通説にとらわれない新しい歴史解釈
 今日から見ると夢のような話であるが太平洋戦争の開戦時には日本の海軍力は米国を上回っていた。
長期戦になったら巨大な米国の生産力に太刀打ちできない日本が必敗することは事前の研究で明らかであったので、短期決戦早期講和しか日本には選択支がなかった。
そのために真珠湾を奇襲した時に打ち漏らした残存する米国の空母を誘き出してこれを葬ることによって一気に勝敗を決しようとしたのが昭和17年(1942年)6月5日から6月7日にかけて行われたミッドウェー作戦であった。
 この海戦において帝国海軍は4隻の空母と多くのベテランパイロットを失い、その後の大日本帝国の運命を決定づける致命的な惨敗を喫したのは戦史の語るところである。
ハワイの手前にあるミッドウェー島基地に対する第二次攻撃のために飛び立とうとするまさにその時に突然上空から40機を越えるドーントレス急降下爆撃機が日本側の3隻の空母に襲いかかった。この奇襲で加賀には4発の命中弾、赤城には2発、蒼龍には3発が命中した。そしてこの9発という数字は実に5月に戦艦大和において行われた図上演習で日本側の空母群が受けた命中弾の数と一致していた。
ミッドウェー基地を攻撃中に敵機動部隊の攻撃を受けた日本側の空母群は9発の命中弾を受けるという図上演習の結果どおりになったわけである。
 敗因については索敵の失敗や運が悪かったというのが日本側の一般的な結論であるし、米側も「ミッドウェーの奇跡」というような言い方をする向きもあるが、これをそのまま受け取るべきではなく戦闘記録を注意深く読めば米側が勝利したのは奇跡でも幸運のためでもなく当然の帰結であったことは明らかである。
最初に立てた作戦がパーフェクトに遂行されたまでの話である。
「フレッチャーとスプルーアンスが最も望んだのは、南雲機動部隊の飛行機が母艦の飛行甲板に並んでいるときに先制攻撃をかけることであった。航空出身の指揮官であっても、このような瞬間的タイミングを決めるのは、至難のことであったであろう。一九四二年出されたレポートで、ニミッツは次のように述べている。『わが空母部隊にとってこれ以上ない微妙なタイミングを必要とするきわめて困難な状況であった』」。(ミッドウェーの奇跡 上巻 ゴードン・W・プランゲ著 千早正隆訳 原書房)

 牧師のような風貌のスプルーアンスと田夫然とした山本五十六とでは見た目も全然違うが頭脳の方も月とすっぽんであった。「敵機動部隊の動静を確認したなら、まずミッドウェー島にある陸上攻撃機を発進させて向かわせる。その攻撃によって敵の注意をあくまでミッドウェー島にひきつけておいて、その間にひそかに近づいて艦載機を飛ばし、敵のミッドウェー島空襲部隊が母艦に帰った直後を叩く」という戦略をスプルーアンスは立てていた。
 参謀長のブラウニングは「ミッドウェー基地の友軍機が、その数とパイロットの技術の面からみて、敵空母部隊と四つに組んではとうてい勝ち目がないことをしっていた。かれはそれを十分に計算に入れたうえで、敵が味方機を撃破した直後の心の隙を衝こうとくわだてたのである。(時間がたてば、敵はふたたび緊張をとりもどすだろう。この機をのがしては、永遠に勝利はつかめまい)」
「私はあの時味方の被害を冷酷に計算していたのである。私は人非人になっていた」(ミッドウェー戦記  亀井宏著 光人社)
 もし、日米がまた戦うと仮定した場合、日本人の国民性からいって、また同じ手をくうだろう。

