通説にとらわれない新しい歴史解釈
インドネシアのジャワ島には古来、十二世紀の国王ジョボョの予言という不思議な言い伝えがあった。それは北方から黄色い民族が空から降り立ち、圧制者を追い払い我々を解放してくれるというものであった。日本軍がオランダの植民地であったインドネシアからオランダ軍を駆逐したことは予言の実現とインドネシア国民からみなされ、昭和十七年二月十四日にスマトラのパレンバンの油田地帯に空から舞い降りた陸軍落下傘部隊の三百余人の終結地には自分の娘をつれたインドネシア人が「この娘の体内に神の子を宿してほしい」と殺到したため、他の部隊の将兵たちは羨望し嫉妬したそうである。

また終戦後初めて組閣した東久邇宮殿下がフランス留学時代、元首相のクレマンソーから「アメリカは太平洋に進出するためには日本が邪魔であるから、将来必ず日本に戦争をしかけることになるだろうが、戦えば日本は必ず負けるので決して短気を起こして挑発にのってはいけない」と忠告されたそうである。また、東久邇宮が日本からきた画家だと身分を隠してある占い師に占ってもらったところ、占い師は「あなたは画家ではない」と否定し、「あなたは将来日本に大乱が起きたときに首相になる運命にある」と予言したそうである。
(参照文献:商社マン戦中裏日記 矢野成典 日東出版社/虚構の軍神 帝国海軍マサカ物語 山本昌雄 東京図書出版会)

 日本と欧米諸国との決戦は運命づけられていて避けることはできなかったのだろうか。
太平洋戦争の原因としてドイツとイギリスの戦いに介入したくてしょうがなかったルーズベルト大統領の罠にまんまとはまったことが直接の原因であろうが、もちろん原因はそれだけではなく、英米に代表される白人のアジア支配に対する有色人種の事実上唯一の抵抗勢力であった日本の反抗という性質があったことも否定できないだろう。いつも殴りつける相手を探しているような米国にとって(これは私の偏見かもしれないが)、対外的には露骨な武力外交を行い、国内的には残虐な特高警察による圧制をしく日本はうってつけの相手であったろう。

昭和二十年(1945)九月二日ミズリー号上で降伏調印式が行われこの日から昭和二十七年(1952)四月二十八日まで、約六年八ヶ月に及ぶ占領時代が始まり、日本は有史以来初めて外国の占領軍の支配下に置かれることになった。
日本の降伏調印式が行われた戦艦ミズーリの砲塔下の側壁には日本の代表団が見えるところに92年前の幕末に開港を求めて日本に来航したペリーの旗艦ミシシッピーに掲げられていた色褪せた星条旗が額に入れられて飾ってあった。
これによって米側は自分たちはペリー提督のごとく侵略者としてではなく第二の開国をもたらすために日本に来たものであるということをアピールしようとしたものであろう。この辺は当時の米国人は芸が細かった。
2011 03/30 21:00:21 | none | Comment(0)
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 戦争は若者から青春と未来を奪う。東京オリンピックの開会式が行われた神宮外苑国立競技場と同じ場所でその二十年前の昭和十八年十月に出陣学徒壮行会が行われた。学生に対する徴兵猶予が廃止されてから最初の出陣であった。

 東条首相や送る側の学生代表の壮行の辞に対して東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎が出陣学徒を代表して烈々たる音声で答辞を述べた。
「生等今や見敵必殺の銃剣を捧げ、積年忍苦の精進研鑽を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん、生等もとより生還を期せず、在学学徒生諸兄、亦遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず、斯くのごときは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行ずる信条なり、生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を奮励し、強靭なる体躯を堅持して決戦場裡に突進し、誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位のご期待に背かざらんとす・・・」

 ただこの答辞のなかで「生等(せいら)もとより生還を期せず」と悲壮な覚悟を述べた江橋氏は戦後まで生き残って大学教授になったが、本人が貝のように口を閉ざしているためどこの戦場に赴任して勇戦したかは詳(つまび)らかではない。あんまり詳しく聞こうとすると「私もいつまでも出陣学徒じゃないんだ」と機嫌が悪くなるらしいです。
 次々とグラウンドから列をなして門外へ去って行く出陣学徒たちにスタンドにいた女子学生たちは泣きながら走り寄って行った。
 その中の一人であった、歴史作家の杉本苑子さんは次のように回想している。
「昭和三十九年十月十日、神宮外苑国立競技場で、東京オリンピックの開会式が開かれた。
スタンドで開会式を観た作家の杉本苑子さんがこんなふうに書いている。
「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグランドに立って見送ったのである。場内のもようはまったく変わったが、トラックの大きさは変わらない。位置も二十年前と同じだという。オリンピック開会式の進行とダブって、出陣学徒壮行会の日の記憶が、いやおうなくよみがえってくるのを、私は押さえることができなかった。天皇、皇后がご臨席になったロイヤルボックスのあたりには、東条英機首相が立って、敵米英を撃滅せよと、学徒兵たちを激励した・・・
 暗鬱な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみであった。私たちは泣きながら征く人々の行進に添って走った。髪も体もぬれていたが、寒さは感じなかった。おさない、純な感動に燃えきっていたのである。
オリンピックの開会式の興奮に埋まりながら、二十年という歳月が果たした役割の重さ、ふしぎさを私は考えた。同じ若人の祭典、同じ君が代、同じ日の丸でいながら、何という意味の違いであろうか。
あの雨の日、やがて自分の生涯の上に、同じ神宮競技場で、世界九十四カ国の若人の集まりを見るときが来ようとは、夢想もしなかった私たちであった。夢ではなく、だが、オリンピックは目の前にある。そして、二十年前の雨の日の記憶もまた、幻でも夢でもない現実として、私たちの中に刻まれているのだ。
 きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られた今日が、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだー」(『東京オリンピック』講談社)



 太平洋戦争における日本人将兵の死者は230万人(他に一般民間人の死者は80万人)でその過半数である140万人は餓死と病死であった。兵站(補給能力)を軽視して攻勢終末点を超えて戦線を拡大した愚かな将軍たちの犠牲者である。その典型的な例は後に「餓(ガ)島」と呼ばれたガダルカナル島の攻防戦で、オーストラリアを米英軍から遮断する目的で海軍はここに飛行場を設営したが、日本側が戦闘機を配置するまでの間隙をついて、完成と同時に突如二万人の米軍が六十隻の護衛艦船を伴った三十隻の輸送船で上陸してきた。当時ガダルカナル島の日本側兵力は設営隊二千の他には海軍陸戦隊二百四十人のみの兵力であったため、あっけなく完成したばかりの飛行場を米軍に提供することになってしまった。
この飛行場を奪い返すために日本軍は三万四千人の将兵を兵法の鉄則に背いて逐次投入したが、結果として二万名が戦死しそのうちの一万一千人が栄養失調などによる戦病死であった。あるアメリカの歴史家はこれを「信じ得べからざる人命の浪費」と評した。軍部はガダルカナル島の奪還を不可能であることを認めると国民には「転進」と称して残存兵力一万二千名を撤退させた。その中の生き残りの一人である高崎伝元上等兵は「腹が減ってはいくさにはならんとはよくいいますが、日本の最高幹部は、腹が減るどころか兵隊を飢えさせてまで戦争をやらせたわけですよ。日本の兵隊はアメリカ軍に負けたんじゃなくて、日本の最高幹部に負けたから死んだんだと思いますね」と述懐している。(参照文献:証言・私の昭和史  テレビ東京編 文春文庫)

 本来、当然のことながら国家の政府、特に軍部は国家と国民を保護する役目をになっているはずであるが、太平洋戦争における日本の政府と軍部はこれと逆の事をしたように私は思わざるを得ないのである。結果から見る限り、どうひいき目に見ても総体的にみた当時の政府と軍部は国家のリーダーとしては落第点しか付けられない。

 現日本国憲法においては主権者は「国民」である。この点についてはGHQ側は頑として譲らなかった。これによって国民の総意に反する(承認しない)戦争は違法という法的根拠が与えられたのである。具体的には九条第二項の「国の交戦権はこれを認めない」という規定である。
 こんにち日本が抱える問題の多くは現憲法の欠陥に基づくというより、憲法上の主権者である国民の良識が政治に十分に反映されていないことに起因すると私は思うのである。
2011 01/21 18:54:34 | none | Comment(2)
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 今日でも日本国憲法は敗戦の結果として米国人が一週間ばかりで作り上げ、日本側に押し付けたものであると信じている人が多いようであるが、日本国憲法案作成に参画したB・シロタ女史は後年「米国の憲法よりも良い憲法を作ったのだから押し付けたとは言えない」と語っている。

 米国の憲法草案作成チームには憲法の専門家がいなかったとも指摘されることがあるが、それをいうのなら大日本帝国憲法を作成した伊藤博文や井上毅、伊藤巳代治も憲法学者ではなかった。政府の法律顧問であったドイツ人のロエスレルやアルバート・モッセの協力を得てプロシア(ドイツ)の憲法を参考にして作成されたものだ。

 日本国憲法草案作成の実態について草案作成チームの統括責任者であったケーディス民生局次長は日本の民間グループによって作成された多くの憲法草案を参考にしたことを次ぎのように認めている。
「日本側の試案は、新聞に公表されたものであれ、GHQに持ち込まれたものであれ、すべて参考にしました。ラウエル中佐が日本側試案を収集し、起草委員会が利用できるようにしてくれました。その中には、民間の研究団体の試案や政党の試案などもたくさんありました」(GHQの人びと 竹前栄治 明石書店)
だからあのような短期間で草案を作成できたのであり、実質的には日本側で作られた部分が殆んどで草案の作成というよりも編集に近いものだったのではないだろうか。そういう意味で現日本国憲法を純粋な米国製の憲法とするのは誤りであろう。
 大日本帝国憲法にしてもドイツの憲法を参考にして、ドイツ人の政府法律顧問の協力を得て作られたものであり、そもそも議会制民主主義の制度も欧米で作られたものを取り入れたものではないか。君が代だって編曲は外国人によって行われている。コンピューター、自動車やら、電話、映画、レコードなど米国人が発明したものの恩恵を散々享受しておきながら日本国憲法の草案を米国人が作ったのはけしからんと考えるのはおかしいのではないだろうか。恨むのだったら新時代に適合する憲法を作る能力のなかった政府の担当者や日本に敗戦をもたらした責任者を恨むべきであろう。

