通説にとらわれない新しい歴史解釈
 山本五十六の遭難死の裏には山本を見限った陸海の首脳部による陰謀があったのではないかと疑われる状況証拠として次のようなものがある。
撃墜されてから現場近くの日本軍の救助隊が至近距離(直線距離で1キロ以内)の現場に到着するまで丸一日以上かかっており、海軍の最重要人物の捜索としては異常に遅いこと。つまり、一刻も早く不時着した現場に到着して救出しようと努力した形跡が無い。
翌日の午後、最初に現場に到着した捜索隊は道路設営隊の陸軍の一行で、それも海軍から依頼されたわけではなく一式陸攻が撃墜されたのを目撃したため自発的捜索に向ったものである。故に最初は撃墜された機に山本五十六が搭乗していたことも知らなかった。
山本五十六がおそらくまだ生存していた可能性の高い十八日(撃墜当日)の夕方に水上偵察機から地上の陸軍の捜索隊に対して早々に「生存者の見込みなし」という内容の連絡筒が投下されている。このような事故の場合は身動きできなくても生きている場合はありえるのに飛んでいる偵察機から見下ろしただけで近くで確認したわけでもないのに、いかにも不可解な行動である。まして山本五十六は腰掛けたままの姿だったのだから、本当に上空から確認したのなら「生存の見込みなし」などという報告はできなかったはずである。

山本五十六の遺体に残されていた銃痕は米軍の戦闘機の機銃によるものではなく、小口径の拳銃のものであったこと、
すなわち機上戦死という公式の記録は嘘で、最初に検視した軍医(蜷川親博陸軍大尉)のメモ等から判断しても墜落後約24時間は生存していたと思われる山本五十六の救出の遅れの責任を回避するため、機上戦死をデッチあげたと思われること。
 山本五十六の搭乗機の少なくとも尾部の機関砲が取り外されていたか発射できないようになっていた可能性が高い。
生き残った二番機の操縦士林浩二等飛行兵曹も頭上を敵機の放つ曳光弾が山本機目掛けて走っていくのを見ているが反対に山本機から敵機目掛けてのものは目撃しておらず、山本機を撃墜したレックス・バーバー陸軍中尉も「一番機の尾部銃座に銃も人影もなく、一発も反撃されなかった」と証言しているからである。
 最初に墜落現場に到着した陸軍の捜索隊の長であった浜砂盈栄(みつよし)少尉も墜落機(後部)には機関銃は見当たらなかったと証言している。
(参考文献 山本五十六の最期 蜷川親正 光人社/検証・山本五十六の戦死  山村英男・緒方徹 日本放送出版協会)蜷川親正氏は最初に山本五十六の死体を検死した軍医の実弟でご本人も医師である。 
巡視のスケジュールが訪問予定の各部隊に宛てて暗号を用いて打電されたが、これがもっとも解読されやすい暗号であったため電信員が驚き、間違いではないかと通信参謀に問い合わせたが「そのままでよい」といわれたこと。
山本の巡視予定だった方面は当時、約1ヶ月間で20回の偵察や襲撃を受けており、山本の護衛機が僅か六機であることを知っていた各部隊の司令官が実情を山本一行に伝えて護衛の強化や自分達の方から護衛を申し出なかったことは不自然であること。事実山本に別の機で同行して同様に撃墜されて生き残った宇垣纏長官は「あんな危険なところだとはしらなかった」と述懐している。

 この方面は、山本長官視察前の一ヵ月に二十回、航空偵察や空襲を受けている・・・ブイン方面は、海軍の最高指導者が薄い護衛で視察に行くような状況ではなかった。遭難当日も2機の米軍機が偵察に来ていた。
 特に山本五十六遭難死の前日の四月十七日には最初の着陸予定地ブインにB−17と艦爆計十数機が来襲していた。
「不可解なのは第二六航空戦隊司令部の対応である。司令部はブインにあり、司令官上阪少将は当然同方面が受けている空襲状況を知っていたはずである」・・・

ラバウルからの電文の中には、長官一行の行動予定に加えて「但シ各部隊ハ当日ノ作業ヲ続行ス」というただし書きがあった・・・
 搭乗員編成についても、疑問がある。空戦経験が豊富な人を選んだわけではない。九六式戦闘機から零式戦闘機にかわったばかりの人も入っている。さほど経験を積んでいない飛行兵長が二人入っている・・・何を基準に六人を選んだのか全くわからない」
「計画を立案した連合艦隊司令部、直接携わった南東方面艦隊司令部、司令部がブインにあって視察に関する全航空機を統括・指揮する立場にあった第二六航空戦隊司令部、すべてに大きな責任があった。しかしだれも責任を追及されていない」
(参考文献 検証・山本五十六の戦死  山村英男・緒方徹 日本放送出版協会) 

 「現地ブイン基地においては、長官巡視の当日、朝五時二十分、六時二十分と相ついでP38の来襲があり、その前日、前々日にも敵機B24の激しい夜間爆撃を受ける等、連日連夜の敵機襲来で滑走路付近等かなりの被害が生じていたことは、当時の守備隊の記録によっても明らかである。かかる現地の状況報告が連合艦隊司令部に届いていなかったとは到底考えられないが、宇垣自身は当時この時期に運悪く病気入院中であったせいか、この事を承知していない。いずれにしろ、幕僚たちが『危険なし』或いは『危険少なし』と判断した根拠はよく分からない」(ブーゲンビリアの花 衣川宏著 原書房)

山本五十六に同行する予定だった吉田一従軍カメラマンが直前に搭乗を強く拒まれていること(証言・私の昭和史)等。
山本五十六の搭乗した一番機は宇垣長官の搭乗した2番機と同じ一式陸攻で2番機には計12名が搭乗していたのに対して1番機は11名だったので吉田カメラマンが搭乗する余裕はあったはずである。これも山本五十六一行が米機によって撃墜されることは確実だったので救ったのではないだろうか。

 宇垣纏が遭難後、「あんな危険なところだとは知らなかった」と言っていたということは山本五十六もそう思っていた可能性が高い。つまり、本当はどれだけ危険なところであるかが故意に山本五十六に伝えられなかったのではないだろうか。すなわち米軍機のしばしば出没する危険地域に山本五十六を将兵の慰問という口実で誘き出して米軍の手によって殺させたのではないだろうか。

 上記の数々の不可解な事も山本五十六の搭乗機を米側の手によって撃墜させる謀略があったと仮定すると納得できるように私には思えるのだが。

 高松宮の当時の日記の記載を見ると山本五十六の化けの皮は既に剥がれていたようである。

「一課長の話  山本長官「い号」作戦ニテ「ラボール」ニ出ルコトハ好マレズ。幕僚室ニ来ラレタ時ナド「ラボールニ出ナクテハナラヌカ」ト二、三度云ワレシ由。主将は軽々シク出カケルモノデハナイトノ考エニテ、愈々ト云フ時ニ陣頭ニ進ムベキダトノコトナリ」

「総長の所見ニテハ、山本長官戦死ハ海軍ノ戦争遂行オ左右スルモノニハアラズ。「ミッドウェー」等ニツイテモ海軍ハ都合悪イコトハ発表セズト世間で云ヒツツアレバ・・・」
(高松宮日記 高松宮宣仁親王 中央公論社)

 今日までのところ、山本五十六の遭難が陸海軍上層部の反山本派による米軍を利用した暗殺であったとの決定的な証拠は発見されていないが、ミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦で致命的な敗戦を喫した作戦の最高責任者であった山本五十六が日本側に暗殺されても不思議ではない状況だったことは確かである。

 要するに大本営発表ではない真実のミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦の敗北の事実と山本の臆病な戦い振りを知っていれば「山本では駄目だ」という結論が出てこないほうがおかしい。戦艦大和に引きこもったまま前線に出て行こうとしない山本五十六をバカにしていたパイロットも少なくなかったようである。

 海上護衛隊参謀として台湾の護衛隊司令部にいた当時陸軍少佐の堀江芳孝は山本五十六戦死のニュースが入って来たとき周囲の護衛隊の将校、下士官、兵が一斉に「ザマ見ヤガレ、馬鹿野郎」と公然と罵るのを目の当たりにして愕然としている。戦争遂行に不可欠な戦略物資輸送のための輸送船団が満足な護衛がつけられないためにみすみす沈められていく現状に彼らの怒りは大きかったのである。
(参照文献 歴史から消された兵士の手記 土井全二郎 光人社)

 不可解というより奇怪とさへ思える当時の海軍の船団護衛方式を当時の記録から知ることができる。ほんの一例をあげると「一九四ニ年五月に入り南方の各占領地域の各種産業の復興のために、日本から大勢の各種業種の専門家が派遣されることになった。そして彼ら大勢は特別に組まれた船団の中の二隻の客船に分乗し、五月七日に門司郊外の六連島泊地を出発した。
この船団は第『109船団』と呼ばれ、客船大洋丸、客船吉野丸そして三隻の貨物船で編成されていた・・・・・
吉野丸と大洋丸の二隻の客船に分乗していた派遣技術者は、石油、セメント、土木建設等の業界の専門技術者、及び占領地域の行政を司るために派遣される政府役人や民間企業の専門事務職員等であった。そして三隻の貨物船と吉野丸には陸軍部隊の補充要員や軍需品、あるいは産業復興工事に必要な機材や材料も大量に積み込まれていた。しかし、出発翌日の五月八日午後七時四十五分、船団の中で最大の大洋丸が米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。
位置は九州西南沖の男女群島の南南西百六十キロメートルであるが、積み荷のカーバイトや工事用爆薬の爆発などによって船体はたちまち火炎に包まれ救助活動は困難を極めた。この時の犠牲者は乗組員と派遣技術者など合計八一七名に達し、日露戦争の時の常陸丸遭難事件以来の最大の輸送船犠牲者となった。

この頃は南方方面を往復する船団であれ、単独航行の商船であれ、護衛艦艇がこれらすべての商船を援護するには絶対数が不足の状態であったため、すべての船団や単独航行商船が護衛をうけられるとは限らなかった。
この時も今後の南方地域の産業の復興と開発を左右しかねない、大勢の専門家や大量の必要物資を輸送する船団にしては護衛艦艇はわずかに一隻だけであった。しかもその護衛艦
は中国航路用の二〇〇〇総トン級の貨物船を徴用し、四門の大砲と一〇発程度の爆雷を装備しただけの特設砲艦であった。そして十分な性能の潜水艦探索装置も装備されていなかったこの護衛艦の護衛では、とうてい潜水艦の攻撃に対処てきるものではなかった」
 「悲劇の輸送船 大内建二著 光人社)

 「八月十五日、山本長官は新たにガダルカナル救援部隊の編成を命じ、田中頼三少将と第二水雷戦隊をこの任務に選んだ。第二戦隊はトラック島で物資を補給していた。田中少将はすでにトラック島へ到着していた一木支隊の九○○人の兵隊を乗せて、ガダルカナルへ運ぶよう命じられた。田中少将は初めから憤慨していた。どうして連合艦隊司令部は重火器を持たず、小銃だけの一、○○○人以下の兵士でやれると思っているのか理解できなかった。田中少将は「竹槍作戦」と呼んだ。(ガダルカナルの戦い エドウィン P ホワイト著 井原裕司訳 元就出版社P66)

 山本五十六は愛人の河合千代子にはしばしば「日本が勝てるとはさらさら思っていない」と言っていたそうである。(山本五十六の恋文 望月良夫 考古堂)
冷静に考えればそのとおりで中国大陸において中国兵を相手の戦争でも日本は四苦八苦して点と線の確保しかできないでいるのに、その中国軍に数倍する強敵である米軍を北米大陸に追い詰めて屈服させることなんてできるはずがないことは子供でも理解できる。

 だから私は山本五十六は長期戦になって日本の被害が致命的にならないうちにどうせ負けるなら早めに負けようと考えてあのような戦い方をしたのではないかと本気で思うこともある。それくらい山本五十六の作戦はおかしい。
真珠湾奇襲にしても本来なら失敗するはずであった。第一次攻撃隊の接近をハワイの基地のレーダー監視員が30分以上前に発見していたからだ。監視員が上司に報告したところこの上司が到着予定になっている味方の編隊だと誤解し放置されたので一応奇襲の形になっただけである。小型潜航艇の一隻も真珠湾奇襲の一時間以上前に米側に発見されて撃沈されている。もしこの時日本軍の襲来だと気がついていたら、米側では十分な迎撃体制を整えることができ、日本の機動部隊は飛んで火にいる夏の虫という結果になったことだろう。
 この奇襲に対して、アメリカ海軍は在泊大小の艦船九十四隻に備えられていた八四三門から二十八万四千四百六十九発を放って応戦したという。
(図説 秘話で読む太平洋戦争 森山康平 河出書房新社 )

 一応の成功としても日本側の戦死者は64人、未帰還機29機、損傷ー74機の被害は奇襲にしては決して少なくはない。一時間しか航続能力のなかった小型特殊潜航艇5隻も全て帰還することはできなかった。もし米側が待ち構えているところに突入したらこの数倍の被害がでて奇襲は失敗となったことだろう。

「1941年1月、南米ペルーの駐日公使はジョゼフ・グルー米大使にある情報を伝えた。最近公使館に複数の話がもたらされたという。『日本軍がハワイ真珠湾に大規模な攻撃を計画している』『航空機の編隊で米艦隊に奇襲攻撃を仕掛ける』という。公使はグルーに至急本国に通報するよう促した。しかし国務省は真剣に受け取らず攻撃を許してしまう」(1945日本占領 徳本栄一郎著  新潮社)

真珠湾奇襲計画は事前に何者かによって入念に漏洩されていたのである。
2010 05/07 22:01:27 | none | Comment(0)
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 外国で作成されたドキュメンタリー番組で珍しい山本五十六の映像を見たことがあるが、周囲の者に敬礼しながら堂々とした重々しい足取りでカメラの前を通り過ぎて行く自信に溢れた態度はとても印象的であり、一種のカリスマ性が感じられた。白黒の映画でみてさえそうなのだから、実際に生で山本に接した人達はもっと強い印象を受けたことであろう。とても戦いの度に後方の安全地帯に引っ込んでいたような人間には見えなかった。まことに演出力に秀でた人物であった。
 かつ、巧言令色の典型的人物で東条のように人相が悪くないから、国民を始めとして多くの者が山本五十六を買いかぶってしまったーはっきり言えば騙されてしまったことはよく理解できる。
 しかし山本のようなタイプの人間は組織のトップに就けるにはもっとも危険な人物である。会社の社長くらいなら最悪の場合、倒産するだけだが、山本の場合は連合艦隊司令長官という国の運命を左右する要職に就けてしまったため、日本に測り知れない厄災をもたらすことになった。
 山本五十六型の人間は今日も存在しているし、将来もまた繰り返し出現するであろう。このような人物をいかに組織の要職から排除するかということが、組織、国家の運命に深く関わってくる。ここに、今日我々が山本五十六という人物の実像を探求することの価値が存在する。
 
 「国を滅ぼしたのは山本五十六の責任である。要するに山本長官は本気で日米戦争をしていない。むしろ陸軍と国民の評判を争う戦争をしていた。
 山本長官は日本全体を考えない無責任な戦術家で、海軍だけのヒーローだった。連合艦隊司令部などで彼の部下や同僚だった人達の回想記を丹念にみていくと、人の好き嫌いが激しく、個人的に嫌いな人にはけっしてこころを開かないという話が出てくる。
組織の長としては問題である」(日本軍の教訓 日下公人 PHP)

 戦略的に重要な戦いで事実上連戦連敗した山本五十六が死んだとき日本は国葬にして弔った。米内光政にいたっては山本を男爵に推挙した。まったくどういう頭の構造をしているのか不可解というしかない。

 「真珠湾奇襲のように、軍事的見解のみによって行われた典型的な戦例は史上稀である。一面それは低級で不信極まる愚行であり、他面信じがたいほどの洞察力の不足を現している。日本はアメリカに対して宣戦布告なき戦争を仕掛けたことで、ただ一撃でルーズベルト大統領の困難を全部解決し、全アメリカ人を彼の味方にしてしまった。日本の不可解なまでの愚かさは、アメリカ人を世界の笑い種にすることによって、その艦隊を攻撃したよりもさらに大きく彼らの威信を傷つけた。アメリカは日本にバカにされたという憤怒からどんなに戦争が長く続こうがこのペテン師と妥協することはできない仕儀となった。(英 フラー)」山本五十六 プレジデント社


巡洋艦球磨艦長横山一郎も次のように山本五十六を強く批判している。

「日本にとって一番得手の悪い、大量生産ができない飛行機の戦争をはじめたことが間違いなんだね・・・山本五十六連合艦隊司令長官のハワイ奇襲作戦というのは、よさそうに思えるけれど、あとのことを考えたらバカの骨頂ですよ。日本はもともと大艦巨砲主義でやってきたんだから、これが使えるような戦さをしなくてはいかんのです。真珠湾でフネを沈めてみても、浅いからフネはすぐ着底してしまう。あとで引き揚げてなおすことができるんだ。結局なんにもならなかったわけですよ・・・日本としては南洋群島に飛行場をたくさんつくって、そこへアメリカの艦隊をおびき寄せて、まず飛行機でたたき、ついで艦隊が決戦をいどむ、そういうやり方をとるべきだったんです

艦隊同士の決戦になれば、たとえ飛行機が少なくても、大鑑巨砲がモノをいって勝ったと思う。そういう戦争をするべきだったと思うね。飛行機の大量生産ができない日本があえて飛行機の戦争にもちこんだ山本五十六大将は、大きな誤りを犯したといってもいいと思う」

巡洋艦「利根」艦長黛治夫大佐も次のように語っている。

「日本海軍の砲戦に対する自信というものは、われわれ砲術のものには、かなり大きなものがあったね。昭和八年に、後の『日向』の艦長になった野村留吉さんが米国戦艦主砲戦闘射撃の無線を傍受してね、私がそれを研究した結果、日本の命中率はアメリカの三倍だということが判明したんだ。射撃速度が同じで命中率が三倍だから、戦艦の保有数が対米比六割だけれども、命中率から見ると、十対八と日本がはるかに優勢になるんだ。
さらに零戦で制空権を得ると、こっちは六割増しになり、さらに日本が開発した平頭弾の九一式徹甲弾の水中弾性能を加味すると、十対六の劣勢がじつに十対五十という、五倍の優勢になるんですよ。こうなると、いかに山本五十六といえども、五倍あれば勝つと思うべきなんだ。それを参謀長も、作戦参謀も、砲術参謀もみな知らなかった。知らなかったというより信じようとしなかったんだな」
(艦長たちの太平洋戦争 佐藤和正著 光人社)




2009 12/18 23:36:28 | none | Comment(1)
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 山本五十六というのはその戦い方から死に至るまで、実にミステリアスな人物である。その戦い方はあたかもわざと負けるようにしたのではないかと思われるほどの摩訶不思議な戦術の連続である。
 例えばガダルカナル島に飛行場を作ったが、ここは最も近いラバウルの航空基地から1000キロも離れているため、零戦の長大な航続力をもってしても片道3時間かかるのでガダルカナル島上空で米軍機と戦闘可能な時間は僅か10〜15分しかなかった。何でこんな防衛しにくい場所に飛行場を作ったのか?子供でもおかしいと思うであろう。

 ガ島戦における日米の海軍力の比較は、戦艦ー日本12隻、米ー6隻で空母は日本ー10隻、米ー4隻であった。しかし山本五十六はこれらの優勢な日本の海軍力を有効に使用しようとはしなかった。

 「わが連合艦隊は戦艦も空母もほとんど遊ばせて戦ったのである。要するにガ島戦を将棋にたとえれば、飛車、角、金、銀を使わずに負けた”世にも奇妙な”戦闘なのである」
「戦闘能力からも生産能力からも、逆立ちしても勝つ見込みのない航空消耗戦を、搭乗員の養成、補充も考えずに行った。絶対に不利な戦場までノコノコ出かけて、海軍航空が実質的戦力を消耗し尽くすまで、性懲りもなく行った」
 「こうして日本海軍は、米国海軍長官ノックスの言う『近代戦を知らぬか、近代戦を戦う資格の無い軍隊』に堕してしまったのである」
 「ヤコブ・モルガンという米国の作家が『山本五十六は生きていた』(忍野昭太郎訳 第一企画出版)のなかで、ルーズベルトは山本五十六以下の連合艦隊をおのれのスパイにして日本が負けるように作戦させたというのである。それは本当ではないかと思うほど、日本海軍の作戦は拙劣を極めている」(帝国海軍が日本を破滅させた  佐藤晃  光文社)

 当時の海軍上層部の人間性を知ることのできるエピソードを零戦のエース坂井三郎がその著書「零戦の運命」の中で書き残している。
 「ガダルカナル島の戦いが、文字通り、飢餓との戦いとなりはじめた頃も、ラバウルの司令部や部隊の高級将校たちの夕食はフランス料理のフルコースであったとの証言がある。それを提供した施設部のリーダー格だった人が、拙著『零戦の真実』を読んで来訪された時の証言だから、本当のことだろう。
ここに、その証言の驚くべき内容の一部を再録してみよう。主旨はこうなる。『あの頃、私たち施設部隊では皆さんの知らない施設もいろいろと用意させられたが、冷蔵庫を作ったので当然冷凍機も持って運転していました。坂井さん達がいた頃はもちろん、その後もずっと運転し続けたが、時々海軍の指令から「搭乗員たちは毎日毎日空中戦で大変だ。せめて毎日とは言わないまでも、時にはその冷凍機を使って、燃料、弾薬補給のために降りてきた搭乗員たちにアイスクリームを食べさせてやりたい」という注文があり、度々作って納めました。戦後、皆さんが書いたラバウル戦記のなかに、「燃料、弾薬補給のために飛行場に降り立った時吸った一服のタバコは何とも言えない味だった」という記事はよく見かけたが、「あの時のアイスクリームの味は今でも忘れられない」という記事は一度も見たことがない。坂井さんは私たちが心をこめて作ったあのアイスクリームを食べてくれましたか?』と聞かれた私はもう唖然とした。
「そんなもの見たことも聞いたこともないし、氷水も飲んだことはありませんよ」と答えたが、そんなことは信じたくないという返事。世の中の悪人たちの所業に人の上前をはねるという行為はよく聞くが、何とその頃の海軍の司令部のお偉方は、死に物狂いで戦っている搭乗員達の上前をはねるならまだしも、搭乗員の名前を騙ってアイスクリームを作らせ、搭乗員達には一片のアイスクリームを見せもせず、もちろん与えもせず、フランス料理のフルコースのデザートとして平らげていたのだ。前線視察に来た山本長官も、それを賞味したという確かな証言である。
 上級将校がこんな所業とあっては、勝利の女神もあきれ果て、振り向きもしなかったのであろう。仮に、企業で上層部だけがいい思いをしていたら、社員はついていくだろうか。何も、上級将校に兵士と同一の行動をとれとは言わない。ただ、苦楽をともにするという心意気が部下に伝わらなければ、兵士を奮起させることはできない。ましてや、兵士は犠牲的精神を発揮することもない」(零戦の運命 坂井三郎 講談社)

このエピソードはまさにマッカーサーが言ったといわれる「日本人は12歳の子供」説を裏付けるものである。いや、普通の12歳の日本の子供ならもっとまともな常識を持っているだろう。他人のことをまったく考えずに己の欲望を満たすことだけを考えるのは4,5歳の子供のレベルだろう。

2009 12/05 17:05:46 | none | Comment(0)
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 ガダルカナルの攻防戦でも、相打ち覚悟の積極的戦法を採用すれば日本側の勝機は十分にあった。第一次ソロモン海戦で三川第八艦隊は米豪の巡洋艦と駆逐艦に大打撃を与えたが、深追いすることなく、輸送船団に一指も触れることなく引き返してしまった。巡洋艦鳥海の早川艦長は三川長官と参謀たちに「敵軍をそのままにしておくと、わが軍の爾後の作戦が極めて難しくなってきます。敵は航空基地を完成し、輸送船団は陸揚げを完了するでしょう。敵は現在、戦闘精神を完全に奪われている。船団に向けて引き返しましょう」と進言したが、夜明けとともに米軍の空母と戦艦から攻撃を受ける恐れがあることを理由に戦場から離脱してしまった。早川大佐は「ツラギ海峡夜戦に於いて敵艦隊を撃沈したる際、なお残弾は六割以上を有し、被害もまた軽微なりき。よろしく勇気を揮い越し、再び泊地に侵入、輸送船を全滅すべきものなりと確信す。同輸送船には、ガダルカナル基地を強化すべき人員資材を搭載せるは明らかなり。またこれを全滅せる場合、敵国側におよぼすべき心理影響の大なるべきは、察するに余りあるところなり」と記した。(遠い島ガダルカナル 半藤一利著 PHP文庫)

 こうしてガダルカナル島を奪還する好機をみすみす逃してしまった。山本は自分が常に後方に引っ込んでいる手前、部下に対しても強いことが言えなかったのだろう。山本五十六はギャンブルや逆立ち、皿回しがプロなみだったそうだが、そっちの方に進んだほうが 、日本のためにも本人のためにも良かった。職業の選択を誤ったとしか思えない。
2009 11/20 22:59:27 | none | Comment(0)
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 日本の指導者の間で真珠湾奇襲の前後にその政略的および戦略的影響、価値について科学的に分析され正しく認識された形跡がないのは驚くべきことである。
 大西龍治郎などは最初から米国を刺激するようなやり方は良くないと認識しており、周囲の者にもそう話していたそうである。
 反戦感情が支配していた米国民を一挙に戦争へと結束させた真珠湾奇襲を歴史家のモリソンは「歴史上これほどの愚行は無い」と酷評したが、冷静に分析すればその通りである。
第一次大戦に参加した米国ではまだ戦禍の記憶が生々しく、国民の間には根強い反戦感情があった。
米国の国民も議会もマスコミも非戦派が優勢だったのだから、日本はその事実を利用するべきであった。
 石油を手に入れるのにハワイを攻撃する必要はなかった。米国の一方的な対日禁油の不当性を米国民に十分に訴えてからオランダの植民地一帯の油田地帯に侵攻して正当な対価を支払って石油を確保するだけだったら、米国の議会や世論はルーズベルト政権が対日参戦に踏み切るのを許さなかっただろう。

「ガ島戦で得た教訓を、天皇は東久邇宮にこんな風にいったという。『ノモンハンの戦争の場合と同じように、わが陸海軍はあまりにも米軍を軽んじたため、ソロモン諸島では戦況不利となり、尊い犠牲を多く出したことは気の毒の限りである。しかし、わが軍にとってはよい教訓となったと思う』
いや、日本の軍部はこの惨たる敗戦から何も学ばなかったのである。その後の歴史がそれをわれわれに教えてくれる。結局は同じことを際限なく繰り返し続ける、いや、日本人の独善性と硬直性と無反省と、情報無視はいまに通じているのである。(遠い島ガダルカナル 半藤一利著)

 山本は自分の負け戦を隠蔽することによって身の保身を図った。ミッドウェーの敗戦で既に自分の能力は思い知らされたことであろうから、山本は自ら身を引いて有能な人材に連合艦隊司令長官の座を譲るべきであった。作戦も拙劣、死を恐れ、最前線で先頭に立って戦う勇気も無いのなら当然そうすべきであった。最低それくらいの責任感はあってしかるべきである。実に責任感の無い不適格な人物が連合艦隊司令長官になったものである。
 沖縄特攻途上で戦艦大和が撃沈されて作戦中止命令がでたとき、駆逐艦雪風の寺内艦長は「駆逐艦だけで沖縄に突っ込みましょう」と意見具申した。この時の寺内艦長の心境は自分の生死は度外視していただろう、というより完全に死を覚悟していたのは間違いない。このような勇猛さと軍人としての強烈な責任感が山本五十六には欠如していた。
2009 11/20 22:09:05 | none | Comment(0)
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 狭量な独善家の東条は自分に敵対する人間を容赦なく弾圧ーしばしば死に追い込んだ。有名な例では「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」という見出しで、もう後がないという状況まで追い込まれていた日本の真実の戦況を国民に知らせようとした記事を書いた東京日々新聞(現毎日新聞)の新名丈夫記者を懲罰徴集して激戦地に送り込み戦死させようとした。新名は近視のため徴兵免除になっており、当時新兵にするには異例の37歳という高齢であった。このような東条のやり方に対して、さすがにおかしいという声が大きくなると、東条はつじつま合わせのために新名と同世代の徴兵免除者250名を召集して硫黄島に送った。新名は元々海軍報道班員であったため、海軍側の庇護によって生命をまっとうできたが、つじつま合わせのために召集された250名は全員戦死してしまった。
 また東条は自分を批判した部下を激戦中の硫黄島に派遣して即日戦死させたこともある。「東条の狭量ときてはお話にならず、反対意見のものは陸軍士官でさえすぐ死場所に追放されるから、苦言を呈するバカはいない」(自伝的日本海軍始末記 高木惣吉著 光人社NF文庫)
 東条が敵対者を抹殺するやり方として、激戦地に追いやって、敵の手によって殺させるというパターンがあったことが分かる。

 東海大学の創立者でもある松前重義は当時、通信院工務局長兼防衛通信施設局長であったが、各省庁の信頼できる技術専門家を集めて日本の生産力の実情を厳密に調査分析した結果「東条内閣の発表する軍需生産計画はデタラメである」、「このままの態勢では戦争の将来は惨憺たる滅亡あるのみだ」、「現内閣の施策はすべて非科学的だ」と結論し、現内閣は国を滅ぼすものだと高松宮や永野修身元帥等海軍の高級将校たちに力説した。これを東条が見逃すはずはなく、即座に松前に対し報復措置をとった。
 それまで上限が四十歳だった徴兵年齢を四十五歳にまで引き上げて、四十二歳の松前を陸軍二等兵として召集し、淡路丸という爆薬運搬船に乗せて南方に送ったのである。通常はこのような爆薬船に兵隊は乗船させないのだが、この時は松前の部隊の百名が乗船させられていた。

 松前の部下で逓信省工務局調査課長であった篠原登は松前の召集解除を画策し、兵器行政部長の管清次中将から富永恭二陸軍次官に頼んでもらったところ、富永は直立不動の姿勢で「これは東条閣下の直接の命令であるので絶対に解除できぬ」と拒絶した。

 絶体絶命のピンチに陥った松前は台湾の高尾から無線電話で篠原に連絡をとり、海軍から松前の転船命令を出してもらうことに成功し、ようやく石炭船に乗り換えることに成功した。
 淡路丸は港をでるとすぐに松前の見ている前で爆発を起こして沈没してしまった。(証言・私の昭和史  文春文庫より引用)


 このエピソードから、東条は確固たる意志を持って、松前を殺害しようとしたことが窺える。おそらく、爆薬運搬船の淡路丸が台湾の高尾に入港するという情報をなんらかの方法で敵方に漏らしたのではないだろうか。私は山本五十六も同じ方法で殺害されたのではないかと思うのである。

 ガダルカナル島奪還のための作戦の打ち合わせに戦艦大和を訪れたある陸軍大本営参謀(辻政信であろう)が「成る程、大和ホテルとはよく言ったものだ。こんなところで、鯛の刺身で晩酌などやっていては、ガ島でトカゲを食っている陸軍の苦しみはわかるまい。陸軍は百武軍司令官自ら上陸して陣頭指揮だ。海軍の長官はトラックの大和ホテルだ。ここなら潜水艦も来ないし、命も安全だからな。これでは、海軍に応援を頼んでも、軍艦を出してくれぬわけだ。司令長官が一番後方では、部下もついて来ぬし、第一、士気が揚がらぬ。日本海海戦のときは、東郷大将自ら三笠で陣頭に立ったと聞いている。帝国海軍も変わったものですな」と毒舌を叩いて高笑いした(激流の孤舟 提督米内光政豊田穣著 講談社)
 付け加えればトラック島には日本から慰安婦も来ていたからまさに天国であったろう。

 


 
2009 11/18 20:25:35 | none | Comment(0)
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 今からみると昭和は不吉な元号であった。昭和の昭の字を分解すると、日本の口に刀とも読める。昔、鎧を身に着けた武士が戦場で自決する場合、口に刀の切っ先を含み、刀の柄を地面に打ち当てて喉を刺し貫く方法があったが、日本も太平洋戦争でまさに滅亡寸前にまで追い込まれた。今思うと昭和という元号は本来の国民と世界の平和という理想を表す意味とは別に日本の悲劇的未来を警告していたように私には思える。

 太平洋戦争末期、勝利は既に絶望的となり、軍部の狂気じみたプロパガンダは益々エスカレートして行った。自動小銃を持った米兵に立ち向かうために国民に竹槍の訓練をさせたり、「一億総玉砕」などと叫びだした。「木戸幸一内大臣が、本土決戦の急先鋒である阿南陸軍大臣に向かい『アメリカの博物館に三種の神器が陳列されて、その横に、かつて大日本帝国という国があった。これはその遺品である、と書かれるだろう』との趣旨のことを述べて、全軍特攻、一億総玉砕の終末に注意を喚起したのもこの頃である」(別冊歴史読本「太平洋戦争敗北の責任」 新人物往来社)
阿南陸軍大臣が終戦の詔書に署名して、陸相官邸に戻って自決する直前に義弟の竹下正彦中尉に「米内を斬れ」と言ったことは有名な話である。ポツダム宣言受諾に賛成したものは他に鈴木首相や東郷外務大臣もいたのに、わざわざ米内海軍大臣だけを名指ししたのは他の理由からだろう。私はそれは米内に敗戦の責任ー特に拙劣な作戦を繰り返すことによって日本の敗戦を決定づけた山本五十六を連合艦隊司令長官に任命した責任を取らせろということだったのではないかと思うのである。
「米内光政は総理大臣として、また海軍大臣として、昭和史の重大局面にしばしば登場し、選択をせまられ、決断してきた。その重責たるや、近衛文麿、東条英機に比して、より大ではあっても、小ではなかった。しかもその判断の誤りが、敗戦の惨禍を招来してしまった。彼の舵取りは、痛恨昭和への水先案内人のそれであったのだ」(米内光政と山本五十六は愚将であった 三村文男著 テーミス)

「確かに緒戦のあれは、山本さんでなくてはやれなかったんだが、そのあとが、周囲から作戦の神様扱いされて、すること為すこと派手になりすぎ、いつか誰かが ブレーキをかける必要があった。山本にブレーキのかけられる人といえば、米内さんを措いてありません。
自分でも分かっていたろうに、米内さん、それをしなかった。立場になければ口出しはせぬ、性格的にも信条としてもそういう人なんだからやむを得ないけれど、日本のために不幸なことだったし、米内さんについて惜しいと思うのはこの点です」前田稔中将
(米内光政 阿川弘之著  新潮社)



 山本五十六に河合千代子という新橋の芸者の愛人がいたことはよくしられているが、この千代子の晩年の主治医であった望月良夫氏が彼女から直接聞いた話では、山本五十六戦死の当日か翌日に軍務局の人間が押しかけてきて彼女に自殺を迫ったそうである.
奇妙なことに、この時のことを千代子は「三十台の若さで死ねなかった」とあたかも自殺を迫られてもしょうがないような言い方をしていることである。

 普通なら「何で私が自殺しなくちゃいけないんですか」と反論するべきであろう。この時に千代子は山本五十六から受け取った手紙のほとんどを持ち去られてしまった。客観的に考えて山本五十六と千代子は機密漏洩等の重大な嫌疑を受けていたとみるべきではないだろうか。(参照文献「山本五十六の恋文 望月良夫著 考古堂書店より) 
事実、ミッドウェー海戦の直前昭和十七年五月二十七日付で山本から千代子に宛てた手紙の中で「・・・私の厄を引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後の御奉公に精根を傾けます。その上はー万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。二十九日にはこちらも早朝出撃して、三週間ばかり洋上にて全軍を指揮します。多分あまり面白いことはないと思いますが。今日は記念日だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれも大事にね。

 うつし絵に口づけしつつ幾たびか千代子と呼びてけふも暮らしつ (山本五十六 半藤一利 平凡社)
 うつし絵とは写真の事である、それにしてもこの手紙は重大な機密漏洩である。おそらく検閲官には見られていた可能性がたかい。山本五十六はそれまでにも度々死を覚悟しているような手紙を知人に送っているが、こちらの「万事を放擲して、二人だけになりたい」の方が本音だったのではないだろうか。
「身は鉄石にあらずとも、堅き心の一徹に敵陣深く切り込みて日本男子の血をみせむ。いざ待てしばし若人ら死出の名残の一戦を華々しくも戦いてやがて追うわれなるぞ」などと言っているが、実際には自分は全然敵陣深く切り込んでなんかいないではないか。真珠湾奇襲の時も、ミッドウェー海戦の時もガダルカナル攻防戦の時も、いつも前線からはるか後方の安全地帯に引っ込んでいたではないか。ただ、何も知らない国民はこのような山本の手紙をみて感激し、また頼もしく思ったことだろう。(前掲書参照)

 河合千代子こと新橋の芸者梅龍について山本の同僚で海軍省書記官であった榎本重治は戦後次のように語っている。「飲んだくれの芸者でね。芸の無い芸者で、ただ酒を飲んで酔っ払うだけ。乱暴な口をきくしね。五十六はそういうところを面白がっていたな。掘(悌吉)さんなんかも困っていたが、五十六は憎めない男ですからね。何くれとなく山本のことをかばい、我々もウワサが広がらないようにごく一部で止めて、知っていたのは幕僚と知人たちのごく少数でした。あれこれ書かれるようになったのは、戦後のことですよ」(ミッドウェー海戦 第一部 森史朗 新潮選書)

 戦後明らかにされた元艦長クラスの山本評は概ね、最悪と言ってもよいものであるが、陸軍の山本評も同様であり、東条の側近だった佐藤賢了中将などは山本五十六のことを「凡将中の凡将であり、その罪は万死に値する」と痛罵している。

 東条首相は4隻の空母と百余人のベテランパイロットを失ったミッドウェー海戦の真実を知った時に「これでもうお仕舞だ」と目に涙を浮かべていたということである。(「地獄のニューギニア戦線  栗崎ゆたか著 フットワーク出版)
 米国とオーストラリアを分断するために海軍が設置したガダルカナル島の飛行場を巡る攻防でも奪還が絶望的になり、多くの日本軍将兵が飢え死にしていることを知った東条は参謀本部作戦部の田中新一部長と服部卓四郎課長に「三万人を餓死させたらお前たちとは生きてお目にかからない。地獄で会おう」と言い切った。海軍に対しても「海軍が知らないうちにおかしな作戦をやって尻拭いを陸軍に頼む、そんな事をやられては困る。なぜ近くに飛行場を作らないのか。絶対優位の海軍力を持ちながらなぜ昼間の制空権を握れないのか等、皇族の竹田宮参謀に対して、海軍に対する怒りを顕わにしたという。(「遠い島ガダルカナル 半藤一利著 PHP出版参照)

 そもそもガダルカナル島をめぐる攻防は海軍がここに設置した飛行場を守るために陸軍が駆り出されたもので、それにもかかわらず、へっぴり腰とも思われる山本五十六の中途半端な戦い方のために、陸軍は戦死八千人、餓死者一万人を出してガダルカナル島からの撤退を余儀なくされた。狭量で短気な東条英機が山本五十六を見限らないほうが不思議である。しかし、真珠湾奇襲の国民的英雄である山本を罷免することは可能ではあるが、それでは国民に戦局がはかばかしい状況ではないことを明らかにすることになる。
 一番良いのは山本五十六が戦死か病死してくれることであるが、それを待っているだけの余裕はないから戦死するような状況を作り出すしかないーと東条が考えたであろうという推理はあながち荒唐無稽とはいえないのではないだろうか。
2009 11/17 19:14:34 | none | Comment(0)
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 日本側が最後通牒と受け取った強硬な内容のハルノートによって日本は米国との開戦を余儀なくされたが、このハルノートの草案の作成者は戦後ソ連のスパイとして摘発され疑惑の渦中に急死した、財務次官補ハリー・デクスター・ホワイトであった。
 そしてルーズベルト大統領のことも当時米国内において、共産主義者であると一部で評されていたそうである。(「ある科学者の戦中日記」P28)
 そうすると、日中の衝突から日英同盟の消滅、国際連盟からの脱退、三国同盟の締結、2.26事件の結果としての皇道派の敗退等一連の破滅への道程は主としてソ連の共産主義者によって巧妙に作成されたシナリオだったのではないかという仮説も成立するのではないだろうか。
226事件の際に青年将校達が担ごうとした真崎大将は「統制派は赤だ。統制派は赤の手先に踊らされていたのだ」と戦争中東部憲兵隊司令官大谷敬二郎大佐に語ったという。(昭和維新 田々宮英太郎 サイマル出版会)
 北一輝は財閥の三井から盆と暮に一万円づつ貰っていたそうである。当時の一万円といったら今日の三千万円くらいに相当する巨額である。北一輝が2・26事件に連座して処刑されたのに、その北に巨額の資金援助をした三井の関係者が不問にされたのは奇妙なことと言わねばならない。

「部下入営兵らの家庭がいかに貧困窮乏の状況を呈しているか、一方、満州事変当時発生した”島徳事件”のごとく自己の利益追求のために敵に重要物資を売り、それが敵の陣地構築に利用されて、満州の広野に転戦した第二師団の将兵の多数の戦死・戦傷の被害を出した。事変・戦争により利益を得るのは一部特権階級と財閥・悪徳業者・軍中央の一部幕僚のみである。国民生活安定のもとに国防を充実するのでなければ国家の安泰は確保できない。そのためには君側にあって民生の安定を度外視し、自己の利益追求にのみ狂奔する重臣・財閥・軍幕僚・新官僚を打倒して、天皇親政を確立するのでなければ、日本帝国の将来はきわめて暗澹たるものである・・・・・」(村中孝次ー銃殺刑)「特設軍法会議傍聴の記」金子桂(当時陸軍憲兵伍長)「歴人と人物 昭和五十六年二月号 中央公論社」

 処刑された栗原安秀は「余万斛ノ怨ミを呑ミ、怒リを含ンデ倒レタリ、我カ魂魄コノ地に止マリテ悪鬼羅刹トナリ我敵を憑殺セント欲ス。陰雨至レバ或イハ鬼哭啾々トシテ陰火燃エン。コレ余の悪霊ナリ。余ハ断ジテ成仏セザルナリ・・・」と恨みを書き残した。

