思索に耽る苦行の軌跡

――そもそもお前が言ふ私性とは何かね? 





――ふむ。さうさねえ、頭蓋内の闇といふ五蘊場を、図らずも付与されてしまふ《存在》全ての事かな。





――ふっ、その五蘊場は、此の世に《存在》する森羅万象には必ず《存在》すると? 





――ああ。《場》が《存在》すれば、其処には必ず五蘊場が生滅する。





――何故さう看做せるのかね? 





――何《もの》をも皆「《吾》たらむ」と渇望しちまふからさ。





――「《吾》たらむ」? それは「《吾》以外の何かたらむ」ではないかね? 





――へっへっへっ。さうは問屋が卸さないぜ。





――つまり、《吾》は単純化に全く馴染まない《もの》と言ひたいのかね? 





――はて? 《吾》の単純化とは何の事かね? 





――つまり、《吾》=《一》者といふ自同律の事さ。





――またぞろ自同律かね。何度も言ふがね、これ迄《吾》が《一》であった事はなかったし、これからもありはしないぜ。





――何故? 





――答へは簡単さ。《一》は此の世に実数として《存在》した事はなかったし、これからも実数としてはあり得ぬのさ。





――つまり、《一》は数多ある複素数の実部を表してゐるといふ事だらう? 





――さうさ。そもそも《一》=《一》が成立する世界こそ異様な世界な筈だぜ。





――つまり、これは禅問答に近いが、《一》は《無》であり《無限》でもあるといふ事かね? 





――でなければ、《一》は何だといふのかね? 





――ちぇっ、《吾》にとって《一》は何としても実在する《もの》であって欲しいのさ。





――へっへっへっ、これはまた異な事を言ふ。





――異な事? 





――ああ、さうさ。世界認識の仕方が実数から複素数へと拡張される事が受け入れられぬのかね? 





――お前にすれば、《存在》のこれ迄の世界認識の仕方は未熟でしかないといふ事かね? 





――へっ、世界の認識の仕方が拡張されるんだぜ。何故にそれを《吾》は拒むのかね? 





――拒むも拒まぬもないではないか! 既に世界は仮想化されつつある、ちぇっ、つまり、虚数、英語で言へばImaginarity number、へっ、それを直訳すれば想像上の数といふ事だが、その虚数といふ仮想数字なくして最早世界は一言たりとも語れぬ事態に突入しちまってゐるのではないかね? 





――其処さ。既に世界は仮想化される事を免れぬのに、何故、今もって《吾》は《一》=《一》といふ此の世では決してあり得ぬ自同律に拘り続けるのかね? 





――へっ、此の世に決してあり得ぬから《吾》はそれを夢見るのと違ふかね? 





――つまり、《吾》といふ観念自体がそもそも嘘っ八だと? 





――ああ、さうさ。





――ああ、さうさ? 





――ではお前は《吾》を何だと思ってゐたのかね? つまり、それを換言すれば、《吾》は此の世に自然に発生するとでも看做してゐたのかね? 





――ふはっはっはっはっ。《吾》が《吾》でなければ、さて、その《吾》は一体全体何なのかね? 





――さっき言ったではないか、「《吾》たらむ」とする《存在》だと。





――つまり、《吾》は未来永劫《吾》に至り得ぬ《存在》としてしか此の世に《存在》出来ぬと? 





――当然だ! 





――当然? 





――では、《吾》とは一体何なのかね? 





――ふっ、「《吾》たらむ」と渇望して已まない《存在》が、苦し紛れにさう呼んでしまった一時しのぎの仮初の《もの》の名さ。





――仮初の《もの》の名? 《吾》とは、つまり、此の世においての仮初の《存在》以上にはなれぬ、ちぇっ、しかし、此の世で《吾》を「《吾》!」と名指した《もの》、つまり、此の世の森羅万象は、未来永劫に亙って此の世に《存在》不可能な《吾》なる何《もの》かを、それが何だか解からずに、へっ、夢見ずにはゐられぬ皮肉に満ちた哀れな哀れな哀れな《存在》といふ事かね? 





――へっ、其処が《吾》の甘ちゃんなところだ。《吾》を指して哀れな哀れな哀れな《存在》と看做しちまふ《吾》は、結局、哀れの何たるかすら全く解からずに、此の世から消える、ふっ。





(六十五の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2010 03/01 07:00:35 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 さて、私が、夢で見る《闇の夢》の深奥の深奥の深奥は、果たして、光に満ちた輝く世界なのであらうか、などと想像してはみるのであるが、《光》と《闇》といふ単純な二分法でしか《もの》を考へられぬ己を、





――未だ未だ甘ちゃんだな。





 と、自嘲しながらも、私は、心の何処かでは《闇の夢》の深奥の深奥の深奥は、光に満ちてゐてほしいと望んでゐた事も、また、紛れもない事実なのであった。





――それでは、何故、私は《吾》の内奥に潜むであらう《吾》の五蘊場に《存在》するに違ひない《闇の夢》の深奥の深奥の深奥は光に満ちてゐなければならぬのか? 





 と、その事を不思議に思はなくもなかったのである。そして、それを、





――《特異点》!





 と、名指しても、





――さて、虚数iを零で割った場合は、それはまた±∞、若しくは±∞×iに発散するのか? 





 と、余りにも幼稚な疑問が浮かぶのであった。さてさて、困った事に私は、無限大、若しくは無限に、∞といふ記号を用ゐるのは、今のところ《存在》がその「現存在」を宙ぶらりんのまま、何事も決することなく、《存在》が永劫に《存在》に肉薄、若しくはにじり寄る事を止揚し、《存在》が《存在》から逃げ果す為の《インチキ》の最たる《もの》と看做す悪癖があり、





――そろそろ《存在》は己を語るべく、数学の世界も複素数を更に拡張した、例へばそれを《杳数(えうすう)》と名付ければ、《特異点》や虚数i÷零を∞と表記しない《もの》を考へ出さなければならない。





 などと、考へてみるのであるが、∞は、その論理からするりと摺り抜けて、相変はらず∞として厳然と《存在》する事を已めないのであった。





――しかし、《無限》は何としても《超越》しなければ《存在》の新たな地平は拓けぬ! 





 と、己に言ひ聞かせるやうにして、私は、尚も沈思黙考に耽ざるを得ぬのであった。





――《吾》だと、ぶはっはっはっ。





 それは、多分に《存在》の新たな地平を拓く、若しくは《存在》のParadigm(パラダイム)変換が何時迄経っても出来ぬ私を嗤ってゐる事に外ならないとも思へて来るのであった。





――《吾》が何時迄経っても《吾》でしかない事は、最早、《存在》する《もの》全ての怠慢であって、《吾》が《吾》でしかない事は、侮蔑の対象でしかないのではないのか? 





 と、不意に私の内部の深奥のところから浮かぶその疑問は、あながち何の根拠もない出鱈目ではなく、もしかすると、《存在》の本質、即ち《物自体》を衝いてゐるのではないか、と看做してしまへば、私が、夢で見る《闇の夢》は、もしかすると、《特異点》をも∞をも虚数iを呑み込んで恬然とした《もの》、即ち《杳数》が此の世に出現する為には何としても被らなければならぬ仮面なのかもしれぬと思はずにはゐられなかったのである。





――ふっ、《杳数》、ちぇっ、つまり、《杳体》か――。





 それを《杳体》と名付けたはいいが、それが一体全体何を意味してゐるか皆目解からぬ未知との遭遇なのは間違ひないのであったが、しかし、《杳体》は、既に此の世に出現してゐて、《存在》は、《存在》自体を語り出すには、この《杳体》なる《もの》の《存在》を定義付けなければならぬ局面に、今現在、遭遇してゐるに違ひないと思へなくもないのであった。





――《闇の夢》が《杳体》の仮面? 





 私は、今のところ、《杳体》なる《もの》の《存在》について何ら確信めいた《もの》を持ち得、若しくは《存在》の物理的な事象が、まるで現在あるところの物理的なる事象とは全く別の《もの》へと相転移したかの如くに、自棄のやんぱちで「えいっ!」と一言の下に新たな《もの》たる《異=世界》とそれを看做して、強引に∞を発散から収束へとその持つ意味を逆転させてしまふ論理的な術など一切持ってゐなかったが、しかし、最早、《存在》はそれが何であれ《存在》において∞が未だ仮初の記号に過ぎず、《杳数》なる《もの》を持ってして数字の拡張を敢へて試みなければ、《存在》は《存在》を一言も語れないのではないかといふ、或る種の予感めいた《もの》は、既に私にはあって、だが、虚数、つまり、英訳するとImaginary numberたるiをごくりと呑み込んでも平気の平左でゐられる《杳数》、これを仮に英訳すると、Obscurity numberとなるのでその頭文字を取って《杳数》単位をoとすれば、そのoなる《もの》が、例へば【「杳数oの二乗」=虚数i】などと定義するなどして此の世に何となく異形の《もの》として《存在》してゐるのではないかと示唆が出来るのみであって、残念ながら今の私の能力では《杳数》若しくは《杳体》に、確たる具体的な姿形を思ひ描き与へる事は、それこそ杳としてをり、そして、未だ《杳数》並びに《杳体》にその《存在根拠》を与へられず仕舞ひなのであった。多分、その忌忌しい結果として、私は《杳体》なる《もの》の表象として《闇の夢》を見る外ない何とも歯痒い事態に陥ってゐて、





――《吾》だと、ぶはっはっはっ。





 と、思はず《吾》を《吾》が嗤ふといふ、多分、此の世が《存在》する限りにおいて永劫に続くのであらう堂堂巡りを繰り返す外ないどん詰まりに、私は、とっくの昔に追ひ遣られてゐるのは間違ひのない事であった。





――《吾》だと、ぶはっはっはっ。《闇の夢》が《杳体》? ぶはっはっはっ。





(八の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2010 02/22 05:58:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――付かぬ事を尋ねるが、お前にとって《死》は怖い《もの》かね? 





――また何故にそんな事を? 





――いや、何ね、《生》と《死》は表裏一体を為す《もの》、つまり、《生》の裏面が《死》であると単純に看做せるのかと思ってね? つまり、《生》と《死》は《対‐存在》する《もの》なのかね? 





――ふっ、《生》の裏面が《死》でないとすると、では《生》の裏面とは何かね? 





――へっ、《反=生》さ。





――それが《死》の事ではないのかね? 





――へっへっへっ。《反=生》が《死》の事だと? これは異な事を言ふ。《反=生》は、《生》といふ《存在》の不在によって初めて露はになる、此の世に《存在》する《もの》が《対‐存在》している事を此の世に射影する何かの事さ。





――はて? それは一体全体何の事かね? ふん、不在故に《存在》の有様が尚更露はに為る《存在》の有様、譬へて言へばその《存在》の有様は《仮象=存在》とは言へると思ふが、《反=生》とはその《仮象=存在》とはまた別の《存在》の此の世に実在する有様ではないのかね? 





――へっへっへっ、何ともまどろっこしいが、つまり、端的に言っちまへば、その《仮象=存在》を夢の一種と看做しちまへば、《反=生》は何だと思ふ?   





――はて? 先程からお前は一体全体何を言ってゐるのか己で理解出来てゐるのかね? 





――ちぇっ、ふん、いや。





――つまり、単なる言葉遊びをしてゐるに過ぎぬのぢゃないかね? 





――しかし、これは直感的だが、《生》の裏面は《死》ではなく、やはり、《反=生》にしか思へぬのだが……。





――だから、その《反=生》とは一体全体何の事なのかね? 





――強ひて言へば、《生》といふ《存在》が此の世で出合ふ仮象の、若しくは夢幻空花な《死》の事かな? 





――かな? そもそも仮象の《死》とは何の事かね? 





――へっ、《生者》にとって、どう足掻いても自身の《死》については想像する外ないその想像上の《死》、つまり、《鏡面上の吾》にしか為れぬ《対‐存在》の悲哀の事さ。





――つまり、論理的な飛躍、ちぇっ、ここには大いなるインチキがあるんだが、まあ、それはそれとして、つまり、約めて言へば、《死》した《吾》さへ思念するこの《鏡面上の吾》と《対‐存在》する外ない《吾》なる《存在》全般が思念するといふその思念のみが、《生》をも《死》をも《超越》出来得ると? 





――さあ? それは解からぬ。





――さあ? 





――さうさ。実際、生きてゐる《存在》が思惟する事で、さて、その思惟する事の中に何かしら不可能事と看做せてしまふ《もの》が必ず《存在》するに違ひない筈だが、ところで、《生》ある《もの》が思惟不可能と看做してしまふその根拠は何処にあると考へるかね? 





――つまり、所詮、《生》が思念出来る事と言へば、《生》の事象にある《もの》に限られると? 





――さう……。しかし、《生者》は《死》をも夢想しちまふ。





――さうすると、《反=生》とは、《生》と《対‐存在》する限りにおいてのみ《存在》可能な有限なるその《対‐存在》が、《対‐存在》でしかあり得ぬこと故に此の世に《存在》する森羅万象が、《無》や《無限》に思いを馳せてしまふ事と何かしら関係があるのかな? 





――森羅万象は、それが何であれ、此の世に《対‐存在》としてしかあり得ぬ故に、《存在》は皆、《渾沌》へと発散しちまふ《存在》の、或ひは《事象》の《陥穽》に落ちる恐怖と、何時も隣り合はせにしか《存在》出来ぬ。それ故、此の世の森羅万象は《無》と《無限》を如何しても想像しちまふ悪癖を「先験的」に負ってゐる。





――つまり、《反=生》とは《渾沌》としてしか《存在》しない此の世の《陥穽》の事かね? 





――いや、《反=生》もまた秩序がある或る何かに違ひない筈さ。ぢゃなきゃ、《生》と《反=生》は、此の世で《対‐存在》として《存在》する筈がない。





――ふむ……。もしかすると、お前の言ふ《反=生》とは、此の世に現実存在する、即ち、実存の対極にあり《存在》と《対》を為すに違ひないの《霊性》の事ぢゃないかね? 





――さて、付かぬ事を聞くが、ずばり、《霊性》とはそもそも何かね? 





――ふむ。《霊性》とは魂魄と同類の《もの》だらう――か? 





――へっ、「《霊性》とは何かね?」と尋ねながら誠に申し訳ないんだがね、へっ、別に何でも構はぬぢゃないか、《霊性》が何であらうが。





――つまり、《存在》に纏わり付く《霊性》のみが、《生》をも《死》をも《超越》する《反=生》か――。つまり、《生》と《反=生》か此の世に《対‐存在》する。





――その《もの》の不在である事によって尚更露はになる《存在》或ひは《もの》が、詰まる所、《霊性》であると強引に看做しちまへば、さうすると、《霊性》とは、永劫の事象にある何かしらの《もの》ぢゃないかね? 





――多分、此の世に《存在》若しくは《対‐存在》する森羅万象の《もの》から私性を剥ぎ取れば、《霊性》は永劫な何かさ。





――私性? 





――さう。《吾》は《死》して《吾》から解放される。





――ふっ、実際のところ、お前は、《吾》は未来永劫に亙って《吾》から解放される事はないと思ってゐるから、そんな事が言へるのぢゃないかね? 





――ふっふっふっ。つまり、《反=生》は、私性がある《死》の仮象であって、換言すれば、私性は当然《反=生》にも纏わり付いてゐる《もの》で、それ故に《死》その《もの》は、《生》と《反=生》と《対‐存在》する此の世の《存在》全てに付与されてゐるその私性からの解放に違ひないとは思はないかね? 





(六十四の篇終はり)







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2010 02/15 06:13:32 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっへっへっ。最早、何《もの》も、ちぇっ、「俺は俺だ!」ときっぱりと断言出来る《存在》としての、換言すれば、此の《生者》のみが「俺は俺だ!」と宣ふ事を許された《存在》としての、へっへっ、この《生者》たる《吾》は、恰もそんな《吾》が此の世に《存在》するが如く《吾》といふ《存在》を無理矢理にも、若しくは自棄(やけ)のやんぱちにでも架空せざるを得ず、また、神から掠奪した人工の《世界》において、《吾》を《吾》と名指す事のその底無しの虚しさは、《吾》の内部にぽっかりと空いた《零の穴》若しくは《虚(うろ)の穴》の底無しを表はしてゐるに違ひないのだが、さて、《死》を徹底的に排除した《生者》のみが棲息するこの人力以上の動力で作り上げられた此の人工の《世界》は、へっ、自然に対して余りにも羸弱(るいじゃく)ではないかね? 





