「ヒロミ、あんた、漫画と料理とアタシ、好きな順にあげてごらん?」
「漫画、料理、最後がおまえ」
これだものなぁ。
アタシの彼氏は、キュイジニエだ。
フランスでは料理を作る男性のことをそう呼ぶ。
青山のフランスレストランに勤めている気鋭の若手だ。
アタシの部屋でたまに作ってくれるご料理にはいつも驚かされる。
料理センスゼロの私が適当に買い込んだ食材の残り物だらけの倉庫となった冷蔵庫を覗き込み、信じられないくらい豊かな料理を作ってくれる。
天才だとアタシは思ってる。
ヒロミは無類の漫画好きで、
週刊誌の発行日には強制連行でコンビニに連れてこられる。
もっぱら立ち読みだ。
30分でも40分でも、夢中で読み耽っている。
ある時、
レジで騒動があった。
いつも会うおじいちゃんだ。
財布を忘れたのであとから代金を持ってくるからもって帰らせてくれと頼んでいるおじいちゃんに、店長は今すぐ取りに戻って支払ってくれ、それまであたためた弁当は渡せない、と融通が利かない。
お金取りに帰っていたらお弁当が冷めて不味くなっちゃうじゃんか。
客商売なのに、いいえ、お年寄りにどうして優しくできないのだろうか。
そういう冷たさが他の客にどういう印象を与えるのか、きっと考えたこともないのだろう。
「アタシが払います」
見かねたアタシは、おじいちゃんのお弁当の代金を支払った。
身なりは貧しくてしょぼくれてはいるが、清潔で、悪い人には見えないし、店長の傲慢さがやりきれなかったせいかもしれない。

やっと漫画を読み終えたヒロミと三人並んで家路を急ぐ。
何度も何度もお礼を言うおじいちゃんを、
アタシは家に誘った。
今朝ヒロミが、田舎から送られてきたイワシを材料にしてパン粉焼きのタルタルソースとクネルラタトゥイエ添えを作ってくれた。
味気ないコンビニ弁当より、ずっと美味しい筈だ。
黙々と食べるおじいちゃん、
「この料理は誰が作ったのかね?」
ヒロミが俺だとこたえる。
「あんたはそういう仕事をしているのかね?」
窓辺に座り煙草をふかしながら、ヒロミがうなずく。
「確かに美味しかったが、気になるところが何点かあるな」
ムッとした表情をかくさないヒロミにおじいちゃんの批評がはじまった。
箸で衣をより分けながら、
「まずこのパン粉、イワシに均等にまぶしてあるが、これは身側だけにまぶしたほうがいい。
そうすれば皮の下の脂肪がよく焼けて溶けるので、青魚の嫌な匂いが残らない。
次にこっちのイワシのクネルだが、これだと”つみれ”になってしまう。
和食にするのなら魚の素材特有の匂いも料理の内だが、フランス料理といいたいのなら、イワシの匂いは残ってはいけない。
イワシは一晩オリーブオイルと香味野菜でマリネして、包丁で細かくたたいてクネルを作らなくてはいけない。そうすれば臭みは抜ける。
練るときはコーンスターチの前に、白ワインと少量のコニャックを加えると完璧だ。
ラタトゥイエは炒める時間が少し長すぎたな。
野菜の甘味がとんでしまった」
ヒロミの顔がこわばっている。
おじいちゃんは立ち上がりながら、
「どうもごちそうさま、お金は後で持ってくる」
とアタシに告げて、帰っていった。
せっかくお茶を入れたのに、食卓の横の窓で、ヒロミが怖い顔で何か考え込んでいた。
どうしたの?
聞く前にヒロミが部屋を飛び出した。
おじいちゃんに追いつくと、
「オレの勤めている店は青山の”グー・エ・テール”というフレンチレストランだ。
文句を言うならそこに来て云え。
あのアパートのレンジでは火力が弱いし、十分な食材も香草もなかった。
このままじゃ気がおさまらない」
おじいちゃんは、返事をせずに、ヒロミに背を向け去った。

翌日、
厨房で下ごしらえに忙殺されているヒロミは、
「みすぼらしい爺さんが来たぞ、ここがどういうところか判っているのかな?」
というひそひそ声を聞き、あの爺さんだと直感した。
店内を覗き込むと、目が合った。
見ていろ、驚かせてやる、とヒロミは気合いを入れ直す。
オーダーが届く。
オニオンスープ、アジのマリネ添え、骨付き子羊ロース肉のロースト、皮付きニンニクと揚げナス添え。
シェフが、
「グッドチョイスだな」
と感嘆した。
「すみませんシェフ、そのオーダー僕に作らせてください」
とヒロミが頼む。
「ワケありか?」
「はい、お願いします」
シェフの承諾を得た。
最初の料理を運ぶヒロミが爺さんの耳にささやいた。
「じいさん、オレの作った料理に満足したら帰るときナプキンを机の上に置け。
不満だったら椅子の上に置け。
それが合図だ」
狂おしいほど待ち遠しい時間が過ぎてゆく。
どうもありがとうございました、
その声にヒロミは店内へ駆ける。
ナプキンは椅子にかけられていた。

夜、
ヒロミはじいさんと出合ったコンビニを張った。
じいさんの買物を隠れて確認し、帰宅する後を追った。
2階建てのハイツ1階にじいさんが入るのを確認し、
部屋の呼び鈴を押した。
「来ると思っていた。
なにもない部屋だが、まぁ、あがりなさい」
背後の明かりでじいさんの表情は解らないが、これまでと変わらない落着いた声だった。
2DKの狭い部屋だった。
「オレの料理のどこが気に入らなかったか聞きたいんだ。
オレはそれなりに自信をもっている」
ヒロミは用意しに狭いキッチンへ入り茶菓子を用意する爺さんに訊いた。
湯気をたてる茶碗ふたつと土産物らしい菓子を盆に乗せ坐るじいさんが応える。
「あのオニオンスープは前の晩からの仕事で、十分に臭みは抜けていたが、残念なことにヴィネガーが少し強すぎた。
あの皿はタマネギのもつ甘味をおさえるためにマリネを添えたと思うのだが、アイデアはいい、だがバランスに失敗している」
「仔羊のローストはどうだった?」
「ローストの巧拙はいかに悪い脂を抜いていい脂を残すかだ。
悪い脂というのは皮に近い部分で嫌な臭みがある脂だ。
いい脂というのは内蔵についた脂だ。
じっくり焼けば悪い脂はとけて流れるがやりすぎると中のいい脂まで逃げ出してしまう。
あのローストはもう少しジューシィに焼かなければならなかった。
君はおそらく、オーブンの途中で鍋にたまった油を上からかけるアロゼの作業を怠ったな。
アロゼは肉の乾燥を防いでふっくら仕上げる効果がある。
これはローストの基本だぞ。
料理をなめてはいかん。
時間と気配りがすべての料理の基本だ。
見ためは立派でもすぐに化けの皮がはがれる」
「あんたいったい何をやってる人間なんだ?」
「なにもやっとらんさ、ごらんの通りの一人暮らしの年金生活者だよ」
ヒロミは打ちのめされる矜持をにぎるように、うなだれて帰っていった。
その打ちひしがれた背中に、
「私が何のために君の料理をあれこれ言ったかわかるかね?」
振り返るヒロミ、
「世の中には料理人がゴマンといるが本当に好きで望んで料理の道に入った者と、ほかにやることがないからなんとなく料理人になってしまった者の二種類がある。
しかしそれで生活している以上、世間はどちらも”プロ”と呼ぶ。
同じプロでも前者と後者は全く別物だ。
作る料理の”格”が違う。
君は粗削りで未完成だが、”格”とセンスは十分備わっている。
百人にひとりいるかいないかの逸材だと私は思う。
だから敢えて苦言を呈したんだ、
普通の料理人だったらそんなことは言わない」
青い液体が体を逆流していく感触をヒロミは感じていた。
「じいさん、あんた今働いていないのと一緒だな、つまり、昼間は暇してるわけだ」
「ああ、そうだが」
「うちの店は毎週月曜日と第二、第四火曜日が定休日だ。
もし何もすることがなかったら、一度オレに料理を作ってみせてくれないか?」

次の月曜日の昼、グー・エ・テールの厨房にじいさんがやってきた。
気楽なフリーライターのアタシもヒロミから連絡をもらい、お相伴させてもらえることになった。
じいさんが最初に始めたのが厨房のチェックだった。
「なんだそんなことからチェックかよ、小うるさいジジイだな」
ヒロミが悪態をつく。
「厨房の様は料理に反映する。
汚い厨房からは雑な料理しかできない」
じいさんの一言一言に圧倒されるような重みがあることを発見した。
ヒロミもぐうの音も出ない。
「ところで今日はなんの料理を作ってくれるんだ?
食材はなんでも揃っているぞ。
フォァグラ、トリュフ、キャビア、オマール、アワビ、ラパン(うさぎ)、舌平目、ク・ド・ブフ(牛尾)、仔羊……」
「じゃシチューでも作ろうかな」
え?とヒロミが驚く。
「あら美味しそう。
シチューならアタシもけっこう得意なのよ」
アタシが横から言うと、ヒロミの顔が微妙に歪んでいた。
……ジジイ、こいつ料理人じゃねぇな。
聞きかじりのただのグルメだ。
それとも、ふざけているのか?
ヒロミの内心が複雑に騒いでいるようだった。
「ヒロミ君だったな、見ているだけではもったいないから、フォン・ド・ボーのあく取りでもやってくれ」
「了解」
ヒロミが従った。
顔の不満が、シチューという家庭料理にあることはアタシにも判った。
「おじいちゃん、フランス料理のコックさんだったの?」
彼女としては助け船をださなきゃいけない。
「まぁな」
「じゃ、少しはフランス語しゃべれるの?」
返事がないかわりに、眉間にしわが寄った。
「ごめん、ちょっとからかっただけだから」
とじいさんの頬にチュをしてあげた・
「ばかもん!!仕事中はむやみにはなしかけるな。
十秒単位の時間と勝負をしているんだ」
「ごめんなさ〜〜い、おお、コワっ」

出来上がったシチューをアタシがテーブルに運んだ。
「私はこのへんでおいとまする。
あとはふたりでゆっくり味わってくれ」
エプロンをきちんとたたみながらじいさんが言った。
「あら、おじいちゃん帰っちゃうんですか?」
「ああ、見たいテレビがあるんだ」
帰っていった。
「ちぇ、こんなお子様メニューをオレに食えってか」
ヒロミの悪態はとまらない。
「あら、せっかくおじいちゃんが作ってくれたんだから感謝しなきゃ」
しばし無言で二人は食べた。
「美味しい!!
家で作るルー入れるだけのシチューと味がちがうわ」
舌鼓を打つアタシの声にヒロミは反応しない。
その表情は真っ白なくらいに蒼ざめている。
「本当に美味しいわ。
バカにしたもんじゃないわね」
ヒロミの眼がまばたきを忘れた。
……これは、凄すぎる、完璧だ、同じ材料で同じ方法でやっても、オレにはこんな味は出せない。
どこが、違うんだ……
「どうしたのヒロミ、不味いの?」
等身大の店望ガラスの前で茫然とたたずむヒロミに声をかける。
「美奈、おまえ大学の図書館勤務だったな?
調べて欲しいものがある」
「何?なんでも言って」
「あのジジイの過去を知りたい。
ひょっとしたら昔は名の通ったシェフかもしれない。
料理関係の本、あたってくれないか?」
「あのひとの名前なんて言ったっけ?」
「立松、アパートの表札にそう書いてあった。
ヒントはそれだけだ」