 今日、東京渋谷の青年将校達が処刑された現場を訪れると青年将校等2・26事件の殉難者の慰霊のための立派な観音像が建立されており、そこからは青年将校達の怨念を感ずることはできない。幕末に坂本竜馬等と共に国事に奔走した勤皇の志士の生き残り田中光顕伯爵は「自分が宮内大臣だったら死刑にしないよう陛下に減刑の意見を奉ったであろう。国家に大切な勤皇の士を死刑に処したのは遺憾である」と述懐した。(二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房)
処刑された青年将校達の一生は普通に考えれば短かったが彼らは歴史において永遠の生命を得た。今もなお、故国を遠く離れた異境のジャングルや冷たい海底に白骨となって横たわっている彼らと同世代の無名戦士達とくらべればはるかに幸せといえるのではないだろうか。100年、200年後においてさえ、彼らの名が歴史から消えることはないだろう。以て瞑すべしというべきか。
2009 08/04 19:48:02 | none | Comment(0)
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 所詮、貧乏国の日本が米英やソ連などの大国に対抗して国防の備えをしなければならないという根本的な無理があったにもかかわらず、そうしなければならなかったところに当時の日本の宿命的悲劇があった。当時日本に滞在していたジャーナリストのフリーダ・アトリーは次のように日本を見ていた(「日本の粘土の足」 日本経済新聞社刊)

「日本のもっとも重要な輸出品は、原料である生糸で、農民の労働の産物である。それは半奢侈品で、ほとんどがその最大の競争相手であるアメリカ合衆国に向けて売られている。アメリカ合衆国から生糸の代金を得なければ、日本はその主要産業のために綿花を購入することもできないだろう。それのみならず、日本の全社会=経済構造が倒壊するだろう。それは、農民の大多数が養蚕から得られる副収入無しには生きてはいけないし、また、商人が生糸取引から得る利潤が、日本の資本蓄積の主要な源泉であるからである・・・実際の日本は半ば飢えた農民の国であり、この国の子供達は、一世紀前のイギリスのように長時間労働に苦しんでいる・・・その労働者は、団結権も自分達の利益を増進し中世的生活水準を改善するための政党を結成する権利も認められていない・・・監獄には囚人が詰め込まれ、証言を引き出すためにはアジア式の拷問が実行されている。平気で人を殺すギャングを警察が野放しにしており、根深く広い範囲の腐敗が国力を蝕み、その政治の世界を毒している。結局、巨富と赤貧の極端な対照の国であり、その社会は極度に緊張して革命は発酵している。
 実際の日本は、悲惨と不正、社会的憎しみ、復讐への情熱、異常な集団的興奮状態と排外的愛国主義が煮えたぎる大釜であり、地主と小作人、雇主と労働者、独占資本と中小工業家、男女、老若の間の衝突が絶えない国である・・・日本はすでに歳出の半分近くを軍事費に支出しており、残りの大部分は国債の利子に充てられている。日本は毎年、新規の国債を発行してますます拡大する財政赤字を埋めており、日本は実際に平和であった30年間(1905〜1935)に蓄えられた準備金をすでに使い果たしてしまった。これは、日本が征服から利益を引き出せぬうちに、日本国内の財政的・社会的崩壊に見舞われるかどうかの問題であり、西洋の金融勢力が暗黙のうちに支援する代わりに反対に回れば、日本は崩壊にいたるだろう」

 「『東京日々新聞』は次のように伝えている。『就学中の児童の身体的条件が国の将来を決定するであろう。児童の健康改善問題は、国防に関わる致命的問題である・・・』
この論説は続けて、年間の出生数は約210万人であるが、一歳から十四歳までの児童四十六万人が毎年多くは栄養失調のために死亡していると報じている。『東京日々新聞』は政府に対し膨大な(政府が処分できなかった)備蓄米を飢えた就学児童に食べさせるべきだと迫り、それ自身『危険思想』すれすれの怒りの爆発になっている。そのないようは次のようなものである。『多くの者が餓死の瀬戸際に立たされながら、他方では大量の米が買い手もつかずに浪費されている。社会のどこかがおかしいに決まっている』
 政府は文部省にわずかばかりの金額を与えて飢餓的状態にある児童に食べさせようとしたけれども、しかし、同時に、その備蓄米を売却することで米穀商人や地主に損害を与えるのを嫌がり、国内価格の三分の一の値段で海外にダンピングした。(前掲書)

 武藤山治(日本の実業家、政治家。鐘紡社長、時事新報社社長などを務めたが昭和九年鎌倉にて暗殺される)は次のように政財界を批判した「政治と経済、あるいは政界と財界が結託すれば、どんな悪いことでもできる。法律を逃れることによって、いかなる悪徳をやっても金儲けすればいいというふうな、風潮がある。五・一五事件が起きたのも、十月事件や三月事件が起きようとしたのも、結局、資本主義陣営みずからがその原因を与えてやったようなものだ。これを防ぐには、どうしても同じ資本主義陣営の中におる者が、お互いに牽制し批判し合って、いまのこの風潮をなくさなければならん。聞くところによると、番町会なる名のもとに財界の有力者たちが集まって、官界、政界と結託して悪徳な金もうけに狂奔しているという・・・」(語りつぐ昭和史 2 朝日新聞社)
 
2009 08/02 12:14:44 | none | Comment(0)
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 当時の政党政治が今と違って(?)信頼されていなかったことは今日我々が想像する以上のものがあったようである。非常にリベラルな思想の持ち主であった東大工学部教授の冨塚清や市川房江がメンバーであった「言論報国会」においてさえ日本を保つための必要条件の中に『政党を作ることは禁止』が掲げられた(他に天皇親政の実行、軍需生産を国営とする、陸海軍を一体とする、言論の暢達)ほどである(「ある科学者の戦中日記」冨塚清著 中公新書)

大川周明も宇垣一成に宛てた手紙の中で「既成政党の徹底して信を天下に失い、国民口々に議会政治を呪詛するに至れり」と書き送っている。(宇垣一成 悲運の将軍  棟田博著 光人社)

 軍人勅諭で禁止されていた軍人の政治への介入の道筋は十分にできていたのである。
 昭和九年十月十日、統制派の永田軍務局長と林陸相の決裁を得て、陸軍省新聞班は「戦いは創造の父、文化の母である」という書き出しで始まる「国防の本義とその強化への提唱」というパンフレットを発行し、高度な戦時体制を構築するために国民を洗脳しようとした。
 しかし、特に戦争の犠牲者からみれば「戦争は創造の父であり、文化の母である」というような言い草は怒りの対象となって当然であろう。美濃部達吉博士が「好戦的である」と批判したのももっともなことである。

この永田と対支戦略を巡って対立したのが皇道派の重鎮小畑敏四郎中将であったが、小畑の薫陶を受けた一人、三吉義隆元大佐は小畑の戦略を次のように要約している。(須山幸雄『作戦の鬼 小畑敏四郎』/日本陸海軍名将 名参謀総覧 別冊歴史読本 新人物往来社)

「昭和初期のわが国の仮想敵国は唯一つ、それはソ連、戦場は満州、作戦方式は内線作戦、つまり侵略した敵に対して中心的位置から放射線的に作戦行動して撃破する。
わが方からは絶対にシベリアに侵攻しない。その要領は一言で言えば、速戦即決で、機動力を使い、大兵力を集結して包囲懺滅する。つまり、皆殺し作戦だ。こうすればソ連は一度で懲りて二度と侵そうとはしないだろう。もちろんわが国からソ連に戦争をしかける意図は毛頭ない。しかし、ソ連の軍備は日を追うて激増しつつある現状からして、ソ連の準備がまだ充分でない時、討つとすれば早い方がよいに決まっている。しかし、わが国から戦争をしかけるのは得策ではない。まず満州での作戦を有利に遂行できるよう整備は急がねばならぬ。
このためには支那を味方にし、友邦国として手をつなぐことが絶対の前提条件である。
いま内乱続きだからと支那に手をだせば、支那に利権を有する英米ニ大国を刺激し、悪くすればこのニ大国とは敵対関係になる。これはわが国としては最も戒めなければならぬ点だ」、小畑敏四郎中将は二・二六事件の青年将校達が崇拝していた荒木貞夫大将に信頼され、かつ重用されていた人物なので、小畑中将の対支、対ソ戦略はそのまま青年将校たちのそれと一致していたとみて間違いはないだろう。