 改憲論者のなかには「今の憲法は米国が日本の復讐を恐れて日本を弱体化するために作ったものだ」という迷信がある。その根拠の代表的なものとして「第九条は侵略に対して無抵抗主義である」という主張があるが、これは100パーセント誤解である。日本国憲法の英訳版で九条の項をみると奇妙な事に気付く、他の条文がそうであるように通常、法律や契約文ではshall「〜するものとする」が使われるのにこの九条だけwill(意志未来で〜せんとする)になっているのである。wllは「確実な未来」を表す場合もあるが、九条の英訳では「意志未来」と解釈することも可能である。そもそも「国際紛争を解決するための手段として武力による威嚇や武力の行使はこれを永久に放棄する」の「紛争」も英訳ではdisputeであり、これは「争論(口論)」という意味であり「武力による争い」の意味ではない。よって九条が禁止しているのは「国と国との争論を解決するために武力を用いたり、武力をちらつかせて脅したりしてはいけない」ということである(松本国務相はdisputeを「争議」と訳しました)。
 例えばブッシュ政権とイラクのフセイン政権による大量破壊兵器の存在に関する争論で米国が武力によってこの問題を解決したが、あのような行為は日本においては日本国憲法九条に照らした場合憲法違反ということになる。
 九条の条文の日本側作成者である芦田均も日本国憲法が公布された日と同日に発行された著書の中で「九条は自衛戦争まで否定したものではない」と断言しているのである。確かに「マッカーサーノート」には「自己の安全の為の戦争も放棄する」となっていたが、これはケーディスが「現実的ではないと」上司のホイットニーやマッカーサーに確認もせずに独断で削除してしまった。その後もこの件は米側でも日本側でも問題にならなかったことを考えると、このアイディアの主唱者はマッカーサーでも幣原首相でもなく、ケーディスが暗示しているように皇室の周辺からでてきた可能性が強いと思われる。新憲法にも改憲条項があるし、将来軍隊が必要になったら改憲すれば良いという思惑だったのであろうか。

 米軍が戦争中、国際法を無視した無差別爆撃で日本の多くの民間人を惨殺した歴史は消しようがない。米国が将来の日本の復讐を恐れたというのは事実であろう。将来小型の原爆が発明され、日本が何らかの手段でそれを入手し、それを搭載した神風特攻機が米国を攻撃するかもしれないーという悪夢のシナリオは当然考えたことであろう。
だからこそ、米国は様々な方法―農地改革、財閥解体、治安維持法の廃止、言論の自由の保障等の民主化改革で日本人の生活を改善する必要があったと思われる。その根本となるものが民主主義的な新憲法の作成であったろう。

 ワシントンで三月七日に開かれる極東委員会の前になんとしても新憲法案を完成させて届けるためには東京を六日の朝に出発しなければならないため、どうしても前日の五日中に憲法を完成させる必要があった。日米双方の担当者の徹夜の作業によって五日午後四時ごろ新憲法草案は完成した。
ホイットニー准将の喜びようは尋常ではなく白洲次長、佐藤部長たち日本側の労を最大級の讃辞でねぎらった。おそらく、ホイットニー准将は日本側の誰よりもこの新憲法の価値と日米両国民にもたらす利益を確信していたのだろう。

2010 11/12 19:42:40 | none | Comment(0)
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 私が学生だった頃、ある一人の歴史の教諭から戦時中の思い出話を聞いたことがある。なんでも若い未婚の男女が一緒に歩っていると警官に咎められたので妹と一緒に外出するときなど後ろを離れて歩かせたそうである。
 またこの先生は若いころいわゆるアカ(共産主義者)として活動したことがあり、そのために警察に拘束され、留置所に入れられたことがあった。その時に近くから拷問で爪を引き剥がされている女性の凄い悲鳴が聞こえたそうで、取調べの刑事に「お前たちも気をつけないとあのような目に遭う」と脅かされたそうである。
私はこの話自体は長い間半信半疑だったのであるが、1929年(昭四年)ニ月八日の衆議院予算委員会で、山本宣治議員が警察で行われている様々な拷問ー足を縛って逆さまに天井からぶら下げたり、生爪をはがして苦痛を与えるというような拷問があることを暴露して政府を追及しているので実際そのような事実は存在したのだろう。事実、当時多くの政治犯(無実の者も含めて)が拷問により殺されたことは当時の記録が証明している。
山本宣治は「民衆を弾圧し戦争への道を開くものである」と治安維持法に反対したため、元警官の黒田保久ニに宿泊していた神田の旅館で刺殺された。犯人は逮捕されたが僅か六年程で釈放されてしまった。

 それにしても狂った時代であった。大学生が喫茶店や遊技場でブラブラしていると警官に拘束された。昭和十三年(1938年)二月十五日から三日間、「非常時局をわきまえず学業を放擲して不良行為に耽る学生を取り締まるべく」東京の学生街や盛り場で警視庁による『学生狩り』が行われ7373人が検挙されたという今日からみるとまるで嘘の様な実話がある。(証言・私の昭和史2 文春文庫)

「昭和15年(1940年)3月28日、内務省警保局は、映画、芸能、レコード会社代表を招いて芸能人の芸名で日本人らしくない名前をはじめ風紀にかかわるような芸名、皇室や英雄等の尊厳を傷つけるような芸名を粛正して欲しいと伝えた・・・・・内務省が”やり玉”にあげたのは、歌手のディック・ミネ、ミス・コロンビア、サワ・カッパのほかミス・ワカナ、尼リリス、星ヘルタ、エデ・カンタ、南里コンパル、エミ石河の横文字がらみの芸名から宝塚の御剣敏子、園御幸、椎乃宮匂子。映画の熱田みや子、吉野みゆき、藤原釜足ら、何やら皇室っぽい芸名にも当局は厳しく口を出した。
 御剣は皇位の印である三種の神器の一つである草薙の剣を指すと考えたのだろう。御幸は天皇のお出ましを指し、椎乃宮は皇族の宮とまぎらわしく、熱田みや子は熱田宮を連想させ、吉野みゆきは吉野御幸の平がな版、藤原釜足は藤原鎌足を悪ふざけをしてつけた、とでも考えたのだろうか。
 この時、粛名を迫られた一人に漫才師の平和ラッパがいた。翌年、太平洋戦争に突入するという時に、進軍ラッパならともかく、平和ラッパでは具合が悪かったのだろう・・・・・昭和16年(1941年)12月に入ると、芸能人の芸名使用が禁止となった。大河内伝次郎が大部勇、阪東妻三郎が田村伝吉と本名を名乗ることを要求された・・・・・
 敵性語追放はスポーツ、音楽、教育現場など庶民の生活の隅々にまでおよんだ・・・・・ベースボール界は敵性語の山である。昭和18年のシーズンからストライクは正球、ボールが悪球、ファールは擦球、バントは軽打、アウトは退け、あるいは無為、セーフがよし、あるいは安全、グローブは手袋となった・・・・・
 音楽の世界になるとレコードが音盤、ピアノが洋琴、アコーデオンが手風琴、バイオリンが携琴、ドラムは太鼓となった。音楽関係者によると、『サキソフォンは、金属製先曲音響発生器といった』というが、当時のコチコチの軍部指導者ならいいかねないことだ。ドレミファソラシドもいけないことになった。代わってハニホヘトイロハである。これは音感的にいっても、極めておかしな改悪であった・・・・・

 さらに外夷語追放は広がった。バスの車掌が使う『オーライ』は『発車』に、『バック』は『背背(ハイハイ)』になった・・・・・当局はネオンサインの洋風店名、商品名にも目を光らせた。何でも漢字にすればいいのだろうとばかり、人形の『マネキン』を『招金』と改称、さすがの警視庁を苦笑させた・・・・・マッチを燐寸、ガスを瓦斯と読ませた。バケツは馬尻などとへんなあて字をした・・・・・」(狂気の軌跡 伊藤一男 PMC出版)

作家の高見順も次のような役人の発言に驚かされている。

「敵の空襲で、損害だ損害だというが、頭の考え方をちょっと変えてみると、焼け跡から何万貫という銅が出てくる。銅山で必死の増産をやっても、おっつかない多量の銅が家の焼けた跡から出てくる。そうなると空襲はむしろありがたい。損害どころかすこぶるありがたい話なのだー栗原部長は昨日こういった。家を焼かれた国民はまことに気の毒だが・・・そういう一言が今出るか今出るかと待っていたが、絶対言わなかった・・・・・高見順日記七月二十七日ー内閣情報局主催の「国民士昂揚に関する啓発宣伝実施要領」で会員を集めた際の話(銃後 川島高峰 読売新聞社)

 また、日本のロケット開発の父である糸川英夫博士(戦時中に隼、鐘馗等の名戦闘機も設計した)は戦時中、軍部が「B29が来たら竹槍で落とすんだ」と言って竹槍訓練をさせたとき、「こんなもので落とせるはずがない」と言ったら、「お前は精神力がなっとらん」とものすごく怒られたそうである。(「日本が危ない」糸川英夫著 講談社)

 まことに小学生程度のおつむの持ち主によって政治が行われていたことが良く分かる。戦後、マッカーサーが「日本人は十二歳の子供だ」と評したのはまったく正しい。

 ジャーナリストの清沢洌は当時の政治の愚劣さを「暗黒日記」のなかで痛烈に批判している。
1942年12月9日
東京市では、お菓子の格付けをするというので、みな役人が集まって、有名菓子を食ったりしている・・・
役人がいかに暇であるか。総て役人本位だ。役人のために政治が行われている。
1943(昭和18年)
1月8日
ジャパン・タイムスをニッポン・タイムスに改名
1月13日
政府、情報協議会を設置す。従来、単にファナティックの集合なりし情報局が改組されるかどうか。今は第五等程度の頭脳が、憲法や法律を蹂躙してやっている。新しい時代に言論自由確保の必要。
(筆者註:「ファナティック」は「fanatic」で「狂信者」の意味
2月17日
ゴルフは今度打球というようになった。
「打球練成袋」とゴルフ・バッグをいったらどうかと皆で笑う。テニスの英語も、日本語にした。テニスを生かして言葉を日本語にす。小児病的な現代思想ここにもあり。
5月15日
アッツ島に敵軍が上陸すと新聞は伝う。いかに犠牲の多きことよ。かつてこの島を熱田島、キスカを鳴神島と命名し、大本営発表にもその名がある。しかも今はアッツ島と発表す。とられた時のことを考えての結果ならん。名前をかえることの好きな小児病の現実暴露だ。子供の知識所有者が政治をやっている。
7月13日
軽井沢のこの別荘に巡査が来て防空準備をしろと注意したそうだ。この山の中の一軒家に防空用意を強うるところに、巡査の画一的ーしたがってまた常識の欠乏を知ることができる。
7月31日
毎朝のラジオを聞いて常に思う。世界の大国において、かくの如く貧弱にして無学なる指導者を有した国が類例ありや。国際政治の重要なる時代にあって国際政治を知らず。全く世界の情勢を知らざる者によって導かるる危険さ。
8月20
「日本の当局者の頭脳はインサニチーに近いものといった意味のことあり。いかにも鋭くうがっている如く感ぜざるを得ない・・・
(筆者註:「インサニチー」は「insanity」で「狂気、精神異常、精神病」の意味)
10月17日
明日で東条内閣二周年目を迎える。この内閣に対する批判は、後の歴史家がなそう。しかし、これくらい知識と見識に欠けた内閣は世界において類例がなかろう。
1944(昭和19年)
3月10日
世界においてかくの如き幼稚愚昧な指導者が国家の重大時機に、国家を率いたることありやー
4月15日
また閣議で配給機構が変わった。閣議というのは、切符や、魚の小売りのことばかり相談しているところらしい。とにかく、役人は外に用がないのと、また統制の面白さに図ばかりひいている。左翼全盛の頃からの流行だ。遺物だ。
昨日は帝国銀行と十五銀行、安田と昭和、第三を合併した。資本国営の前提だ。しかし三井と第一の合併も、まだシックリ行っておらず、弊害がかえって百出の有様だ。健全な統制のためには一応待って第二段階に進むべきではないか。ここにも「統制業者」の道楽がある。小汀利得は常にいう。役人という奴は、どうしたら国をつぶすことができるかと、そればかり苦労していると。奇警な言だが真理あり。
(筆者註:小汀利得は金解禁当時、これに反対した数少ない言論人の一人で当時は中外商業新報社経済部長、戦後日本経済新聞社顧問)
8月25日
軍部はまだ、最後には神風が吹き、戦争が大勝利を以て終わることを信じているそうだ。
1945(昭和20年)
1月30日
日本の国民は何も知らされていない。何故に戦争になったか。戦争で損害はいくらなのか、死傷はどうなのか。これを総合的に知っている者は日本において誰もなし。一部の官吏はある事は知っているが、他の事はしらないのである。今度の議会でも多少問題になったが相変わらず駄目だ」

二月二十日

中央公論の藤田親昌君が、一ヵ年の牢獄ー実は留置場から出てきたが、警官はむやみにぶん殴る。身体がはれあがる。ぶん殴ったあとで体操をやらせる。聞いただけでも熱血沸くものがある。日本には憲法もなければ、法治国家でもない。ギャングの国である。警察でどんなことをされても仕方がないそうだ。正木(旲)君がそういうのである。正木君は死ぬつもりで闘っているという。さもあろう。正木君は、また、東条前首相に対し、堂々と悪口ー正当な批評をした恐らくは唯一の人であろう。
(暗黒日記 清沢洌 岩波文庫)

 狂気の時代に終止符を打ったのは敗戦とGHQであり、日本国民は治安維持法等の悪法によりがんじがらめにされていたため、ついに自らの手で改革することはできなかった。


2010 11/08 21:02:25 | none | Comment(0)
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 山本五十六の巡視に同行する予定だった日映のカメラマンで海軍報道班員だった吉田一氏は前日(四月十七日)の夜遅くに突然同乗をキャンセルされた。憤慨した吉田氏は巡視スケジュール計画の責任者だった南東方面艦隊航空乙参謀の野村了介に直接強く抗議したが「GF(連合艦隊)からの指示である」とかたくなに拒否されたそうである。
 結局、危ういところで吉田氏は命拾いしたわけであるが、この野村参謀が戦後、この山本五十六の巡視計画について事実と異なる奇妙な発言をしているのである。それは「最初の計画では護衛戦闘機の数は十八機だったが、イ号作戦の結果、ラバウルの戦闘機隊の整備が間に合わないため、当日になって九機しか出せないということになり・・・・・」「連合艦隊参謀と相談した結果、ソロモンの敵も弱ったようだし、ブインの味方の零戦もいるのだから九機でもよかろうということになった」「九機のうち第二小隊長機がエンジン不調のため列機と共に引き返したため、結局ブインまで行ったのは六機だった」と証言しているのである。

 「当日」になって実際に同行できる護衛戦闘機の数が明らかになるというのもおかしな話であるが、この「九機」という数も「第二小隊長機が引き返した」というのも嘘であることを戦後、証言した生き証人がいたのである。山本長官の護衛に失敗した六人のパイロットは次々と激戦地に出動させられて六人のうち五人が戦死したが、ただ一人柳谷飛兵長だけが戦闘で右手首切断の重傷を負って内地に搬送されたためそのまま戦後まで生き残ったのである。
 この柳谷氏の証言によると「いまになってみれば、どっちでもいいんですがね。でもね、あの日、第二小隊長が引き返したといわれるが、あの日の第二小隊長機は日高上飛曹ですよ。列機までが引き返したそうですが、その第二小隊の三番機が私だったんですからね。あの日、ラバウルの東飛行場を飛び立ったのは、第一、第二小隊の二つだけで、最初から六機だったことは間違いありませんよ」(参照文献:六機の護衛戦闘機 高城肇  中公文庫)

 恐らく野村参謀は山本長官を護衛したパイロットの内一人が戦後も生き残っていることを知らずにあのような嘘を言ったのではないだろうか。でもなぜそのような嘘を言わなければならなかったのだろうか?私はここに陰謀の存在の臭いを感じるのである。単純な遭難死とは思えないのである。

 山本五十六を将兵の慰問という口実で危険空域に誘き出して米軍の手によって戦死させるために、イ号作戦の結果、敵航空兵力もだいぶ弱ったので護衛機の数はそれほど多くなくても大丈夫でしょうと山本一行を説得したというのが私の推理である。
 この巡視スケジュールの作成者である野村了介参謀も当日まで山本と同じ機に同乗する予定であり実際に当日の朝、一番機の機内で山本たちの一行を待っていたと戦後証言している。それが突然連合艦隊から同行者二名が追加されたので野村参謀は急遽同行を取りやめたそうである。(戦後、月刊丸に寄稿した手記より)、何か非常に怪しい話であると思うのだが。

 米側で解読した暗号ー4月13日付で南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将と三川軍一第三艦隊司令長官の連名で発信された機密第一三一七五五番電には明白に「〇六〇〇中攻ニテ(戦闘六機ヲ附ス)ラバウル発」となっているのである。最初からー5日前から護衛戦闘機の数は六機と決まっていたのだ。
 暗号文の中で一式陸攻の機数や訪問する全体の人数には触れずに護衛戦闘機の数だけ「六機」と連絡するというのも奇妙である。もしこれが「三十機」となっていたら暗号を解読した米側も攻撃を躊躇したのではないだろうか。

「トラックからラバウルに来ていた第三艦隊司令長官の小沢治三郎中将は、長官の前線視察は危険であると取りやめを具申した。しかし山本長官が言うことを聞き入れないため、連合艦隊の先任参謀黒島亀人大佐に言った。『どうしてもいかれるなら、戦闘機が六機ぐらいじゃダメだ。戦闘機なら俺のところ(第三艦隊)でいくらでもだすから、参謀長にそう言えよ』しかし黒島は、『大事な戦闘機だから六機でいい』というのが長官の意向だと、取り合わなかったという」
(ヤマモト・ミッション 平塚柾緒 PHP研究所)
 
 いずれにしろ山本五十六は哀れな死に方をしたものである。最初に山本元帥の遺体を検死した蜷川親博陸軍軍医大尉の実弟である蜷川親正氏はその著書「山本五十六の最期」のなかで「事故発生の十八日は、墜落現場のアクちかくには陸軍の歩兵二十三連隊(浜之上大佐指揮)が駐屯していた。ひさしぶりの休日のため、墜落して行く飛行機を、多くの将兵は敵機と思って見物していた。この陸軍部隊になぜ、的確に遭難状況をはやくつたえなかったのであろうか。もし、救出を依頼しておけば、九時か十時にはつたえ得たはずである。五千名もいた連隊の、せめて千名いや五百名でもよい、墜落炎上している方向を中心に、一列横隊で前進して捜索するという『面』の捜索を実施しておれば、その日の昼、または午後そうそうには、かならず発見しえたはずである」ともっともな疑問を呈しておられる。

 山本は出発直前にマラリアで入院していた部下の三和参謀に副官の福崎を通して「当分のあいだ見舞ってやれないが、決してあせるな。無理してもいかん。くれぐれも気をつけて、十分静養するように」との伝言を伝えさせた。この「当分の間見舞ってやれない」という発言が日帰りの視察日程なのに奇妙なこととして山本のあの視察は自殺覚悟のものだったのだという根拠の一つになっているようであるが、山本自身は当日の周囲の雰囲気から「危ない」と察したのではないだろうか。

 墜落後死亡するまでの長い一日に何を思ったであろうか、恐らく罠にかけられたことを悟ったのではないだろうか。

 さて、今日、山本五十六が姿と名前を変えて国の運命を左右する地位に就いているということはないだろうか。そうでなければ幸いであるが。
2010 10/15 19:10:40 | none | Comment(0)
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 ミッドウェー海戦は山本五十六とスプルーアンスの戦いであったが、控えめに見てもこの二人の提督の能力と人間性には悲劇的なほどの差があった。ギャンブラー山本に対して、スプルーアンスは「冷静沈着でその決心はきわめて堅確であったが、よく部下の意見に耳を傾け、広く分散した部隊の状況を常に明確に把握し、しかも好機に際してはすかさずこれを利用した」
「戦争も終わりに近づいた頃、仲間の提督がスプルーアンス
に対して指揮官は戦いに勝つためにいかにすべきかを決定するにあたり、賭けをしなくてはならないといったことがある。このときスプルーアンスは、もしそうだとすれば、彼だけはその例外の一人であると答えた」