翌日からの図書館勤務が退屈でなくなった。
次の日の夜、ヒロミのアパートに成果を届けた。
「どうだ、わかったか?」
待ちきれないようにヒロミが問う。
「うん、どうもそれらしい名前を発見したからコピーとってきた」
用紙を渡すと、
「なんだこれ、フランス語じゃねぇか、よくわかんねぇな」
「これはね、ミシェル・ソルマンという人が書いた料理の本なんだけど」
「ミシェル・ソルマン?フランス料理の頂点に立つグランシェフじゃないか」
「そうなの、その人が書いた著書の中にこんな一節があったの。
翻訳するとね、『私の料理哲学において”師”となる人間がいた。
それはジャポネ(日本人)である。
あとにも先にもこんな凄い料理人に出逢ったことがない。
私は修行時代に彼と組んで仕事をしていた。
同じ年齢のその天才料理人の名は、イッペイ・タテマツ』
ここに古いツーショット写真が載ってるわ。
似ているような気もするけど」
白黒の解像度が悪い写真を食い入るように見つめるヒロミがつぶやいた、
「ジジイだ…」

2008 03/18 23:06:15 | none | Comment(0)
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山奥の
さらに奥にある
小さな小さな盆地
ナリヒラ竹の林を東にもち
西にのびるウレシノ茶の畑と稲穂がまぶしい段々畑

浅い河辺で水遊びをする少女が
スカイブルーの空を呼ぶ

 おりてこい
 こっちにきてあたしをアオクしろ

せせらぎのギラギラと
水しぶきのバシャンバシャンと
匂い立つかげろうが
少女の薄桃色のワンピースに光背をかたどりました

はしゃぐ少女の水色の影が
春におぼえた詩を日めくりする

かなしさも
くるしさも

せつなさも
はかなさも

あどけなさも
つたなさも

うめきも
なやみも
わずらわしさも

みんな
やさしい青にとけてゆくようでした

ことばはいつも

優しくないが
辛くはしない

あなたが
もとめるかぎり
それはあなたを裏切らない

いくつもの日がのぼり
いくつもの日が沈むだろう

盛衰はうたかたの泡より淡い

ワタシの中の恋は
満ち欠けする月のあいまに
ただよい
かくれてゆきました

スズカゼが立ち
タソガレがおりて
セイレイが水際をハシると
カワグモが折れ
おおうように
ヤマカゲが背をのばすと
チャノキバタケがオドリだす
さぁ
夏のウタゲがタケナワです
2008 03/15 03:03:17 | none | Comment(0)
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  3歳
  サンタクロースは来なかった。
  5歳
  サンタクロースは私の靴下にだけプレゼントを入れ忘れた。
  7歳
  サンタクロースは神戸屋のキャンディシューズの右足を枕元に置いた。
  10歳
  サンタクロースは同じ神戸屋の右足のキャンディシューズを置いた。
  15歳
  サンタクロースは現金を枕元に置いた。
  18歳
  サンタクロースは手編みのひざ掛けを手渡してくれた。
  20歳
  サンタクロースは「愛しています」と手書きしたカードを配達した。
  24歳
  サンタクロースは天国から届けられた手紙を配達してくれた。
  33歳
  サンタクロースは稚拙な文字のカードを添えた毛糸の手袋を贈ってくれた。
  47歳
  サンタクロースは27年ぶりのひざ掛けを編んでくれた。
  49歳
  サンタクロースは写りの悪いDVDを化粧箱に遺してくれた。

  12月24日深夜、
  北欧・北米の気象観測所は毎年おきまりの行事に胸をおどらせる。
  北極から飛び立つ小さな未確認飛行物体をどこまでも追跡するのだそうだ。

  サンタクロースはいない、
  なんて醒めた子供たち、
  君たちはやがて知るだろう。
  サンタクロースは今もそしてこれからもずっといるのだと。
  だいじょうぶだよ、
  サンタクロースは相手を選ばない。
  きみたちがこれから愛する全ての人たちを訪れてくれる。
  なぜならば、
  君たちこそが、サンタクロースになるのだから。

  皆様、
               
        ・*:.。. .。.:*・゜メリークリスマス・*:.。. .。.:*・゜

  
2007 12/24 07:01:21 | none | Comment(0)
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  風林火山は久し振りに見応えがある大河ドラマです。
  通常の放送は、配役がどうにも好きになれず、
  観ていませんでした。
 
  井上靖の原作は読んでいませんので、
  なんとも批評しづらいのですが、
  今回の番組における武田の軍師、山本勘助の描かれ方は
  説得力に富んでいるように感じました。
  主演の俳優にも慣れてきたことにも要因は求められるでしょうが、
  実際、この「慣れ」は大事なんですよね。
  初対面の人の声も、
  慣れなければ、何を云っているのか解らないことが多いのです。
  適当に返事するのも失礼だから、
  なんどもなんども訊きかえしてしまう。
  隻眼跛行の醜悪な男が、
  ようやく仕官したお館さま、武田晴信の描かれ方も、
  まぁ理解できる範囲だと感じました。

  戦国時代、
  数々の英雄が攅立しましたね。
  甲斐、信濃、越後の
  武田信玄と上杉謙信、伝説の人伊勢新九郎こと北条早雲のながれ北条氏康、
  東海の覇者今川義元、
  戦国時代最高の大才織田信長、中国の覇者毛利元就、四国の覇者長宗我部元親、
  東北の覇者伊達政宗に三河の徳川家康、そして天下を布武した豊臣秀吉。
  
  だが、憧れるのは、
  小さき頃より、ただのひとりだった気がします。
  長尾景虎ことのちの上杉謙信。
  
  生きたいという根源より発する慾が、
  他国を攻め、自国の領土を広げる。
  ひとよりももっといい暮らしがしたいという
  現代でも充分許され奨励される慾に駆られて、
  よき家臣を召し抱えまたぞろ他国へ攻め込む。
  いつしか心中に芽生えた野望はふくらみ、
  その先にあるのは天下統一です。
  慾に限りはなく、
  秀吉に至っては朝鮮にまで攻め込んでしまいました。
  朝鮮史によると、
  現在の日本に対する悪感情の源はどうやらこの出兵に起因するようです。
  嘗ての敵だった新羅も半島統一後は、日本と誼を結びたがったらしい。
  天智・天武・持統天皇の律令政治発足時代の両国の関係は、
  現在からは考えられないほど親密であったといいます。
  大義と小義の違いは明確であるようでいて
  見分けはむつかしいですね。
  善悪ほどの区分けがつかないからだとも云えるでしょうか。
  だからこそ、
  誰しも大義は大善であると胸を張り大声で叫び吹聴する。
  悪事は堂々と明るくやってのけるのがコツらしいです。
  明るい悪事は、正しいような錯覚をもたらせるようですよ。
  扇動家には、詐欺の才能が必要ですね。
  人はみかけにコロリと騙されます。
  第一印象とかいう錯覚の巣窟ですね。
  立派な服に身を包み、
  笑顔を絶やさず、慈愛に満ちた物言いに、
  寸分の落度もない礼節、
  しかるべき免許皆伝の証書をもち、
  ついでに世間に名前が売れていれば、
  もうそれだけで畏敬の念を抱きやすい。
  
  要は、いかにそのような来歴を偽装するかに依るのでしょう。
  節度をわきまえる人物の名が世にとどろくはずがなく、
  立派な衣服に身を包むものが金を欲しがるはずがない。
  よく考えてみればなにかがおかしいのですが、
  聖人たるものの名は世間で噂になり、
  立派な衣服に身を包むものは偏執的に金を欲しがる。

  マルチ商法もそのなりの果てでしょう。
  威厳ある箱を彼らは探し出し根城にします。
  次に清潔で貧しさを感じさせない衣服に身を包み、
  話すことは明るい未来。
  こうすればよくなる、こうすれば悩みは失せる、
  こうすれば救われ、こうすれば健康になれる。
  
  高名さに目がくらんだやからはやっぱりコロリと騙されてしまう。
  この高名というのが大いに曲者なのです。
  たとえば、ここに高名な占い師がいます。
  このものの占いは奇跡的に当たるという。
  そこでワタシが占いを乞う。
  生年月日を訊かれ、応える。
  顔を見、名前を訊かれ、ついでに手相を観る。
  よく云われるのは、水子の霊がついている。
  お母さんにそういうことがありませんでしたか?
  ないのだけど、あるかもしれないと応えると、
  ニヤリ、
  意地汚くほくそ笑んだ口から、
  あなたはこうこうこうでこういう宿命を背負っているから、
  これからはこうして生きていかなくてはいけない。
  般若心経を写本しろだとか、このお札を買い求めよとか、
  先祖の墓を清め、ちゃんと供養し、
  家内のお祓いを至急しなければ大変な凶事に遭うなどと脅される。
  そういう星の下に生まれたのだからその宿命を変えるのは並大抵ではない。
  
  そこでワタシはこう言い添えます。
  実はワタシの生まれたのはその日でもその年でもその月でもないのです、と。
  ここからの反応が面白いのです。
  戸籍に記載されて40年以上その生年月日で世間を渡ってきたのだから、
  もはや本当の生まれなど関係ない、とか、
  正確な生年月日を教えてくれないと占えません、とかとか。
  摩訶不思議、
  水子の霊はどうなったのでしょうか。
  先祖の供養はどうなったのでしょうか。
  ワタシの宿命とかいうのはどこへ行ってしまったのでしょうか。
  その程度で、何万も何十万も金銭を要求する行為は、
  はい、詐欺です。
  大衆扇動においても
  ペテンの才能に秀でていなければなりません。
  なにもしない、したいと思ったこともない人たちに、
  何かをさせるのですから生半可な扇動は通用しません。
  思想というものは宗教的熱狂と紙一重なものですから、
  信じ込ませれば強いのです。

  悪いヤツは滑稽なことに見るからに悪いカッコウをしたがります。
  存在しもしない会社の名刺、
  偽造した免許の証書、
  勝手に拝借した有名タレントの写真を合成しこの会の仲間です、
  いつも飲み食いの支払いは奢ってくれ、
  親身になって相談に乗ってくれる。

  もうこの辺りで相当の人が騙されてしまいますよね。
  まぁ、いい。

  凶作によって明日食べるものもない、
  ならば、隣の村を襲って食料を奪うのだ、
  隣の村だって凶作だったかもしれない、
  ひとにぎりの食料を奪い合う浅ましさは人事ではありません。
  国の当主が積極的にそれを奨励する、
  ありもしない太鼓判を押された百姓たちは武器を取り、
  隣国に襲いかかる。
  慾とは、かなしいものですね。
  潔く餓死するひとなんているでしょうか。
  いないでしょうね。
  いないとしても、それをわれわれは責める権限をもっていません。
  何故なら、それは、生きる、という人の本能に由来するからです。
  慾を利用すると人々は踊る。
  油を注げば踊り狂う。
  ならば扇動すれば富を得るのも夢じゃない。
  麻原ショウコウも織田信長も、
  別物に見えて、やることはよく似ています。
  でも、信長は本物ですからまだいいほうでしょう。
  ニセモノに躍らされ、
  偽りの大義の前に命を落としたら悔やみ切れません。
  
  信長がやった比叡山焼き打ちや一向宗門徒の大虐殺、
  秦の兵士10万人を生き埋めにした項羽、
  亜米利加が戦争終結のためという大義を掲げて広島長崎へ投下した原爆、
  沖縄戦では一般市民の死傷数が日米の兵士よりも多かったのです。
  南京虐殺を今なお責める中国だってかつて南京以上の虐殺をわが日本に行ってきました。
  南京南京というまえに、自分がしたことは過去のこととすっとぼけてしまうのでしょうか。
  問うなら、問われるべきなのです。
  その覚悟なくして他人を毀誉褒貶してはなりませんよね。
  自分の姿は、鏡にてらさねば見えないものです。
  人を責める前に先ず自らを糺す態度こそが
  大義なのかもしれません。
  
  大義名分。
  勝てば官軍、
  ひとりを殺せば殺人者だが、
  100万人を殺したら英雄だ。
  ほんとうに、そうなのか?
  そんな屁理屈が大手を振って
  まかり通らせてかまわないのでしょうか?

  今の亜米利加さんもそうですが、
  我々の欲望は、昔も今も全く克服できていません。
  統一されることによって争いはなくなり、
  全ての人民に平和と安息がもたらされると
  本気で信じる英雄もいたでしょう。
  現在もなお罪のない人々が大義の名の元に虐殺されていることは、
  皆様ご存知のことでしょう。

  違う、のです。
  人殺しに大義などがあってたまるものですか。
  人殺しになんの善が宿りうるのでしょうか?
  ひとり殺しても100万人殺しても、
  人殺しなのです。
  数の多い少ないじゃ絶対にありません。

  だが、謙信は少し違いました。
  彼の戦は、正義でしか発されない。
  正義、
  現代において尚気恥ずかしさなしには語れないこの定義は、
  謙信の時代においては一層希有であったはずです。
  清濁合わせ持つ器量こそが人物であり、
  英傑であったことは、現代も変わりません。
  だが、現代よりももっと露骨な強欲が奨励され、
  許されていた戦国時代においてその潔さは驚愕に値するでしょう。
  
  天下は望まない。
  領地も増やさない。
  ただ、他国を攻め盗るものを誅伐する。
  強欲に鉄槌を下し続ける。
  毘沙門天への祈願に、
  女犯を戒めと誓言し、
  ストイックなまでに守り通す。
  関東管領家から救援を求められれば、
  自前の兵糧で関東に乗り込み北条を討つ。
  見返りの恩賞など求めもせず、授かろうとすれば断固拒否するのです。
  世にこれほどのバカヤロウがいるでしょうか。
  好敵手信玄を親を追い出した非道なるものとひとことで切って捨てる鮮やかすぎる審判には、
  開いた口がふさがらなくなるくらいです。

  無論、
  謙信も人殺しです。
  正義があっても、
  人を殺せば人殺しです。
  この絶対法理は今の法律の根幹をなしていますよね。
  つまり、
  殺しても、殺されても、
  死なねばならない太古よりの掟がある筈なのですが、
  殺したほうには、生き残れるチャンスが与えられます。
  そこに死者は立てません。
  物言わぬがいいことに、
  被告弁護人が死せる魂を、
  冒し、穢しぬき、あげくの果てには、
  全く別人の像を創り上げてしまう。
  それだけ殺されても仕様のない人だったと証明する。
  弁護士とは、因果な商売ですね。
  依頼人を守るためには、
  殺人行為そのものを正当化して行かなければならない。
  偽りの像を示された判決は、
  被告を救うでしょう。
  人を殺しておいて、自分は生きのこります。
  情状酌量の余地、
  これは正義であるかないかと置き換えてもかまわないでしょう。
  殺すには殺すだけの理由があるという非常に曖昧な論証が展開されます。
  だから悪である殺人行為もその理由が重要になってくる。
  
  なるほど、とうなずかないでください。
  これは、よく考えてみてください、
  殺す理由さえあれば殺しても構わないという
  子供のような屁理屈の立場に寄りすぎていませんか?
  殺されたものは、生きられないのです、死んだのですから、生き返れないのです。
  殺されたものを抜きにして殺したことの理由がどうして重要になるのでしょうか?
  罪は理由ではなく結果に対して罰を定めるものではないのでしょうか。
  結果に理由なんて関係ありません。
  殺したか殺していないか、それだけです。
  どんな理由があろうとも、絶対に殺してはならないのです。
  殺しても理由さえあれば生き長らえる、
  それがまかり通る世の中に、殺人はけっしてなくならないでしょう。
  法律とは、
  生きるもののためにあるのでしょうか。
  死んだ人も死ぬまでは生きていたのです。
  生きているという現在進行形だけで判定する行為はいかがなものでしょう。
  生きていたという過去完了形もどうして活かされないのでしょうか。
  活かされるのならば、弁護士に対する罰もあってしかるべきではありませんか?
  死者を冒涜し、蔑み、悪を生き長らえさせた罪は万死に値しませんか?
  これは刑事でも民事でも同じです。
  
  正義、という自己基準を心棒として正邪を別けることは難しい。
  そこに、純粋な観念がなければかないますまい。
  正義のためならば人をあやめても許されるのかという議論は
  ひとまず置いておきましょう。
  少なくともその行為は慾に発してはいないことは確かです。
  アイツを殺せば自分は得をするという手合の
  損得勘定は存在しません。
  憎悪は濃厚にあったでしょうが正義ではないという確信があらねばなりません。
  だからこそその征伐は苛烈を極めました。
  正義、
  難しいその判定を彼はおのが心身を毘沙門天に捧げることによって、
  内なる葛藤(疑問)に辻褄をくらわせ、
  善なるものの存在を疑わず、
  絶望することなく(高野山へ逃げ出したこともあります)、
  邁進させました。
  
  戦国の世に彼のような人物が現れたことこそ、
  空前絶後であり奇跡なのです。

  ワタシとは正反対、
  真似しようにも
  あまりの険峻ないただきを仰ぎ見るようで、
  登る前に気力がしぼんでしまいました。
  だが、だからこそ
  ワタシは彼に憧れました。
  オノレと正反対の対象に憧憬をもつのは自然ではないかもしれません。
  しかし、これは気質である以上どうしようもない。
  
  絶対正義を振りかざし、
  一切の慾を断ち切ってこの世の悪を懲罰せしめる、
  そんな雄姿はためいきつくほど潔い。
  ひとたるもの、
  すべからく潔くあるべし、
  いつしか意識の底に沈殿してゆく、
  意志とは真反対の意志、
  それがことあるごとにワタシを突き上げ、
  糺します。
  不道徳に対する異常なまでに噴きあがる憎悪、
  いい加減なことへの苛立ち、
  私利私欲のために闇を蠢く魑魅魍魎然とした政治家や企業家、
  憲法、法律、倫理、道徳、
  律するというのはどういうことなのか、
  ワタシは今も苦悩する。
  ワタシはアナーキーだとか、
  ゲリラ気質だとかよく評されてきました、
  けれども、
  ワタシの行動の根にはいつも上杉謙信の生き様がありました。
  なりたいものとなりつつあるものが、
  正反対でもいい、
  矛盾したままワタシはここまで育ちました。
  そして、
  矛盾したままこれからも老いるでしょう。
  ワタシの言動から感じる思想のようなものを、
  どうか誤解しないでいただきたい。
  ワタシは人殺しになりたくない。
  人殺しを創りたくもない。
  ワタシがしたいのは、
  創ってみたいのは、
  殺し合わずに慾を制御できる社会です。
  感性、感度、価値観、
  それは気質だけに所以するのではありません。
  われわれがもつ偉大な無意識の中にこそ詩藻は存します。
  詩藻こそが、
  行動を潔くするものであるならば、
  ワタシは悦んでそれに殉じたい。
  
  最後に、戦国最強の英傑は誰か?
  
  ワタシは、織田信長だと思っています。
  かれの次元はケタ違いの高みにあります。
  最盛期の謙信でも信玄でも、
  信長と真っ向勝負すれば大敗したでしょう。
  私のいう勝敗とは、
  局地戦の勝敗ではありません。
  たとえば劉邦は宿敵項羽に
  100戦して99敗しました。
  ですが最後の最後の闘いに勝利し、
  漢を建国しました。
  読み流さないでくださいね、
  99敗もしているのにどうして死ななかったのか、
  どうして最後の最後に勝てたのか。
  それを逆に考えると、
  項羽は99勝もしながら、
  劉邦を殺せなかったのです。
  運とか宿命だとかで片づけないでください。
  これは、劉邦だからそうできたのです。
  いくら喧嘩が強くとも世界はおろか、
  この日本ですら征服できません。
  所詮、武力とはその程度のものに過ぎません。
  では、なにが勝敗を決めるのか、
  それは、やはり、その人に拠るのです。
  宮本武蔵、上泉伊勢守、塚原卜伝、
  彼らは伝説の剣豪で敵するものがいませんでした。
  ですが、彼らはやがて必ず悟る。
  天下を布武するのは、
  肉体ではなく心なのだと。
  いくら不世出の剣豪であれ、
  たったひとりの建国者には敵わない。
  多勢に無勢とかを言っているのではありません。
  なぜ、肉体において秀でながら無勢となるのか、
  なぜ、打ち合えばものの数秒で討ち取られてしまうつたない剣技に、
  多勢が可能なのか。それを書いています。
  項羽は肉体において圧勝し、
  心において大敗したのです。
  謙信も信玄も、その肉体は不世出でした。
  肉体のみに於ては、信長など赤児同然です。
  ですが心に於ては、逆転します。
  
  生まれたところがよかったとかいうのは、
  何百もある要素のひとつに過ぎません。
  三段構えの鉄砲陣、神を否定するだけの自負、
  部下を道具として観る冷酷さ、徹底的能力至上主義、
  古き風習の安心感に虫酸を走らせ雷鳴のごとく憤怒する気質は、
  天才としかいいようがなく、
  日本によくぞ生まれてくれたと賛辞を贈りたい。
  千年にひとりの才能だと信じています。
  合理主義とは、かくなるものである、と、
  よくそう言われる亜米利加さんに学んでもらいたい。
  あんたらのは合理主義ではなく、
  ずっこい利己主義なんですよと。
  まぁ、信長も人殺し、ですけどね。
  
  2番は、はい、太閤秀吉です。

  3番は武田信玄、4番が上杉謙信、

  だいぶ離れた5番が毛利元就、

  あとは十羽ひとからげ、かな?
  徳川家康は後ろから勘定したほうが早いでしょう。
  はい、ワタシは、
  彼が大嫌いです。

  真田幸村・昌幸親子も嫌いじゃないけど、好きでもない。
  ワタシは死ぬために戦する人間が嫌いです。
  生きるためにする人間も嫌いじゃないけど好きでもない。
  ワタシは、
  だからこそ謙信が好きなのです。

