米側で解読した暗号ー4月13日付で南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将と三川軍一第三艦隊司令長官の連名で発信された機密第一三一七五五番電には明白に「〇六〇〇中攻ニテ(戦闘六機ヲ附ス)ラバウル発」となっているのである。最初からー5日前から護衛戦闘機の数は六機と決まっていたのだ。
 暗号文の中で一式陸攻の機数や訪問する全体の人数には触れずに護衛戦闘機の数だけ「六機」と連絡するというのも奇妙である。もしこれが「三十機」となっていたら暗号を解読した米側も攻撃を躊躇したのではないだろうか。

「トラックからラバウルに来ていた第三艦隊司令長官の小沢治三郎中将は、長官の前線視察は危険であると取りやめを具申した。しかし山本長官が言うことを聞き入れないため、連合艦隊の先任参謀黒島亀人大佐に言った。『どうしてもいかれるなら、戦闘機が六機ぐらいじゃダメだ。戦闘機なら俺のところ(第三艦隊)でいくらでもだすから、参謀長にそう言えよ』しかし黒島は、『大事な戦闘機だから六機でいい』というのが長官の意向だと、取り合わなかったという」
(ヤマモト・ミッション 平塚柾緒 PHP研究所)
 
 いずれにしろ山本五十六は哀れな死に方をしたものである。最初に山本元帥の遺体を検死した蜷川親博陸軍軍医大尉の実弟である蜷川親正氏はその著書「山本五十六の最期」のなかで「事故発生の十八日は、墜落現場のアクちかくには陸軍の歩兵二十三連隊(浜之上大佐指揮)が駐屯していた。ひさしぶりの休日のため、墜落して行く飛行機を、多くの将兵は敵機と思って見物していた。この陸軍部隊になぜ、的確に遭難状況をはやくつたえなかったのであろうか。もし、救出を依頼しておけば、九時か十時にはつたえ得たはずである。五千名もいた連隊の、せめて千名いや五百名でもよい、墜落炎上している方向を中心に、一列横隊で前進して捜索するという『面』の捜索を実施しておれば、その日の昼、または午後そうそうには、かならず発見しえたはずである」ともっともな疑問を呈しておられる。

 山本は出発直前にマラリアで入院していた部下の三和参謀に副官の福崎を通して「当分のあいだ見舞ってやれないが、決してあせるな。無理してもいかん。くれぐれも気をつけて、十分静養するように」との伝言を伝えさせた。この「当分の間見舞ってやれない」という発言が日帰りの視察日程なのに奇妙なこととして山本のあの視察は自殺覚悟のものだったのだという根拠の一つになっているようであるが、山本自身は当日の周囲の雰囲気から「危ない」と察したのではないだろうか。

 墜落後死亡するまでの長い一日に何を思ったであろうか、恐らく罠にかけられたことを悟ったのではないだろうか。

 さて、今日、山本五十六が姿と名前を変えて国の運命を左右する地位に就いているということはないだろうか。そうでなければ幸いであるが。
2010 10/15 19:10:40 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー