通説にとらわれない新しい歴史解釈

2011年 04月 05日 の記事 (1件)


 戦争が終わっても日本の苦難は続いた。「忘れもしない敗戦の年の秋であった。昭和二十年の十一月、もう中頃になっていたであろうか、肌寒い夕暮れどきであった。私は急ぎの用で、県庁の焼け跡を近道しようと、自転車をおしながら濠端の道をいそいでいた。「おい、きみ」小さい声で呼びとめる者がいる。ふり返ると松の木陰に一人の巡査が立っていた。「ここから先へ行ってはいかん、進駐軍がいる」と、押し殺した声でいう。この年の夏、決戦を叫ぶ青年たちによって焼き打ちされた島根県庁の焼け跡は、瓦礫の山で、まだ片づけられていない。焼けただれた築地松のすき間から、アメリカ兵の帽子が二つ見える。かすかに女の悲鳴が聞こえる。女が強姦されている。「あんたは警官じゃないか、なぜ救わないんだ」私は噛みつくように叫んだ。巡査の顔は醜くゆがんだ。つぶやくように答えた。「奴らはピストルを持っている。殺されても殺され損だ、とにかく日本は負けたんだ」わたしは血が逆流するような憤怒に、わななく足をふみしめたが、私も前に進めなかった。わずか半年前の名古屋では、連日B29の猛爆にさらされながら、少しも命が惜しいとは思わなかったのに、敗けたとたんに臆病風におそわれたのか、私はすごすごと引き返さざるを得なかった。止め度もなく流れる涙をふきもしないで、私はむやみに自転車のペダルを踏んだ・・・・・この夕暮れ時の白昼夢のような出来事は、戦争に敗れた国の、国に見捨てられた国民の悲惨な運命を、冷厳な事実をもって私は体験させられた。
娘か人妻か知らないが、彼女も恐らく三ヶ月前までは「鬼畜米英」を叫んで、勇ましく竹槍訓練をしたけなげな女性の一人であったろうに、白昼堂々とかつての敵国の兵士に輪姦されている。それを国民を保護すべき警官が、人を近づけないように(殺気だった兵士に殺傷されないように)、護衛している姿は、全くやり場のない憤激となって、私の体内にくすぶりつづけた。
それから四、五年たった年の暮、シベリアに抑留されて、骨と皮ばかりにやせ衰えて帰還した友人を見舞い、話のついでに私はこの痛恨の思い出を物語った。
「それくらいはまだ序の口だよ。満州ではひどかったね。ソ連の軍隊というのは、あれは文明国の軍隊じゃないね。ひどいボロボロの軍服を着て、時計でも万年筆でもとにかく手あたり次第に強奪する。その上、女は見つけ次第に強姦するんだ。
私の知っている例でも、十七、八の娘が父母の面前でソ連の兵士に輪姦される。ついでにその母親も犯される。娘はとうとう気が狂って二、三日後、その一家は一家心中した。敗戦後の満州ではいたる所で、こんな悲劇が無数に起こったらしい。男子は全部シベリアで強制労働だ。飢えと寒さで三分の一は死んだと思う・・・・・」P7 (二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房)

「マッカーサー元帥が海岸通りの、ホテル・ニューグランドに入るのは、1945年8月30日の夕刻であるが、この日、早くも青木橋の上の台町で、アメリカ兵によって若い女性が拉致される事件が起こっている。その後、横浜では次々に拉致・強姦事件が起き、日本側の抗議によって、第八軍のアイケルバーガー中将が、簡易裁判法廷を開き、婦女暴行について厳しくのぞむことを決定する。ちなみに、神奈川県公安課の調べでは、八月は、強姦三件、強盗四十六件、九月になると殺人二件、強姦二十五件、強盗六百二十一件とある」
(昭和二十年の青空 赤塚行男 有鱗堂)

 もちろん、その後も米兵による犯罪は続いたのであるが、それでも米国がソ連の進駐を拒否してくれたことは日本にとって幸運だった。ソ連軍が進駐していたらこれに数倍する被害が発生していたことだろうことは満州におけるソ連兵の日本人に対する暴状をみても明らかである。
 人数が多くなるとその中にどうしても何パーセントかの割合で犯罪者的素質をもった人間が紛れ込んでしまうのは防げないそうである。日本の警察官のなかにも過去に現職の警察官が強姦殺人や銀行強盗の犯罪を犯した者がいることをみればそれが事実であることがわかる。

 GHQ参謀長ミューラーは部下に「日本人には抑圧者としてではなく解放者として振舞え」と訓示していたそうであるが、理想と現実が食い違ってしまうことはよくあることである。
 駐留軍の経費が国家予算の三分の一を占めるほど膨大であったため日本政府の苦労も大変なものがあり、目にあまる贅沢には控えてもらいたいと申し入れたこともあったようである。吉田茂首相もGHQ(連合国総司令部)のことを”Go Home Quickly!(とっとと出てけ!)”だと皮肉ったこともあったが、一方では
「敗戦日本の占領が、主としてアメリカ軍によって行われたこと、そしてその最高指揮官がマッカーサー元帥であったことが、如何に日本にとって幸運であったかということである。この幸運は、日本人として永く忘れてはならぬことと確信する次第である」吉田茂 回想十年 新潮社/袖井林二郎・福島鑄郎 日本放送出版協会)とマッカーサー個人のことは高く評価している。

「私が平和の促進に貢献したと、一世紀後に仮に一行でも書いてもらえるなら、私は戦争で与えられたすべての名誉を喜んで放棄するであろう」とマッカーサーは語った。
将来の歴史家が彼について「ほんの一言でも触れておく」価値ありと判断するとしたならば、それは軍の指揮官としてではなく、正義と平和のために真の基礎となるものを作り出すと決意した一人の人間としてであってほしいと望んでいた。(サタデー・レビュー誌 1964年5月2日号/ 袖井林二郎・福島鑄郎 日本放送出版協会)―これはマッカーサの本心であったに違いない。
2011 04/05 19:49:08 | none | Comment(0)
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