  Gacktはどうかとおもうのですが、ね。
  
  
2007 12/16 02:50:00 | none | Comment(0)
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  春秋時代の中国、
  紀元前598年、
  陳国の大夫の夏微舒(かようじょ)というものが
  主君を殺して自立した。
  中国屈指の美女に数えられる彼の母、
  夏姫(かき)はもと鄭国の公女で夏微舒の父親に嫁してきたが、
  その美貌は傾国の域をはるかに超越していたそうだ。
  実は夏家に嫁ぐ前、
  夏姫は実家で兄の霊公とその弟の子公と同時に通じてしまい、
  兄の霊公は嫉妬に狂った子公に殺されてしまった事件があったが、
  夏家には親族の恥と内緒にしていただろう。
  陳に嫁してきてからしばらくは良き嫁を務めていたようだが、
  夫の死後、
  陳主の平国に言い寄られ、これと通じた。
  よほど淫奔な女であったのか、
  気が弱くて男の誘いを拒みきれない性質だったのか、
  次には大夫の孔寧(こうねい)という者とも、
  儀行父(ぎこうふ)という者とも通じた。
  三角関係どころか四角関係だ。
  三人の情夫の間には格別な問題が起こらなかったようだ。
  それぞれがそれぞれの家庭をもっていただろうから、
  どう話をまとめたのか、仲良く、また平和に情交がつづいた。
  平和というところがいかにも、異常でいかがわしい。
  あるとき、いかめしい儀式が政治堂で催され、
  正面に座していた平国がにやにやほくそ笑みながら大夫席を見て、
  ちょいちょいと襟元をくつろげて見せた。
  すると二大夫もにやにや追従笑いしながら揃って襟元を広げて見せた。
  三人とも夏姫からもらった女物の下着を着ていて、
  それを見せびらかし合ったという次第だ。
  神聖なる政事堂の百僚有司の列座するおごそかな儀式の場で、
  兄弟講をやったのである。
  これで、どろどろの関係を薄々は知っていた世間が
  はっきり事実と知れるところとなり、
  ぱっと高い噂が巷をはしった。
  当時の中華思想は、嫁を共有しあう遊牧民族独自の民法を最も野蛮と蔑すむ。
  つまり不倫関係もひとりの女を二人の男が共有するのだから、
  野蛮で汚いものを見るように蔑視されてしまう。
  もう青年になっていた夏微舒にとっては、屈辱だっただろう。
  亡き父への操も守らず、こともあろうに三人と通じる母。
  それでも情夫のひとりが主君であるからには、どうすることもできない。
  歯をくいしばってこらえた。
  歯噛みする歯茎は破れ、腸は煮え湯を飲み続けただろう。
  翌々年の夏、
  夏微舒の家に慶祝事があって、多数の賓客が集まった。
  その席で、平国は酒興に乗じて、二大夫に言った。
  「見ろよ、微舒はその方ども二人に似ているぞ。
   眉のあたりは孔寧に似ており、姿は儀行父にそっくりだ」
  その方どもの胤(たね、種)ではないのかという意味だ。
  二人は笑いながら、
  「とんでもございません、顔も姿も君公そっくりでございます」
  とやりかえした。
  微舒の父をあわせて五角関係だったのだから、
  誰の胤かわからないという冗談だったろう。
  微舒はもう我慢ならず、
  その夜、平国が乱酔して辞去し、
  車寄せで侍臣がさしだす松明の灯をたよりに
  馬車に乗り移ろうとするところを、
  暗闇の中から弓を引き絞り、一矢に射殺してしまった。
  夏氏は一族のひろがりもあり、家臣も多い。
  世間の同情者も多かった。
  堅固な備えを立てたので、
  姦夫のかたわれである二大夫の力ではどうしようもなかった。
  一目散に隣国の楚に出奔し、荘王に訴え出た。
  荘王は兵をくりだして自ら征伐し、
  夏微舒を殺し、夏姫をとりこにした。
  少なくとも四十になっていた夏姫は、おどろくほどの容色だったという。
  年を感じさせないほどの化け物じみた若々しさと
  艶冶(えんや)をもっている。
  さすがの豪傑王とあだ名された荘王も恍惚として魂を奪われた。
  枕席に召して寵愛し、数日の間、われを忘れた。
  連れ帰って後宮に入れようとすると、
  「夏姫はこのたびの大乱の基、希代の淫女であります。
  かかるものを寵愛なさっては、
  天下の望みを集めてやがて天子たらんとする大王の大目的を
  敗ることは必定であります。
  ご反省を促したてまつります」
  と大夫の巫臣(ふしん)が諌言した。
  荘王はおおいに未練を残したが、
  さすがに賢君の名に恥じぬ、
  いさぎよく断念して、将軍の子反(しはん)にくれてやった。
  子反が大満悦でいると、巫臣はその子反のところに来て、
  「夏姫は不祥の女でござる。
  彼女のあるところ、必ず不祥事がおこり、
  彼女に関係したものは皆不幸な死をとげています。
  天下に美女は多いに、
  なぜによりにもよって、
  このような不祥な女を得てよろこんでおられるのです?」
  と、忠告した。
  巫臣は楚で賢人の名の高い人物だ。
  子反は反省し、夏姫を返上した。
  かわりに大夫の襄老(じょうろう)が荘王に乞うて、夏姫をもらい受けた。
  それから間も無く、
  楚は晉(しん)と大合戦して大勝利を得たが、
  この戦いで襄老は戦死し、その遺骸は敵に持ち去られた。
  葬式もできないのは、この時代、大変な不忠にあたった。
  「不祥な女をめとった報いである」
  と世間では身の毛をよだたせた。
  夏姫は未亡人として、その家で暮していたが、
  今度は、襄老の長男の黒要という者と密通し、
  それが世間の高い噂となる。
  容色は男を狂わすに足る。
  狂わされる男は、溺れ、沈み、気骨を溶かされてしまう。
  
  巫臣はこれを聞いて、たまらなくなった。
  彼が夏姫を寵愛する男のあるたびに諌言忠告してやめさせたのは、
  彼自身が夏姫に恋情を抱いていたからだった。
  一目惚れだったろう。
  この女こそが我が畢生の伴侶たりうると、感嘆しただろう。
  巫臣は冷静で、頭のよい人物であったから、
  その恋情は素直な形では出てこず、これを毛嫌いする形で出、
  自分でも嫌っていると信じていたのだが、ここに至り、
  自身の本心を知ってしまった。
  頭の出来の善し悪しは、恋愛道には関係ない。
  どんな高説のたまう学者も、色事に関しては、
  瞬時に子供と化す。
  嫉妬なんていうものは、
  幼児期の名残に過ぎない。
  名残をいつまでも統御できない野郎は、大人ではない。
  真に大人足りうるものは、
  自身の潜在意識に巣くい根をはりめぐらせた、
  蜘蛛のような欲望を制御できるものだけだ。
  無論、子供返りした巫臣は気も狂わんばかりとなった。
  
  巫臣は夏姫(かき)を訪問して、自分の恋情をうちあけ、
  「実家の鄭(てい)に帰りなさい。
  そうしたら折を見、拙者が求婚して、
  夫人として迎えるでありましょう。
  鄭に帰られる工作は拙者がします」
  と説いた。
  夏姫は承諾した。
  義息の黒要と関係を続けながら、である。
  不謹慎だが、
  これだけしたたかで純粋な奔放さには却って純情ささえ覚えてしまう。
  襄老の死骸を晉(しん)が返してくれることになり、
  夫人である夏姫が引き取りに来れば今すぐにでも返す、
  という通知が来た。
  夏姫は荘王に願い出て許され、鄭に帰った。
  楚は斉(さい)と通謀して魯(ろ)を挟撃する策を立てた。
  その戦期の打ち合わせのために、
  斉に送る使者に巫臣が選ばれた。
  思惑通り、時は、きた。
  彼は一族郎党をひきつれ出国した。
  もとより戻るつもりはない。
  巫臣の家は、名流で富み栄えており、
  巫臣自身も楚国の賢大夫として
  最も有用な人物として世に仰がれていた。
  王の信任も厚かった。
  だが、
  彼は夏姫を求めて、これら全てをすて、
  国をすてた。
  愛欲の情熱は時として一切の計算を忘れさせるもののようだ。
  これも二千四百年後の現在とさして変わらない。
  価値とは、それだけのものだ。
  巫臣は鄭にゆき、夏姫と結婚した。

  この事件を調べて驚くのは、
  この時夏姫の年はどう若く計算しても
  五十近くになっていたはずだ。
  妖怪じみた美しさであったと言えようか。

  この後、巫臣は、
  かなった恋に耽溺するだけではなく、
  夏姫や族人達と共に一度は斉に入ったが、
  斉が鞍の戦いで晋に敗退したのを受けて、
  亡命先を晋へと変更した。
  そこで「快男子」と天下に名の聞こえた郤至を頼り、
  ?の大夫として正卿の郤克や晋の重臣達に重用され、宰相にまで栄達する。
  巫臣の晋での評判を聞いた当時の楚の重臣である子反、子重(公子嬰斉・荘王の弟)は、
  「晋へ賄賂を贈って巫臣を用いられないようにしましょう。」と共王に献策したが、
  「無能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられず、
  有能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられる。無用である。」と退けられた。
  しかし、狙っていた夏姫を巫臣に横取りされたと怒っていた子反は子重と共に、
  楚に残っていた屈氏一族を殺害した。
  これを知った巫臣は、子反と子重へ
  「あなた達は邪悪な心で王に仕え、数多くの無実の人達を殺した。
  私はあなた達を奔走させて死ぬようにさせる」との復讐の書簡を送った。
  その後、晋公(景公)に呉と国交を結ぶ事を進め、自ら呉に出向いた。
  これにより晋は中華(この場合は周王朝と言う意味)の諸侯で初めて呉との国交を結んだ。
  当時、呉は中華の国とは認められておらず、蛮夷として認識されていた。
  古代中国とは不思議な社会通念をもっていたようで、
  匈奴や鮮卑など(わが倭もそうだが)近隣諸国を、
  人種の相違で別けず、風俗や言語によってのみ、
  未開人と認識していたようだ。
  たとえば周を建国した一族は髪が赤かったらしい。
  金色の髪をした夷狄もいたって不思議ではない。
  あれだけ史実に命を張ってまで忠実な歴史編纂者たちも、
  異民族の肉体的特徴を記していない。
  現代においてさえ、どの先進国もなしえていないこの極上の社会通念を、
  ごく自然にもち得、しかもなんらの疑念も抱かないその高邁さをみるにつけ、
  現代の中国とは、人種そのものが違っているような気がするのは、
  私だけではあるまい。
  
  巫臣は用兵や戦車を御する技術を伝え、
  子の屈狐庸を外交官として呉に仕えさせ、晋に帰国した。
  この事が後に呉国が強国になった一因となった。
  そして子反と子重は、巫臣の目論見通り晋や呉との両面戦争に奔走させられ、
  その後子反は紀元前575年の?陵の戦いでの失態を子重に責められて自害し、
  子重もまた、呉との敗戦による心労で紀元前570年に死去し、
  巫臣の復讐は果たされた。呉が強国となる事で楚にとっての脅威となり、
  遂には楚が呉によって滅亡寸前に追い込まれるな
  その功により、巫臣は呉に招かれ宰相に就任した。
  子反にとっては泣きっ面に蜂か。
  恋敵に女をさらわれ、ついには国も敗れ去る。
  歴史を大きく変える復讐の策だったとも言える。
  その後、巫臣と夏姫との間に生まれた娘が、賢臣として名高い叔向の妻となった。

  巫臣、姓は?(び)、氏は屈、諱は巫、字は子霊、
  呉が強国となる事で楚にとっての脅威となり、
  遂には楚が呉によって滅亡寸前に追い込まれるなど、
  歴史を大きく変える復讐の策だった。
  

  喝采をうける復讐劇が、正義だと私は思わない。
  だが、復讐を生むなにがしかを他に対し行う者は、
  覚悟なしには為しえないことを、我々は意識しない。
  怨みは、恐ろしいものだ。
  刃傷沙汰に陥るのは不思議でもなんでもない。
  覚悟もなしに、我々は、他を讒言してはならないのだ。
  関ヶ原で封土を削られた毛利家は、維新倒幕で怨みをはらした。
  維新に乗り遅れた細川家は、昭和に総理大臣を送り込んだ。
  復讐は何世代にわたってはらされるものである。

  しかし、夏姫、
  ぜんたい何人の男を狂わせたのか?
  げに、
  恐ろしきは魔性の女か。
  いいや、
  老いを知らぬその容色こそが、
  魔の魔たる所以であろうか。
  
2007 11/07 14:27:37 | none | Comment(0)
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女は言った。
   「あなたの瞳はいつも真っ暗だわ」
   瞳は対象をとらえるために開く。

