通説にとらわれない新しい歴史解釈
 山本五十六の遭難死の裏には山本を見限った陸海の首脳部による陰謀があったのではないかと疑われる状況証拠として次のようなものがある。
撃墜されてから現場近くの日本軍の救助隊が至近距離(直線距離で1キロ以内)の現場に到着するまで丸一日以上かかっており、海軍の最重要人物の捜索としては異常に遅いこと。つまり、一刻も早く不時着した現場に到着して救出しようと努力した形跡が無い。
翌日の午後、最初に現場に到着した捜索隊は道路設営隊の陸軍の一行で、それも海軍から依頼されたわけではなく一式陸攻が撃墜されたのを目撃したため自発的捜索に向ったものである。故に最初は撃墜された機に山本五十六が搭乗していたことも知らなかった。
山本五十六がおそらくまだ生存していた可能性の高い十八日(撃墜当日)の夕方に水上偵察機から地上の陸軍の捜索隊に対して早々に「生存者の見込みなし」という内容の連絡筒が投下されている。このような事故の場合は身動きできなくても生きている場合はありえるのに飛んでいる偵察機から見下ろしただけで近くで確認したわけでもないのに、いかにも不可解な行動である。まして山本五十六は腰掛けたままの姿だったのだから、本当に上空から確認したのなら「生存の見込みなし」などという報告はできなかったはずである。

山本五十六の遺体に残されていた銃痕は米軍の戦闘機の機銃によるものではなく、小口径の拳銃のものであったこと、
すなわち機上戦死という公式の記録は嘘で、最初に検視した軍医(蜷川親博陸軍大尉)のメモ等から判断しても墜落後約24時間は生存していたと思われる山本五十六の救出の遅れの責任を回避するため、機上戦死をデッチあげたと思われること。
 山本五十六の搭乗機の少なくとも尾部の機関砲が取り外されていたか発射できないようになっていた可能性が高い。
生き残った二番機の操縦士林浩二等飛行兵曹も頭上を敵機の放つ曳光弾が山本機目掛けて走っていくのを見ているが反対に山本機から敵機目掛けてのものは目撃しておらず、山本機を撃墜したレックス・バーバー陸軍中尉も「一番機の尾部銃座に銃も人影もなく、一発も反撃されなかった」と証言しているからである。
 最初に墜落現場に到着した陸軍の捜索隊の長であった浜砂盈栄(みつよし)少尉も墜落機(後部)には機関銃は見当たらなかったと証言している。
(参考文献 山本五十六の最期 蜷川親正 光人社/検証・山本五十六の戦死  山村英男・緒方徹 日本放送出版協会)蜷川親正氏は最初に山本五十六の死体を検死した軍医の実弟でご本人も医師である。 
巡視のスケジュールが訪問予定の各部隊に宛てて暗号を用いて打電されたが、これがもっとも解読されやすい暗号であったため電信員が驚き、間違いではないかと通信参謀に問い合わせたが「そのままでよい」といわれたこと。
山本の巡視予定だった方面は当時、約1ヶ月間で20回の偵察や襲撃を受けており、山本の護衛機が僅か六機であることを知っていた各部隊の司令官が実情を山本一行に伝えて護衛の強化や自分達の方から護衛を申し出なかったことは不自然であること。事実山本に別の機で同行して同様に撃墜されて生き残った宇垣纏長官は「あんな危険なところだとはしらなかった」と述懐している。

 この方面は、山本長官視察前の一ヵ月に二十回、航空偵察や空襲を受けている・・・ブイン方面は、海軍の最高指導者が薄い護衛で視察に行くような状況ではなかった。遭難当日も2機の米軍機が偵察に来ていた。
 特に山本五十六遭難死の前日の四月十七日には最初の着陸予定地ブインにB−17と艦爆計十数機が来襲していた。
「不可解なのは第二六航空戦隊司令部の対応である。司令部はブインにあり、司令官上阪少将は当然同方面が受けている空襲状況を知っていたはずである」・・・

ラバウルからの電文の中には、長官一行の行動予定に加えて「但シ各部隊ハ当日ノ作業ヲ続行ス」というただし書きがあった・・・
 搭乗員編成についても、疑問がある。空戦経験が豊富な人を選んだわけではない。九六式戦闘機から零式戦闘機にかわったばかりの人も入っている。さほど経験を積んでいない飛行兵長が二人入っている・・・何を基準に六人を選んだのか全くわからない」
「計画を立案した連合艦隊司令部、直接携わった南東方面艦隊司令部、司令部がブインにあって視察に関する全航空機を統括・指揮する立場にあった第二六航空戦隊司令部、すべてに大きな責任があった。しかしだれも責任を追及されていない」
(参考文献 検証・山本五十六の戦死  山村英男・緒方徹 日本放送出版協会) 