――それは全く嗤ひ話にもならぬ事だが……。此の《生者》の為のみに作り上げられた人工の《世界》は全くもって自然に対して羸弱極まりない! 





――すると、此の人工の《世界》に生きる事を、若しくは《存在》する事を強要された《吾》といふ架空され、《吾》の妄想ばかりが膨脹した此の《吾》もまた、自然、ちぇっ、単刀直入に言へば《死》を含有する自然に対しては羸弱ではないかね? 





――へっ、元来、《吾》が《死》に対して強靭だった事など、此の宇宙全史を通じてあったかね? 





――だが、自然にその生存を全的に委ねてゐた時代の《吾》たる《もの》は、傍らに《死》が厳然と《存在》してゐた分、それを敢へて他力本願と名指せば、己の命を《吾》為らざる《もの》に全的に委ねるといふ、何とも潔い《生》を生きてゐた筈だ。つまり、《死》が身近故に、《存在》は《存在》する事に腹を括り、そして、《吾》は蘗の《吾》をも含めて如何様の在り方をする千差万別の《吾》を、《世界》も《吾》も極当然のこととして受け容れてゐた。





――ふむ……。《生》が《死》へと一足飛びに踏み越え、簡単に自ら死んで行く、つまり、それ故、原理主義が彼方此方に蔓延(はびこ)る、へっ、その結果、《死》に対して何とも余りに羸弱極まりない《吾》、そして、その《吾》の《存在》の無理強ひが《死》を徹底的に排除した人工の《世界》へと遂には結実して行くのだが、しかし、嘗ての《吾》が多様に《存在》する、若しくは自在に《存在》出来てゐたに違ひない神と共に《存在》出来た神の世において、果たして、狂信は齎されなかったとでも思ふのかい? 





――いいや、何時の時代でも《もの》は何かを狂信してゐたに違ひない筈さ。





――ならば、何故、彼方此方に蔓延る現代の原理主義ばかりを特別視するのかね? 





――現代の原理主義は、徹頭徹尾《生者》の論理、ちぇっ、それは裏を返せば冷徹な《死》の原理に地続きなのだが、それ故、現代の原理主義は、二分法を極めて厳格に適応した末に生まれてしまった、その実、背筋がぞっとせずにはいられぬ代物でしかないからさ。





――つまり、蘗の《吾》としてしか《存在》する事が許されぬこの《吾》といふ《インチキ》を平然と為し遂げて、いけしゃあしゃあと恰もその蘗の《吾》を本当の《吾》と仮想、否、狂信し、而も、その蘗の《吾》の出自に目をやる余裕すら失ってしまった此の《生者》の論理ばかりが罷り通る人工の《世界》は、へっ、その人工の《世界》自体が自然に対して極めて羸弱極まりないといふその論理的な破綻を、果たして、此の世に《存在》する《もの》の何(いづれ)かは論理的に破綻せずに語り果(おほ)られるかね? 





――ふっふっふっ。自然に対して極めて極めて羸弱な《世界》って、さて、何なのだらうか……? 





――つまり、人工の《世界》と自然とが相容れない状態でしか互ひに《存在》してゐない事それ自体、へっ、つまり、詰まる所、此の人工の《世界》そのものが、元々自然と重なり合ってゐたに違ひない《世界》なる《もの》もまた、その本質をぽっきりと折られ、蘗の《世界》としてしか《存在》してゐないとすると、ちぇっ、人類史とは一体全体何の事なのだらうか? 





――無知無能なる《生者》が、全智全能なる《もの》の振りをするべく、神の下の《世界》をぽきりと折って、神を、そして、《死》を徹底的に排除する事で、《生者》天国の人工の《世界》が、恰も此の世に創出可能な如くに《生者》が見栄を張ってゐたに過ぎぬとすると、《存在》とはそもそも何と虚しき《存在》なのであらうか? 





――ちぇっ、何を今更? 元来、頭蓋内の闇に明滅する表象群は、恰も絶えずその表象群が無辺際に湧出するが如く看做すこの《吾》は、己の頭蓋内の闇を覗き込んで、その頭蓋内の闇といふ五蘊場に明滅する数多の表象群を眼前に取り出した揚句に、ちぇっ、結局のところ、頭蓋内の闇の表象群を外在化させて作り上げた人工の《世界》から帰結出来る事と言へば、《生者》の頭蓋内の闇といふ五蘊場から《死》を徹底的に排除してゐるに過ぎぬといふ事ぢゃないかね? 