 谷田勇元陸軍中将は次のように語っている「2・26事件後、若干名なりとも和親を以って中国を包容せんとする皇道派将官、又はその同調者が省部に残留し、支那事変勃発に際し、石原少将の如き不拡大主義者が陸軍を支配していたなれば、支那事変は短月日に片が付き、従って太平洋戦争も回避し得たのではないかと著者は思うものである。しかしながら時の流れは人力では如何ともなしえなかったかもしれない。(「龍虎の争い 日本陸軍派閥抗争史」 紀尾井書房)

 では、もし2・26事件を引き起こした青年将校に代表される皇道派が陸軍から統制派を駆逐し天下を取ったら、5年後の日米開戦は避けられたであろうか? 私は極めて困難というか限りなく不可能に近かったと思う。その理由はルーズベルト政権がヨーロッパの戦争に介入するきっかけとして日本との戦争を望んでいたからである。しかし、それでも当時の軍部や政府、官僚、民間人の優秀な人材の英知をルーズベルトの罠に陥らないようにすることと、石油を確保することに結集することができたなら、米英との戦争を回避することは0パーセントであったとは思えない。例えば、油田地帯にだけ侵攻して相場より10パーセントほど高い価格で石油を強制的に購入するようにしたら、少なくとも世界の世論を敵に回すことは避けられたのではないだろうか。

 「1939年(昭和14年)9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって第二次大戦が始まったが、英も仏も、ポーランドの支援はしても、ヒットラーとの戦争には消極的であった。ルーズベルトはヒットラーやムッソリーニを激昂させるような要求をする一方、英・仏・ポーランドに対しては『ポーランドが攻撃された場合、ポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英・仏を援助しない。英・仏が即時対独宣戦布告すれば、英・仏はアメリカから一切の援助を期待しうる』と英・仏・ポーランドを対独戦へと威圧し、煽動脅迫を加えた。ヒットラーはもちろん、英・仏と戦うことを望まず、目指すものはあくまでもソ連であった。英・仏もまたドイツに宣戦することを欲していなかった。イギリスにしてもフランスにしても、ルーズベルトから絶え間なくつつかれることがなかったら、ポーランドのために宣戦することはなかった。チェンバレンは『イギリスに戦争を強いたのは、アメリカと世界のユダヤ人であった』と言ったということである」(アメリカ謀略秘史 上村健二著 泰流社)

 「当時ルーズベルト大統領の財務長官には、ヘンリー・モーゲンソーが就任していた。またモーゲンソーを支えていた財務次官にはハリー・デクスターホワイトがその任にあたっていた。この両者に共通しているところは、ルーズベルト大統領をして、なんとしても日米開戦に誘導していきたいという点である。
 モーゲンソーはユダヤ人である。ナチス・ドイツの勢力圏内においては、大量のユダヤ人達が迫害にあっていた。これを解決するのはイギリス一国では、とうてい不可能なことであった。
 アメリカがドイツと戦争でもしないかぎり、問題は解決しない。だが、当時、イギリスのチャーチルがいかにルーズベルトを対独戦に参戦するようにうながしても、大統領の意思とは別に、アメリカ国民が納得する状態にはなっていなかった。
 残る方法はただ一つ、日独伊三国同盟を利用することである。
日本を挑発して日米開戦に持っていけば、ドイツは三国同盟の立場からアメリカと戦端を開くかも知れない・・・」
(日米開戦の真実  新井喜美夫著 講談社新書)
 「1940年頃のアメリカに『イギリスを助けてヨーロッパの戦争に参加しょう』と考える人は非常に少数だった。1920年代のアメリカには『第一次世界大戦時の反ドイツ・プロパガンダが行き過ぎだった』との反省から親ドイツ感情が戻ってきていたし、30年代には、議会の調査などで『アメリカの大企業やイギリスが自分たちの利益のためにアメリカを戦争に引き込んだ』との議論が盛んになされたこともあり、アメリカ国民はヨーロッパの戦争に関わることに極端に警戒心を持つようになっていた」
(アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか  菅原出 草思社)

 史上初めて大西洋を航空機による無着陸単独横断に成功した空の英雄リンドバーグも「アメリカを戦争に引き込もうとしている勢力が3つある。それはイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権だ」と激しく非難した。(前傾書)

 一方、日本側にも日本を戦争に引きずり込むことを画策していたグループが存在した。

「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯」で始まる敗戦の年昭和二十年二月の昭和天皇への上奏文の中で近衛文麿は軍内部の共産主義者が計画的に日本を戦争に導いてきたと指摘している。
「抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、これら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座侯。支那事変当時も、「事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯・・・・・」
陸軍兵務局局長であった田中隆吉少将も次のように近衛の主張を裏付ける発言をしている。
「転向右翼は日本革命の手段として戦争を是認し、これをアジアの弱小民族解放の線に沿わしめ、日本と英米との衝突を激発せしめる戦術を考えていた」(日本軍閥暗闘史 田中隆吉著 中公文庫 P110)

「何が故に統制派は日中戦争の不拡大と、その速急なる解決に反対したのであろうか。これは、事変の発展と永続は、必然の結果として、国防兵力の増大を来し、これに伴う軍用資材の需要の増加はまた国内の経済機構に計画性をもたらすものであるから、手に唾せずして、その理想なる国防国家建設と国内経済機構の変革を行い得ると確信したからに他ならない。一言で言えば、彼ら統制派は日中戦争を彼らの政治理念達成の具に供したのである。
日中戦争の中途、武藤章氏が軍務局長となるや、左翼の転向者(私はこれを転向右翼と名づけた)が、彼の周囲にブレーンとして参加した。陸軍省の部局に転向共産主義者が召集将校として起用されたのはこの頃である。統制派政治軍人の政治理念はこれがためにさらに飛躍した。すなわち大東亜共栄圏建設の理念である。この理念はコミンテルンの被圧迫民族解放の理念と表裏一体のものである・・・・・統制派の政治軍人が軍人の本分を忘れ、濫りに政治に関与し、国民に号令しつつあるとき、私のいわゆる転向右翼はすでに統制派内部に巣喰い、彼ら転向右翼が目指す祖国敗戦の方途を画策しつつあった。政治にも思想にもはたまた経済にもほとんど無知な軍人が、サーベルの威力により、その付焼刃的理念を政治行動に移して強行し、自己陶酔に耽りつつあったとき、巧妙にして精緻なるこの種の策謀に乗せられたのは当然の帰結である」(前掲書 P92−93)

 共産化しようと狙いを定めた国を戦争に引きずり込み敗戦に導いて国家の指導者と国民を離反させることによって共産革命を実施させようとする作戦は「敗戦革命」いわれ、ロシアの革命家レーニンが考えた方法である。



 
2009 07/18 13:46:42 | none | Comment(0)
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