「1944年末、スプルーアンスは真珠湾の日本兵捕虜の収容所の前を通りかかった。ここにはアメリカ本土へ移されるのを待っている捕虜の収容所があったのである。
彼は思わず捕虜収容所の鉄条網に近寄り、身振りを混じえながら簡単な英語で話しかけた。そして驚いている捕虜たちに、『君たち日本軍の戦闘ぶりは立派だ』と何度も何度もいうのであった。四つ星の肩章をつけた海軍大将が、敵に向かって熱心に話しかけている光景をみて、アメリカ人も日本人も驚きの目をみはった。
しかし、ムーアは少しも驚かなかった。彼はスプルーアンスに同行して病院へ、アメリカ軍および日本軍の負傷者の見舞いに行ったことがあった。このとき、スプルーアンスは戦いに傷つき、あるいは不具となった将兵に対し、敵味方の区別なく心から同情の気持ちを表したのであった。彼はアメリカ軍の負傷兵だけでなく、日本軍の負傷兵についても非常な思いやりを示したのである」、またスプルーアンスは子供の頃世話になった二人の叔母に対する経済援助をまだ経済的にあまり余裕のなかった少尉の頃から生涯に渡って継続した。顔色の変わるような強い寒気のなかに身をさらす事も厭わなかった。(参照文献ー提督・スプルーアンス トーマス・B・ブュエル著 小城正訳 読売新聞社)*「ムーア」はスプルーアンスの部下で参謀長)ーつまり、自分には厳しく、他人には優しい人間であった。

 ミッドウェー海戦の時はスプルーアンスも参謀長のブラウニングも空母エンタープライズにあって、直接攻撃隊のパイロット達の意見を聞いて細かな作戦まで決定した。スプルーアンスは刻々と変化する敵味方の位置を記録する航跡図をどこへ行くにも手離したことがなかったそうである。
一方,山本五十六や黒島亀人等の幕僚は安全快適な戦艦大和に座乗して南雲機動部隊のはるか後方―全速力で駆けつけても9時間以上もかかる後方に位置していたばかりか山本五十六は海戦の最中に部下と将棋をしていた。
 沖縄攻略戦の時もスプルーアンスは旗艦ニューメキシコに座乗して前線で指揮を執ったため、特攻機の体当たり攻撃を受けて死者50人、負傷者100名以上の被害が出たときもあった。(提督・スプルーアンス)
 
 また彼の上司であるニミッツは次のようにスプルーアンスを評価している。「スプルーアンスは素晴らしい判断力を持っていた。彼はあらゆる事を徹底して検討し、それをきわめて慎重に判断し、一度攻撃すると決定すると、徹底的に攻撃するタイプであった。スプルーアンスはグラント将軍のように、敵に向かってゆくタイプであり、私はそのような指揮官を必要としていた。彼は大胆であったが、無謀になることはなかった。彼はまた慎重であり、戦闘に対する勘を持っていた」(ミッドウェーの奇跡 下 ゴードン・W・プランゲ 原書房)

 ミッドウェー海戦では空母の数においては日本が6隻に対して米国は3隻、戦艦は日本11隻に対して米は0巡洋艦は日本14、米国8、駆逐艦は日本52隻、米国15隻、潜水艦は日本16隻、米国20隻で航空機は日本372機対米国354機であった。
さらに帝国海軍連合艦隊は空前絶後の巨大戦艦大和と格闘戦の性能と航続距離においては当時世界一であった零戦を保有していた。それでも惨敗したのである。

 松田千秋元少将は山本五十六を連合艦隊司令長官にしたのは間違いで「人事の失敗が、あのようなみじめな戦さにしたといってもいいでしょうね」と語っている(艦長たちの太平洋戦争 佐藤和正 光人社)
山本五十六は合理的な思考ではなくギャンブラーとしての勝負勘に基づいて作戦をたてて惨敗した。

 当時の日米の主要なリーダーを比較するとその資質の差というか人間としてのレベルの甚だしい違いを痛感させられる。大人と子供くらいの差があったのではないか。
源田実のことを同期の柴田武雄大佐は「源田のように実戦に通用しない、人をたぶらかす魔力が強いだけで、実際的には弱い欠陥頭脳者が作戦を指導したので、勝てる戦に負けたのだ」とまで極言している。(日米海戦史 田村正三  図書出版社)
山本五十六を連合艦隊司令長官にした米内海軍大臣は「金魚大臣」とも言われていた。その意味は見かけは派手だが煮ても焼いても食えないということだそうである。
杉山元陸軍元帥は押した方に動くので「便所の戸」といわれていたそうである。
東条英機を著名な右翼学者の大川周明が「下駄」と評したのは有名な話である。下駄は足の下に履くには便利なものだが、頭に乗せて使用するものではない。東条が指導者として国民の上に立つ資格も能力もないという意味である。金魚や下駄や便所の戸でマッカーサーや、ニミッツ、スプルーアンスなどの超一流の将軍を相手にして勝てるはずがなかった。
東条は首相になってから食物の配給が庶民にちゃんと行き渡っているかを確認するために残飯を見て確認しようとゴミ箱の中を視察して回ったので「ゴミ箱宰相」とも言われた。尊敬の念を込めて言われていたとは思えない。元々役所の戸籍係が向いているといわれた程度の人物である。

「東条程度の人物のやれることは知れている。彼は、戦国乱世の中にのしあがった織田信長でもない。幕末の混乱に生き延びて明治政府を作り上げ、その独裁者になった大久保利通でもない。幼年学校、陸士、陸大と、鋳型にはめられてポンと押し出されたその他大勢の人間の一人である。
片寄った狭い知識しか持ち合わせていない軍部という封鎖社会で、派閥のたたき合いで多くの人が消え去ったあとに生き残り、少し頭が切れるとか、実行力がある、努力家である、まじめで謹厳である、とかが目立っただけで陸軍の最高位に出世していった・・・」(松岡英夫 東条英機論 より引用 一億人の昭和史 3 太平洋戦争 毎日新聞社)

 昭和の帝国海軍では年功序列と情実および不合理な感情に基づく非科学的な人事が大勢を占めていたため、開戦時のハードウェアの点での優勢さを生かすことができなかった。
武器の性能に相当な差があっても、例えば戦闘機などの場合、パイロットの技術の差が大きければカバーできるそうである。
極端なたとえ話であるが、もし宮本武蔵をタイムマシンで呼び出して私と決闘すると仮定して、私が上野の国立博物館に秘蔵してある、おそらく時価一億円はくだらないと思われる源頼光が大江山で酒天童子を斬った刀剣との伝承がある国宝の「童子切安綱」を用い、武蔵はどこかの観光地のみやげ物屋で二千円くらいで売っている木刀で立ち会った場合、向き合って数秒後には私は武蔵の木刀で打ち殺されるだろう。いくら優れた武器を持っていてもそれを扱う人間がそれを生かせる能力を持っていなければ役に立たないということである。

 山本五十六という人間について知れば知るほどあの時期に日本側によって暗殺されることは当然であったという私の考えは一貫して変わらない。
山本五十六に関係していた幾人かの高官達の証言を読むと何か隠しているという印象を私はぬぐえないのである。

 一例を挙げれば海軍少将高木惣吉は東条政権末期に神重徳大佐、小園安名大佐、渡名喜守定大佐、矢牧章大佐、伏下哲夫主計中佐や後に高松宮宣仁親王や細川護貞なども加わった東条暗殺計画を立案した人物であるが、その著書「自伝的日本海軍始末記」のなかで「永野総長のごときは、山本元帥を殺した一事だけでも、引退謹慎すべき責任者である」と明記しているが、私にはこれが単なる比喩とは思えないのである。
2010 09/28 20:44:55 | none | Comment(0)
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 終戦四カ月前の昭和二十年四月七日、空前絶後の巨大戦艦大和は沖縄特攻作戦の途上三百八十機を超える米軍機の猛攻を受け三時間の激闘の末、東シナ海で撃沈された。米戦艦と一度も砲火を交えることなく誕生してから僅か3年半の短い生涯であった。
この時大和が撃墜できた米軍機は僅か十機であったという。あまりにも少なすぎるので間違いではないかとも思われるが、この時に攻撃してきた米軍パイロットの技量と勇敢さは大和の艦橋から見ていた森下参謀長が「見事なものだ、おそらく米軍きっての精鋭であろう」と感心したほどだったので、やはり事実かもしれない。大和を沖縄に出動させた理由としては沖縄の海岸に乗り上げて陸上砲台となって米軍を攻撃すという狙いがあったが、このような殆んど実現不可能な非現実的な理由よりも歴史上最大最強の戦艦を建造しておいてこれを満足に活躍させないうちに港に浮かべたまま敗戦を迎えることはできないという海軍の面子が大きかったようである。それにしても無駄な使い方をしたものである。大和を沖縄の海岸に乗り上げさせ陸上砲台として上陸した米軍を殲滅するという計画はもっと早い時期―天王山といわれたガダルカナル攻防戦で実施していれば太平洋戦争の結果は変わっていただろう。
 
1200隻の艦船と18万2千名からなる米艦隊が待ち構える沖縄に到達できる可能性は事実上ゼロであったがガダルカナルの場合は一時期、苦境に陥った米軍が撤退することも考えていた時期に大和を投入すればガダルカナル争奪戦は少なくとも一時的には日本が勝利を収めることができたであろう。ガダルカナルでは駆逐艦を利用して武器や兵員の輸送を行い大きな被害をだしたが、大和を利用すれば防御力がはるかに強大なので必要な武器や兵員の輸送にかなり成功したのではないだろうか。当時、戦艦は時代遅れだと言われていたが、このガダルカナル争奪戦において幾度か戦艦同士の決戦は行われている。大和は米国の最新鋭の戦艦より射程が2000メート以上長かったからアウトレインジで攻撃してほとんどの戦艦を沈めることができたであろう。
 
 只何といってもこのとき連合艦隊司令部は「実は燃料が無い」とか狭い海域なので大和では座礁する恐れがあるとかいって出て行こうとしなかった。(参考文献:帝国海軍はなぜ敗れたか 御田俊一 芙蓉書房出版)

 「日本海軍は、大和の戦力『世界一の艦砲と重防禦』を生かした作戦を考えず、後方で漫然と旗艦任務に充てているうちに、ついに使用の時期を失った。大和は二十年四月七日、航空機の掩護なしに沖縄特攻作戦に出撃し、悲運の最期をとげたのである。
大和の悲運は、時代遅れだったのでも、性能的に問題があったのでもなく、その持てる力を十分に引き出すような使い方が全くなされなかったことにあるというべきであろう」
(写真記録 昭和の歴史3 太平洋戦争と進駐軍)小学館


 山本は、昭和十五年四月に全国地方長官会議に出席したお歴々を旗艦「長門」に案内した際、「一旦緩急あるときは常に最前線に立って全艦隊を指揮する」と語ったところ、それでは長官が危ないではないかと問い返された。これに対して山本は次のような指揮官論で応じている。
「これは何も私の考えたことではない。二十七八年の役の黄海海戦以来、長い間海軍の伝統なのだ。東郷元帥も軍艦三笠の艦橋に立って戦われた。指揮官が先頭に立たなければ、海戦は出来るものではない」
(山本五十六 田中宏巳 吉川弘文館)
全然言行不一致であり、詐欺と言ってもよいレベルであると思う。

「その作戦はつねに、内容がともなわないわりにゼスチャアが大きい。軍政家に向いた方であったろう」草鹿龍之介
ハワイ作戦の際、総指揮官として直接真珠湾の上空に飛んでいった淵田美津雄はいきなり「山本五十六なんて凡将なんだよ」と吐き捨てるようにいった。
昭和十七年十二月から十八年五月まで戦艦大和艦長だった松田千秋は「あの人はギャンブルが好きだったでしょう。本当はあまり強くなくて、ハッタリ性の強いものだったというが。あの人の立てた作戦はすべて、見た目はハデだがシロウト考えでね。それも国力を無視した、イチかバチかのギャンブルみたいなものだった。それから、真珠湾奇襲をやって航空機こそ兵器の主役であるということを、敵側に教えてしまった。航空機の重要性については、アメリカ側もそれほど切実に考えていたわけじゃないんだから」

昭和十二年海軍次官時代、かつての教え子である南郷茂章少佐が、中国南昌上空で戦死したときのエピソードが知られている。南郷家に弔問に訪れた山本大将(当時中将)は、父親の挨拶を伏目がちに無言で聞いていたが、突如体を前に倒して、まるで幼児のごとく大声あげて慟哭し、大勢の弔問客が見守る中、ついにはその場に横ざまに打ち倒れた。しばらくたって起き上がったが、ふたたび激しく哭き伏して、同じように倒れたという(反町栄一著『人間山本五十六』)
歴史群像太平洋戦史シリーズVol 7 ラバウル航空戦 学習研究社

 私は山本五十六は役者に向いていたように思う、その世界に入っていればかなり成功したにちがいない。軍人になるべき人ではなかった。まして連合艦隊司令長官などには絶対なってはいけない人間だった。人目を引く派手なゼスチャーと一見誠実そうな風貌を利用して、弁舌巧みに勇猛かつ人情味のある提督という役をずっと演じ続けていた幼児性の強い人間ではなかったかという気が私にはしてならない。

山本五十六の裏の顔を暗示する見逃せない証言が「二・二六青春群像 須山幸雄著 芙蓉書房」に記述されている。五・一五事件で犬養毅首相を暗殺した罪で下獄した古賀清志らが出獄して山本五十六海軍次官のところへ挨拶に行くと「御苦労であった」と、副官を通じて一人千円ずつ(筆者山口註:平成二十六年の価値では五百万円くらいか)与えて慰労したという。犬養首相は清廉潔白な人柄で知られ、組閣してまだ半年ばかりしかたっていなかった。国民の人気も非常に高かった首相である。拳銃を構える兵士たちに臆することなく「話せばわかる」と説得しようとした老宰相を「問答無用」と一方的に射殺するとは何事であるか。そのような無慈悲で浅はかな犯人たちに対して「御苦労であった」とは何たる言い草か。
このエピソードについては古賀不二人(古賀清志から改名)が戦後「昭和史探訪」という番組の中で司会の三国一郎の「一三年に仮出所。それからどうなさいました」という質問に対して「当時山本五十六元帥は海軍次官で、お礼の挨拶にいったら、当座のこづかいと言って一○○○円ずつくれました。当時近衛文麿内閣の書記官長の風見章、これも一○○○円ずつくれました。当時の一○○○円は大きいですものな」と答えている。(昭和史探訪  2 日中戦争 日曜日の弾痕「五・五一五事件」古賀不二人 番町書房) 古賀のこの話が事実であるとすると山本五十六の背後の闇が一層深くなると思われる。また風見章はソ連のスパイであったゾルゲの逮捕事件に関連して処刑された朝日新聞記者尾崎秀実の親友であり、尾崎を近衛内閣のブレーンの一人として引き入れた人物である。
2010 09/27 20:19:28 | none | Comment(0)
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 芥川龍之介いわく「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りを喜んだり、いわゆる光栄を好んだりするのは今更ここに言う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。ことに小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣然と敵に当たることである・・・勲章もーわたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのだろう。(侏儒の言葉):
「勲章なんて人を沢山殺したからもらえたんだろ」と芥川は言いたかったのではないか。

 芥川が「将来に対するボンヤリとした不安」を感じて自殺したのは昭和二年なので芥川は山本五十六も東条英機も知らなかっただろう。それでも既に軍人のレベルの著しい低下に気づいていたようだ。
太平洋戦争の時の軍部が幼稚で常識に欠けていたことは国民に竹やりで米軍を迎え撃つ訓練をさせたことでも明らかである。自分たちだけでは良い知恵もでないくせに国民の自由な言論を徹底的に弾圧した。そもそも明治天皇御即位の時に明らかにされた五箇条の御誓文のなかに「広く会議を起こし万機公論に決すべし」とある。
徳川幕府でさえ黒船来航の国難に際して広く町人からも意見を求めた。太平洋戦争の時の指導者は明治の時よりはもちろん徳川幕府末期の頃よりも劣っていた。結果から判断する限り少なくとも国防という観点から見た場合、帝国大学や陸軍、海軍大学校の教育はほとんど役に立たなかったと思われてもしょうがないだろう。むしろ有害だったかもしれない。私は帝国大学や陸軍、海軍大学校の卒業生が増えるにしたがって日本は衰退していったように思える。少なくとも両者は時系列的には一致している。

 帝国大学を出た井上準之助と帝国大学で学んだことのない高橋是清という二人の大蔵大臣を比較することは良い例であろう。下落していた円の実勢価値を無視し旧平価で金本位制に復帰して金解禁を実行した(円の人為的な切り上げ)井上準之助と、取り付け騒ぎの起きた時に裏面の印刷していない紙幣を大量に印刷させてそれを銀行の窓口に積み上げさせることによって恐慌状態になった預金者を沈静化させた帝国大学をを卒業していない高橋是清という二人の大蔵大臣の能力と功績の差は歴然としている。
井上準之助蔵相は実際には円の価値がドルに対して旧平価の時より下落しているのに新平価を採用することなくーつまり人為的に円高にした。円高は外国の買手からみると日本製品の購入価格が上がることであるから日本の輸出を減少させ輸入を増大させるーつまり日本が保有している金(金、金貨)の国外流出もたらすことは自然の道理である。そして金本位制は基本的に金の保有量に応じて紙幣を発行するものであるからその保有量の減少は必然的に紙幣の流通量の減少をもたらすことになった。輸出を増やすためには輸出価格を下げなければならなかったので一層不景気に拍車がかかった。つまり、井上準之助が予言した金解禁をすれば景気がよくなるというのは嘘だったわけである。金解禁前にこれに気づいた新平価による金解禁論者(円の実勢相場に基づいて円と金の交換比率を決める)を「食うために新平価解禁を唱えている」と口汚く批判した井上準之助が高橋是清より優れているのは学歴のみのようにも思える。
*(金本位制とは通貨の額面と一定量の金(きん)の量を例えば一円=金750mgというように結びつける制度で(法定平価)、この制度のもとで発行される通貨は法律で定められた等価関係に基づいて無制限に金(きん)と兌換する事を中央銀行が保証する制度である。
この法定平価は固定的なもので為替市場の交換レートの変動による影響は受けないため、為替相場はおおむね法定平価の水準に安定する。
故に金本位制を採用するメリットは為替相場の極端な乱高下を防止できるため為替リスクを避ける事ができるということである。
変動為替相場制度のもとでは例えば、一ドル100円のレートの時に一つ10ドルの商品を10個米国から輸入する契約をして、いざドル建てで決済する時に極端な円安となり円の価値が購入契約したときの半分になってしまった場合、十個につき本来は1000円払えばよいものを2000円として計算しなくてはならなくなり利益は吹っ飛んでしまう。
この場合でも、米国側の立場で見れば、あくまでも10ドルという価格はそのままで、金(きん)を基準にして見た場合、契約時とまったく変動はないのであるから日本側としては通貨を金(きん)に変えて輸入代金相当分を現送して決済すれば損害を防げるということになる。但し、実際の金本位制度下においては法定平価と著しくかけ離れた為替相場にはならない。)

 山本五十六、東条英機、井上準之助の三人に共通していることは自分の考えが一番正しいと思い込み、それに反する他人の意見は排除しようとすることであろう。

陸軍少将田中隆吉は米軍の空襲に備えて早急に十分なる防空施設を造営することを東条英機首相に進言したが、東条は「英米空軍がドイツに対して行ったような爆撃を日本に行うことは不可能である。それは貴官の取り越し苦労である」と一蹴されたことで辞表を出して陸軍省の兵務局を去り、昭和二十二年に「敗因を衝く」という著書を上梓した人物である。そのなかで東条の人物を次のように評している。

「私の親友大橋忠一氏は満州以来、よく東条氏を知っている。また第二次近衛内閣では、外務次官として外交問題に関し東条氏と折衝した人である。
氏は『東条氏の頭の中には脳味噌がない。感情ばかりである』という。松井岩根大将は『東条にはどうも私心があって困る』という。私が東条氏の部下として働いたのは、その関東軍参謀長時代に六ヵ月、兵務局長としてニ年弱である。
私の見るところでは、東条氏は非常に愛憎の念が強く偏狭である。自己を信ずる事が厚く、その行うところは独善である。直諫の士を斥けて阿諛佞弁の徒を好む。故に大橋氏の言は当っている。一見しからざるがごとく見えて極めて虚栄心が強い。また立身出世を喜ぶ。その地位を維持せんがためにあらゆる手段を講ずる。ひとたび権勢の地位に立つと、一切の権力を自己の保身に利用する。公よりもまず自己が先である。東条内閣の末期に、氏が行った憲兵警察による恐怖政治はその実証である。私心多しとする松井大将の言は実にこれを指す。事務に堪能である。努力もする。しかしそれは眼前の小事に限る。ある人はかつて、『東条氏は村役場の戸籍吏が一番適任だ』と言った。いかなる小事でも手帳に書く癖があり、書類の整理はその最も得意とするところであるからである。
小事に拘泥して物を大局から判断する能力は零である。経綸のない所以である。従って宇垣大将の言は当る・・・・・東条氏の性格かくのごとしとすれば、これをして誤りなからしむるためには、その周囲には特に剛直にして直諫の士を必要とする。書記官長の星野氏、海軍の嶋田氏、企画院の鈴木氏、大蔵省の賀屋氏、商工の岸氏、文部の橋田氏。司法の岩村氏、厚生の小泉氏ら、ともに上司の命令に忠実なる能吏ではあるが、剛直よく一身の栄辱を度外視して東条氏に対して忠諫をあえてするの気概は微塵といえども認め得ない人々である。いわんやこの中には、さきに述べた東条氏の性格とほとんど相似た性格の持ち主もある。ある人は東条内閣を評して粗製急造内閣と罵った・・・・・