                   ジム・モリソン

俺はちびで醜い。
団子っ鼻で、
3段腹の脂っこい中年男だ。
俺みたいなのが女にもてるわけがない。
そんなこたぁ、わかっていたさ。
この世の中は、金で動いている。
終戦後、
金のためならなんだってやってきた。
生きるために、どんな卑劣なことだってやってきた。
学歴のない俺がこの世で学んだたったひとつの哲学は、
人も金のために動く、ってことだ。
初老を迎える俺に縁談があった。
倒産寸前の取引先の社長の一人娘らしい。
資金援助が目的なのは判っていた。
揉み手で、良縁でございますと勧める父親の額には、
金を貸してくれ、と書いてある。
一人娘と見合いしてみると、
驚かずにはいられなかった。
まさか、と見間違うほどの美しさだったのだ。
こんないい女が、俺なんかと結婚したいはずがない。
親に言い含められていたのだろう、
一人娘夏子は、
俺のプロポーズをその場で承諾した。
結婚生活は、とりとめのない猜疑心の日々だった。
俺は俺の全てを知っている。
俺なんかを、妻となった夏子が愛してくれる訳がない。
興信所を何社も使って、
夏子の浮気を調べさせた。
だが、どの興信所も尻尾をつかめない。
皆、シロ、だと報告した。
そんな馬鹿なことがあるか、
俺は意地になって、更に十数社の興信所を使った。
夏子は夫の私に尽くす完璧な妻を演じていた。
風呂場では必ず背中を流してくれ、
毎夜の肉欲にも堪えて、愉悦をかくさない。
しかし、尽くせば尽くすだけ、
美しさがより美しく磨かれてゆくだけ、
疑惑は募る一方だった。
こんな女が俺なんかを愛してくれるわけがない。
下品で学歴もなく家柄もない、
でかっ鼻の中年男を愛してくれるなんて、
甘ったれた夢を俺は信じなかった。
人はだれでも金のために動くのだ。
そんな俺のたったひとつの哲学を覆されそうな
夏子の笑顔の下の嘘を、
あばく日がやってきた。
突然姿を消したのだ。
信州のある山の付近でガイドや山小屋の番人をしている南條という若い男と夏子が同棲していると、
興信所が報せてきたのは、一ヶ月後のことだった。
俺は、
みずからの哲学を証明するために、
妻の嘘をこの目で見るために、
俺の目が狂いなかったことを自ら証明するために、
いいや、
金で買った愛情なんて紙切れよりも薄っぺらくもろいってことを
確かめるために、
南條に偽名でガイドを頼み、
彼らが同棲する山小屋での宿泊を予約した。
夏子の旧い友人だという南條は、
若く、国立大卒の美男子だった。
そうだろう、
この男が、夏子の彼氏だったに違いない。
世の中には釣り合いという、
自然の天秤がある。
学歴のない男に学歴のある女は惚れない。
美男美女はしばしばくっつくこともあるが、
醜男と美女は正常な関係を保てない。
分相応、家柄なんて関係ないなどという、
しょうもないハッタリがまかり通るのは、
少年少女の青臭い夢物語であることを、
どうして大人たちは語らないのだろうか。
真実を知らせることこそが教育の原点ではないのか?
学のない俺には理解できないが、
南條は、俺の偽名を疑いもせず、
険しい山を案内した。
国立大出身のくせにどうしてこんな仕事を選んだのか、
頭の好いヤツの考えることなんか俺にはさっぱり分からない。
さっぱり分からんヤツが、冬登山は危険だという。
そんなこと知るかよ、
俺は趣味らしいものをひとつももっていない。
登山なんてド素人なんだ。
ガンジキを履き、
ピッケルを使って、
登山は中途まできた。
頂上付近から、小さな石ころが転がってきた。
「雪崩です」
南條が表情を変えて、俺に指示した。
津波のような雪の波が空を覆うくらい巨大に咆哮しながら
押し寄せてくる。
よかったな、南條、
これで俺が死ねば、
財産はすべて夏子のものになる。
俺には親も兄弟も親類もいない。
天涯孤独の捨て子だったんだ。
夏子の嘘を証明できぬことが心残りだが、
仕方があるまい、
これも運とあきらめて、
死んでやろう。
大きな石が額に直撃した。
一瞬に、視界が朱色に染まった。
もう、これまで、
と観念は一瞬だったろう。
だが、南條は、俺をサポートして、
数メートル下の巨大な岩の陰にひきずり、
雪崩をやり過ごした。
俺を本気で助けたのか?
俺はたまらずに、いきさつを白状した。
だが、南條はそれを否定した。
夏子は、あなたを愛していると。
頭部に岩を受けて流れ出た血が視力を奪っている。
遠のく意識に、
南條が必死で励ましていた。
「しっかりしてください、
夏子さんの真実を見てあげてください。
彼女は一ヶ月前、
私にしばらくここに置いてくれと頼みました。
事情があることは、
様子で知れましたが、
訊かずに一緒に過ごすことにしました。
彼女は、よせというのも聞かず、
毎日、炊事洗濯まき割りに、登山者の世話まで焼きました。
無理がたたったのでしょう、
寝込んでしまったこともある。
その時、彼女は何故山小屋を来たのか理由を語り出しました。
結婚して三年、
本当に幸せだった。
しかし夫はわたしに心をいちども開かなかった。
わたしも女だから、
夫の愛を確かめたかった。
もし本当にわたしを愛してくれているのならば、
夫はどんなことをしてもわたしを捜しだして
連れ戻しにきてくれるだろう。
でも、そうでなかったら、
わたしは一生山を下りるつもりはない、と。
あなたが偽名で僕のガイドを頼む手紙を見て、
夏子さんはすぐにあなたの筆跡であることを見抜きました。
どんなに喜んでいたかあなたにわかりますか?」
そんなことがあろうはずがない。
証拠はどこにもないじゃないか。
ろれつの回らぬ舌は、
それでも意思を伝えてくれた。
「それじゃ、あの声はなんなのですか?」
声?
たしかに何かを呼ぶ声が遠くから聞こえた。
女の声だ。
夏子の声だ。
「あなた!!あなた〜!!」

俺はこの世の最後に、初めてこの世の真実を知った。

遺骨を胸に家に戻る夏子に南條が訊いた。
「失礼とは思うけど教えてくれ、彼のどこに惹かれたんだ?」
すると夏子は、
目を細めながらこう答えた。
「あのひとの瞳、あのひとがどんな生き方をしてきたのかわたしには判らないけれども、
あのひとの瞳には、一生懸命に生きてきたひとだけがもっている光があった。
どんなに苦しくても精一杯頑張ってきた光があった。
その瞳を見た瞬間、
理由もなく胸がつまったの」

高校3年生の秋、この漫画を読んで感動した私は、
当時交際していた彼女に読ませて感想を訊いた。
彼女はこう応えた。
「夏子は結局夫を殺したのよね。ほんとに愛していたら、そんな危険な賭けに出るわけがないわ」と。

なるほど……。
2007 04/19 22:34:31 | none | Comment(0)
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桜の散らないところ 


  4月、眉月のある夜、

  男はとどいていた手紙の封を切った。

  そこには爛れ果てた情事が描かれていた。

  非の打ちどころのない造形が、潰崩するきわのうめきは、

  半分が皮肉(シニカル)だ。

  煙草に火をつけありきりまで吸いこむ。

  吐き出された紫煙が、たまたま掩蔽が隠れて現れた紫の輪を

  いそがずに包んだ。

  おののくようにさだまらぬ手で、いまいちど、読みかえす。

  花羞じらいて月閉じる、

  魚沈みて雁落ちる、

  美貌の喩えを、ふと思い出した男は、苦く顔を破った。

  男には、この瞬間が見えていた。

  こういった虫の知らせを、

  男は単なる『勘』だと信じていた。

  妄想を真実だと悟ったとき、

  ひとはどうするのだろう。

  だいじょうぶ、冷静だ。

  終わりの鐘はまだ鳴り響いてはいなかったが、

  けたたましく空気をよどませる前触れはひしひしと

  暗い部屋を迷いあるいている。

  せせりさがしては、ならない、

  漂失する浮標を憑けてはならない。

  モノローグは闇を手まねく。

  桶の内側をけずりあげる鉋をうちぜんと呼ぶが、

  けずりおとされるのが、よごれたものだけとは、

  かぎらない。

  意識を集中しなければ、のみこまれてしまう。

  男は、そのまま、心が悲鳴をあげるまで、

  考え得るあらゆるものを想起した。

  思椎に限界はない。

  愉快なおとこたち、

  最高だったおんなたち、

  逢ったこともない親爺とお袋、

  やがて、
  
  鳩尾の辺りから鎮まってゆくような風の途が通る。

  男は、みずからに問うた。

  それでいい、

  みじかく返事して、

  ある場所へ向かった。

  まだ、桜が散らないある処へ。  



 2章


  蜻蛉獲りだと噂された。

  ひとっところに居を構えたことはないせいかもしれない。

  あみかごは、見えないが、しっかりゆんでに握られている。

  男が追い求めるのは、季節にこだわらない蜻蛉だった。

  春夏秋冬、その生に終わりはない。

  存在には、自然的・物的なものと、意識的なもの、

  さらに超自然的で非感覚的なものとがあるだろう。

  超自然的で非感覚的な物象とは

  そこにあっても、なくても、存在すると信じている限り、

  あるものを指す。

  そんなだれもが聞いただけでややこしくなるものを

  かれはずっと追い続けてきた。

  その仕上げが今度の旅になるだろう。


  桜はもう散っていた。

  遅かったのだ。

  
  蜻蛉はまたもや彼の傍から逃げた。

  移り香だけを残して。

  どこへゆけば見つけられるのだ、

  男に初めて焦りがあった。

  焦の字は、火と鳥でできている。

  夢のある火の鳥ではない、火で鳥をあぶる意だ。

  自信があぶられる、そんな気分を彼は味わっていた。

  彼が追うものを、人々はこう言う、

  未練、と。

  桜は散った。

  だが、彼の、「未練」は、いまだ散らない。

  夜の宿の心配よりも、

  行方を探さなければならない。

  必ず見つけ出す、

  男はそう決意して雑踏に消えた。


 3章


  夢は、その全てを人に語り伝えることは出来ない。

  しかし、われわれは、その夢のすべてを知っている。

  あるいは、忘れ、或いは、説明する表現を知らない、

  あるいは、筋道立てられない。

  しかし、われわれは、それでも、その夢の全てを見た。

  男は、南へ下った。

  金沢城から石川護国神社の参道を抜け、

  聖ヨハネ教会をのぼりおえた高台にその病院はある。

  精神科、神経内科、心療内科、内科、歯科があり、

  金曜日の午前9時、奴は外来を担当している筈だ。

  診療時間が終わる午後一時まで、

  男は時間を潰す。

  厚生年金会館の前を通って小立野通りに出るところに見事な桜と木蓮の樹が並んでいる。

  この道を、男は、浪人時代、この坂をのぼったことがある。

  ここだったのだ、ここから、おれの旅ははじまったんだ。

  午後1時の鐘の音が鳴り響いた。

  受付に呼び出しを頼む。

  院内放送が流れ、待合室で男は待っていた。

  麻倉さんは?

  精神科医山根さとるが現れた。

  男は立ち上がり、彼を捜す山根とすれ違いざま、なにごとかを、告げた。

  山根の顔色が変わった。

  石引有料駐車場まで、男は振り返らずに歩いた。

  山根は、黙ってあとに続いた。

  泥だらけの白いRVの前で、男は振り返った。

  来られると思っていました、山根医師が観念するかのような、

  低い声で会話の口火を切った。

  どこにいる?いっしょにいるのか?

  男は、山根の目を見据えながら問うた。

  その前にお伺いしたい、あなたは、彼女のどういう知り合いなのですか―?

  言い終えぬ内に、彼の頬桁(ほおげた)が燃え、陥没した。

  話し合う気は無い、黙って案内しろ、

  男はさらに低い声で強要した。

  おまえの自宅になんか案内するんじゃねえぞ、

  高尾2丁目だったよな、そこに嫁も娘もいる。

  電話番号は、076ー×××ー××××。

  山根の顔色が一層蒼くなった。

  どこにも逃げられないんだよ、もう、おまえは。



      木の蔭になつた、青暗い
      わたしの書斎のなかへ、
      午後になると、
      いろんな蜻蛉が止まりに来る。
      天井の隅や
      額のふちで、
      かさこそと
      銀の響の羽ざはり……
      わたしは俯向いて
      物を書きながら、
      心のなかで
      かう呟く、
      其処には恋に疲れた天使達、
      此処には恋に疲れた女一人。




  




 4章

  臨済宗南禅寺派の修業道場である京都円光寺は、紅葉が見事なのだそうだ。

  同じ地名をもつ町をさらに南へ下ると、

  山科という聞き慣れた町に着いた。

  ここか?

  蜻蛉獲りは頬を腫らした山根がうなずいた。

  ひところ流行った2階建ての鉄骨モルタル造りのハイツだった。

  1フロアに6室、全部で12部屋の扉がふたりに向いていた。

  どの部屋だ?

  2階の右端の部屋です。

  視線で確認し、

  建物の両脇にある階段の左側からのぼる。

  訝しげな山根の表情に、

  男は小声で応えた。

  足跡で、気づかれるだろうが。

  部屋の前、阿藤という木彫りの表札がかけられている。

  あいつが彫ったやつだ。

  チャイムを2度鳴らし、数秒後に、もう一回鳴らす。

  それが合図なんだろう、

  しゃらくせえやつらだ。

  男は声に出さず、扉の吊り元側、右に移動した。

  ドアチェーンをはずしていないのだろう、10度の角度しか開かない。

  まぁどうしたのその顔!!

