思索に耽る苦行の軌跡

――その馬鹿な《存在》は、つまり、さうであっても、所詮、これまでの宇宙史に《存在》しなかった全く新たな《存在》の出現を望んでゐるのと違ふかね? 





――へっ、それは既に《存在》が《存在》する為にも必ず渇望する《もの》になっちまってゐる。とはいへ、それは宇宙もまた己自体の《存在》に我慢がならぬならばの話だがね。





――ふっふっふっ。当然、我慢がならぬだらう。すると《杳体》は、これまで《存在》しなかった全く新たな《もの》を出現させる為の揺籃だと看做せるのかい? 





――否、それ以前に《杳体》がそもそも《杳体》であることに我慢がならぬ筈さ。





――はて、それは一体全体何の事かね? 俺は未だに《杳体》なる《もの》をちっとも表象すら出来ぬままなのだが、そこでだ、先づ、お前が言ふ《杳体》は《存在》を《存在》させる《もの》の本質と考へてもいいのかね? 





――ああ。《杳体》すら己の《存在自体》に我慢がならぬ故に、へっ、哀しい哉、《存在》はこれまで宇宙史に一度たりとも《存在》しなかった《もの》の出現を渇望せざるを得ぬのさ。つまり、己の《存在》に我慢がならぬと言ふ自己矛盾が《存在》が《存在》たるべくある為の《存在》の揺籃なのさ。





――否、それは揺籃ではなく、多分、《渦》に違ひない筈さ。その《渦》の中心には、どうあっても自己であってはならぬ「先験的」な《存在》とも看做せちまふ《他》がなければ、《渦》は巻かぬ……。つまり、《存在》の揺籃としての時空間の《渦》は、多分、《カルマン渦》に相似した《渦》な筈だが、その《渦》の中心に《己》はどう足掻いても《存在》出来ず、その《渦》の中心を《反=自己》と名付けてみると、《存在》のその《渦》の形象をした坩堝の中心に陰陽魚太極図の目玉模様の如く《反=自己》が必ず《存在》する。そして、《反=自己》が《存在》しなければ自己は一時たりとも、これまた《存在》出来ぬのが此の世の道理だ。





――《反=自己》とは反物質にも似た《反体》の事かね? 





――別に何でも構はぬさ。《反=自己》が対自であらうが、脱自であらうが、《反体》であらうが、其処で時間が一次元的な《もの》から、∞次元の相の下に解放されてゐるのであれば、《反=自己》を何と呼ばうが構ひやせぬ。





――時間が∞次元の相の下に置かれるとなると、《杳体》はもしかするとその《面》を現はさざるを得ぬかね? 





――いや、それは解からぬが、少なくとも《世界》はその不気味な《面》を現はすに違ひない。《実体》も然り、《反体》も然り、《主体》も然り、《客体》も然りだ。森羅万象がそれまで隠してゐた醜悪極まりないその不気味な《面》を此の世に現はす。





――《面》はそれが何であれ、醜悪極まりないかね? 





――ああ。それはそれは悍ましい《面》をしてゐなければ、現在、此の世に起こってゐる愚劣極まりない事など起こりやしないぜ。





――それでは、その時、つまり、《世界》がその醜悪極まりない《面》を現はしたその瞬間に《物自体》の《影》、否、《杳体》の《影》の輪郭は少なくともはっきりするのかな? 





――つまり、それは《杳体》の《影》が、一瞬、此の世の森羅万象の上をちらりと蔽ふ醜悪極まりない《杳体》の《面》の《影》の中に没する途轍もなく嫌な嫌な嫌な、そして不愉快極まりない時空間の事だね。少なくとも《杳体》はその醜い《面》を被ってゐるに違いない筈だとすると、その《面》の《影》は《存在》する《もの》にとって《存在》そのものから遁走したいに違ひない不愉快極まりない《世界》が現実に出現してゐるのかもしれぬといふ事だね。さうしなければ∞次元の時間の相の下では《存在》は《存在》なんぞ出来っこないからな。





――《杳体》が《存在》出来ぬ? それはまた異な事を言ふ。《杳体》は「先験的」に、若しくは「超越論的」に《存在》してゐる《もの》ぢゃないのかね? 





――例えばだ、それまで漆黒の闇の中に隠れ潜んでゐたであらう《杳体》は、その隠れ蓑たる闇を取り去られると、へっ、其処に現はれるのは無限を手なづける事に成功した《存在》だけにちらりとその醜悪極まりない《面》を見せる、違ふかね? 





――はて、無限を手なづける? それはつまり特異点が剥き出しになった上に、その特異点は鋭き牙を剥いて《存在》に襲ひかかるといふ事かね? 





――∞次元の時間の相の下では、驚く事勿れ、特異点のみが平安の中に坐すのさ。





――えっ、一体全体それは何の事かね? 





――つまり、∞次元の時間の相の下での《存在》は特異点にのみ許される。





――何に許されると? 





――へっ、《神》と言はせたいのだらうが、此処では《存在》若しくは《イデア》若しくは《物自体》と言って置かうかな。





(十 終はり)







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2010 06/07 07:07:16 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――パスカル『パンセ』(英訳より)





205





When I consider the short duration of my life, swallowed up in the eternity before and after, the little space which I fill and even can see, engulfed in the infinite immensity of spaces of which I am ignorant and which know me not, I am frightened and am astonished at being here rather than there; for there is no reason why here rather than there, why now rather than then. Who has put me here? By whose order and direction have this place and time been allotted to me? Memoria hospitis unius diei praetereuntis.









拙訳





205





「私の一生の短い期間が、その前と後に続く永劫に呑み込まれ、私が占有し、そして見る事さへ可能なこの小空間が、私には無知なもので、そして私に未知である空間の永劫の巨大さに呑み込まれてゐるのを思ふ時、私は其処よりはむしろ此処にゐる事に戦き驚く、何故なら私が其処ではなく此処にゐるべき理由などなく、何故にその時ではなく今なのかといふ理由すら存在しないからだ。誰が吾を此処に置いた? 誰の命令そして指図でこの時空間が吾に与へられしか? 〈ただ一日留まれる客の思いで〉(松浪信三郎訳参照)」









206.





The eternal silence of these infinite spaces frightens me.









拙訳





206





「その永劫無際限の空間の永遠の沈黙が吾を戦かす」









207





How many kingdoms know us not!









拙訳





「何と多くの数の王国を吾等は知らぬのだ!」









208





Why is my knowledge limited? Why my stature? Why my life to one hundred years rather than to a thousand? What reason has nature had for giving me such, and for choosing this number rather than another in the infinity of those from which there is no more reason to choose one than another, trying nothing else?









拙訳





208





「何故吾の認識には限度があるのか? 何故吾の身長に限度があるのか? 何故吾の一生は千年よりもむしろ百年なのか? 如何なる理由でそのやうに吾に与へられし自然の摂理があるのか? そして別のものでなくこれを選ぶのに何の理由もないといふことからして、それら無限の中にある別の数字の中からこの数字が選ばれし事に関して、他の選択肢を試みたところで他の選択肢はなしといふ事か?」









――ふん。パスカルの『パンセ』の英訳が如何したと言ふのかね? 





――いや、何、此処に既に無限に対するどう仕様もない怯えが書き記されてゐると思ってね。





――つまり、有限なる《もの》は否が応でも無限と対峙するそのどう仕様もない恐怖の在り処こそ虚数iの正体だと俺に同意を求めてゐるのかね? 





――へっ、虚数iの正体だと? 





――つまり、《存在》とは、その《存在自体》に怯える《もの》であるといふ命題が「先験的」に《存在》してゐるんぢゃないかと思ってね。





――それは、つまり、此の世に《存在》する森羅万象は、「先験的」に無と無限と、そし虚数iの《存在》を認識してゐるとしふ事かね? 





――さう看做しても構はぬのぢゃないかね? 





――つまり、「先験的」に認識してゐなければ《存在》は例へば無限に対峙する筈もなく、また、無限に否応なく対峙し、そして怯える筈もないと? 





――さう。「先験的」に認識してゐなければ、そもそも無といふ概念も、無限といふ概念も、虚数の《存在》も知る由もなかったに違ひない。





――それは、つまり、無と無限と虚数は何かしらの関連がある《もの》で、そして《存在》しちまった《もの》の思ひも及ばぬ処でもしかすると、これは皮肉に違ひない筈だが、その関連が《存在》する事の暗示かね、「先験的」とは? 





―つまり、





213





Between us and heaven or hell there is only life, which is the frailest thing in the world.









拙訳





213





「吾らと天国若しくは地獄の間に、此の世で最も羸弱であるのみの生命が存在する。」









におけるbetweenといふ此の世の森羅万象の有様故の、つまり、必然といふ事を意味してゐるのかね? 





――さうさ。必然だ。必然故に此の世に《存在》する森羅万象はbetweenといふ《存在》の仕方に我慢がならぬのだ。





――へっ、それでも《存在》はbetweenでしかあり得ぬ。





――多分、パスカルは《存在》の有様がbetweenでしかあり得ない事を自覚しちまった時、自嘲したに違ひない。





――それはまた何故? 





――《存在》の振幅が無から無限まであるといふ恐怖からさ。





――それは果たして恐怖なのかね? 





――ああ。それは底知れぬ恐怖であったに違ひない。それ故、パスカルは此の世にabyss、つまり、《深淵》を見ちまった。そして、その《深淵》が虚数の《存在》をも暗示した。





――はて、それは何故かね? 





――虚数ii乗といふ《存在》が此の世に実在する事を暗示してしまったからさ。





――話を先に進める前に一つ尋ねるが、虚数ii乗とは一言で言ふと一体全体何の事かね? 





――約めて言へば、虚数ii乗が実数であるといふ事は、此の世、つまり、世界は何としても実在する《もの》である事を《吾》に強要する《もの》でしかないといふ事さ。





(六十九の篇終はり)







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2010 05/31 05:42:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さうすると《吾》とはつくづく損な役回りでしかない《存在》といふ事だね? 





――ふっふっふっ。《吾》が損な役回り? これは異な事を。





――ちぇっ、全く、俺をおちょくってるな。何故、異な事なのかね? 





――だって、此の世に《存在》する森羅万象は、それが何であれ、此の《存在》が畢竟《吾》以外の何《もの》でもありゃしない事を、もううんざりする程に自覚し、また、自覚させられてゐるからさ。





――何に自覚されてゐるといふのかね? 





――へっ、《他》さ。





――《他》? 





――さう、此の世の涯の《解》としての《他》だ。





――つまり、《吾》とは此の世の涯、つまり、世界といふ《もの》の有様の《解》をその相貌に具現化してゐる此の世の涯たる《他》に取り囲まれて《存在》する事を余儀なくされてゐる孤独な《存在》といふ事かね? 





――勿論! 





――勿論? 





――さう。勿論さ。此の世に《吾》として《存在》させられてしまった《もの》は、それが何であれ此の世の涯を絶えず目の当たりにしつつも《吾》の底無しの孤独をくっと噛み締めながら、また、その生存を脅かす《他》を、へっ、或る時はその《他》を殺して、己の食物としちまふのが、此の《吾》が置かれてゐる矛盾の源泉ぢゃないかね? 





――なあ、此の世は畢竟矛盾の坩堝かね? 





――さう、《吾》が《存在》する以上、矛盾の坩堝さ。そして、此の世は矛盾の坩堝でありながら、《神》以外にその全容を知る事が不可能な《秩序》若しくは《摂理》が厳然と《存在》する。さうぢゃなきゃ、《吾》なぞ一時も生存不可能と来てるから、ちぇっ、《吾》の《存在》とは厄介極まりないのさ。





――つまり、それは《他》といふ《存在》が厄介極まりないといふ事と同じ事だらう? 





――さうさ。《存在》がそもそも厄介極まりない。





――しかし、或る物体が生成し消滅するといふ事は、何か峻厳な、つまり、その《他》の《存在》の《誕生》と《死》に立ち会ふ《吾》なる《存在》は、《他》が《吾》の与り知らぬ理(ことわり)に従って生滅する事態に対して如何あっても厳粛に為らざるを得ぬではないかね? 





――当然だらう。《存在》が生滅するんだぜ。《吾》はその事実に謙虚になる外なく、そして、それはそれは厳粛極まりない事なのは当然だらう。





――何故に厳粛だと? 





――或る《存在》が生滅しても《世界》は眦一つ動かす事なく厳然と《存在》し続けるからさ。これ迄の哲学等の思惟は《生者》の論理が絶対的真理であるかの如く語られてきた節があるが、《存在》は《死》をもきちんと消化せずば、へっ、絶対的な真理なぞ、此の世に元来《存在》しないのぢゃないかね? 





――しかし、《生者》は《死》に思ひを馳せる事しか出来ないではないか! 





――はて、実際のところ、つまり、《生者》は《死》に思ひを馳せるだけしか出来ぬかね? 《生者》は《生》故に既に其処に《死》を内包してゐるのとは違ふのね? 





――む。それは一体全体何の事かね? 





――つまり、幽霊が此の世に厳然と《存在》してゐるとすると? 





――へっ、またぞろ幽霊の《存在》かね? 





――さう、幽霊の《存在》だ。例へば《生者》は、《生》の論理に徹頭徹尾、何の文句も言はずに従ってゐると思ふかい? つまり、換言すれば、《生者》は最早《死》してゐる数多の先達達も含めた《死》の上にしか《生》の砂上の楼閣は築けないのと違ふかね? 





――それぢゃ、《生》と《死》が表裏一体といふのは真っ赤な嘘で、《生》と《死》は障子で部屋が仕切られてゐるのかの如く、つまり、地続きで、それは畢竟《生》は絶えず《死》と対峙する事で辛うじて《生》は《生》たり得てゐるといふ何とも哀れな事態に為るが、ちぇっ、それが、仮令真であってもだ、《生者》は《生者》のみで群れてゐたいのもまた真ではいかね? 





――ふっふっふっ。その《生者》の群れの中に不意に《死者》の幽霊が現はれてゐるとすると? 





――それは言わずもがなだらう。つまり、不気味さ。





――へっへっへっ、土台、此の世はそもそも不気味ぢゃないかね? 





――すると《生者》の群れには《生者》が気付かぬだけで、必ず《死者》である幽霊が厳然と《存在》すると? 





――当然だらう? 





――当然? 





――さう、当然だ。元来《生》と《死》は親和的な《もの》であって、どちらも此の世ではありふれた《もの》だった筈だぜ。それが、何時しか《生者》の論理ばかりが重要視される事になっちまった。だがな、その《生者》が最も恐れるのが《死》と来りゃ、もうそれは笑い話以外の何ものでもないぢゃないか。





――つまり、現代では必ず《死》の復権が訪れると? 





――当然だらう。これからは誕生する人間より死んで行く人間の数が多くなるんだぜ。すると、《生者》は如何あっても《死》を直視する外ない筈さ。





(十の篇終はり)







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2010 05/17 06:21:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、そもそも《存在》は進歩する《もの》として想定可能な何かだと、何の前提もなしに看做しちまって構はないと、お前は断言出来るかね? 





――進歩? ふむ。





――《存在》とはそもそも進歩する《もの》なのか……? 





――ふむ。多分だが、己が生存しなければならぬ《環境》に強要される形で、《存在》は、例へばそれを進化と名指せば、己が生存せねばならぬ《環境》に順応する外に生存の道が残されてゐないと看做しちまって構はぬ筈だが、しかし、それは詰まる所、《世界》に《存在》は絶えず試されるのみの、ちぇっ、つまり、実験用のモルモットとして《存在》するしか此の世に《存在》を許されぬといふ事になっちまふが……。





――だから? 





――さうするとだ、《存在》は投企されたその《世界》に何としても順応するべく、へっ、此処で虚数iのその不可解極まりない相貌が不意にひょいと顔を此の世に現はす筈なのだが、例へば《存在》に蓋然性といふ曖昧模糊とした形の、つまり、それは確率論的に表記すれば如何あっても虚数iの《存在》がなければならぬ事態に、へっ、この《存在》といふ《もの》全て吃驚するのだがね、必ず此の世に虚数が《存在》してゐなければならぬ筈の、その《存在》といふそれ自体もまた虚数iが必ず此の世に《存在》することでしか、その《存在》自体の根拠が担保されぬ《存在》といふ面妖なる《もの》として、へっ、詰まる所、《存在》は漸くにして此の世での生存を許される、ちぇっ。





――何に許されると言ふのかね? 





――へっ、《神霊》さ。





――《神霊》? つまり、それは、《霊》、即ち虚数iのi乗が実数として此の世に出現するその出現の仕方において、此の世に確実に実在しなければならぬ《存在》の宿命をして《神霊》と言ってゐるのかな? 





――つまり、《霊》もまた《神》なる《存在》を渇望して已まない。





――えっ? 《霊》もまた《神》を渇望する? それは一体全体何の事かね? 





――字義通り、虚数iをi乗することで、此の世に実数として現はれてしまふ虚数の有様が、へっへっへっ、此の世に実在する《もの》全て、つまり、森羅万象の有様に外ならず、そしてそれらの《存在》は、また、《神》を渇望して已まないのさ。





――それはオイラーの公式が《神》の振舞ひの一例だといふ事かね? 





――公式とか公理とか定理とか法則とか呼ばれるものは全て《神》の《摂理》と言ひ換へ可能な筈だが、オイラーの公式を《神》の振舞ひの一例と看做したければさう看做せばいいのさ。しかし、これだけは忘れちゃならないぜ。つまり、オイラーの公式がなければ、今や、《世界認識》は全く不可能な時代に既にとっくの昔に突入しちまってゐるといふ事をな。つまり、虚数なしの世界は全て虚妄だといふ事だ。





――つまり、事態は《存在》が虚数を具象化出来ようが出来まいがそんな事はお構ひなしに《世界》について何か一言でも語たったとして、しかしながら其処に虚数の影すら見出せない論理は、つまり、そんな論理は自己満足しか齎さない夢心地の酔狂に等しい虚妄の虚妄の虚妄の《世界認識》でしかないといふ事であって、さうとは言へ、周りをちらりとでも見渡してみれば今もってニュートン力学から一歩たりとも踏み出せない臆病な臆病な臆病な《主体》がぽつねんと独り此の世で足掻いてゐる、へっへっへっ、それはつまりは相対論的な若しくは量子論的な若しくは余剰次元的な若しくは超弦理論的な《世界》の《認識》の仕方に全く付いて行けず、つまり、それは光恐怖症とでも言ったらいいのか、質量ある《もの》は如何あっても光速度には至り得ぬ此の世の宿命を受け入れられずに、また、《世界》に対峙することすら出来ず仕舞ひの《主体》のてんやわんやの喜劇ばかりで満たされた、それは《世界》がそんな《主体》を憐れみながらも「わっはっはっ」と嘲弄しながら嗤ふ、ちぇっ、《主体》はその事に余りにも無頓着なのだが、しかしだ、《主体》はそろそろ猛省をして此の世といふ《世界》を「あっ!」と驚かせるやうな曲芸をして見せなければ、《主体》が此の世に《存在》しちまった意味など全くないのぢゃないかね? 





――さうだね。表象といふ言葉一つ取っても、其処には虚数の《存在》が深く関はってしまってゐるのだらう? 





――つまり、頭蓋内の闇たる五蘊場に表象された《もの》を外在化させる行為は、正に虚数iのi乗を無意識理とは言へ具現化してゐることに過ぎぬといふ事かな? 





――さて、それはどうかね? 一つ尋ねるが、お前が言ふ表象とは、一体全体何の事かね? 





――いや、何、つまり、思惟全般の事さ。





――へっ、すると、デカルトのcogito,ergo sumが此の世に発せられた時点で、其処には此の世に虚数が必ず《存在》せねばならぬ萌芽が隠されてゐたといふ事であって、ちぇっ、思惟の振舞ひが虚数なる《もの》の振舞ひをちらっとでも暗示しちまってゐるとするならばだ、この《他者》の頭蓋内の闇たる五蘊場で表象された《もの》が尽きる事無く外在化されるこの現代社会の街衢といふ時空間若しくは人工世界は、へっ、虚数iのi乗が導き出さずにはをれぬ結語ぢゃないのかね? 更に言へば、自然とは《神》の頭蓋内の闇たる五蘊場に表象された《もの》の外在化、即ち、これまた虚数iのi乗の一つの厳然とした在り方に過ぎぬのぢゃないかね? 





――へっ、つまり、虚数iのi乗が実数になる事が《存在》を《存在》たらしめる、即ち《物自体》がその馬脚を表はしてゐる証左に過ぎず、ちぇっ、しかし、それが徹頭徹尾不快と来るから、お前は《他》に此の世の涯の《解》の如き《もの》、つまり、それを《物自体》と言っても差し支へない筈だか、その《解》を《他》に見出さずにはゐられぬ悪癖に絶えず悩まされる事になっちまったといふ事かね? 





――だとすると、どうだと言ふのかね? 





――別に、何にも。





――ふっふっふっ。





(六十八の篇終はり)







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2010 05/10 10:51:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 漆黒の中で無言のままぢっと蹲ってゐる《もの》がゐれば、また、ぶつぶつと独りごちて、その面に気色悪い薄笑ひを浮かべてゐる《もの》がゐたりと、思惟さへ出来得れば、即座に《存在》する、また、《存在》たる森羅万象が賦与されて此の世に《存在》する事を強要される、例へば頭蓋内の闇といふ五蘊場は、さて、此の宇宙全体とたった独りで対峙出来得る《存在》として《存在》は可能なのか、と問ふた処で、その不毛な疑問は《存在》に虚しさしか齎さない此の世の皮肉に苦笑ひしつつ、しかし、此の世の森羅万象は、例外なく、何《もの》がゐるとも杳として知れぬ眼前に無際限に拡がってゐるに違ひない虚空を睨みつけるべく、その面をむくりと擡げ上げるのであった。





…………





…………





――うあ〜あ。よく眠ったぜ。





――何を今更。





――また、如何して? 





