通説にとらわれない新しい歴史解釈
昭和天皇は開戦後まだ間もない1942年2月に東条英機首相に「終戦について機会を失せざる様充分考慮するように」と注意を促した。まだ日本が連戦連勝していた頃である。
 当時の軍部や政府が日露戦争の時のように引き際を誤らず、勝ち戦の最中に講和を実行できる器量を持っていたかどうかは甚だ疑問であるが、もし実現できていれば敗戦の結果(300万人を超える犠牲者)と原爆投下や世界移民史上最も悲惨な最期を遂げたと言われている満州移民団の悲劇も無かったわけである。そう考えると開戦後僅か六ヶ月後のミッドウェー海戦の敗北の意味は大きい。その最大の責任者は山本五十六自身が認めているように彼自身である。本来なら敗戦の責任をとらされて予備役に編入されてもおかしくはなかった。
 ミッドウェー海戦は日露戦争の日本海海戦に相当するものであり、まさに「皇国の興廃この一戦にあり」であった。どう転んでも勝たなくてはならない戦いであったが稚拙な作戦と用兵により取り返しのつかない大敗を喫してしまった。
山本五十六が責めを負うべき最大のものはこのミッドウェー海戦の敗戦と真珠湾奇襲であろう。
戦艦大和の艦長を勤めた松田千秋海軍少将は次のように語った。
「真珠湾攻撃は、日本敗戦の最大の原因になった。米戦艦多数は沈没したのではなく、沈座したにすぎない。大戦果どころか見掛け倒しの戦果であった。全米国民は、宣戦なき奇襲に憤激し、ただちに総力戦体制に立ち上がった。これに反して日本は『米英組みやすし』という安易な気分になり、総力戦体制にうつったのは一年後だった。沈座した米戦艦は、短期間で修理され、戦線に復帰した。敵空母は無傷であった」。事実、鎮座させた5隻の軍艦のうち、カリフォルニア、ウェストバージニア、ネバダの三隻は改修されて戦列に復帰した。戦艦に対する航空機の圧倒的な優位性を見事に実証してしまったため、米側に空母を中核とする機動部隊中心の戦術を促すことになり、日本を一層不利にした。日本パイロットと米国のパイロットとの差は量的にも急激に開いていった。「アメリカの場合は大学生上がりでも、出撃してくるのは、少なくとも千時間は乗っているとある。腕がちがうのである」(「ある科学者の戦中日記」富塚清著 中公新書)
2008 08/15 23:37:05 | none | Comment(0)
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