  なつかしい声がした。

  夢にまで見た声がした。

  この扉の向こうにその声の持ち主がいる。
 
  とうとう見つけた。

  せきまえに閉じられた扉が今度は90度に開いた。

  まーちゃんごめん、

  山根が女に告げた。

  女は山根の傍らに立つ男に視線を奪われて、膠着していた。

  あ、麻倉さん・・・・・・。


  
 5章

  相変わらず分量の目利きが下手な女のたてた

  どろどろの珈琲が、座卓に運ばれた。

  卓の中央に濃紫・黄・白の斑をばらまいた三色スミレが萩焼の花瓶に挿され、

  ふたりとひとりをわけていた。

  窓から西日が差し込んで、視界が暗い。

  
  阿藤真砂子、

  45になるのにまだその美しさに陰りがない。

  目元の隈が所帯の辛さを浮き彫りにしているようだが、

  白磁器のような肌は健在だった。

  男が彼女と知り合ったのは、

  1年前の大阪だった。

  大學進学する娘の部屋を探しにきたついでだったろう。

  伊勢丹の進出に合わせて大改装を行ったJR京都駅、

  贅沢過ぎるほどの空間をおしげもなく使い果たしたような、

  長い長いエスカレーターに乗ると、

  空に浮かんでゆくような錯覚に陥る。

  昇りきった屋上に、

  女が立っていた。

  麻倉さん、少女のようだ、と男は女の声を

  眩しい印象を繊細に上書きされた。

  
  さやちゃんは気丈に暮しているよ、

  男がはじめて声をかけた。

  元気にしてる?あの娘、料理なんかできないから。

  元気だ、ときどき、電話が来る。

  鎖骨が目立つほど痩せた。

  青みがかるほど白いその顔は、

  陽を背にうけながらなおも白い。

  男は、目のやり場に困るように、

  壁の傷跡を見つけた。

  数ヶ所、右上から左下に3本の深い引掻き傷。

  床のフローリングにも、同じ傷があった。

  爪か?

  そのときだった、

  沈黙してうなだれていた山根の様子が気味悪く笑い出した。

  ひっひっひっひっひ・・・・・。

  肩が震え出す。

  細かく左右に揺れたかと思うと、

  激しく上下に振動しはじめた。

  麻倉さん、帰って下さい!!

  女が叫んだ。

  少女の叫びだ、しかし、その音色は、

  真摯さにまみれている。

  まーちゃん、どうしたの・・・・・、

  二の句を継ぐ瞬間だった、

  山根が急に立ち上がった。

  だが、その背丈は山根じゃない。

  その影も、山根じゃなかった。

  逃げて!!!!

  女が叫ぶのと同時だった、

  山根の影がさらに膨らんだ。




 6章

  個人にはプライバシーがあります。

  交際する男女にも、共有して守らなければいけないプライバシーがあるんじゃないのですか?

  それを公開されたら、

  死にたくなります。

  配る方は着衣姿で、配られた方は下着だ。

  それで並んだ姿なんだ。

  
  そんなことしないよ。

  どうしてそんなことしなければいけないの?

  
  山根さとるって誰ですか?

  どういうお知り合いなのですか?

  
  相談に乗ってもらったお医者さんです。

  助けてもらってたけど、

  もう連絡してないですよ、

  あなたとお会いしてお付き合いはじまってからは。


  変ですね、あなたがそのひとに出したメールが、

  自分のところに着てるんですよ。

  
  そんなばかなことあるわけないじゃない。


  そんなばかなことが起きたんですよ。

  転送してさしあげますよ。

  彼誕生日なんですかもうすぐ?

  そんな内容でしたよ。


  ひどい、だれがこんなことしたの!!

  ひとのメールぬすむのはんざいですよ!!!


  待って下さい、自分は山根さとるなる人物を、

  このメールで初めて知りました。

  このアドレス、

  やっぱりあなたのだったんですね?


  むすめのアドレスなの。

  ぜんぜんつかってないのよ。

  どうしてアタシだとおもったの?

  
  115って半角数字、あなたの誕生日じゃないですか。


  こないのわかってるから、だしたの。

  へんじのない一方通行のてがみ。


  抒情的ですね。

  ひろびろとした丘の上で桜がさみしく散ってゆくようだ。


  かくしてなんかいないわ。

  いわなかっただけよ。


  

  学会?

  彼がここに来るのですか?


  しょうかいしてあげるね。


  結構です。

  それよりも、その連絡は?


  メールがきたの。


  そうですかメールがね。


  あ、かんちがいしないでね。

  ひさしぶりにあうだけだから、

  あなたもいっしょよ。

  
  逢いませんから、あなただけ、お会いください。

  自信がないです、自分を抑えられるかどうか。


  へんなの、じゃあわないわ。


  いいえ、あなたはお会いになる、必ず。


  あわないわよ、あなたがかなしむもの。


  おすきになさってください。


  しんじてね、あわないから。


  
  会いに行ったんですね?

  あれほど会わないって言ってたくせに。

  そこまでして会いたかったのですか?

  そこまでこだわらなければならない友人なんですか?

  メル友っていうのは

  それいがいの全てを犠牲にしても、

  だいじなひとなのですか?

  電話、出てくれませんね。

  このメールにも返事はないでしょう。

  山根さんてひとから、メールが来ていました。

  ここ数日のあなたと交わしたメールやメッセが貼付されていましたよ。

  説明してもらいたかったけど、

  返事もしてもらえませんからね、

  誤解されたままで平気なあなたが自分は羨ましいです。

  今夜、また会うのですね。

  身辺は潔くありたいと、

  自分は決めています。

  これがあなたの別れの言葉と受け取ります。

  ありがとう、いままで、あなたを好きでした。



  麻倉が呼ばれたのはトシオが失踪する前の晩だった。

  数年ぶりに会う彼は、憔悴しきっていた。

  心が病むと、肌も病む。

  肌が病むと、外見が変貌する。

  別人のようだった。

  トシオの依頼を麻倉はこころよく承諾して、

  安心して行ってこい、骨はひろってやる、

  細くなった背中を押した。


7章

  世阿弥の能にも記された妖かしがいた。

  源頼政が紫宸殿上で討ち取った、

  頭は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似た妖かしも、

  同じ、

  鵺(ぬえ)と謂う。

  妖かしとはいえ、ひどい描写だ。

  ひとではない形相に、ひとではない体躯、

  ひとは変化(へんげ)しないと信じられているうえでの剪定(せんてい)だろう。

  きつねつきの女の形相を観たことがあるだろうか。

  ヒステリーの一種だと解説されても、にわかに信じられないほどの変貌ぶりだ。

  その顔は、きつねそのものだからだ。

  情に偏執した顔は、どうだろうか。

  憤怒の顔、それも、違うのだろうか。

  ひとは、心の顔をごまかせない。

  感情が激すれば、なおさらだ。

  純粋な意味で、ポーカーフェイスなどありえない。

  心の起伏は、その肌にまで現れるし、

  吐息にまでこもる。


  
  訥々怪事。


  ひっひっひっひっひ、

  山根の呼吸補助筋の強直性痙攣(つまり、しゃっくり)めいた声が止まった。

  やりたい放題、やってくれたよな。

  その声は、山根の声ではない。

  さとるちゃんやめて!!!

  女が絶叫する。

  麻倉は、異様な圧迫を山根の影から受けていた。

  影をとりまく大気が圧縮されて飲み込まれるような、

  異様、と形容したい緊迫だった。

  がちゃり、がちゃり、と重厚な金属音が2度響いた。

  影の形容が変わっている。

  手だった部分が、鋭い鉤爪をはやした熊手のようだった。

  こいつはいったいなんだ、

  麻倉は瞬時に攻撃を予感した。

  あいつもはじめは威勢がよかったぜ。

  おまえトシオに何かしたんだな?

  おなじところへ送ってやるよ、感謝しな。

  殺したのか?

  まーちゃん、そうなのか!!

  逃げて麻倉さん!!

  一瞬男の気がそれた。

  虚の間は、容易に危機をさそう。

  影の爪が右から飛んできた。

  寸前でよけた、つもりだった。

  だが、爪は男の衣服と胸の肉片を奪い去っていた。

  あの鉤爪は、のびるらしい。

  まいった、避けようがない。

  かっと熱くなる胸にを抑えると濡れている。

  血が噴き出ているらしい、それを確認するひまはなかった。

  じわじわと、死を予感させられる間合いがつめられる。

  あの手の内側に飛び込まない限り、勝機はない、

  覚悟を決めた男は、左に跳んだ。

  影がそれを追う。

  男は跳ぶと同時に、右に跳躍した。

  影に肩をぶつけ、その頭部を両手でわしづかみ、

  頭突きを鼻らしき箇所に3度いれた。

  ぐしゃり、と骨のつぶれる音がする。

  そのまま襟らしき箇所を両手でにぎり、
 
  背中を胸に合わせ、しゃがむように、腰に乗せた。

  背負い投げ。

  影が鈍い轟音をたてて床にたたきつけられた。

  受け身は取らせない。

  たたきつけたのだ。

  しかし、投げられながら影は、腕を一閃させて男の腿を裂いていた。

  ひるまぬ男は、顔面に蹴りをいれ、

  めまいをこらえながら肘打ちをつづけて落とした。

  抵抗されては、負ける。

  男は、2度、3度と、肘内を入れる。

  どこにいれているか、感覚がない。

  勝てるかも知れない、そう思った瞬間だった、

  後頭部を衝撃が貫いた。

  がしゃん、ばらばらと、砕けこぼれる鈍器の音が衝撃を押した。

  ま、まーちゃんなにするんだ・・・・・・

  ふりかえった男の目に、泣きながら佇む女が見えた。


8章
  
  懈怠(けたい)の内に巣くうものは、

  どこからやって来たのだろうか。

  女は、幸せではなかったのかもしれない。

  夫と娘たちがいて、家があり、親族がいた。

  魔が差したのだ、とは、とても思えないくらい、

  その熱波は衝撃だった。

  量子力学で、空間の中に有限の拡がりをもつ波動関数のことを、

  波束(はそく)とよぶ。

  この波動関数が代表する粒子は、空間のその有限の部分でだけ存在の確率を有し、

  粒子のおおよその位置がこの部分の中にあることを示す。

  われわれは、有限の世界で生きている。

  そう、

  なにげないひとことから、

  すべては、はじまった。

  女が山根と知り合ったのは6年前だった。

  衝撃は直線でやってこない。

  波である。

  波動を少しづつ受けて、

  やがて、堰が切れるように、

  心を一変させるほどのつみかさねた事実をつきつける。

  どの時点が波の頂点で、どの時点が底部なのかは、さぐれない。

  事実、つまり、「愛情」を自覚する時点が、

  最後の最後の、瞬間だ。

  面白いものだ、最後の瞬間が、同時に愛情の発露の瞬間なのだ。

  女は、山根に逢った。

  逢い、抱かれ、なにもかも忘れて、

  磁気嵐のような情感に身をまかせた。

  この時間があれば、自分は、生きてゆける、

  とまで、確信する。

  家に帰れば現実が待っている。

  ならば、これは、夢実なのだと確信する。

  それから6年、

  女と山根の不倫は続いた。

  

  過酷な現実への代償が必要だった。

  身近で即応できるほど好ましい。

  男はごまんといる。

  だれでもいいわけではないが、

  女の嗜好はうるさくない。

  優しい、それだけでもいいくらいだった。

  そのひとりが、倉木俊男だった。

  麻倉と倉木は、高校生時代からつるんでいた。

  傍若無人と敬遠されていた麻倉は、

  倉木と知り合い、友好を深めるに従って変わった。

  蜻蛉は追うが、地に足をつけられるようになった、と、

  倉木を通じて増えていった友人達の眼の鱗を落とさせた。

  麻倉は、人がましく、なった。

  俊男が女を紹介したのは、

  自慢したいだけではなかったろう。

  女は、麻倉の携帯電話の番号を知り、

  ふたりで逢おうと、連絡してきた。

  少女の声だった。

  このまま年老いて、こんな声だいじょうぶなのか?