 スプルーアンスは圧倒的に優勢な日本帝国海軍の機動部隊と戦って勝利を得るには先制攻撃を行うことーそれも日本の空母が甲板上に爆弾を装備した攻撃機を満載している時に攻撃を加えるーそうすればたった一発の爆弾でも致命的な損害を与えることができるーという作戦を立てた。これはスプルーアンスの参謀であったブローニングの発案をスプルーアンスが採用したようだ。
そして結果はこの作戦どおりになった。
米側は先に日本の機動部隊を発見してから常時接触を保ち、8次にわたり攻撃をしかけてきたが日本側はこれらを全滅に近い損害を与えてことごとく撃退した。重い魚雷をぶら下げ、護衛の戦闘機を伴わない米側の雷撃機は次々とゼロ戦の餌食になり打ち落とされて行った。
日本側が「やれやれアメリカのパイロットも勇敢だが技量はたいしたことないわ」とホッと一息ついた時、突然上空から太陽を背にして40機を越える爆撃機が日本の空母に殺到した。
スプルーアンスとブラウニングがあらかじめ立てた作戦はパーフェクトに遂行された。すなわち、日本側を徹底的に油断させるーその為に勇敢だが腕の未熟な雷撃機のパイロットを犠牲にして成算の無い攻撃を繰り返させる。空母の上空を警戒しているゼロ戦を低空に引き寄せ上空をガラ空きにする。そしてゼロ戦のパイロット達が疲労して注意力が低下し銃弾を撃ち尽くした時を狙って一気に上空から攻撃をしかけるーという筋書きだったのだろう。日本側は米側の典型的な陽動作戦に見事にひっかかったのである。
 この日本側を油断させるために犠牲になったパイロット達はおそらく陽動作戦の囮であり捨石であるという自分達の本当の役割に気付いていたことだろう。当時世界最強の戦闘機であったゼロ戦の待ち構えているところに護衛の戦闘機無しで攻撃することがいかに無謀で自殺的行為であるかは子供でもわかる。でも彼等は立派に責任を果たした。敵ながら天晴れというべきであろう。零戦の名パイロット坂井三郎もその著書「零戦の最期」講談社刊の中で「一機の戦闘機の護衛も受けず、重い魚雷を抱いた鈍足の雷撃態が撃墜されることは覚悟の上で日本の空母めがけて殺到し、その大半が零戦隊に叩き落され戦死していったが、彼らは自らが犠牲となって零戦隊を低空に引き付け、SBD(ダグラスSBDドーントレス)急降下爆撃隊の降爆を成功させたのだ。いわば、これはアメリカの特別攻撃隊であった」と語っている。

また坂井三郎が戦後米側から聞いた話ではこの時の米側の雷撃隊の搭乗員全員が「俺たちが犠牲になる」と宣言し、「俺たちが超低空を這ってゼロを全部引きつけるから上空が空っぽになったすきにあの空母四艦を屠ってくれ。ハワイの仇を今討つんだ」と覚悟のほどを述べたそうである。(歴史通 2009 Spring No.1「太平洋戦争は無駄ではなかった」)

 恐らく米側は最初に日本の機動部隊を発見してから常にその位置を見失わないようにして未熟なパイロットを捨石にして(飛行時間が三、四時間しかない者も含まれていたようである)、攻撃隊を横に広く散開させることによって必ず攻撃隊の一部が南雲機動部隊を発見できるようにして発見後は上空で密かに最も効果的な攻撃チャンスをうかがっていたのだろう。だから赤城、加賀、蒼龍の三隻に対する攻撃が僅か一分間ほどーほぼ同時に行われたのだろう。
 亀井宏著の「ミッドウェー戦記」(光人社)には「ちなみに、この時、アメリカ軍は、突撃の体勢に入る15分も前に上空にたどりつき機会をうかがっていたといわれている」という説が紹介されているが(P432)、おそらくこちらの方が真実であろう。次々と発艦しようとする日本側の空母の甲板上の攻撃機のエンジンの轟音は来襲する米側の急降下爆撃機のエンジン音をかき消したことだろう。まことに緻密に計算しつくされた攻撃であった。

 蒼龍の零戦パイロットだった藤田怡与蔵氏は次のように語っている「米軍が戦闘機をつけずに(もっと正確に書けば一刻を争って)攻撃隊をして索敵をかねさせ、いっきょに勝負にでたことが成功をおさめた原因と思います。空母同士の戦闘は、すこしでも彼に先んじて搭載機を発進させて艦を空にし、相手よりも先に飛行甲板をたたくことが原則だったのです」(ミッドウェー戦記 亀井宏 光人社)
2008 02/19 21:54:22 | none | Comment(0)
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