(五の篇終はり) 







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2010 01/30 05:46:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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※お詫び



【只今「審問官 第一章」を書籍にする作業に取り掛かっているため、このブログの更新は暫くの間、不定期となります。悪しからず。】








――だが、「科学」的な世界認識の仕方は、数多あるであらう世界認識法の一つに過ぎない。それ以前に「科学」の最終目標は《神》の《摂理》を解き明かす事に過ぎぬのぢゃないかね? 





――ふっふっふっ。つまり、未だに此の世に《存在》する森羅万象は、それが何であれ《無》から《有》を生んでゐない。換言すれば、《神》の《摂理》を超える論理を見出せず仕舞ひの、へっ、唯の木偶(でく)の坊に過ぎぬ! 





――さう。《存在》はそれが何であれ己の出自すら解からぬ木偶の坊さ。そして、木偶の坊故に《もの》皆考へるのさ。





――さて、思念は時空間を《超越》するかね? 





――何故思念が時空間を《超越》すると? 





――《神》に《存在》からの解放を齎す為さ。





――その為に木偶の坊は思考すると? 





――さう。無い智慧で、どう足掻いたところで《神》になれぬ木偶の坊は、只管考へるしか《存在》に対峙する術はない。





――《存在》に対峙する? それは、つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ考へる木偶の坊に過ぎぬ《もの》全ては、さて、考へる事によって《存在》と対峙してゐるつもりが、さうぢゃなく、へっ、只管《存在》から遁走してゐるのぢゃないかね? 





――それで別に構はぬではないか? 





――別に構はぬ? それぢゃ、《神》を《存在》から解放するなど夢のまた夢に過ぎぬぢゃないかね? 





――土台、此の世に《存在》しちまった《もの》は《神的=もの》、それは《神》にも変容可能な筈だが、此の世の森羅万象はその《神的=もの》を渇望して已まない。つまり、《存在》する《もの》はそれが何であれ独りでは、または、一つでは決して《存在》することなぞ不可能なやうに「先験的」に定められてゐるのさ。





――つまり、《存在》する《もの》全てに祈りの対象は必要不可欠と? 





――違ふかね? 





――無神論者は、すると、なにかね? 





――へっ、己を信仰の対象にしてゐるに過ぎぬのぢゃないかね、無神論者は。





――つまり、《存在》しちまった《もの》は、《存在》する為にその拠り所、若しくは依拠する《存在》が、つまり、《存在》は必ず《対‐存在》としてしか此の世に《存在》出来ぬと? 





――さう。己を映す鏡的な《存在》、つまり、《吾》と《鏡面上の吾》の《対‐存在》としてしか《存在》することは不可能に違ひない。





――その《鏡面上の吾》は《異形の吾》であり、《他》であり、そして《闇》の事だらう? 





――ちぇっ、だから《吾》なる《もの》は駄目なのだ! 《鏡面上の吾》とは、《吾》を此の世の中心から退かす何かでなければならぬのさ。





――それは、つまり、《吾》を相対化する、《吾》の《存在》からの逃げ口上に過ぎぬのぢゃないかね? 





――それでも《吾》は一遍世界の中心から周縁へと《存在》する場所を、ちぇっ、それを場所と名指していい《もの》かどうかは解からぬがね、その《吾》の場所を世界の中心から世界の周縁へとその席を譲らなければならぬのだ。





――何に席を譲ると? 





――《吾》ならざる何かさ。





――《吾》ならざる何かは《他》ではないのかね? 





――へっ、《他》もまた己の事を《吾》と名指すだらう。





――すると、その《吾》ならざる何かとは、具体的に言ふと何かね? 





――さうさねえ……、無理矢理言ふと、《吾》ならざる何かとは彼の世の、嘗て《吾》だった《もの》かな。





――つまり、此の世の中心は《死》が相応しいと? 





――ああ。《生》なんぞ信ずるに値しないだらう? 





――しかし、《生》として《存在》する《もの》は《生》故に考へる事も可能ではないかね? 





――ちぇっ、お前は《死》が考へないとでも端から看做してゐるのか! 