 「現地ブイン基地においては、長官巡視の当日、朝五時二十分、六時二十分と相ついでP38の来襲があり、その前日、前々日にも敵機B24の激しい夜間爆撃を受ける等、連日連夜の敵機襲来で滑走路付近等かなりの被害が生じていたことは、当時の守備隊の記録によっても明らかである。かかる現地の状況報告が連合艦隊司令部に届いていなかったとは到底考えられないが、宇垣自身は当時この時期に運悪く病気入院中であったせいか、この事を承知していない。いずれにしろ、幕僚たちが『危険なし』或いは『危険少なし』と判断した根拠はよく分からない」(ブーゲンビリアの花 衣川宏著 原書房)

山本五十六に同行する予定だった吉田一従軍カメラマンが直前に搭乗を強く拒まれていること(証言・私の昭和史)等。
山本五十六の搭乗した一番機は宇垣長官の搭乗した2番機と同じ一式陸攻で2番機には計12名が搭乗していたのに対して1番機は11名だったので吉田カメラマンが搭乗する余裕はあったはずである。これも山本五十六一行が米機によって撃墜されることは確実だったので救ったのではないだろうか。

 宇垣纏が遭難後、「あんな危険なところだとは知らなかった」と言っていたということは山本五十六もそう思っていた可能性が高い。つまり、本当はどれだけ危険なところであるかが故意に山本五十六に伝えられなかったのではないだろうか。すなわち米軍機のしばしば出没する危険地域に山本五十六を将兵の慰問という口実で誘き出して米軍の手によって殺させたのではないだろうか。

 上記の数々の不可解な事も山本五十六の搭乗機を米側の手によって撃墜させる謀略があったと仮定すると納得できるように私には思えるのだが。

 高松宮の当時の日記の記載を見ると山本五十六の化けの皮は既に剥がれていたようである。

「一課長の話  山本長官「い号」作戦ニテ「ラボール」ニ出ルコトハ好マレズ。幕僚室ニ来ラレタ時ナド「ラボールニ出ナクテハナラヌカ」ト二、三度云ワレシ由。主将は軽々シク出カケルモノデハナイトノ考エニテ、愈々ト云フ時ニ陣頭ニ進ムベキダトノコトナリ」

「総長の所見ニテハ、山本長官戦死ハ海軍ノ戦争遂行オ左右スルモノニハアラズ。「ミッドウェー」等ニツイテモ海軍ハ都合悪イコトハ発表セズト世間で云ヒツツアレバ・・・」
(高松宮日記 高松宮宣仁親王 中央公論社)

 今日までのところ、山本五十六の遭難が陸海軍上層部の反山本派による米軍を利用した暗殺であったとの決定的な証拠は発見されていないが、ミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦で致命的な敗戦を喫した作戦の最高責任者であった山本五十六が日本側に暗殺されても不思議ではない状況だったことは確かである。

 要するに大本営発表ではない真実のミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦の敗北の事実と山本の臆病な戦い振りを知っていれば「山本では駄目だ」という結論が出てこないほうがおかしい。戦艦大和に引きこもったまま前線に出て行こうとしない山本五十六をバカにしていたパイロットも少なくなかったようである。

 海上護衛隊参謀として台湾の護衛隊司令部にいた当時陸軍少佐の堀江芳孝は山本五十六戦死のニュースが入って来たとき周囲の護衛隊の将校、下士官、兵が一斉に「ザマ見ヤガレ、馬鹿野郎」と公然と罵るのを目の当たりにして愕然としている。戦争遂行に不可欠な戦略物資輸送のための輸送船団が満足な護衛がつけられないためにみすみす沈められていく現状に彼らの怒りは大きかったのである。
(参照文献 歴史から消された兵士の手記 土井全二郎 光人社)

 不可解というより奇怪とさへ思える当時の海軍の船団護衛方式を当時の記録から知ることができる。ほんの一例をあげると「一九四ニ年五月に入り南方の各占領地域の各種産業の復興のために、日本から大勢の各種業種の専門家が派遣されることになった。そして彼ら大勢は特別に組まれた船団の中の二隻の客船に分乗し、五月七日に門司郊外の六連島泊地を出発した。
この船団は第『109船団』と呼ばれ、客船大洋丸、客船吉野丸そして三隻の貨物船で編成されていた・・・・・
吉野丸と大洋丸の二隻の客船に分乗していた派遣技術者は、石油、セメント、土木建設等の業界の専門技術者、及び占領地域の行政を司るために派遣される政府役人や民間企業の専門事務職員等であった。そして三隻の貨物船と吉野丸には陸軍部隊の補充要員や軍需品、あるいは産業復興工事に必要な機材や材料も大量に積み込まれていた。しかし、出発翌日の五月八日午後七時四十五分、船団の中で最大の大洋丸が米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。
位置は九州西南沖の男女群島の南南西百六十キロメートルであるが、積み荷のカーバイトや工事用爆薬の爆発などによって船体はたちまち火炎に包まれ救助活動は困難を極めた。この時の犠牲者は乗組員と派遣技術者など合計八一七名に達し、日露戦争の時の常陸丸遭難事件以来の最大の輸送船犠牲者となった。