近代戦の特質は航空機の質と量とが、その遂行に重大なる役割を演ずるところにある。
大東亜戦争もまたこの例に洩れることは許されない。したがって、わが日本本土の防空施設のいかんは、戦争の勝敗を左右する大問題である。しかし遺憾ながらこれに対する陸海軍首脳部の関心は、ほとんど絶無に近かった。彼らは口を開けば常に言った。『未だ寡聞にして爆撃によって破れたる国家あるを聞かぬ』と。また曰く『成層圏飛行機の出現を見ざる限り、日本本土の爆撃は絶対に不可能である』と。東条首相は満々たる自信をもって『日本の本土は、たとえ敵の爆撃を受くるも絶対に大丈夫である。それはドイツと異なり、敵の基地が遠隔の地にあるのみならず、日本の建築物は欧州のそれと異なり、平面的にして木造なるが故に、被害はドイツのごとくはなはだしくない』と言った。海軍の平出大佐は、『無敵海軍の存在する限り、わが本土には、一機といえども敵の侵入は許さない。防空演習の実施は、帝国海軍を侮辱するものである』と豪語するを常とした・・・・・」

以上、中公文庫の「敗因を衝く 田中隆吉著」より引用。


 また、終戦後最初の東久邇宮内閣で国務大臣を務めた小畑敏四郎中将は東条について「東条は、連隊長止まりがせいぜいで、師団長にもなれる人物ではない。そんな人物が、この大事な現時局に、一国の総理大臣になったのだから、日本の悲劇は生まれたのだ。東条は、一度、こうと思い込んだら、誰が何といおうとも聞く耳を持たぬ頑固で、無理押しをする面がある・・・・・」と評した。(わが東条英機暗殺計画 津野田忠重著 徳間書店)

 小児に似ていたのは高級軍人だけではなかった。当時の政治家や官僚も似たようなものであった。実際、当時の高級軍人や政治家および官僚の知的精神的幼稚さには驚かされる。その事実を証明するための実例を挙げれば殆んど無限に出てくるであろう。

 昭和天皇が終戦後、まだ少年であった皇太子に敗戦の原因として「科学を軽視したこと、明治の大山巌や山本権兵衛のような常識のある軍人がいなかったこと」を挙げられた。「常識がない」−簡潔ではあるが実に痛烈な批評である。およそどの分野でも常識の無い人間なんて使い物にならないだろう。

 軍人に常識が欠けていた事を認めていた将軍もいる。戦争中フィリピンに報道班員として派遣されていた今日出海(初代文化庁長官で作家の今東光の実弟)は兵団長三上中将から「君から軍人を見るとどうかね。これも変人組か、非常識な?」という質問を受けた。「これは困った質問だ。軍人の居候をしていて、非常識呼ばわりは出来ぬ。けれども確かに常識を持った軍人は少ない。幼年学校、士官学校の教育は世間から隔離し、常識を追放することに努めたようなものだ。『私はここへ来てつくづくアメリカの戦争振りを見ていると、決して特別な攻撃法を用いていないように思うのです。常識と申しますか定石と申しますか、そんな戦争の門外漢の私でも気がつく戦法だと思います。それが独逸(ドイツ)の精鋭を破り、日本をここまで押す力を持っているとすれば軍人にもまた常識が大事なものと考えるのですが・・・・・』『無論大切だね・・・・・日本の軍人もこういうことは戦争が済んでから、ゆっくり考えなけァならんね。しかし常識に非常識が打ち勝つということは原則的にもあり得ない。これァ自明だ』
 中将閣下の温顔が曇ったようだ。軍人も将官まで来れば常識を備え、好々爺になるのだが、佐官までは非常識が武器なのだ。官僚も大学を出て高等文官試験を受けるまでは、雑誌一冊読む暇もなく勉強に追われ難行苦行して一人前の役人になる。二十七、八歳の事務官が石油、石炭、繊維の統制の元締めであり、私と同年の男が文化全体の元締めだ。何も解らぬからやれるので、解ったら手も足も出ぬという不思議な逆説の上に日本がのっているのでは、どんなことをやり出すかどんなことになるか判ったものではない」(山中放浪 今日出海著 中公文庫)

 実際は軍の上層部にも常識を備えた智勇兼備の優れた軍人が少なくなかったことは当時の記録を見ればわかることである。問題はなぜ彼らでなく四流、五流の人材グループが主導権を握ることができて、しかもその体制が事実上日本が壊滅するまで続いたかということである。それはおそらく今日も日本の組織において同様の現象がしばしば見られるのと同じ理由であったろう。

 「幕末、内憂外患交々(こもごも)至るや、憂国の青年武士たちは、地位も名誉も金も命も捨てて救国のために立ち上がり、旧体制幕府を倒して明治維新を成し遂げた。その多くは維新の中途に倒れたが、生き残りの志士たちにより、明治天皇御統率の下、国家体制を確立し、富国強兵以て外患をことごとく突破し、僅か四十五年にして日本を世界の一等国たらしめた。
 これらの人々は、生きた政治・軍事その他を実践と実戦の中に自ら体得したが、指導者たるべき後継者の養成を誤り、地位や名誉を目標とする月給取りの文人や武人を養成して国家の指導に当たらしめたため、それより、わずか三十年そこそこで、日本は未曾有の大敗戦となり、六年八ヵ月におよぶ旧敵国の占領支配を受くるに至った・・・民間の維新運動者たちは、軍に期待したが、実は軍こそが旧体制の最たるものであった。ここでは、実戦の実力などは昇進・栄達には何の関係もなく、平和時の机上学問による点数によって一生の階級が決まるような、たわけた制度だったため、立身出世の有能者、実戦と国家指導の無能者を指導階級たらしめ、ついにこのような結果となったのである」(常岡瀧雄 世界戦略研究所所長 元陸軍大尉 歴史と人物 昭和五十六年二月号)

 「わが海軍は、敗戦壊滅のドタン場まで、ただ精勤、保守的、官僚型、小まわりのきく事務的人材が幅をきかし、上司に苦言を呈したり、型破りの独創的な考えをだしたり、反骨をしめしたりする人物をすてて顧みなかったのである」(自伝的日本海軍始末記  元海軍少将高木惣吉著 光人社NF文庫)

「陸海同額予算時代になると、軍隊はどうしても乱を好むようになる。厚生省は病人が多いほうがうれしいとか、文部省は落ちこぼれが大好きというのと同じである。
本来は、こうした職業にある人ほど、エゴイズムを抑えなければならない。大局的にみて譲り合えるという人物が、国家を背負う本当のエリートである。賢いだけでは務まらない。品格や人格を合わせ持った人でなければいけない。
戦争後半世紀を経た今も、ただ公務員試験にさえ合格すればいいという考えが尾をひいている。国益のためではなく、仲間や自分のエゴを満たすために才知を発揮するような人間ばかりになってしまった。私の友人たちを見れば一目瞭然だ。役人でも正論を言うと出世がストップしてしまうのである。一方、がむしゃらに予算をとったり、先輩の天下り先をつくった人間が出世する。今も同じ事を繰り返しているのである・・・組織は、どうしても上層部に仲間ができてしまう。仲間に入れない人間は、実戦で消耗品にされてしまう。派閥に入っていない人は仲間外れにされ、派閥に入って言い訳がうまければ出世する。仕事そのものではなく、忠誠心を売り物にするわけだが、結局そんな組織は丸ごと沈没する。日本海軍、陸軍、外務省、大銀行、大企業その他」
(組織の興亡  日下公人 三野正洋 ワック出版)

 「今の日本は、官僚主導国家、つまり政治が不在で官僚が国をコントロールしていると言われるが、実は戦前もそうだった。政治が不在で、軍部がコントロールしていた。その結果どうなったかというと、当時の日本、つまり大日本帝国は亡びたのである。同じことが起こらないとどうして言えよう。いや、このままでいけば確実に起こるだろう」

「小室直樹氏は、もし日本が中国と停戦をし、そのことで浮いた予算を全部太平洋戦争のほうに回したら、あるいは勝っていたかもしれないということを言っている。これが当然至極の考え方であって、戦力でも予算でも、特定の目的を達成しようとすれば、一極に集中しなければ勝てない。
簡単に言えば、日米開戦の時点で、陸軍、つまり大日本帝国は、何としてでも中国との停戦を実現するべきだったのだ。
その上でアメリカと戦争状態に入るならば、まだしもリーズナブルな選択と言える。ところが、当時の日本は、日ソ中立条約という形でソ連に手を打っただけで、肝心の戦争状態にある中国との講和は、陸軍自らが潰す形で消し去ってしまった。つまり、幼稚園児でもしないような馬鹿な判断を下し、国を滅ぼしたのが、あの戦争の実態であったのだ。
では、当然の論理的帰結として、その戦争を主導した日本軍、特に陸軍の最高首脳は、馬鹿ばかりだったということになる。これは論理の帰結として、そうならざるを得ない。

 「今、まさに辻政信(*1)のような人間が日本を動かしている。それは、大蔵官僚を中心とするエリート官僚である。本来、官僚はスタッフであるから、国政全体の立場から言えば、国を動かしてはならないはずだ。あくまで政治家の命令、つまりは国民の命令における公僕として動かなければならない。ところが、実際はどうか。ちょうど、国土や国民を守るべき軍隊が暴走して日本を亡ぼしたように、今は国民の忠実な公僕であるべき階層が、国民を苦しめるようなことをやっている・・・かつて、日本の政治家は二流だが官僚は優秀であるという神話があった。実は、昭和十年代も同じことが言われていたのである。『日本の政治家はろくなのがいないが、軍人は優秀である』と。そして、その「優秀」な軍人は、日本のすべてを支配することに成功し、思い通りに国を動かした。その結果、どうなったか。日本は亡びたのである。

*1「参謀本来の職務を逸脱し、独断専行を重ねた人物の典型が辻政信である。辻政信は、陸軍幼年学校を二番、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を三番で卒業した秀才である。彼は昭和十六年(1941年)七月に大本営作戦課の戦力班長という要職に就いたが、戦争中に何度か彼にあったある人物は「私はこの男は間違いなく一種の精神異常者だと考えた」という回想を残している・・・実際、日本陸軍がかつて行った無謀な戦いや市民の虐殺といった恥ずべき行動には、たいてい辻政信の名前が登場する・・・昭和十四年(1939)に関東軍とソ連・モンゴル軍が衝突した「ノモンハン事件」が起こった当時、辻少佐は関東軍の作戦参謀を務めていた。彼はそこでノモンハン方面の作戦担当をしていたが、もともと曖昧だった国境線をめぐる小競り合いが、彼の強硬論によって大規模な軍事衝突に発展した・・・また辻少佐はたびたび前線に乗り込み、現地部隊に介入を繰り返している。
『此の男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也』とは辻の上官であった山下奉文の言である。