――いいや、決して。唯、《生者》にとって《死》は《超越》出来ぬ何かだからね。





――しかし、《死》こそ日常の本質ぢゃないかね? 





(六十三の篇終はり)







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2010 01/11 06:24:21 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、ざまあ見ろ、だ! 





――ふほっほっほっほっ。それぢゃ、その意気ぢゃ。





――ちぇっ、忌々しい! お前が己自体に、つまり、俺の夢に出現させられる事に我慢がならぬのであれば、さっさと消えればよからうが! 





――ふほっほっほっほっ。それは不可能ぢゃて。何せお前がわしの世界に、つまり、わしの虚空にお前が無理矢理出現してゐるのだからぢゃ。





――む? 俺がお前の虚空に出現してゐるだと? それはまた異な事を言ふ。此の夢は俺が見てゐる夢ぢゃないのかね? 





――さうぢゃ。





――さうぢゃ? ならば俺の夢は俺においてちゃんと完結してゐるのぢゃないかね? 





――いいや。それでは一つ尋ねるが、お前の夢がお前のみで完結してゐる証左は何かね? 





――夢が、俺が見てゐる夢が俺において完結してゐる証左だと? 此の今、俺が見てゐる夢は、俺の頭蓋内の闇たる五蘊場で明滅してゐる仮象たる心象風景ではないのかね? つまり、俺の頭蓋内は俺として完結、否、閉ぢてゐる! 





――ふほっほっほっほっ。ならば聞くが、闇は元来お前の《もの》かね? 





――闇が俺の《もの》? ちぇっ、俺はそんな事一言も言っちゃゐないぜ。唯、俺の頭蓋内の闇たる五蘊場は、俺において完結若しくは閉ぢてゐると言ってゐるに過ぎぬのだがね。





――だからぢゃ。闇は元来お前の《もの》かね? 





――ちぇっ、下らぬ! 





――下らぬかね? もう一度聞くが、闇はそもそもお前の《もの》かね? 





――ちぇっ、いいや、としか答へやうがないぢゃないか。ふん、闇は、つまり、万物の《もの》さ。





――ふほっほっほっほっ。万物と来たか。簡単に言へばかうぢゃらう。つまり、お前が言ふ頭蓋内の闇たる五蘊場は、元を糺(ただ)せば、不純物が溶解してゐる《水》が頭蓋内の闇を脳といふ構造をした《場》にした、つまり、高が《水》をもってしてそんな脳といふ構造をした《場》を作り出すといふ芸当ができるのだから、《水》以外の森羅万象が闇を何かしらの構造をした《場》にしてしまふ事態は、此の宇宙を見渡せば在り来たりの《もの》、否、現象に過ぎぬのぢゃないかね? 





――つまり、それは意識は、ちぇっ、魂は何《もの》にも宿り得るといふ事かね? 





――違ふかね? 





――違ふかね? すると、万物に、否、森羅万象に魂が宿るといふのは、お前の独断でしかないのぢゃないかね? 





――さうぢゃ。ふほっほっほっほっ。





――ちぇっ、下らぬ! 





――さう断言するお前は、さて、何《もの》かね? 元を糺せば唯の《水》と違ふかね? 





――さうだが、それが如何したといふのか? 





――つまり、《水》は有機物とは違ふ無機物ぢゃらう? 





――だから、それが如何した? 





――つまり、無機物の、ふほっほっほっほっ、此の宇宙には在り来たりの《もの》の一つでしかない《水》が闇を脳といふ構造をした《場》へと昇華させられるのであれば、何《もの》も闇を《場》へと昇華させられる筈ぢゃがね。





――元々、闇は、それが仮令《真空》であったとしてもだ、闇といふ時空間は元々《場》ぢゃないのかね? 





――ならば闇の同質性は認めるかね? 





――闇の同質性? ふん。それはをかしくないかな? 





――何処がをかしいのかな? 





――だって闇は何《もの》も呑み込む何かぢゃないかね? すると、闇は連続した線形として語れるのか、それとも非連続の非線形として語れるのか、どちらだと思ふ? 