――何故って、今といふ、ちぇっ、それを現在と名指せば、その現在は実に愚劣極まりないだらう? 





――はて、現在が愚劣? 





――では、お前にとって現在とは如何様にあるのかね? 





――もう遁れられぬどん詰まりの此の世の涯かな? 





――はて、現在とは果たして此の世の涯かな? ちゃんちゃら可笑しいぜ。





――へっへっ。ちゃんちゃら可笑しいかい? 





――へっ、この現在を愚劣としたり顔で断言するお前こそ、この現在のどん詰まりに追ひ詰められてゐるぢゃないか? 





――へっ、この、俺が此の世の涯に追ひ詰められてゐるだと? ちぇっ、下らねえ。元来、《存在》は、全て此の世の涯に置かれるべく定められた《もの》ぢゃないのかね? 





――なら、やっぱり此の世の涯に置かれるべく生滅する《もの》が《存在》の遁れられぬ有様だらう。





――だから愚劣極まりないのさ。





――その愚劣極まりない《もの》が仮に大慈悲の下に皆《存在》してゐるとしたならば? 





――大慈悲? ちぇっ、そんな事はとどの詰まりが《存在》の《主観》に過ぎぬのぢゃないかね? 





――さう、《主観》だ。しかし、此の世は、この《存在》の《主観》以外にその有様はないのと違ふかね? 





――へっ、つまり、《客観》は徹底的に《存在》出来ぬと? 





――ああ。仮令《客観》があるとすれば、それは《神》の視点のみさ。





――ふっ、《神》と来たか! お前は《神》の《存在》を信ずるのかね? 





――まあ、幽霊の類も同じだが、《神》が此の世に《存在》した方が面白く、また、《主体》の《存在様態》は、幾分か楽になるのかもしれぬぢゃないかね? 





――楽は《地獄》の一丁目出ぜ。それよりも《神》の《存在》が《主体》の十字架になってしまってゐる例は、この宇宙史において枚挙に暇がないぜ。





――それでも《神》が此の世に《存在》した方が《主体》にとってはどうにか此の世に佇立出来得る支へにはなるに違ひない。





――はて、《主体》の支へとしての《存在形態》が、果たして《神》の《存在形態》に相応しいのだらうか? 





――しかし、《主体》は《主体》独りでは《存在》出来ぬ哀しい《存在》ぢゃないかね? 





――まあ、己の存続の為なら《他》を殺生して食す、つまり、《他》が己の存続のためのみに殺される事に平然としてゐられるこの《主体》といふ《存在》は、その原罪を甘受すべく、へっ、《神》がゐて呉れた方が、ちぇっ、一寸は気休めになるのかもしれぬな。





――さう。気休めさ。《主体》に今必要なのは気休めなのは間違ひない筈だ。





――また、何故に《主体》に今気休めが必要といふのかね? 





――実存する為さ。





――実存? 





――さう、実存だ。





――へっ、実存なんぞはもう使ひ古され手垢に塗れた時代錯誤の《もの》ぢゃないかね? 





――否。思惟する事に時代錯誤もへったくれもありゃしない。その証左に二千年余り以前のギリシアの思惟は今も燦然と輝いてゐるぢゃないかね? 





(一の篇終はり)







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2010 04/26 06:49:39 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――これは或る種の謎謎に属するかもしれぬが、虚数iのi乗は、さて、何かね? 





――ふっ、何を今更。虚数iのi乗はオイラーの公式を使へば、【iのi乗】=【(ネイピア数eのi×π/2)のi乗】、つまり、eの−π/2乗、即ちiのi乗は0.2078795……といふ実数へと変身しちまふ、違ふかね? 





――さうさ。さうするとだ、虚数iのi乗とは一体全体何の事かね? 





――さあね。土台、お前は俺に《虚体》とか《物自体》とかの尻尾だと言はせたいのだらうが、それはお門違ひだぜ。





――ふん。それは本音のところでは、虚数iのi乗こそが《虚体》の本質を物語ってしまってゐると、へん、お前が看做してゐる証左にしかならないぜ。





――だから、それが如何したと言ふのかね? 逆に尋ねるが、お前は虚数iのi乗を何だと看做してゐるのかね? 





――ふっ、《霊》さ。





――《霊》? 





――さう、《霊》さ。





――ちぇっ、それは幽霊の事かね? 





――《霊》が付けば何でも構ひやしない。





――さうすると《霊》は、実数、つまり、或る《存在体》として確実に此の世に実在する《もの》になるのが、お前にとって《霊》は確かに此の世に実在する《もの》と受け取って構はぬのだな。





――ああ。勿論! 





――すると、お前には《霊》が見えるのかい? 





――ふっふっふっ。《死》す《もの》全て《霊》ぢゃないかね? 





――はて、異な事を言ふ。お前の言ふ事を額面通り取ると、《存在》とはそもそも《霊》になっちまふが、この矛盾としか呼べない事態を如何考へればいいのか――? 





――へっ、例へば百年後、今生きてゐる、若しくは《存在体》として《存在》してゐる此の世の森羅万象は、さて、どれ程の《存在》が尚も《生》として《存在》してゐると思ふかね? 





