通説にとらわれない新しい歴史解釈
 終戦四カ月前の昭和二十年四月七日、空前絶後の巨大戦艦大和は沖縄特攻作戦の途上三百八十機を超える米軍機の猛攻を受け三時間の激闘の末、東シナ海で撃沈された。米戦艦と一度も砲火を交えることなく誕生してから僅か3年半の短い生涯であった。
この時大和が撃墜できた米軍機は僅か十機であったという。あまりにも少なすぎるので間違いではないかとも思われるが、この時に攻撃してきた米軍パイロットの技量と勇敢さは大和の艦橋から見ていた森下参謀長が「見事なものだ、おそらく米軍きっての精鋭であろう」と感心したほどだったので、やはり事実かもしれない。大和を沖縄に出動させた理由としては沖縄の海岸に乗り上げて陸上砲台となって米軍を攻撃すという狙いがあったが、このような殆んど実現不可能な非現実的な理由よりも歴史上最大最強の戦艦を建造しておいてこれを満足に活躍させないうちに港に浮かべたまま敗戦を迎えることはできないという海軍の面子が大きかったようである。それにしても無駄な使い方をしたものである。大和を沖縄の海岸に乗り上げさせ陸上砲台として上陸した米軍を殲滅するという計画はもっと早い時期―天王山といわれたガダルカナル攻防戦で実施していれば太平洋戦争の結果は変わっていただろう。
 
1200隻の艦船と18万2千名からなる米艦隊が待ち構える沖縄に到達できる可能性は事実上ゼロであったがガダルカナルの場合は一時期、苦境に陥った米軍が撤退することも考えていた時期に大和を投入すればガダルカナル争奪戦は少なくとも一時的には日本が勝利を収めることができたであろう。ガダルカナルでは駆逐艦を利用して武器や兵員の輸送を行い大きな被害をだしたが、大和を利用すれば防御力がはるかに強大なので必要な武器や兵員の輸送にかなり成功したのではないだろうか。当時、戦艦は時代遅れだと言われていたが、このガダルカナル争奪戦において幾度か戦艦同士の決戦は行われている。大和は米国の最新鋭の戦艦より射程が2000メート以上長かったからアウトレインジで攻撃してほとんどの戦艦を沈めることができたであろう。
 
 只何といってもこのとき連合艦隊司令部は「実は燃料が無い」とか狭い海域なので大和では座礁する恐れがあるとかいって出て行こうとしなかった。(参考文献:帝国海軍はなぜ敗れたか 御田俊一 芙蓉書房出版)

 「日本海軍は、大和の戦力『世界一の艦砲と重防禦』を生かした作戦を考えず、後方で漫然と旗艦任務に充てているうちに、ついに使用の時期を失った。大和は二十年四月七日、航空機の掩護なしに沖縄特攻作戦に出撃し、悲運の最期をとげたのである。
大和の悲運は、時代遅れだったのでも、性能的に問題があったのでもなく、その持てる力を十分に引き出すような使い方が全くなされなかったことにあるというべきであろう」
(写真記録 昭和の歴史3 太平洋戦争と進駐軍)小学館


 山本は、昭和十五年四月に全国地方長官会議に出席したお歴々を旗艦「長門」に案内した際、「一旦緩急あるときは常に最前線に立って全艦隊を指揮する」と語ったところ、それでは長官が危ないではないかと問い返された。これに対して山本は次のような指揮官論で応じている。
「これは何も私の考えたことではない。二十七八年の役の黄海海戦以来、長い間海軍の伝統なのだ。東郷元帥も軍艦三笠の艦橋に立って戦われた。指揮官が先頭に立たなければ、海戦は出来るものではない」
(山本五十六 田中宏巳 吉川弘文館)
全然言行不一致であり、詐欺と言ってもよいレベルであると思う。

「その作戦はつねに、内容がともなわないわりにゼスチャアが大きい。軍政家に向いた方であったろう」草鹿龍之介
ハワイ作戦の際、総指揮官として直接真珠湾の上空に飛んでいった淵田美津雄はいきなり「山本五十六なんて凡将なんだよ」と吐き捨てるようにいった。
昭和十七年十二月から十八年五月まで戦艦大和艦長だった松田千秋は「あの人はギャンブルが好きだったでしょう。本当はあまり強くなくて、ハッタリ性の強いものだったというが。あの人の立てた作戦はすべて、見た目はハデだがシロウト考えでね。それも国力を無視した、イチかバチかのギャンブルみたいなものだった。それから、真珠湾奇襲をやって航空機こそ兵器の主役であるということを、敵側に教えてしまった。航空機の重要性については、アメリカ側もそれほど切実に考えていたわけじゃないんだから」

昭和十二年海軍次官時代、かつての教え子である南郷茂章少佐が、中国南昌上空で戦死したときのエピソードが知られている。南郷家に弔問に訪れた山本大将(当時中将)は、父親の挨拶を伏目がちに無言で聞いていたが、突如体を前に倒して、まるで幼児のごとく大声あげて慟哭し、大勢の弔問客が見守る中、ついにはその場に横ざまに打ち倒れた。しばらくたって起き上がったが、ふたたび激しく哭き伏して、同じように倒れたという(反町栄一著『人間山本五十六』)
歴史群像太平洋戦史シリーズVol 7 ラバウル航空戦 学習研究社

 私は山本五十六は役者に向いていたように思う、その世界に入っていればかなり成功したにちがいない。軍人になるべき人ではなかった。まして連合艦隊司令長官などには絶対なってはいけない人間だった。人目を引く派手なゼスチャーと一見誠実そうな風貌を利用して、弁舌巧みに勇猛かつ人情味のある提督という役をずっと演じ続けていた幼児性の強い人間ではなかったかという気が私にはしてならない。

山本五十六の裏の顔を暗示する見逃せない証言が「二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房」に記述されている。五・一五事件で犬養毅首相を暗殺した罪で下獄した古賀清志らが出獄して山本五十六海軍次官のところへ挨拶に行くと「御苦労であった」と、副官を通じて一人千円ずつ(筆者山口註:平成二十六年の価値では五百万円くらいか)与えて慰労したという。犬養首相は清廉潔白な人柄で知られ、組閣してまだ半年ばかりしかたっていなかった。国民の人気も非常に高かった首相である。拳銃を構える兵士たちに臆することなく「話せばわかる」と説得しようとした老宰相を「問答無用」と一方的に射殺するとは何事であるか。そのような無慈悲で浅はかな犯人たちに対して「御苦労であった」とは何たる言い草か。
このエピソードについては古賀不二人(古賀清志から改名)が戦後「昭和史探訪」という番組の中で司会の三国一郎の「一三年に仮出所。それからどうなさいました」という質問に対して「当時山本五十六元帥は海軍次官で、お礼の挨拶にいったら、当座のこづかいと言って一○○○円ずつくれました。当時近衛文麿内閣の書記官長の風見章、これも一○○○円ずつくれました。当時の一○○○円は大きいですものな」と答えている。(昭和史探訪  2 日中戦争 日曜日の弾痕「五・五一五事件」古賀不二人 番町書房) 古賀のこの話が事実であるとすると山本五十六の背後の闇が一層深くなると思われる。また風見章はソ連のスパイであったゾルゲの逮捕事件に関連して処刑された朝日新聞記者尾崎秀実の親友であり、尾崎を近衛内閣のブレーンの一人として引き入れた人物である。
2010 09/27 20:19:28 | none | Comment(0)
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