  要らぬ節介やきたくなるくらいだった。

  女は麻倉と違い、人見知りしなかった。

  麻倉のことを知りたがり、

  麻倉の警戒心は溶けた。

  だからといって、興味を抱いたわけではない。

  麻倉の感情はそれほど短絡ではない。

  女には、そうなるためのなにかが、欠けているように思えた。

  俊男も同じことを感じているのか聞いていなかったが、

  一筋縄じゃいかない印象を強めた。

  腹蔵のない女は、こういった接近を好まない。

  窒息、糜爛(びらん)、血液ガスに襲われたような即効性はないが、

  覚醒剤などの麻薬系でもない、

  しかし、染まれば、必ず身を滅ぼすであろう危険な匂いがした。

  少女が、みずからを少女と思わないように、

  悪女は、自分を、悪女だとは思わない。

  俊男は、からめ捕られるように、街から消えた。

  ふたたび連絡が来た時、

  声の変わりように驚いたものだ。

  なにかが起こる、

  麻倉はそれを危惧していた。

  こういう予感は、いやなことに、よく当たる。


  俊男から最後の電話が来た時、

  麻倉は彼を止めなかった。

  ひとりで行ってこい、

  そう背中を押してあげたつもりだった。

  そうしなければならないし、そうしなければいられない筈だから。

  だが、

  俊男は、消息を絶った。

  消えた女を追うように、俊男も消えた。

  女の家族に会い、

  女の友人達を軒並み訪問して得た情報をまとめると

  山根、という名前が浮かび上がる。

  俊男からは、女の過去を聞かされていた。

  普通の恋は、不倫に負けた。

  現実が夢に敗れたのだ。

  それを俊男に言ってやりたかった。

  選ばれなかった恋は、紙屑以下だ。

  拠所になりはしない。

  それまで築いた全てをおまえは喪失したのだと。

  だが、激昂もせず、話をつけるてくる、

  そうしなければならなくなった、と、

  決意の程を聞かされて、麻倉は何も言えなくなった。

  恋愛に騙し騙されたはないと、人は言う。

  だが、麻倉は傍観者の立場に立っている。

  彼にとっては、敵か、味方か、そのふたつがあるだけだ。

  一歩でも敵の陣地にいるものは、敵とみなす。

  ややこしいのはごめんだから、揉事はシンプルにしなくちゃいかん。

  やるかやらないか、我慢できるかできないか、

  それだけでいい。

  麻倉は、動いた。

  山根が、この失踪の中心にいることは分っている。

  だが、動機が解明できなかった。

  山根にも家族がある。

  俊男から女を奪ったとしても、女を家族以上に愛せはしないのだ。

  山根にとっては、適度の距離を保っていた、

  それまでの関係が、都合いい。

  逢いたいとメールに書けば、女は会いにくる。

  抱きたいと書いただけで、女は抱かれにくる。

  それで、良かったはずだ。

  だから6年も続けられたはずなのだ。

  女の気持ちなんて、分りたくはない。

  どろどろした情念なんぞごめんだ。

  山根の意図はどこにあったのだ?

  どういうつもりで女に接近したのか、

  あるいは、どうして女が山根を選らばなければならなくさせることができたのか、

  麻倉は、それを確かめたかった。


 9章


  北陸鉄道石川線どうほうじ駅と県道157号線に挟まれた

  安養寺に不当たりを出して閉鎖された小さな町工場があった。

  債権者たちによって、機械は運び去られ、

  残されたものは、

  塵埃(じんあい)と、錆びた螺子(ネジ)、

  年代物の薄いモルタル床の亀裂の錆色と、埃だらけのスレート壁だけだった。

  人のいない建造物は、老いる。

  まるで、吸収する人間がいないために、

  自由自在に立ちこめる澱んだ気が、

  異臭とともに内部を侵食していくかのようだ。

  スレートの留め金具の隙間から、

  陽光が差しこみ、モノクロの埃を映しだす。

  気がつくと、後ろ手に縛られていることを知った。

  麻倉は、ここに運び込まれた記憶がなかった。

  身動きしようにも、

  ご丁寧に、両足まで縛っている。

  誰もいない。

  少なくとも、一晩はここにいたのだろう。

  後頭部に激痛が走った。

  女がどうしてあんなことをしたのか、

  それほどまでに山根を庇いたいのは、

  失踪された理由に基づくのだろうか。

  考える時間はたっぷりありそうだ。

  意識に霞がかかり遠のくさなかに、

  麻倉は女の顔を見た。

  俊男もこの顔を見ただろう。

  裏切る顔は、醜い。

  愛するものの裏切る顔は、まして、醜悪だ。

  俊男はその顔に絶望しただろう。

  女の目尻の隈が、その顔を決定づけた。

  悪女とは思わない。

  これがもしかしたら女と言う種族の「素」なのだ。

  俊男は知り合った頃から女にもてた。

  少しだけワルで、たまらないほど優しい接し方に、

  容貌が加味されて、女達は夢中になった。

  その俊男をしても、女を御しきれなかったのだ。

  山根がそれほどいいのか、

  6年と言う歳月は、それほどの価値をもつのか、

  女にも答えられないだろう。

  車が停車する音がして、エンジン音がやんだ。

  がちゃがちゃと、鍵だろうか、施錠を解く音が響いた。

  音にも、埃たちは、反応する。

  こころなしか、咳を誘発された。

  開け放たれた通用口に、人が立っていた。

  逆行でシルエットから女だと認められる。

  影が近づいてきた。

  どうして麻倉さんが来るの?

  来ちゃいけなかったのよ。

  あなたまで犠牲にしたくなかった。

  女が抑揚のない声でしゃべった。

  俊男をどうした?

  知らない方がいいわ。

  生きているんだろうな?

  それも知らない方がいいわ。

  君も共犯なのか?

  変な訊き方ね、共犯?まるであたしたち犯罪者みたいじゃん。

  じゃ、俊男は生きているんだな?

  あなたにも同じところへ行ってもらうわ。

  どこだ?

  そんなに知りたい?

  ああ、教えてくれ。

  女は白衣を着ていた。

  ナース服だ。

  右のポケットから注射器をとり出した。

  麻倉さんは、なにもない世界って好き?

  なんのことだ?

  いまから案内してあげるわね。


  

  



 
2006 10/13 00:08:33 | none | Comment(0)
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百鬼丸



 眠った。
 ただ、眠り込んだ。
 夢は見たのだろうが、
 覚えちゃいない。
 久しいポンタールは、
 催眠効果も半端じゃない。

 遠い日、
 ドラッグにはまったことがある。
 きっかけは、
 ボンドからだった。
 中学三年の卒業を前にした、
 うらびれる黄昏どきだった。
 シンナー狂いで、
 歯までとけた友人が、
 叔父の命令で勉強部屋という名目の、
 六畳一間の安アパートに、
 従兄とふたり押し込められて間もない頃だった、
 紙袋を提げて遊びに来た。
 精気のない微笑みを浮かべながら友人は三〇枚入りの
 透明ビニール袋とチューブ入りの速乾ボンドを机に置いた。

 指に唾つけて、ビニール袋を三枚とりだし、
 友人は、シンナー臭い息を中に吹き込んでふくらませると、
 ねりねり、ボンドをなかに捻り出す。
 黄柿色の塊が異臭をふりまきながら袋の底にとぐろを巻く。
 右手で底を大事そうに持ち、
 左手で異臭を逃さぬように口をにぎる。
 吸う、
 胸いっぱいに、異臭を吸い込んで見せる、
 こうやるんや、と。

 大きな黒く古い柱時計が壁にかかっていた。
 秒をきざむ音さえも、
 確かめられるほどのうるささだった。
 私と従兄は教えられるままに、
 友人と同じように、
 異臭を体内に入れた。
 何も変わらない。
 既に友人の目はすわり、
 死んだ魚のようなまどろみに操られている。
 だが、
 なにも変化がおきなかった。

 あれ?と友人の横にひとりの女がいることに
 初めて気付いた。
 胸ぺちゃで、
 太ったチビの醜女だった。
 自意識を破壊された従兄がしゃにむに襲いかかる。
 薄い胸をわしづかみ、
 気持ちの悪いくちびるに唇を重ねて、吸う。
 友人がおんなの背にまわり、うなじにキスをした。
 従兄の片手は女の短いスカートの中をまさぐり、
 友人の片手は窮屈そうに女の尻をなでている。

 ニシダか?
 驚いた、女は私の同級生だった。
 こうちゃん元気やった?
 おかまのような低い声だが、
 そんなことされてて、
 どうしてそこまで普通なんだ?

 衣服を脱がされながら、
 女は、
 曼荼羅の中央にすわる
 大日如来のように、
 宇宙の心理を私たちに魅せた。

 時計を見る。
 そんなはずはないのに、
 そこまでわずか数秒しか経っていなかった。
 時計と裸の女、
 交互に見比べる。
 壁が時のうねりを波うち、
 女が時のうつりを遅らせた。

 中二のときに吸った大麻ほどではなかったが、
 こいつはかなり効く。
 自覚しはじめた頃に、
 私は意識を忘我の果てにとばせていた。

 高一の初めに受けた能力測定、
 担任が驚いていた。
 なにがあった?
 私の知能指数は、
 あの日からの数週間で、
 50も落ちていた。

 私のそれからの三十五年は、
 去勢された記憶のかけらを、
 拾い集める日々だったような気がしている。
 そう、
 未だに私は15の私に戻れていないのだろう。
 
 
2006 09/15 00:41:03 | none | Comment(0)
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  交渉事に必携なのはたたみかける事だと私は思います。相手に、判断の暇を与えない。このことは、諸事全般に通じます。たとえば、プロポーズ。男性諸君は、許婚の後に、時を与えてしまってはいないだろうか?与えた時が、彼女の心をどう左右するか、一喜一憂し、永劫の焦燥に身を焼きながら、あらぬ妄想に、挫けそうになってはいまいか?

  決断を、熟考させてはなりません。大切な事であればあるほど、熟考させてはなりません。一瞬の判断と、時間をたっぷりかけて導き出した決断と、実は、ほとんど変わらないものです。多少の誤差はあるかもしれませんが、そんなものは、時計が0.001秒遅れる程度の小事に過ぎません。

  プロポーズされたとき、考えさせてくれと、三人に頼んだ私に断言できる資格があるのかどうか疑わしいのですが、そこは、大目にみてもらって、話を続けます。

  女性の長考はほとんどの場合、好結果に結びつきません。何故なら、女性自身がその決断に絶対の自信をよせっこないからです。女性は、いつも、理性と現実を懐に忍ばせています。いつでもその切り札を出せる状況でないと、安心して、夢にひたれないのです。男のように、三歳児でもヒキそうな感情任せの行動は性的にも出来なくなっているのです。

  そこを、つく、のです。

  安心なさって下さい。女性は確かに好悪の区別が激しいですが、「悪」の認識さえされていなければ、案外、何にも考えていませんし、警戒もしていません。つまり、嫌われていない限り、この方法は必ず通用する筈です。

  16歳の春の夜でした。私は友人と二人、彼の家の近所の電話ボックスから、彼の調べた女生徒の電話番号をダイヤルしました。顔ぐらいは、同級生ですから、まさか知らないことはない、という程度の関係でした。話した事はなく、視線を合わせたこともありません。
  友人は、この告白の失敗を99%確信していたでしょう。上手くいくわけがないのです。私は留年している不良です。姿形も、不良だったでしょう。好印象を与えているとはとても思えません。対する女生徒は、世俗の垢とは全く無縁で育ったような、謂わば、深窓の令嬢、でした。男女交際なんて破廉恥なことは、耳にするだに穢れた心地がするでしょう。

