通説にとらわれない新しい歴史解釈
 2・26事件は事前に予知されていた。憲兵曹長の小阪慶助は二月十九日の朝、栗原中尉一派が二十五日頃を期して重臣襲撃を決行するという三菱本館秘書課からの情報を受け、憲兵隊本部に報告している。(2・26事件 高橋正衛著 中公新書)
また事件当時、陸軍省軍務局課員であった片倉衷(ただし)少佐も「一週間ほど前にわかっていました」と証言している(未公開写真に見る 2.26事件 新人物往来社)
 ではなぜ、10月事件のクーデター未遂事件のときのように事前に首謀者を拘束したり、せめて実際に青年将校たちが重臣を襲撃する前に阻止しなかったのだろうか?
 中国や英米に対して融和的な方針だった皇道派は統制派にとって邪魔な存在であったから、皇道派の青年将校達は皇道派を一掃するために巧妙に利用された疑いがある。実際2・26事件の責任を問われて真崎甚三郎大将をはじめとする皇道派の主だった将官は陸軍の中枢からはずされてしまった。
 「露支英米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕(おとしい)らしむるは火を睹(み)るよりも明らかなり」(蹶起趣意書)
という危機的状況から何とか日本と日本国民を救おうとした青年将校たちの思惑とは逆の結果をもたらし、対中国強硬派の統制派の天下になってしまった。フランスのある新聞は「日本は国内改革に失敗したので、今後中国への侵略を強めていくであろう」と予言した。
前年に結婚したばかりの身重の妻を残して刑死した青年将校の一人田中勝中尉は子供の頃から慈悲心が強くその母親は息子が昭和維新運動に関わっていることを心配していたが田中中尉は母親に「今度戦争が始まったらね、一カ国や二カ国じゃあないよ。日本は負ける。それが悲しゅうて、苦しゅうて。戦にならぬようにしなければいけない」と言っていたそうである。これは「日米戦は必然的に第二次世界大戦へと発展する」という北一輝の予言と一致しており、青年将校達は日本の破滅を正確に見通していたというべきであろう。(参照文献:昭和聞キ語リ 毎日新聞西部本社編 葦書房)

 皇道派の荒木貞夫大将は日本軍がシンガポールを陥落させた直後の昭和十七年に「支那に大軍を残しながら、日本はアメリカと戦争をしている。また、四方八方に戦線を拡大しているが、そのタコの足を一本ずつ切断されて、日本はダメになるだろう。日本の前途は絶望的である」と語ったそうである。
真崎大将の場合も、『オレの目の黒いうちは、支那との戦いはさせない』と主張していた。真崎がいたのでは、陸軍内部の主戦派は支那事変を起こせない。そこで、軍務局長永田鉄山少将・辻政信少佐らが、二人の追い出しを画策した。永田や辻に代表される陸軍の統制派は、元老・西園寺公望やその秘書の原田熊雄に、『荒木と真崎が青年将校を煽動してこまっている』と吹き込んだ。西園寺は、戦争学にはうとい元老政治家だったが、権力だけは大きなものを持っていたから、真崎大将は二・二六事件との無実の関連をでっち上げられ、陸軍中枢から追われるのである。無益な支那大陸での戦争へ突き進む軍部への歯止めはこれで失われてしまった」(悪の戦争学 倉前盛通 太陽企画)

事件後青年将校達が首班に担ごうとした真崎甚三郎陸軍大将の実弟であった真崎勝次海軍少将も次のように陰謀の存在について言及している。

「この事件が単なる派閥や勢力争いでなくもっと深いところに原因していることだけは確かで、この事件の真相を知らずに現代の世相を知ることは困難だ」(罠にかかった真崎甚三郎)「一世を騒がせた二・二六事件についていえば、日支事変を起こさしめ世界戦争に誘導して日本に革命を起こすのに、一番邪魔になる人物を葬り去ることが、あの事件のソ連のネライであった。今日でもこのことを本当に研究しているものはまずない。真に思想を了解し世界の動向、ソ連の陰謀を洞察して、前途を警戒し国内における各種のクーデター事件に反対し、満州事変を拡大せぬように処置した人物がおっては、日本に革命を起こすことも出来ず、日支事変を起こすこともできない。そこで日支事変を起こすのに邪魔になる重要人物を葬るように仕組んだのが二・二六事件の筋書きである」(雪の首相官邸の秘密)

青年将校の一味であった山口一太郎大尉も陰謀の臭いを強く感じていたようだ。

「僕はどうも謀略がなかったらあれは起こっていなかったのじゃないかと思う。元をただせば根深いものがある。まず、あの事件前数ヵ月というものは、事件が起きるように起きるようにともってきている。士官学校事件で青年将校を悲憤させた、また、それまでずっと留め男の役をしていた柳川平助中将を突然、台湾に追いやった。次に青年将校に同情的な見方をしている持永浅治少将を朝鮮に送った。また、青年将校の精神的指導をしていた菅波三郎、大岸頼好、大蔵栄一等のような青年将校の行動を思い留ませる連中を皆遠くにやった、そして逆に香田清貞や栗原等のような事をやりそうな連中を満州から東京へ呼び寄せている」(汚濁の世に雪の日を語る座談会 日本週報 二九・一ニ、一五号)以上、「ニ・ニ六事件の謎」大谷敬二郎著 光人社NF文庫より抜粋)

2009 07/09 20:16:13 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
 皇道派は永田鉄山軍務局長をトップとする統制派が対ソ戦の準備という名目の下に対中国との戦争に日本をどんどん深入りさせて行くことに危惧と憤りを抱いていた。
 池田俊彦元少尉は次のように語っている。
「青年将校がなぜ永田を頂点とする統制派の思想や行動を問題にしたかといえば、永田らが官僚や財閥、あるいは宮廷グループと手を組んで国家総力戦体制にもっていこうとしたからですよ。その永田が手を組んでいた人たちこそ、農村の窮乏から目をそらし、陛下にも農村の現状をお伝えせず、根本的改革には無関心だったのです。いや、それ以上に農地改革を含む国家の改造が必要だという主張に反対する最大の勢力を作っていたのです」

「(皇道派の)小畑敏四郎少将が対ソ防衛を第一義とし、日支提携を主張したのに対し、永田少将はまず武力で支那を叩き、足元を固めたうえでソ連に備えるべきだと主張した」(赤塚金次郎元少尉)

「第一、この国は国民全部の国であることが必要であり、一部特権階級本位の国であってはならないこと。
第二、国民の生命を要求する軍である以上この軍は、真に止むを得ない場合にのみ防衛戦争に投入せられることが必要であり、尽くすべき他の手段を尽くさず、悪く言えば、高級将校が勲章を貰うための戦争など絶対に行ってはならないこと。
第三、義務として若人を入営せしめた以上、その入営により、その兵の家庭が窮迫するようなことのないこと」山口一太郎大尉(当時昭和天皇の侍従武官であった本庄繁の女婿 で終身禁固)
「未公開写真に見る2・26事件」新人物往来社刊より

「われわれは今日、兵を教育しておるけれども、今のままでは、安心して、国防の第一線に対して身を捨てるわけにはいかない。捨てるような気持ちにならないし、また部下に対して国防のために死ねと申すこともできない。
 私は夜、週番士官として兵隊の寝室を回ることがあるが、そのときなど、よく寝台で泣いておる兵隊がいる。事情を聞くと、自分は壮丁として兵隊に出たために、家では食べる米もなくて困っておる。自分の妹まで今度は吉原の女郎に売られるそうである、というふうなこういう状態で、兵に対して前線に行って戦えとはいえないし、自分も全く同感である」栗原安秀中尉(刑死)ー「語りつぐ昭和史2 朝日新聞社」

 「全体にやはり農民の窮状や大資本と一般国民の遊離、あるいは政党が政争ばかり繰り返してなんら庶民の窮状を救おうとしないという現実があったわけで、それに対する青年将校の強い不平不満があったことは事実でした。私もこういう状況は何とか早く解決しなければ大変なことになるという気持ちを強く抱いたものです」片倉衷元少将(事件当時は統制派の少佐)
−「未公開写真に見る2・26事件」新人物往来社刊より

 皇道派の満井佐吉中佐は永田が当時の東京ガス重役の大田亥十二の手を通じて三井財閥の池田成彬から別荘を贈られたことを取り上げ、「永田閣下は陸軍部内における一偉才たりしことは、確かに間違いのない事実ですけれども、その終局においては財閥の頤使(いし)に甘んじて、日本を統制経済に置き換え、しらずしらずの間に、財閥の注文通りに動かされて、皇軍を全く私兵化せしむるにいたったのであろうということは、今日世間一般に信じられておるところであります」と批判した。(「軍閥」元東部憲兵司令官大谷敬二郎著 図書出版より)

二・二六事件には直接参加はしなかったが、蹶起した青年将校たちの指導者的立場にあった管波三郎大尉は戦後青年将校たちが蹶起した理由について次のように述べた。「理由の第一は、第一師団の満州移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた 北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼等は勇敢且つ有能な第一線の指揮官なのだ。大部分は戦死してしまうだろう。だから満州移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時機ではない。国政を改革し、国民の生活安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」
「第一師団が満州へ移駐した後に、必ず陸軍は中国と事を起こすことは、既に同志将校らはわかっていた。北支那への侵略の張本人は永田鉄山少将であることは、我々は誰も知っていた。だから永田局長が満州に来た時、磯部浅一が後を追ってきて暗殺しようとしたのだ」(二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房)



 「現在ノ我国ノ状態ハ軍人モ一般社会モ直情径行名利ニ恬淡ナ所謂国士的人物ハ敬遠セラレ権力者ニ媚ビ諂ウ利欲栄達ノ為ニハ恥オ恥トシナイ卑劣ナ幇間的人物カ重用セラルト云フカ如キ腐敗堕落シタ社会デアリ・・・」安田優少尉(刑死)

「叛乱時に路上で群集に演説したある叛乱将校は、陸軍の不満分子の基調をつぎのように述べた。『われわれはなぜ、三井、川崎、森村などの資本家の利益を守るために満州で戦わねばならないのか』と彼は問題を提起した。『満州ははじめは万事うまくいっていたのだが、今日では満州は、自分自身の利益のために食い物にしている、資本家の狩猟場になっている』『我々は陛下に忠節を捧げ、臣民と陛下との間に立ちふさがっている奸悪な政治家の排除を目的としている』と付け加えた」 「太平洋戦争にいたる道」 W.フライシャー著 刀水書房
 今日でも米国のイラク侵攻が石油利権目当てだったと批判されることがあるが、当時の青年将校達も不純な利益のために下級兵士の生命を犠牲にする形で戦争を利用する大企業と一部の軍人の黒い関係を疑いこれに強い怒りを抱いていたようだ。

 終戦直後の昭和二十年十二月七日に議員の前川正一は次のような発言している。
「小作料は、西欧とくらべてどうであったか。<日本の小作料が現物地代としまして、生産高の四割七分を占めております時に、イングランドではわずかに一割一分、スコットランドにおきましては一割八分、フランスにおいてさえも二割八分の小作料しか取っておらないのであります。如何に封建的土地所有関係というものが、高率なる小作料を要求しているか」(日米戦争はなぜ勃発したか 高橋英之 社会評論社)

 こういう議論はもっと早く二・二六事件や五・一五事件の起きる前にするべきであろう。これでは青年将校たちが政治家は本気で農民を救おうとする気がないと思ってもしょうがないだろう。

 
2009 07/03 20:12:01 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
 政党や財閥に対する強い反感は青年将校達だけのものではなくインテリも含めて当時の国民に共通していたものだった。
池田俊彦元少尉は事件の中心人物で後に処刑された栗原安秀中尉の次のような発言を回想している。
「今の議会は民衆搾取のための手段と化している。そこからは新しい力は生まれない。第一、土地改革などは、地主達の多い支配階級が承認するはずはないし、真の根本的改革はできない。我々は力を以ってこれを倒さなければならない。いかにも多数決で事を決し、国民の意思の上に国民の心を体して行っている政治のようであっても、それは結局権力者の徹底的利己主義となってしまっている。起爆剤としての少数派による変革の先取りこそ、新しい歴史を創造することができるのだ。このことは対話では成し遂げることはできない。強力な武力的変革によってのみなし得られるのだ。我々はその尖兵である」(「生きている2・26事件」より)
まことに青年将校の行動原理がよく理解できる意見である。
しかし、客観的に観ると、当時の農村の惨状を政党政治の無能と無責任だけに起因させることはできないだろう。何しろアメリカのウォール街での株価大暴落を発端とする世界大恐慌という以前には存在しなかった予想不可能の未曾有の嵐に日本も襲われたわけであり、また当時の農村の家庭は子供の数が6人とか7人というのが珍しくもなく、今日と比べてはるかに多いという点で大家族であったことも貧困化に拍車をかけることになったのではないだろうか。

「1929年(昭和4年)十月二十四日朝、ニューヨークのウォール街は株が大暴落してパニックにつつまれた。
世に言う『暗黒の木曜日』である。街には失業者があふれ、残飯を求めてホームレスが長蛇の列を作るようになっていた。このアメリカの恐慌はヨーロッパに広がり、またたくまに日本を直撃した。輸出品価格は下落し、在庫が山をなした。
当時、日本の主力輸出品は生糸で、総輸出品の4割を占めており、その9割以上がアメリカに輸出されていたから打撃は深刻だった・・・生糸価格の暴落は他の農産物価格の下落を呼び、農家の生計は崩壊していった。当時は農家の4割が養蚕を副業としていた。ところが輸出生糸の暴落で、繭の販売価格は60パーセントも下落してしまった・・・悲嘆にくれる農民達に追い打ちがかけられた。昭和5年10月2日、浜口内閣の町田忠治農相は本年度産米の収穫予想を発表した。過去5ヵ年平均の12.5パーセント増の豊作だという。この豊作予想は米価を大暴落させた。発表直後の2日から3日にかけて全国各地の米穀取引所は立会い不能に陥り、米価は約4割も下落してしまった」

(図説2.26事件 河出書房新社 太平洋戦争研究会編
平塚柾緒著 より)

「生糸の暴落は養蚕農家を打ちのめしたが、1930年の大豊作、1931年の大凶作による農産物価格下落、収入減少はさらに零細経営の自作・小作農家に破滅的な打撃を与えた。東北地方では特にそれが激しく、飢餓水準の窮乏に追い落とされたのである。当時のわが国の小作地は全耕地の46パーセントに及び、小作戸数は全農家の27パーセント、自小作農は42パーセント、計69パーセントを占めている。また全地主戸数の75パーセントはわずか一町未満の小地主にすぎない。そして、農林業の就業人口は1929年で1392万8000人で全就業人口の47パーセントを占めていたのである。したがって、かかる農家の窮乏はいちじるしく国内市場を縮小し、それが都市・工業の恐慌をさらに激しくさせる・・・」(「昭和恐慌」長幸男著 岩波新書)


左の欄のアーカイブの日付をクリックすることによってすべて正常に御覧いただけます。
2009 07/01 21:22:42 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
 太平洋戦争勃発に先立つこと5年前の昭和11年2月26日早暁、目睫(もくしょう)に迫った日本の破滅を座視するに忍びず焦慮した安藤輝三大尉と野中四郎大尉を中心とする青年将校の一団は千四百名余りの兵を動員し、日本を救うべく当時の内閣総理大臣岡田啓介を始めとする重臣達を襲撃して一挙に昭和維新を実現して外交と内政を改革しようとした。
 この襲撃により岡田首相の義弟であった松尾伝蔵秘書官が首相の身代わりとなって殺害され、大蔵大臣の高橋是清、教育総監の渡辺錠太郎大将、内大臣の斎藤実と警護の警官五人が惨殺された。彼らは昭和維新という困難な大改革を実現するには自分達があまりに微力であることを良く認識していたからこそ、内閣の重臣達を皆殺しにするという極端な方法ー言い換えれば恐怖の威力を利用して絶対多数を占める反対勢力(現状追認派)を押さえ込み一気に国家の改造を実現しようとしたのではないだろうか。
そして青年将校達は隆車に斧を振り上げ打ちかかった蟷螂(とうろう)のごとく踏み潰された。

 老臣達を惨殺された昭和天皇の怒りは激しく、青年将校達の言い分には耳を貸さず「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き兇暴の将校等其の精神に於いても何の恕すべきものありや」「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕の首を締むるに等しき行為」と最初から青年将校達を叛徒と断定し、自ら近衛師団を率いて鎮圧されようとしたため、彼等の運命はここに極まった。全面的な敗北である。軍事裁判の結果は北一輝等の事件に関係した民間人を含めて死刑十九人、無期七人という青年将校側の惨敗であった。

 では、処刑された青年将校達や殺害された重臣たちの死は犬死であったのだろうか?私は否と答えたい。その理由は莫大な犠牲を払った敗戦の結果という実に不幸な形ではあったが、2・26事件は日本の戦後の民主化改革の原動力になった可能性が高いからである。終戦後最初の内閣であった東久邇宮内閣では二・二六事件には直接関係していなかったが皇道派の将軍として予備役に回された小畑敏四郎中将が国務大臣として入閣していたが、小畑は青年将校の重鎮であった大岸頼好大尉をブレーンの一人に加え度々その意見を聞くことがあったそうである。
戦後、GHQでは2・26事件を日本の民主化運動と評価したそうである。実際、すでに指摘されていることであるが、戦後GHQによって行われた日本の民主化政策は青年将校達が聖典とした北一輝著の「日本改造法案大綱」の内容と酷似しているのである。
 具体的には農地解放の実行、華族制度、貴族院、枢密院の廃止、天皇家の財産の国有化、財閥解体、私有財産の制限、五歳から十五歳までの無償の義務教育等である。
しかし、農地解放一つとっても、あのような大改革は日本軍が武装解除されて解体された状況下で初めて可能であったろう。
 
 2・26事件が分かりにくい原因の一つは決起趣意書が難解な言葉を用いて書かれていることと具体的な政策が掲げられていないことと関係があるだろう。彼らがクーデター成功後の具体的な青写真を公にしなかったことは軍人の政治関与を禁止した軍人勅諭を彼らも公然と無視することができなかったこともあるだろうが(軍人の政治意見公表は陸軍刑法に違反し、禁固三年)、もっと明確な理由について首相官邸襲撃に参加して終身禁固の判決を受けた池田俊彦元少尉が貴重な証言を残している。
(「生きている2・26事件」池田俊彦著 文芸春秋社刊)
「我々の同志首脳は機会を捉えて、裁判の打ち合わせをひそひそと行っていた。それはこの法廷闘争で何を眼目とするかということであった。農民の救済、農地解放、財閥解体ということを強く主張すると、左翼革命のように受け取られるので、第一の眼目としては統帥権干犯の賊を討ったのだということでなければならないということであった。
そうでなければ陛下の軍隊を率いて起った根拠が無くなるのだ。
このことは裁判開始以前からひそかに連絡をとって打ち合わせしていたようである。当時の世相からして、社会主義的主張などは赤化思想として当局から厳しく糾弾されていたからである。決起の趣意書もこの配慮を以って書かれている。現在これを不満とする一部の社会学者や歴史家がいるが、それは歴史に隠された事実というものがあることが解らないからだ。歴史には何時の時代でも当時は言うことができなかった隠された事実があるということを忘れてはならないと思う」

この続きは2・26事件(2)以降は左側のアーカイブの欄の2009年7月をクリックしていただくとご覧いただけます。「新しい日記」が何らかの故障で表示されていません。
User定義カテゴリーのnoneを選択していただくとこのブログの最初の記事から最新の記事まで切れ目無くご覧いただけます。

2009 06/23 20:26:25 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
 吾妻鏡には多くの重要事項の記録が漏れていることは良く知られている。代表的なものは源頼朝の死に至る約3年間(建久七年一月)から頼朝が死の原因となったとも言われている落馬事件のあった建久九年12月までと翌年1月の頼朝の死の記録が抜けていることである。
 その原因については吾妻鏡を編纂した北条氏にとって都合の悪い部分は削除したのだろうとか、徳川家康が頼朝の名誉のために落馬事件の部分を抹消した吾妻鏡が後世に伝わったのだろうとか言われてきた。
 私も最初には存在した記録が途中で失われてしまったとしたら何とも残念なことだと思っていたが、現在では今日伝わっている吾妻鏡の欠落部分は最初から存在しなかったと確信している。その原因はおそらく火災による原資料の焼失であろう。当時はまだ耐火建築である土蔵が普及していなかったようで鎌倉は京都とともに度々大火の被害にあっている。
 例えば建久二年(1191年)三月四日には鎌倉に大火があり、幕府も罹災、鶴ヶ丘八幡宮はことごとく灰燼に帰し、重要人物の家屋数十軒が燃亡したとの記録がある。
 この時に本来ならば吾妻鏡編纂の資料となるべきものが大量に失われたことと推察できる。鎌倉滞在中の義経のエピソードがほとんどまったく伝わっていないのもこのような火災による記録の消失が原因ではないだろうか。
 他にも承元二年(1208年)正月十六日には門注所執事三善康信(母親の姉が頼朝の乳母)の家が燃亡し、「将軍家の御文籍、雑務文書、並びに散位倫兼日記以下累代の文書等を納め置き処、悉くもって灰燼と為す、善信これを聞き、愁嘆の余り落涙数行し心身網然と為す」
建仁元年三月十日「地震、若宮大路西側消失す」
承元元年(1207年)十月一日「夜、若宮大路の人家燃亡。猛火甚だしく延焼数町に及ぶ」
承元四年二月二十九日「和田義盛宅以南燃亡」
    十一月二十日「北条泰時邸および近隣の御家人宅等焼 失」
建保元年(1213年)五月「和田義盛挙兵、御所燃亡」
建保元年十二月一日「将軍家御所近辺燃亡、北条時房、大江広元等の邸燃亡」
建保二年十二月四日「由比の浜辺燃亡す、南風烈しきの間、若宮大路数町に及ぶ。その中間の人家皆もって罹災」
建保三年正月十一日「若宮の辻の人家燃亡す・・・酉戌両時の間、二十四余町ことごとく灰燼となる、安達景盛邸燃亡」
承久元年(1219年)一月七日「将軍家御所の近辺、広元邸以下四十余宇焼亡」
承久元年一月十五日「大倉の辺燃亡。北条時房の室の宿所以下数十宇焼く」
九月二十二日「大火、鎌倉中燃亡」
十二月二十四日「政子邸燃失」
承久二年(1220年)二月十六日「鎌倉大町以南燃亡」