(日本軍の教訓 日下公人  PHP)


 元官僚出身の作家・堺屋太一氏も、現在の官僚の問題を次のように指摘している。
第一に先見性がまったくないこと。
第二に情報収集能力がないこと。
第三に事務処理能力が世界最低であること。
第四に自浄能力がまったくないこと。そして最も重要なこととして、「失敗した人がどんどん出世している」と指摘している。これが最も重要なことである。

 官僚というものの本能的遺伝子の中には、「民というのは愚かである」という規定がある。だからこそ、「愚民を優れたわれわれが指導しなければならない」という思い込みから離れられない。そしてその背景には、自分たちはきわめて困難な試験を若いうちに合格したエリートであるという誇りがあるのである。しかし、こんな誇りなどは、まさに塵芥と同じで意味のないものだ。
たかだか二十一、二歳の若者がペーパーテストに受かったというだけのことであり、それを生涯の履歴にすることがおかしいのである。今、生涯の履歴と言ったが、読んで字のごとし、けっして大げさに言っているのではない。たとえば大蔵省などは、今でも国家公務員上級試験の上位一桁の人間を好んで採用し、そしてその好んで採用した人間の中から、さらに主計局へ行くエリートたちを決定する。
そして、官僚同士は、おれはあの時何番だった、お前はあの時何番だったということを最後まで自慢しあうのである。実に子供っぽい話である」(日本を殺す気か 井沢元彦 黄金文庫)

 実際のところ、二十一、二歳の年齢で到達できる知識のレベルなんてたかが知れている。試験では法律や英語の問題が出題されたろうが、その試験に合格したから即弁護士の助手や通訳、翻訳家として生計を立てることのできるレベルであるかどうかは本人に確認するまでもないことである。


2010 05/28 23:09:53 | none | Comment(0)
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 山本五十六の遭難死の裏には山本を見限った陸海の首脳部による陰謀があったのではないかと疑われる状況証拠として次のようなものがある。
撃墜されてから現場近くの日本軍の救助隊が至近距離(直線距離で1キロ以内)の現場に到着するまで丸一日以上かかっており、海軍の最重要人物の捜索としては異常に遅いこと。つまり、一刻も早く不時着した現場に到着して救出しようと努力した形跡が無い。
翌日の午後、最初に現場に到着した捜索隊は道路設営隊の陸軍の一行で、それも海軍から依頼されたわけではなく一式陸攻が撃墜されたのを目撃したため自発的捜索に向ったものである。故に最初は撃墜された機に山本五十六が搭乗していたことも知らなかった。
山本五十六がおそらくまだ生存していた可能性の高い十八日(撃墜当日)の夕方に水上偵察機から地上の陸軍の捜索隊に対して早々に「生存者の見込みなし」という内容の連絡筒が投下されている。このような事故の場合は身動きできなくても生きている場合はありえるのに飛んでいる偵察機から見下ろしただけで近くで確認したわけでもないのに、いかにも不可解な行動である。まして山本五十六は腰掛けたままの姿だったのだから、本当に上空から確認したのなら「生存の見込みなし」などという報告はできなかったはずである。

山本五十六の遺体に残されていた銃痕は米軍の戦闘機の機銃によるものではなく、小口径の拳銃のものであったこと、
すなわち機上戦死という公式の記録は嘘で、最初に検視した軍医(蜷川親博陸軍大尉)のメモ等から判断しても墜落後約24時間は生存していたと思われる山本五十六の救出の遅れの責任を回避するため、機上戦死をデッチあげたと思われること。
 山本五十六の搭乗機の少なくとも尾部の機関砲が取り外されていたか発射できないようになっていた可能性が高い。
生き残った二番機の操縦士林浩二等飛行兵曹も頭上を敵機の放つ曳光弾が山本機目掛けて走っていくのを見ているが反対に山本機から敵機目掛けてのものは目撃しておらず、山本機を撃墜したレックス・バーバー陸軍中尉も「一番機の尾部銃座に銃も人影もなく、一発も反撃されなかった」と証言しているからである。
 最初に墜落現場に到着した陸軍の捜索隊の長であった浜砂盈栄(みつよし)少尉も墜落機(後部)には機関銃は見当たらなかったと証言している。
(参考文献 山本五十六の最期 蜷川親正 光人社/検証・山本五十六の戦死  山村英男・緒方徹 日本放送出版協会)蜷川親正氏は最初に山本五十六の死体を検死した軍医の実弟でご本人も医師である。 
巡視のスケジュールが訪問予定の各部隊に宛てて暗号を用いて打電されたが、これがもっとも解読されやすい暗号であったため電信員が驚き、間違いではないかと通信参謀に問い合わせたが「そのままでよい」といわれたこと。
山本の巡視予定だった方面は当時、約1ヶ月間で20回の偵察や襲撃を受けており、山本の護衛機が僅か六機であることを知っていた各部隊の司令官が実情を山本一行に伝えて護衛の強化や自分達の方から護衛を申し出なかったことは不自然であること。事実山本に別の機で同行して同様に撃墜されて生き残った宇垣纏長官は「あんな危険なところだとはしらなかった」と述懐している。

 この方面は、山本長官視察前の一ヵ月に二十回、航空偵察や空襲を受けている・・・ブイン方面は、海軍の最高指導者が薄い護衛で視察に行くような状況ではなかった。遭難当日も2機の米軍機が偵察に来ていた。
 特に山本五十六遭難死の前日の四月十七日には最初の着陸予定地ブインにB−17と艦爆計十数機が来襲していた。
「不可解なのは第二六航空戦隊司令部の対応である。司令部はブインにあり、司令官上阪少将は当然同方面が受けている空襲状況を知っていたはずである」・・・

ラバウルからの電文の中には、長官一行の行動予定に加えて「但シ各部隊ハ当日ノ作業ヲ続行ス」というただし書きがあった・・・
 搭乗員編成についても、疑問がある。空戦経験が豊富な人を選んだわけではない。九六式戦闘機から零式戦闘機にかわったばかりの人も入っている。さほど経験を積んでいない飛行兵長が二人入っている・・・何を基準に六人を選んだのか全くわからない」
「計画を立案した連合艦隊司令部、直接携わった南東方面艦隊司令部、司令部がブインにあって視察に関する全航空機を統括・指揮する立場にあった第二六航空戦隊司令部、すべてに大きな責任があった。しかしだれも責任を追及されていない」
(参考文献 検証・山本五十六の戦死  山村英男・緒方徹 日本放送出版協会) 

 「現地ブイン基地においては、長官巡視の当日、朝五時二十分、六時二十分と相ついでP38の来襲があり、その前日、前々日にも敵機B24の激しい夜間爆撃を受ける等、連日連夜の敵機襲来で滑走路付近等かなりの被害が生じていたことは、当時の守備隊の記録によっても明らかである。かかる現地の状況報告が連合艦隊司令部に届いていなかったとは到底考えられないが、宇垣自身は当時この時期に運悪く病気入院中であったせいか、この事を承知していない。いずれにしろ、幕僚たちが『危険なし』或いは『危険少なし』と判断した根拠はよく分からない」(ブーゲンビリアの花 衣川宏著 原書房)

山本五十六に同行する予定だった吉田一従軍カメラマンが直前に搭乗を強く拒まれていること(証言・私の昭和史)等。
山本五十六の搭乗した一番機は宇垣長官の搭乗した2番機と同じ一式陸攻で2番機には計12名が搭乗していたのに対して1番機は11名だったので吉田カメラマンが搭乗する余裕はあったはずである。これも山本五十六一行が米機によって撃墜されることは確実だったので救ったのではないだろうか。

 宇垣纏が遭難後、「あんな危険なところだとは知らなかった」と言っていたということは山本五十六もそう思っていた可能性が高い。つまり、本当はどれだけ危険なところであるかが故意に山本五十六に伝えられなかったのではないだろうか。すなわち米軍機のしばしば出没する危険地域に山本五十六を将兵の慰問という口実で誘き出して米軍の手によって殺させたのではないだろうか。

 上記の数々の不可解な事も山本五十六の搭乗機を米側の手によって撃墜させる謀略があったと仮定すると納得できるように私には思えるのだが。

 高松宮の当時の日記の記載を見ると山本五十六の化けの皮は既に剥がれていたようである。

「一課長の話  山本長官「い号」作戦ニテ「ラボール」ニ出ルコトハ好マレズ。幕僚室ニ来ラレタ時ナド「ラボールニ出ナクテハナラヌカ」ト二、三度云ワレシ由。主将は軽々シク出カケルモノデハナイトノ考エニテ、愈々ト云フ時ニ陣頭ニ進ムベキダトノコトナリ」

「総長の所見ニテハ、山本長官戦死ハ海軍ノ戦争遂行オ左右スルモノニハアラズ。「ミッドウェー」等ニツイテモ海軍ハ都合悪イコトハ発表セズト世間で云ヒツツアレバ・・・」
(高松宮日記 高松宮宣仁親王 中央公論社)

 今日までのところ、山本五十六の遭難が陸海軍上層部の反山本派による米軍を利用した暗殺であったとの決定的な証拠は発見されていないが、ミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦で致命的な敗戦を喫した作戦の最高責任者であった山本五十六が日本側に暗殺されても不思議ではない状況だったことは確かである。

 要するに大本営発表ではない真実のミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦の敗北の事実と山本の臆病な戦い振りを知っていれば「山本では駄目だ」という結論が出てこないほうがおかしい。戦艦大和に引きこもったまま前線に出て行こうとしない山本五十六をバカにしていたパイロットも少なくなかったようである。

 海上護衛隊参謀として台湾の護衛隊司令部にいた当時陸軍少佐の堀江芳孝は山本五十六戦死のニュースが入って来たとき周囲の護衛隊の将校、下士官、兵が一斉に「ザマ見ヤガレ、馬鹿野郎」と公然と罵るのを目の当たりにして愕然としている。戦争遂行に不可欠な戦略物資輸送のための輸送船団が満足な護衛がつけられないためにみすみす沈められていく現状に彼らの怒りは大きかったのである。
(参照文献 歴史から消された兵士の手記 土井全二郎 光人社)