――百年後? 





――さう、百年後だ。





――ちぇっ、つまり、百年後には、今現在《生》として《存在》してゐる《もの》、例へばそれを敢へて《生き物》と名指してみれば、その《生き物》の殆どは、へっ、《死》んでゐると言はせたいのだろう。





――さうさ。《死》さ。





――だから、それが《霊》と何の関係があると言ふのかね? 





――へっへっへっ。つまり、かう考へられるだらう? 既に百年後には《死》を迎へてゐる《存在》が生きてあるのは、それが《霊》故にだと……。





――お前の理屈は全く意味不明だぜ。





――つまり、《存在》に《死》が必ず賦与されてゐるならば、《生》とは此の世に起こるべくもない或る奇蹟と同じ、つまり、それが《霊》の意味するところさ。





――ふむ。未だ、よく解からぬがね? 





――それぢゃあ、逆に尋ねるが、《生》にとって《死》とは何ぞや? 





――ちぇっ、それが解かれば俺は大哲学者になってゐる筈だがね。





――つまり、お前にとって虚数iは今もって何だか解からず、具象化すら出来ず仕舞ひにある《もの》といふ事だらう? 





――だから、それが如何したと言ふのかね? 





――もっと端的に言へば、仮に精神なる《もの》が此の世に実在するならば、その精神とやらの振舞ひこそ、虚数iの振舞ひに違ひないと思はないかい? 





――つまり、お前は思惟する《もの》、つまり、此の世に《存在》しちまった森羅万象は、虚数の如く必ず此の世に実在しなければならぬ、若しくは虚数が《存在》するが如く此の世が成立する為には絶対に必要不可欠な必須条件と言う事かね? 





――さう、思惟さ。





――ちぇっ、それぢゃ、cogito, ergo sumから一歩も如何なる《存在》たる《もの》は、未だ踏み出してゐぬ前人未到の地が、この《存在》といふ《もの》の眼前には茫洋と果てしなく拡がってゐるといふ事と同じことぢゃないか! 





――さうさ。未だ何《もの》もデカルトのcogito, ergo sumから一歩も踏み出してゐないのさ。だから如何なる《存在》も虚数iを表象すらできず、況してや虚数iのi乗なんぞこれっぽっちも頭蓋内の片隅にすら《存在》せぬ、ちぇっ、愚劣極まりない《もの》としてしか如何なる《存在体》も自身の《存在》を語れぬではないか! 





(六十七の篇終はり)







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2010 04/19 06:14:42 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――これは愚問だが、0.9999999999……の小数点以下の数字、9が、例へば∞回続く0.999999999999……は、ひょいっと《一》に跳躍する不思議を、不思議とは思はずに吾等は何の疑念も抱かずに《一》を簡単に《一》と呼んでゐるが、しかし、その実、誰も《零》と《一》との間にも∞個の陥穽が彼方此方に口を開けてゐることすら気付かずに、否、気付かぬ振りをしながら、へっ、《一》=《一》などといふ嘘っ八を恰も真実かの如くに扱ふ事に慣れてしまった故に、へっ、《吾》たる《存在》は、それが何であれ、《吾》たる《存在》にばっくりと口を開けた風穴の如き穴凹を、己の内部に、ちぇっ、何気無しに不意にばっくりと口を開けた様を見出してしまふと、哀しい哉、《吾》が内心、しくしくと哀しい涙を流しながら《吾》を愛撫しようとするのだが、しかし、《吾》の内部に開いた穴凹は如何ともし難く、そして、《吾》は如何仕様もなく苦悶に身を捩りつつ、《吾》は、唯、茫然と此の世に佇立する外ない《存在》だと嫌といふ程に味はひ尽くさねばならぬ宿命にあるとしたならば、さて、お前はそんな《吾》を何とする? 





――くっくっくっくっ。別に何ともしないがね。ちぇっ、下らぬ! お前は俺に「此の宿命を呪ひ給へ」なんぞとほざかせようとしてゐるやうだが、そんな小細工には乗らないぜ。





――それでもお前は《吾》が《吾》でしかない事に堪へ得るといふのかね? 





――さうさ。《存在》は此の世に《存在》しちまった以上、数多ある此の世の矛盾を死ぬ迄、ちぇっ、死んでも尚かな、まあ、どちらにせよだ、その数多の矛盾を死ぬ迄ずっと噛み締めなければならぬのさ。くっくっくっくっ。





 と、その時、《そいつ》はぎょろりと私を睨み付け、更にかう続けたのであった。





――お前にはその覚悟があるかね? くっくっくっくっ。





――覚悟がなくても《吾》が此の世に《存在》した以上、覚悟せねばならぬのだらうが、へっ。





――しかし、《吾》たる《存在》は、それが何であれ、《吾》自体がそもそも夢幻空花な《もの》に等しい事に愕然とし、そして、誰しも《吾》に躓く外ないといふ何たる皮肉! 此奴をお前は何とする? 





――ちぇっ、何とするもしないも、それは、つまり、色即是空、空即是色、若しくは諸行無常なる《存在》の哀しみとして、《吾》たる《存在》は、それが何であれ甘受せねばならぬのではないのかね? 





――くっくっくっくっ。《存在》の哀しみと来たもんだ。《吾》とはつくづく哀れな《存在》なんだな、ふっふっふっ。





 と、《そいつ》はさう言ひ放つと、あらぬ方向へ目を向けて、其処にあるに違ひない《そいつ》にしか解からぬであらう虚空を凝視し始めたやうであった。そして、私はといふと、これまた瞼を開けて、此の世といふ名の世界を改めて眺め回してみるのであった。





 すると、不意に《そいつ》は、





――はくしょん! 