  「どう言うつもりや」

  友人は作戦を尋ねます。いいえ、作戦なんてありません。出たとこ勝負、感性のままに、当たって砕けてみようと私は、決意らしい決意としてそんな曖昧なものしかもっていませんでした。

  家人が出て、同級生である由を前置き、彼女を呼び出してもらいました。若い声でしたから、姉か母親だったのでしょう、私は幸運でした。父親だったら、用件を根掘り葉掘り聞き出されていたでしょう。彼女の足音が響き、

  「はい、博子です」こういう声だったのか、この無謀な男は、この時初めて彼女の声を聴いたのです。

  「Sやけど、今晩は」

  「今晩は。何?急にびっくりしたやん」

  どっちの胸が高鳴っていたか、それは、神のみぞ知る領域でしょう。たかが人間の私は、覚悟を決めなければなりません。今ならば、まだ、引き返せる。

  「お願いがあるんやけど、聞いてくれるかな?」

  「お願い?何?聞いてみないと、分からない」そりゃ、そうだろう。彼女も、私の声を初めて聴いているのだろうから。

  「俺と付き合ってくれへんかな?」

  「え?」

  「真剣やから、笑わんといてな。冗談やないから」

  「分かってる…」これが、彼女の弱みになりました。

  「俺と付き合ってくれへんか?」

  「S君、わたしのこと好きなの?」大胆な事を訊いてくる娘だ。普通は交際申し込む相手に確認する事ではあるまい。

  「判らへん。嫌いではないと思う」

  「何それ、好きかどうかわかるらへんのに、付き合って欲しいの?変やん、そんなの」

  「いいや、全然、変な事ないぞ。付き合って欲しい、と思っているのは本心や。そやから、返答してくれへんか?」

  「え、分かった…」

  この瞬間です。この瞬間を逃してはなりません。たたみかける好機は、この瞬間をおいて他にはありません。

  「考える、っていうのは無しやで。今、すぐに、返事してくれ。今判断したって、数日判断したって、答え、なんて変わらへんもんや。今、すぐ、判断して欲しい。断っても、安心して、気まずいことにはなれへんから。君の事、これまで通り、いいや、今夜を境に、ちゃんと、級友として扱うから、保証する。断ったあとのことは、本当に、心配いらへんからな。さぁ、どうする?付き合うか、付き合わへんか」

  少しの沈黙。真面目な彼女のことだ、真剣に考えているのだろう。この思考も、破らなければならない。

  「正直に言うわな。君の事が好きかどうか、判らへんって言うたやろ。他に気になる娘もいっぱいいてる。君でなければ駄目だ、って自信もない。他の娘と付き合ったほうが仕合わせになるかもしれへん。君を好きになれるかどうかも自信がない。好きになれへんかもしれへんし、無茶苦茶、好きになるかもしれへん。そんな先の事は判れへんやろ?ただ、俺は、君に付きあって欲しいと頼んでる。何としても付き合って欲しいと思ってる。断られたら恥ずかしいからと違うで。決めたからや。今、このとき、君に決めたからや。もう一度言うけど、君を好きになれるかどうかは判らへん。でも、決めたんや。そやから、今はもう迷わへん。さぁ、どっちや?返事は」

  「付き合う」

  友人の信じられない顔が、傍らにありました。信じられないのは、私も同じでした。まさか、上手くゆくなんて、想像もしていませんでしたから、そのあとの言葉が見つからなくなっていました。無難に「ありがとう」でいいのか、「本当に、いいのか?」などと、不審がる心のままに訊き直すわけにもいかないでしょう。

    薮をつついて出てきたのは……。

  その後、私達は交際を始めました。クラスの誰もが訝る関係だったでしょう。富士に月見草は似合うのかもしれませんが、私にIはどう贔屓目に見ても、似合いません。不純と純、垢と無垢、聖水と汚水、彼女が堕ちてゆくと誰もが、声に出さないまでも、噂していたでしょう。

  恋人同士は、お互いに似てくる、ってよく言いますよね。私は言われた事がありません。

  私は、煙草は吸うし酒は飲む、エスケープはするしズル休みもする、エロ雑誌は定期購読しているし麻雀だってする。朝方まで夜更かしするのはしょっちゅうだし、予習復習、ついでに宿題なんてしたことがありません。

  私は、少しずつ、少しずつ、変化させられていたことを、知らされます。

  彼女は、vampでした。別名bloodsucker。血を搾取する者。そう、バンパイヤ。ただし、彼女が搾取するのは、血ではなく、毒でした。

  妖婦の条件は色々あるでしょう。ですが、その正反対の清純無垢な魂にも、vampは存在します。つまり、清冽という、魔の伝染病です。毒をもって毒を制す、その毒は、なにも劇薬であるとは限りません。

  疑うことを知らず、盲目的に信頼を寄せる相手を、それでも騙し続けられる男なんて、いるのでしょうか。彼女は、私の漏らしたたった一言に希望を見出していました。君を好きになるかも知れない。これはあながち嘘とは言えないけれども、可能性の問題を語ったまでで、確率の程は低いことを彼女も承知していたでしょう。

  彼女は私達に慣れるのではなく、私達を彼女に馴れさせようとしていました。言葉でも行動でもなく、私達の情操に訴えかけるように。自分を自分のままに保つ事がまるでどうでもいいかのように無償の心で。

  長くなりそうなので、本日はこの辺にしておきます。さてさて、私は何が書きたいのだか。

  最初の妻に待ってもらった時間は1時間、2番目の妻は、1週間、現在の妻は、半年待ってもらいました。結局、1時間も半年も、答えは同じだったわけです。私の夢は、一瞬で夢へいざなうような、プロポーズだったのですが、どうやら、一生、使えないようです。
2006 07/29 10:31:49 | none | Comment(0)
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   一番大切なひとは誰ですか?

   この質問に、素直に答えられる人がいるのだろうか。

  私は、きっと、迷う。そして誰かを選ぶだろう。だけど、それは、嘘だ、と思う。何故ならば、ひとりにきめられる筋合いのものではないからだ。

  そんなタイトルをもってきたこのドラマ、結構、奥が深い。

  誘拐、監禁されたコナミちゃん。

  救いを求めたのは、自分を捨てた、大嫌いな父親でした。

  発見した父親の洩らした言葉、「だめだ、コナミ、俺、こいつ殺すわ」そして、「お父さんのことはもう忘れろ」

  駄目な男だけど、最低の父親だけれど、救いようのない父親だけど、吐き出す言葉は、きらめいている。

  「父親だからって、いつも優しいと思うなよ」

  三宅裕司の劇団出身だとは、信じられない、透明な存在感をもった役者だ。台詞に臭みがなく、演技に粘着感がない。

  あげくの果てに、娘に告げる。

  「逃げよう、二人でどこかに逃げよう」

   男は、娘の望むままに、八丈島へ。

  娘は、ブスッとして、まともに口をきいてくれないし、父娘の会話は、まんま、漫才だ。

  そう、逃げようとして、逃げられることなんて出来はしない。

  どこにも、逃げる場所なんてないのだから。

  逃げるのは、捨てる事だ。捨てられないのだから、逃げられる筈がない。

  私には、蒸発者の気持ちが、よく分からない。その思いを浮かべる事は誰にでもあるし、私にもある。

  満員電車に揉みくちゃになりながら、眺めた、反対方向へ擦れ違うガラガラの電車。あれに乗れば、この日常から、飛び出せる。そう、次の駅で降りて、反対のホームに移ってしまうだけで、劇的な変化がおきるかもしれない。

  しかし、そこには、見えない敷居がある。それを越えるのは簡単なのだが、足が上がらない。上がらないから、つんのめる。つんのめると、倒れてしまう。倒れたら、痛いだろう。血だって出るかもしれない。血が出たら、情けない。情けないのならば、やめようか。やめたら、このままだ。このままが嫌だから、情けなくなりたいのか?いいや、そうじゃない。越えるには、それだけの、理由が必要なのだ。それは、絶望だとか、挫折だとかいった、暗いものじゃ駄目だ。

  明るい絶望が、この世にあるのだろうか。明るい挫折。明るい悲しさ。それがもしあるのならば、その時が、越える機会なのだ。

  明るい、とは、希望と置き換える事ができるだろう。希望ある絶望。希望に充ちた挫折。希望に抱きしめられた悲しみ。

  それは、どういう時なのだろうか。

  考えて、考えて、考えあぐねて、結局、分からない。

  分からないから、今日も、満員電車に揺られる。揉みくちゃになって、OLが胸に頬を寄せるのを我慢する。女子高生が、背中に顔を埋めても、貝になっていよう。服に化粧がついてしまう。背中に少女の髪の匂いが染みつく。毎晩、服を直す妻は、どう思うのだろう。夜までに消えるだろうか。

  10時間の我慢だ。10時間経てば、我が家で、可愛い子供たちが、とびっきりの笑顔で迎えてくれる。湯気の立ち上る温かいご飯が待っている。

  だけども、その湯気が、疎ましくなることだって、ある。それが、魔の忍び寄る瞬間だ。そうしたとき、私は、夢を見る。夢は、魔でも、冒せない。

  男は、そうして、交番の前を、いつも同じ時刻に通り過ぎる女子大生にある時、気づく。男の楽しみは、終業してからの居酒屋。

  その居酒屋でその女子大生はバイトしていた。話した事はないけれども、居酒屋で会釈して、交番前で会釈する。

  半年も続けば、どんな鈍感な男だって、気付く。これは、変だ、と。毎日、同じ時刻に、同じように通り過ぎて会釈する女子大生。そして、どんなに遅くなっても居酒屋にいた女子大生。

  これは、無言の告白だったのだ。あなたが好きです。声ではなく、視線でもなく、態度でもなく、ただ、偶然を意識的に積み重ねてゆく、という、告白だった。

  その女子大生が、再婚相手の牧瀬里穂だ。男は、自分の気持ちに向き合った。そうだった、俺は、この娘に、癒されていたんだ、と。

  一番大切な人は誰ですか?

  男には、答えられない。きっと、答えられない。でも、私なら、男の一番大切な人が誰か、分かる気がする。それは、傍観者の特権ではなく、同じ思いを抱いていた想い出が、その答えを明らかにしてくれるからだ。

  張りつめていたものが、少しずつ、少しずつ、剥がれ落ちてゆく。それらは、ささやかな緊張と、深い思い遣りと、溜息が出そうなくらいに際立った誠意によって、不安定なバランスをようやくのことで保っていられたのだろう。

  娘と逃げた父親が戻った家には、宮沢りえ演じる元妻と妻が、いた。

  奇妙な晩餐が始まり、細い今にも裂けそうな絆が、複雑に縺れあい、解けなくなってゆく。

  娘は、大好きなお姉さん(妻)と大好きな母が笑顔を交す場面を素直に、そう、屈託なく、平穏を思えたのだろうか。

  笑顔を交すたびに、傷つけあう事だってあることを、少女は理解出来ない。見たまま、感情のままに、直感に左右されてしまう年代にありがちな、狭視野。

  見えるものだけが真実ではないことを、少女は知らない。

  母は、傷ついていた。数億もの絶望の刃に胸を切り刻まれて、立っている事さえ忘れていただろう。

  お姉さんも、傷ついていた。数億にはほんの少しだけ足りない絶望の斧を脳裏に振り下ろされて、過去と現在の区別が判別出来なくなっていただろう。

  しかし、父親はどうだったのだろうか。大好きな娘とふたり、娘の望んだ佐渡へ旅し、娘との10年あまりの溝が埋まったことを、素直に悦んでいられたのだろうか。

  溝は埋まるものなのだろうか。裂け目が、どうしたって、元に戻せない傷跡を残すように、溝だって、埋まったつもりで、醜く盛り上がった傷跡を残すものではないのかしら。

  直感ままの本能を受け止められるだけの寛さが、ある筈がないのだから。

  仕合わせな結末が、本当に、仕合わせな結末だったのか、それは、これからの展開に依るだろう。

  いいドラマでした。胸が詰まってしまう。
2006 07/25 10:22:56 | none | Comment(0)
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