通説にとらわれない新しい歴史解釈
同士の中から密告者が出た為に予定を繰り上げて決起した約三百人の大塩一党は「救民」や「天照大神」の幟を掲げて処々に放火しながら東町奉行所を目指し、船場では豪商宅を焼き討ちしたが奉行所側の鉄砲隊の本格的な反撃を受けて半日で壊滅した。
大塩平八郎の野望は実現しなかったが、この事件が徳川幕府に与えた衝撃は大きく備後国三原で大塩門弟を名のる一味八百人が蜂起したのを始め「奉天命誅国賊」の幟を掲げて蜂起した越後の国学者生田万の乱など同様の事件を次々と引き起こし徳川幕府の土台を大きく揺り動かした。
大塩の乱から三十年後の慶応三年(1867年)、最後の征夷大将軍徳川慶喜の大政奉還により約七百年続いた武家政権は終焉し、大塩や庶民の希求した王政復古が実現した。以後「ええじゃないか」や「おかげまいり」のように熱狂した群衆の伊勢参りを見る事は絶えて無く、内裏雛のまなざしは限りなく穏やかである。
大塩平八郎が今日の日本を見たらどのような感慨をもらすであろうか。

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2008 02/04 21:37:34 | none | Comment(0)
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