 と、くさめを放ったのであった。





――へっへっへっ。風邪でも引いたのかね? 





――何奴かが俺を睨みやがったのさ。





――それでくさめを? 





――さうさ。お前以外にこの俺を睨み付ける《存在》がゐるとは思ひもよらなかったからな。





――しかし、俺にはお前以外何《もの》も見えやしないぜ。





――当然だらうが! お前の視覚は此の世を見るべく定められてゐるからね、くっくっくっ。





――するとお前は何処の虚空かは知らぬが、お前にしか見えぬその虚空で誰とも、若しくは何《もの》とも知れぬ《存在》の幽霊、若しくは亡霊、へっ、この言ひ方は可笑しいがね、その《存在》の幽霊、若しくは亡霊でも見ちまったといふ事かね? 





――ご名答だ、くっくっくっくっ。彼の世の何《もの》かが俺を睨み付けたのさ。





――つまり、それは、お前にのみ見えてしまふのであらうその虚空に棲む幽霊、若しくは亡霊共が、彼の世といふ処で、つまり、幽霊若しくは亡霊共が、お前の噂で持ち切りといふ事ぢゃないかね? 





――へっ、誰かが俺の噂をしてゐるから俺が「はくしょん!」とくさめをしたと、お前は如何あっても看做したいらしいが、さうは問屋が卸さないぜ。お前が考へてゐる事と逆の事が今起きたのさ。つまり、俺の頭蓋内の闇を何《もの》かがすっと通り抜けたのさ。





――それを何《もの》かの《存在》の幽霊、若しくは亡霊と言ふのではないのかね? 





――へっ、さう看做したければ差う看做せばいいだけのことさ、ちぇっ、下らぬ。





(十の篇終はり)







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2010 04/12 05:52:58 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さて、《吾》は此の世からさうすんなりと消えられる《もの》かね? ふっ、つまり、《吾》は此の世と彼の世、そして、過去と未来を繋ぐ《時空間》の結節点として《存在》する《吾》たる自覚は、《吾》がどうあっても「《吾》たらむ」とあらうとする志向の中に自然と芽生える《もの》なのだらうか? 





――つまり、それは一言で言っちまふと、如何なる《吾》も歴史といふ《もの》への人身御供からは遁れられぬといふ事だらう? 





――歴史への人身御供……か――。ちぇっ、すると《吾》とは歴史における《存在》の標本として、若しくは典型として人生を終へる、即ち歴史へと生を捧げる人身御供でしかない事を甘受せよ、と。





――約めて言へば、現在よりも未来が優れてゐる事を不知不識(知らず識らず)のうちに《吾》なる《存在》は自然と望んでしまふ哀しい《存在》ぢゃないかね? 





――ふむ。現在よりは未来を……か。つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ夢を見、そして、その夢を繋ぐ為のみ、即ち、夢をRelayするべく歴史の人身御供、若しくは生贄としてのみ《存在》する事が許される――といふ事か……。





――それ故、《吾》は己の死を夢に見、己の死後を夢に見ちまふのさ。つまり、Imaginary numberたる虚数が此の世に《存在》しなければ此の世の事象が何一つ語れぬといふ或る種の必然と違ふのかね、それは? 





――ふっ、念ある処には即ち虚数あり、か――。





――cogito,ergo sum……。





――ふっふっふっ。肉体と精神と言ふと単純化された二分法に陥りやすいが、しかし、肉体と精神とを《存在》に見出しちまふのは、此の世に虚数がある限り必然といふ訳か……。





――さうさ。例えば肉体が実部であれば精神は虚部の複素数が《存在》の様態だと看做せなくもない。





――つまり、《存在》は此の世に虚数が《存在》する以上、ちぇっ、《存在》は思念せざせるを得ぬといふ事かね? つまり、複素数の虚部が思惟その《もの》だと? 





――さうさ。此の世の森羅万象は、思念する事を強ひられる。





――さて、何に思念する事を強ひられるのか――。





――ふっ、自然にだらう? 





――つまり、自然においてAはAである事は、これ迄もなかったし、これからもないといふ事だね? 





――さうさ。俺もお前も複素数の世界に投企されてしまってゐるんだからな。





――つまり、俺の実部が仮初にAとすると、俺はAであってAであらず、つまり、俺の虚部は絶えず変化して已まない精神の状態、ちぇっ、肉体もまた変化して已まないが、しかし、精神が《存在》するならば、俺の虚部はまさしくその千変万化する精神に違ひなく、それを此の世の実部として実体化するべく、例えば数学における共役なる複素数を持ち出して虚部を実数へと相転移させる事で、あっ、さうか、《反=生》は、この俺の共役の複素数たる《存在》の事か――。





――ふっ、それぢゃ、《存在》を余りに単純化しすぎてゐるぜ。





――しかし、《存在》はそれが何であれ夢を見、思念すると看做せちまふ以上、へっ、それは《生》と《反=生》の対発生と対消滅によってのみ此の世に表象可能な《もの》ぢゃないのかね? 





――へっへっへっへっ。ところが、お前はお前の《反=生》たるお前と共役な《存在》関係にあるだらう《存在》を死んでも尚、確定出来ぬとすると、さて、この俺とは一体何なのかね? 