失われた記録の中にはこの他にも火災の記録が存在したことだろう。
それにしてもこれらの火災により鎌倉幕府の貴重、かつ興味深い記録が永遠に失われて、我々が見ることができなくなってしまったことはやはり残念なことである。



 
2009 04/25 07:17:17 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
 生きていた時代や、武将と剣客という違いはあっても信長と武蔵は「天下一」と評された点では共通していると言えるだろう。
しかしながらその最期はまことに対象的であった。
武蔵は六十ニ歳という年齢で当時としては天寿をまっとうしたといえるが、信長は家臣の明智光秀の裏切りにより本能寺において紅蓮の炎に包まれて五十歳で無念の死を遂げた。

 両者の明暗を分けたものは運もあるかもしれないが、それ以上に決定的だったものは「警戒能力」ともいうべきものの違いであろう。今日伝わる宮本武蔵の伝記からは武蔵の人並みはずれた用心深さが看取できる。

 巌流島で当時、西国一と噂された佐々木小次郎を倒した時も、武蔵は小次郎の刃渡り三尺一寸の備前長光に対抗するべく舟の櫂を削って作った四尺六寸の木刀を使用した。真剣の柄に相当する部分を考慮にいれても武蔵の木刀の方が五寸(約15センチ)ばかり長かったであろう。

 小次郎は武蔵が間違いなく自分の備前長光より長さにおいて勝るであろう木刀を肩に担いで現れたのを見た瞬間、自分の敗北を悟ったに違いない。
長刀を抜き放った小次郎が無意識のうちに放り捨てた鞘は波間に漂い小次郎から遠ざかって行った。
武蔵は小次郎の心中を見透かしたように笑みを浮べて「小次郎敗れたり、勝つつもりなら何ぞ鞘を捨てるか」とあざけるように言った。
焦った小次郎が真っ向から武蔵の頭部めがけてつばめ返しを浴びせ、武蔵の鉢巻を切り落とした備前長光の切っ先がそのまま反転して、下から武蔵の顔面を断ち割るより早く、「電光猶遅しと覚えける」と後に目撃者が記した武蔵の木刀の一撃を頭部に受け小次郎はたまらず砂浜に崩れ落ちた。

 武蔵が自分の備前長光より長い木刀を使用するかもしれないということを思いつかなかったことは小次郎の不覚であった。
もし小次郎が武蔵の木刀と同等もしくは三寸でも長い木刀を用意して、それを用いたならば小次郎にも十分勝機はあったであろう。

 武蔵は孫子の兵法にある「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」に忠実であった。敵に応じて最善の闘い方を工夫してそれを用いた。
ある時、武蔵の弟子の一人が縁側で休んでいる武蔵に試しに打ちかかったところ、武蔵は敷物の端を掴んで思い切り引っ張ったため、上に乗っていたその弟子は仰向けにひっくり返ってしまったそうである。つまり、何時どんな状態の時に襲われても対応できるように常日頃対策を考えて用心していたのだろう。信長にはこのような用心深さが欠けていた。

武蔵が晩年に霊巌洞という洞窟にこもって生活したのも仇と恨まれることの多い身でありながら病を得て身体の動きが十分でなくなったので用心のため、人里離れた場所で生活したのではないだろうか。