この頃は南方方面を往復する船団であれ、単独航行の商船であれ、護衛艦艇がこれらすべての商船を援護するには絶対数が不足の状態であったため、すべての船団や単独航行商船が護衛をうけられるとは限らなかった。
この時も今後の南方地域の産業の復興と開発を左右しかねない、大勢の専門家や大量の必要物資を輸送する船団にしては護衛艦艇はわずかに一隻だけであった。しかもその護衛艦
は中国航路用の二〇〇〇総トン級の貨物船を徴用し、四門の大砲と一〇発程度の爆雷を装備しただけの特設砲艦であった。そして十分な性能の潜水艦探索装置も装備されていなかったこの護衛艦の護衛では、とうてい潜水艦の攻撃に対処てきるものではなかった」
 「悲劇の輸送船 大内建二著 光人社)

 「八月十五日、山本長官は新たにガダルカナル救援部隊の編成を命じ、田中頼三少将と第二水雷戦隊をこの任務に選んだ。第二戦隊はトラック島で物資を補給していた。田中少将はすでにトラック島へ到着していた一木支隊の九○○人の兵隊を乗せて、ガダルカナルへ運ぶよう命じられた。田中少将は初めから憤慨していた。どうして連合艦隊司令部は重火器を持たず、小銃だけの一、○○○人以下の兵士でやれると思っているのか理解できなかった。田中少将は「竹槍作戦」と呼んだ。(ガダルカナルの戦い エドウィン P ホワイト著 井原裕司訳 元就出版社P66)

 山本五十六は愛人の河合千代子にはしばしば「日本が勝てるとはさらさら思っていない」と言っていたそうである。(山本五十六の恋文 望月良夫 考古堂)
冷静に考えればそのとおりで中国大陸において中国兵を相手の戦争でも日本は四苦八苦して点と線の確保しかできないでいるのに、その中国軍に数倍する強敵である米軍を北米大陸に追い詰めて屈服させることなんてできるはずがないことは子供でも理解できる。

 だから私は山本五十六は長期戦になって日本の被害が致命的にならないうちにどうせ負けるなら早めに負けようと考えてあのような戦い方をしたのではないかと本気で思うこともある。それくらい山本五十六の作戦はおかしい。
真珠湾奇襲にしても本来なら失敗するはずであった。第一次攻撃隊の接近をハワイの基地のレーダー監視員が30分以上前に発見していたからだ。監視員が上司に報告したところこの上司が到着予定になっている味方の編隊だと誤解し放置されたので一応奇襲の形になっただけである。小型潜航艇の一隻も真珠湾奇襲の一時間以上前に米側に発見されて撃沈されている。もしこの時日本軍の襲来だと気がついていたら、米側では十分な迎撃体制を整えることができ、日本の機動部隊は飛んで火にいる夏の虫という結果になったことだろう。
 この奇襲に対して、アメリカ海軍は在泊大小の艦船九十四隻に備えられていた八四三門から二十八万四千四百六十九発を放って応戦したという。
(図説 秘話で読む太平洋戦争 森山康平 河出書房新社 )

 一応の成功としても日本側の戦死者は64人、未帰還機29機、損傷ー74機の被害は奇襲にしては決して少なくはない。一時間しか航続能力のなかった小型特殊潜航艇5隻も全て帰還することはできなかった。もし米側が待ち構えているところに突入したらこの数倍の被害がでて奇襲は失敗となったことだろう。

「1941年1月、南米ペルーの駐日公使はジョゼフ・グルー米大使にある情報を伝えた。最近公使館に複数の話がもたらされたという。『日本軍がハワイ真珠湾に大規模な攻撃を計画している』『航空機の編隊で米艦隊に奇襲攻撃を仕掛ける』という。公使はグルーに至急本国に通報するよう促した。しかし国務省は真剣に受け取らず攻撃を許してしまう」(1945日本占領 徳本栄一郎著  新潮社)

真珠湾奇襲計画は事前に何者かによって入念に漏洩されていたのである。
2010 05/07 22:01:27 | none | Comment(0)
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