 不可解というより奇怪とさへ思える当時の海軍の船団護衛方式を当時の記録から知ることができる。ほんの一例をあげると「一九四ニ年五月に入り南方の各占領地域の各種産業の復興のために、日本から大勢の各種業種の専門家が派遣されることになった。そして彼ら大勢は特別に組まれた船団の中の二隻の客船に分乗し、五月七日に門司郊外の六連島泊地を出発した。
この船団は第『109船団』と呼ばれ、客船大洋丸、客船吉野丸そして三隻の貨物船で編成されていた・・・・・
吉野丸と大洋丸の二隻の客船に分乗していた派遣技術者は、石油、セメント、土木建設等の業界の専門技術者、及び占領地域の行政を司るために派遣される政府役人や民間企業の専門事務職員等であった。そして三隻の貨物船と吉野丸には陸軍部隊の補充要員や軍需品、あるいは産業復興工事に必要な機材や材料も大量に積み込まれていた。しかし、出発翌日の五月八日午後七時四十五分、船団の中で最大の大洋丸が米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。
位置は九州西南沖の男女群島の南南西百六十キロメートルであるが、積み荷のカーバイトや工事用爆薬の爆発などによって船体はたちまち火炎に包まれ救助活動は困難を極めた。この時の犠牲者は乗組員と派遣技術者など合計八一七名に達し、日露戦争の時の常陸丸遭難事件以来の最大の輸送船犠牲者となった。

この頃は南方方面を往復する船団であれ、単独航行の商船であれ、護衛艦艇がこれらすべての商船を援護するには絶対数が不足の状態であったため、すべての船団や単独航行商船が護衛をうけられるとは限らなかった。
この時も今後の南方地域の産業の復興と開発を左右しかねない、大勢の専門家や大量の必要物資を輸送する船団にしては護衛艦艇はわずかに一隻だけであった。しかもその護衛艦
は中国航路用の二〇〇〇総トン級の貨物船を徴用し、四門の大砲と一〇発程度の爆雷を装備しただけの特設砲艦であった。そして十分な性能の潜水艦探索装置も装備されていなかったこの護衛艦の護衛では、とうてい潜水艦の攻撃に対処てきるものではなかった」
 「悲劇の輸送船 大内建二著 光人社)

 「八月十五日、山本長官は新たにガダルカナル救援部隊の編成を命じ、田中頼三少将と第二水雷戦隊をこの任務に選んだ。第二戦隊はトラック島で物資を補給していた。田中少将はすでにトラック島へ到着していた一木支隊の九○○人の兵隊を乗せて、ガダルカナルへ運ぶよう命じられた。田中少将は初めから憤慨していた。どうして連合艦隊司令部は重火器を持たず、小銃だけの一、○○○人以下の兵士でやれると思っているのか理解できなかった。田中少将は「竹槍作戦」と呼んだ。(ガダルカナルの戦い エドウィン P ホワイト著 井原裕司訳 元就出版社P66)

 山本五十六は愛人の河合千代子にはしばしば「日本が勝てるとはさらさら思っていない」と言っていたそうである。(山本五十六の恋文 望月良夫 考古堂)
冷静に考えればそのとおりで中国大陸において中国兵を相手の戦争でも日本は四苦八苦して点と線の確保しかできないでいるのに、その中国軍に数倍する強敵である米軍を北米大陸に追い詰めて屈服させることなんてできるはずがないことは子供でも理解できる。

 だから私は山本五十六は長期戦になって日本の被害が致命的にならないうちにどうせ負けるなら早めに負けようと考えてあのような戦い方をしたのではないかと本気で思うこともある。それくらい山本五十六の作戦はおかしい。
真珠湾奇襲にしても本来なら失敗するはずであった。第一次攻撃隊の接近をハワイの基地のレーダー監視員が30分以上前に発見していたからだ。監視員が上司に報告したところこの上司が到着予定になっている味方の編隊だと誤解し放置されたので一応奇襲の形になっただけである。小型潜航艇の一隻も真珠湾奇襲の一時間以上前に米側に発見されて撃沈されている。もしこの時日本軍の襲来だと気がついていたら、米側では十分な迎撃体制を整えることができ、日本の機動部隊は飛んで火にいる夏の虫という結果になったことだろう。
 この奇襲に対して、アメリカ海軍は在泊大小の艦船九十四隻に備えられていた八四三門から二十八万四千四百六十九発を放って応戦したという。
(図説 秘話で読む太平洋戦争 森山康平 河出書房新社 )

 一応の成功としても日本側の戦死者は64人、未帰還機29機、損傷ー74機の被害は奇襲にしては決して少なくはない。一時間しか航続能力のなかった小型特殊潜航艇5隻も全て帰還することはできなかった。もし米側が待ち構えているところに突入したらこの数倍の被害がでて奇襲は失敗となったことだろう。

「1941年1月、南米ペルーの駐日公使はジョゼフ・グルー米大使にある情報を伝えた。最近公使館に複数の話がもたらされたという。『日本軍がハワイ真珠湾に大規模な攻撃を計画している』『航空機の編隊で米艦隊に奇襲攻撃を仕掛ける』という。公使はグルーに至急本国に通報するよう促した。しかし国務省は真剣に受け取らず攻撃を許してしまう」(1945日本占領 徳本栄一郎著  新潮社)

真珠湾奇襲計画は事前に何者かによって入念に漏洩されていたのである。
2010 05/07 22:01:27 | none | Comment(0)
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 外国で作成されたドキュメンタリー番組で珍しい山本五十六の映像を見たことがあるが、周囲の者に敬礼しながら堂々とした重々しい足取りでカメラの前を通り過ぎて行く自信に溢れた態度はとても印象的であり、一種のカリスマ性が感じられた。白黒の映画でみてさえそうなのだから、実際に生で山本に接した人達はもっと強い印象を受けたことであろう。とても戦いの度に後方の安全地帯に引っ込んでいたような人間には見えなかった。まことに演出力に秀でた人物であった。
 かつ、巧言令色の典型的人物で東条のように人相が悪くないから、国民を始めとして多くの者が山本五十六を買いかぶってしまったーはっきり言えば騙されてしまったことはよく理解できる。
 しかし山本のようなタイプの人間は組織のトップに就けるにはもっとも危険な人物である。会社の社長くらいなら最悪の場合、倒産するだけだが、山本の場合は連合艦隊司令長官という国の運命を左右する要職に就けてしまったため、日本に測り知れない厄災をもたらすことになった。
 山本五十六型の人間は今日も存在しているし、将来もまた繰り返し出現するであろう。このような人物をいかに組織の要職から排除するかということが、組織、国家の運命に深く関わってくる。ここに、今日我々が山本五十六という人物の実像を探求することの価値が存在する。
 
 「国を滅ぼしたのは山本五十六の責任である。要するに山本長官は本気で日米戦争をしていない。むしろ陸軍と国民の評判を争う戦争をしていた。
 山本長官は日本全体を考えない無責任な戦術家で、海軍だけのヒーローだった。連合艦隊司令部などで彼の部下や同僚だった人達の回想記を丹念にみていくと、人の好き嫌いが激しく、個人的に嫌いな人にはけっしてこころを開かないという話が出てくる。
組織の長としては問題である」(日本軍の教訓 日下公人 PHP)

 戦略的に重要な戦いで事実上連戦連敗した山本五十六が死んだとき日本は国葬にして弔った。米内光政にいたっては山本を男爵に推挙した。まったくどういう頭の構造をしているのか不可解というしかない。

 「真珠湾奇襲のように、軍事的見解のみによって行われた典型的な戦例は史上稀である。一面それは低級で不信極まる愚行であり、他面信じがたいほどの洞察力の不足を現している。日本はアメリカに対して宣戦布告なき戦争を仕掛けたことで、ただ一撃でルーズベルト大統領の困難を全部解決し、全アメリカ人を彼の味方にしてしまった。日本の不可解なまでの愚かさは、アメリカ人を世界の笑い種にすることによって、その艦隊を攻撃したよりもさらに大きく彼らの威信を傷つけた。アメリカは日本にバカにされたという憤怒からどんなに戦争が長く続こうがこのペテン師と妥協することはできない仕儀となった。(英 フラー)」山本五十六 プレジデント社


巡洋艦球磨艦長横山一郎も次のように山本五十六を強く批判している。

「日本にとって一番得手の悪い、大量生産ができない飛行機の戦争をはじめたことが間違いなんだね・・・山本五十六連合艦隊司令長官のハワイ奇襲作戦というのは、よさそうに思えるけれど、あとのことを考えたらバカの骨頂ですよ。日本はもともと大艦巨砲主義でやってきたんだから、これが使えるような戦さをしなくてはいかんのです。真珠湾でフネを沈めてみても、浅いからフネはすぐ着底してしまう。あとで引き揚げてなおすことができるんだ。結局なんにもならなかったわけですよ・・・日本としては南洋群島に飛行場をたくさんつくって、そこへアメリカの艦隊をおびき寄せて、まず飛行機でたたき、ついで艦隊が決戦をいどむ、そういうやり方をとるべきだったんです

艦隊同士の決戦になれば、たとえ飛行機が少なくても、大鑑巨砲がモノをいって勝ったと思う。そういう戦争をするべきだったと思うね。飛行機の大量生産ができない日本があえて飛行機の戦争にもちこんだ山本五十六大将は、大きな誤りを犯したといってもいいと思う」

巡洋艦「利根」艦長黛治夫大佐も次のように語っている。

「日本海軍の砲戦に対する自信というものは、われわれ砲術のものには、かなり大きなものがあったね。昭和八年に、後の『日向』の艦長になった野村留吉さんが米国戦艦主砲戦闘射撃の無線を傍受してね、私がそれを研究した結果、日本の命中率はアメリカの三倍だということが判明したんだ。射撃速度が同じで命中率が三倍だから、戦艦の保有数が対米比六割だけれども、命中率から見ると、十対八と日本がはるかに優勢になるんだ。
さらに零戦で制空権を得ると、こっちは六割増しになり、さらに日本が開発した平頭弾の九一式徹甲弾の水中弾性能を加味すると、十対六の劣勢がじつに十対五十という、五倍の優勢になるんですよ。こうなると、いかに山本五十六といえども、五倍あれば勝つと思うべきなんだ。それを参謀長も、作戦参謀も、砲術参謀もみな知らなかった。知らなかったというより信じようとしなかったんだな」
(艦長たちの太平洋戦争 佐藤和正著 光人社)




2009 12/18 23:36:28 | none | Comment(1)
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