 結局、真の強者とは隙を作らない、むらの無い用心深さを備えていなくてはならないと言えるだろう。
2008 09/22 21:40:21 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
ルーズベルト大統領は米国民に「私は何度でも言いますが、決して皆さんのご子息を戦場に送るようなことはしません」と公約して三選したが、そう言わなければならないほど米国民の反戦感情は強かった。その米国民を一気に対日戦争に駆り立てたのが山本五十六の真珠湾奇襲であった。まことに愚かな事をしたものである。山本五十六を連合艦隊司令長官にした米内光政も同罪である。
 当時、米陸軍参謀本部に勤務し戦略動員計画を作成し、開戦後は連合軍東南アジア副司令官、中国戦線米軍総司令官を歴任したウェデマイヤー大将は戦後回想録で次のように述べている。「1941年(昭和16年)十二月七日(日本では八日未明)、日本軍の真珠湾攻撃が開始された。この攻撃によってアメリカ国内の主戦派と孤立派は、アメリカの第二次大戦への参戦について賛否の結論をえないまま、突然その大論争に終止符をうった。アメリカ人にとって、ひとたび他国から攻撃されたからには、もはやアメリカが参戦すべきか否かを議論する必要はなかったからである、。この日、われわれアメリカ国民は、いまや、好むと好まざるとにかかわらず、太平洋において戦争に突入したのである。日本が真珠湾を攻撃すると、日本と日独伊三国同盟を締結していたドイツは、アメリカに対して宣戦を布告し、それまでアメリカをヨーロッパ戦争に介入させないためにとっていた、いろいろな手段をいっさい放棄してしまった。そこで、アメリカ政府首脳たちは、イギリスおよびソ連の首脳たちと同様、真剣になってこの戦争に当たることになった。
日本の真珠湾攻撃は、アメリカによって計画的に挑発されたものであるという事実は、真珠湾の惨敗と、それにひきつづきフィリピンを失陥したことにより、おおい隠されてしまった。
アメリカ国民をヨーロッパ戦争に裏口から参戦させようとしていた当時のアメリカ政府は、フィリピンのアメリカ守備隊を日本軍の犠牲に供するのもやむをえない、と考えていた。
アメリカ国内の反戦派の人たちは、ルーズベルトがドイツに対しては明らかに戦時中立を犯す行動をとり、また日本に対しては最後通告を突きつけてなんとかしてアメリカを参戦させようとしていたことは、十分に承知していた・・・いま、われわれは当時を回想し、歴史の流れを考察するとき、かつてヒトラーが征服を夢見た地域よりもはるかに広大な地域に、全体主義的な専制政治を台頭させる結果となった第二次大戦に、アメリカがなぜ、また、どのようにして参戦したかを検討しなければならない」
(アルバート・C.ウェデマイヤー著、「第二次大戦に勝者なし」講談社学術文庫より)

 同じく米軍のロバート・シオボルド少将は言っている「世界中を戦争に巻き込んだ張本人は、フランクリン・ルーズベルトその人である。ことわっておくが、私はアドルフ・ヒトラーを弁護する意志はいささかももたない。しかしながら今日、異常性格のもちぬしとして全世界から指弾されているあの人物が、アメリカの参戦をのぞんでいなかったことは今日多くの人が肯定しているところである。ナチスの全体主義をおそれたルーズベルトは、老獪な政治家ウインストン・チャーチル英首相の切願もあって、ついに大戦争にふみ切ることに決意し、ついでにその以前から強力な軍事力をたくわえはじめていた日本を叩き潰そうとたくらんだ。ナチスと組んだ日本こそいいつらの皮である。はっきりいおう。ルーズベルトは、真珠湾奇襲を初手から十分予知していたのである」
(ミッドウェー戦記 亀井宏 光人社)