――つまり、《吾》=《吾》は未来永劫確定出来ぬ、つまり、自同律の不確定性原理とも呼ぶべき法則が此の世に厳然と《存在》すると? 





――ああ。それを《存在》は《摂理》と名付けて、己が己であるといふ《断念》のうちに、辛うじて《吾》は《吾》を此の世に見出してゐるに過ぎぬのさ。





――つまり、此の世の夢の最たる《もの》が、この《吾》といふ事かね? 





――へっ、《吾》が泡沫の夢でなくてどうする? 





――しかし、《吾》は《吾》として此の世に《存在》せねば、へっ、一時も生き永らへない代物と来りゃあ、実際のところ、この《吾》といふ《存在》は、目も当てられない《もの》、ちぇっ、つまりは《存在》の筈だぜ。





(六十六の篇終はり)







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2010 04/05 06:10:06 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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『審問官 第一章「喫茶店迄」』(日本文学館刊)がいよいよ四月一日に発売になります。興味のある方は、是非ともお手にどうぞ。





自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2010 03/30 06:23:18 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――逆に尋ねるが、此の《吾》なる《存在》は、此の世に徹頭徹尾《吾》を実在する《もの》として認識したいのだらうか? 





――はて、お前が言ふその実在とはそもそも何の事かね? 





――ふむ。実在か……。つまり、実在とはそもそも仮初の《存在》に過ぎぬと思ふのかい? 





――当然だらう。





――当然? 





――所詮、《存在》は、ちぇっ、詰まる所、確率へと集約されてしまふしかない《もの》だからね。





――やはり、《一》=《一》は泡沫の夢……か。





――さうさ。《一》すらも、へっ、《一》が複素数ならば、複素数としての仮面を被った《一》の面は、±∞×iといふ虚部の仮面をも被った《存在》として此の世に現はれなければ可笑しいんだぜ。





――へっ、さうだとすると? 





――しかし、……、虚数単位をiとすると、±∞×iは、さて、虚数と言へるのかね? 





――∞×iが虚数かどうかに如何程の意味があるのかね? しかし、残念ながら±∞×iもまた虚数な筈だぜ。





――つまり、±∞×iが虚数だとすると、実在は、即ち、《存在》は必ず複素数として此の世に《存在》する事を強ひられる以上、その《存在》は必ず不確定でなければならぬ事態になるが、へっ、その不確定、つまり、曖昧模糊とした《吾》として、この《吾》なる《存在》は堪へられるのかね? 





――だから、《吾》が《吾》を呑み込む時にげっぷが、若しくは恍惚の喘ぎ声がどうしても出ちまふのさ。





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





 再び、彼の耳を劈く不快極まりない《ざわめき》が何処とも知れぬ何処かからか聞こえて来たのであった。





――すると、《一》は一時も《一》として確定される事はないといふ事だね? 





――ああ、さうさ。





――しかし、ある局面では《一》は《一》であらねばならぬのもまた事実だ。違ふかね? 





――さあ、それは解からぬが、しかし、《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ、此の世に恰も実在するが如くに《存在》する術、ちぇっ、つまり《インチキ》を賦与されてゐるのは間違ひない。





――ちぇっ、所詮、実在と《存在》は未来永劫に亙って一致する愉悦の時はあり得ぬのか――。





――それでも、《吾》も《他》も、つまり、此の世の森羅万象は《存在》する。さて、この難問をお前は何とするのかね? 





――後は野となれ山となれってか――。つまり、《他》によって観測の対象なり下がってしまふ《吾》のみが、此の世の或る時点で確定した《吾》として実在若しくは《存在》するかの如き《インチキ》の末にしか《吾》が《吾》だといふ根拠が、そもそも此の世には《存在》しない、ちぇっ、忌々しい事だがね。





――だから、《存在》は皆《ざわめく》のさ。





――つまり、《一》者である事を《他》の観測によって強要される《吾》は、《一》でありながら、其処には《零》といふ《存在》の在り方すら暗示するのだが、《一》者である事を強要される《他》における《吾》は、しかし、《吾》自身が《吾》を確定しようとすると、どうしても《吾》は−∞から+∞の間を大揺れに揺れる或る振動体としてしか把握出来ぬ、換言すれば、此の世に《存在》するとは絶えず±∞へと発散する《渾沌》に《存在》は曝されてゐる、儚い《存在》としてしか、ちぇっ、実在出来ぬとすると、へっ、《存在》とはそもそも哀しい《もの》だね。





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





――だから如何したと言ふのかね? へっ、哀しい《もの》だからと言って、その哀しさを拭う為に直ちにお前はその哀しい《もの》として《存在》する事を止められるかね? 





――へっ、止められる訳がなからうが――。





――土台、《吾》とは何処まで行っても《吾》によって仮想若しくは仮象された《吾》以上にも以下にもなれぬ、しかし、《他》が厳然と《存在》する故に、《吾》は《他》によって観察された《吾》である事を自然の摂理として受け入れる外ない矛盾! 嗚呼。





――それ故、男は女を、女は男を、換言すれば、陰は陽を、陽は陰を求めざるを得ぬといふ事かね? 





――さう。男女の交合が悦楽の中に溺れるが如き《もの》なのは、《吾》が《吾》であって、而も、《吾》である事からほんの一寸でも解放されたかの如き錯覚を、《吾》は男女の交合のえも言へぬ悦楽の中に見出す愚行を、へっ、何時迄経っても止められぬのだ。哀しいかな、この《存在》といふ《もの》は――。





(十 終はり)







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2010 03/15 06:46:22 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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