 ルーズベルトがドイツとの戦争に米国を巻き込むためにドイツの同盟国である日本を挑発して、先に手を出させるように仕向けた証拠は十分にあり、ルーズベルトとその側近が日本側の暗号を解読していて真珠湾攻撃を事前に知っていたことは間違いないが、それでも真珠湾のキンメル司令長官以下の将兵たちと一般の米国民からみれば日本による卑劣な騙まし討ちであったという事実は動かしようがない。
当時、日本のみならず連合国側にも傑出した賢明な指導者が存在しなかった事は真に不幸なことであった。第二次世界大戦は愚かな指導者達によって引き起こされた戦争と言えよう。
 ウェデマイヤー将軍は前掲書の日本語版序文のなかで次のように述べている。
「この地球上に生活している人々のうち、圧倒的多数の者は戦争を憎んでおります。これらの人々は自由な環境のもとで、平和的に自分達の境遇をよりよくできる機会だけを捜し求めています。だが、彼らは、世界の指導者や軍部首脳たちのなかに、このままほうっておけば必ずや世界戦争を招くだろう、と思われる事態の発展を許している者のあることを承知しております。事実、世界の指導者たちのうちある者は、積極的に、諸国民の間に緊張をたかめ、憎悪をあおり、ゲリラ戦を扇動し支援しております。
 もし、全面的な無制限戦争が発生した場合には、空前の大破壊が行われて、われわれのみるところ少なくとも、一千年間は人類の文明が退歩する結果になるということは、ぬぐいえない事実であるにもかかわらず、さきに述べたような事態が現在いろいろと起こっております。」
なお、このウェデマイヤー将軍は終戦時、中国大陸にいた三百九十万の日本軍将兵と在留邦人の早期内地送還について、大いに尽力してくれた功績に対して我々日本人は感謝すべきであろう。
2008 09/12 23:13:55 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
日米間においても、少なくとも両国民のレベルではあのような熾烈な殺し合いをしなくてはならないような深刻な問題は存在しなかった。米国第三十五代大統領ジョン・F・ケネディの父親で1938年当時駐英大使だったジョセフ・P・ケネディは次のように語って戦争の回避を訴えた「私はみなさんにお尋ねしなければなりません。いったい世界にあなたの息子さんや他人の子供たちの命をかけるほどの議論やら論争が存在するのでしょうか?」ーこれはドイツとの戦争の危機に対しての発言ではあるが、当然日本に対してもあてはまるだろう。
日独伊三国同盟の成立、南部仏印(現南ベトナム)進駐ーこれによってシンガポールやオランダの植民地であった油田地帯が日本の航空機による攻撃範囲に入った。)このように日本は欧米諸国の反応を自国に都合よく楽観的に判断して次々と欧米に対して敵対行為をとり、悪魔に魅入られたように破滅への道を進んでいった。
連合国は報復処置として石油、屑鉄の日本向け輸出の禁止、日本の対外資産の凍結等、日本の甘い予想を裏切る厳しい対抗処置により日本を窮地に追い込んで行った。
ナチスドイツの旧領土回復の問題にしろ、日中紛争の問題にしろ、決して第二次世界大戦の莫大な犠牲に引き合うような重大な問題ではなかった。まるで悪魔が巧妙に世界的規模に導火線を張り巡らして小さな火種を世界的大火災に発展させたような気が私にはするのである。
2008 09/12 22:52:19 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
第二次世界大戦によって受けた被害は敗戦国の日本やドイツはもとより、戦勝国であったソ連、米国、英国等の被害も甚大なものであった。
もし、大戦勃発前に当時の人々がタイムマシンで今日明らかになっている、第二次世界大戦の悲惨な記録を手にとって見ることができたとしたら、敗戦国の日本はもとより戦勝国の米国やソ連でさえ、国民のレベルでは圧倒的多数が避戦派となり、必ずや戦争以外の道を選択したことであろう。
第二次世界大戦はその原因という観点からみると真に奇怪な戦争であった。
ヨーロッパではドイツのポーランド侵攻に対して英、仏が宣戦布告したことから始まったが、これはドイツが第一次世界大戦における敗北の結果、ポーランドに割譲された旧ドイツ領の返還交渉をポーランドが英国との軍事同盟をあてにして事実上、拒否したことが原因であった。
2008 09/12 21:17:55 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー
ミッドウェー海戦敗戦の史実は、国防において適材適所を誤るといかに恐ろしい結果をもたらすことになるかという教訓として、日本国民は将来にわたって永く銘記するべきであろう。
私が常々感心するのは幕末から明治にかけて優秀な人材が輩出して国の舵取りをしたため大局を誤ることがなかったことである。
幕末の徳川幕府の幕僚は優秀で科学的頭脳を持っていたから太平洋戦争の時の高級軍人と違って、いざとなったら神風が吹いて日本を救ってくれるなどという幼稚で甘い考えは持たなかった。
昭和には四流、五流の人物がトップに登りつめて主導権を握ったため国を誤った。人材登用のシステムに重大な欠陥があったと思わざるを得ない。
帝国大学や陸軍大学校、海軍大学校は優秀なエリートを効率的に大量生産しようとしたものであろうが、これが無残な失敗であったことは太平洋戦争の結果が証明している。

思慮の浅さというのは山本五十六の大きな欠点の一つであろう。
 
 日米交渉打ち切りを野村大使が米側に通告したことを確認する前に真珠湾を奇襲したために、「騙まし討ち」として米国民を憤激させ、それまでは圧倒的にに非戦派が占めていた米国民と議会を一気に開戦容認へと踏み切らせ、さらに早期講和が困難な状況を作り出してしまった。結局この思慮の浅さが命取りとなって「い号作戦」を陣頭指揮するためにラバウルに出張し、ブーゲンビル島の基地視察に空路おもむく途中米戦闘機に襲われて戦死するのであるが、この時も危険であるから止めるようにとか護衛の戦闘機の数を増やそうかという周囲の進言をすべてはねつけた結果であった。
この前線視察も山本自身は本当は行きたくなかったらしい。ただガダルカナル島でトカゲを食べながら戦っている飢えてやせ衰えた兵士を見てきた大本営参謀の辻政信が作戦の打ち合わせに戦艦大和に山本五十六を訪ねたさい、冷房の効いた安全な大和で毎日豪華な食事に舌鼓をうっている山本とその幕僚を痛烈に皮肉ったため、行き掛かり上危険な前線に出向かざるを得なくなったようである。

左欄のインデックスのアーカイブで2008年9月をクリックすると8〜10を正常に御覧いただけます。トップが「信長と武蔵」で「ミッドウェーに仕掛けられた罠」の8〜10はその下にあります。
2008 08/24 10:25:33 | none | Comment(0)
Powerd by バンコム ブログ バニー