――さてね。多分、闇は線形と非線形の両様の様態をしてゐるんぢゃないのかな。ところが闇は何《もの》も呑み込まなければならぬ宿命にある。ふほっほっほっわ。闇もまた哀れぢゃの。





(四の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 12/26 07:36:57 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それ以前に世界自体が《吾》として自律し、《吾》として完結した《存在》として《存在》してゐるかね? 





――ふむ。世界の自律か……。絶えず変化して已まない世界の有様から類推すると、世界もまた《吾》である事を苦々しく思ひながら、しかし、さう《吾》を《吾》と認識する外なく、さうであるから、時々刻々と変化する諸行無常を已めないのさ。





――ふっ、それは何度も聞いたよ。唯、此の宇宙=外から此の宇宙を鳥瞰する《存在》が仮に仮象出来るとして、その仮象した《存在》なる《もの》が、此の宇宙を凝視した時、さて、此の宇宙=外に《時空間》に匹敵する何かは、《存在》可能だと思ふかい? 





――へっへっへっ。その《存在》が仮令仮象出来たとしてそれが如何様の意味があるのかね? 





――ふっ、別に何の意味も無いさ。唯、神なる《存在》を《存在》から解放させる為に、此の宇宙=外から此の宇宙を眦一つ動かすことなく、唯、じっと凝視する、例へばそれを《神的=もの》と名付ければ、その《神的=もの》なる《もの》は仮象可能かね? 





――へっ。思考するあらゆる《存在》、つまり、此の世の森羅万象はそれが何であれ必ず思考する《もの》に違いない筈だが、その森羅万象は、如何あってもその《神的=もの》なる《もの》の《存在》を渇望して已まない! 





――けっ、それは何故かね? 





――去来現(こらいげん)の中に自ら望むことなく《吾》の与り知らぬ処で、《吾》の《存在》を此の世に出現させた《もの》が、《生き物》または《もの》であるといふ事が、土台、此の世に《存在》させられし森羅万象はそれが何であれ、最早、その理屈に我慢がならぬのだが、困った事に、その憤懣をぶつける若しくは訴へる《存在》たる相手が、此の世には《存在》しない故に、尚更《吾》なる《もの》は、それが何であれ《神》なる《もの》に似た何かを渇望して已まないのさ。





――へっ、《神》に似た何かね――。はっきり「《神》!」と言明すればいいぢゃないか? 





――既に《神》はその役目を終へた、否、終はらしてあげなければ、最早、あらゆる《存在》は《神》に対して不敬を働く事に相為ってしまふのさ。





――《神》に対する《存在》の不敬? それは《吾》の傲慢故の事ではないのかね? 





――勿論! しかし、《吾》なる《もの》は、それが何であれ、最早、《神》を《存在》から解放させてあげなければ《神》が可哀相だらう? 





――可哀相? 《神》がかね? 





――さう。《存在》が此の宇宙に《存在》する限り、例へば、基督の磔刑像がRosary(ロザリオ)の如く《祈り》の道具として今尚基督は十字架に磔刑されたまま、基督の死から《存在》が未だ一歩もその歩を進めないまま、既に二千年余りが経過しちまった事の虚しさに、ちぇっ、《存在》する《もの》はその《存在》の遣り切れなさに愕然としたまま、未だ、誰一人として、否、如何なる《もの》もその《存在》の尻拭ひを《神》以外の《もの》に、譬へそれが釈迦牟尼仏陀であらうが、道元であらうが、親鸞であらうが、大雄であらうが、アッラーであらうが、ヤハヴェであらうが、何れにせよ人間が《摂理》と呼んでゐる《もの》以外に、その自らの《存在》の尻拭ひを、つまり、己でした例(ためし)がないのさ。





――それは、詰まる所、《吾》は己の《存在》から自刃せよ、といふ事かね? 





――ちぇっ、何故自刃なのかね? これだから《吾》なる《存在》は駄目なのさ。





――しかし、《存在》のParadigm(パラダイム)変換を貫徹するには、これまでのあらゆる《存在》に対して抱いてゐる《存在》といふ観念を自ら滅ぼさずして、つまり、《存在》の破壊なくして新たな《もの》の創造はある筈がない! 





――へっ、其処さ。破壊と創造こそ、既に《存在》の手垢に塗れた思考法だぜ。そして、破壊と創造を持ち出したところで、つまり、その《存在》の手垢で塗れた思考法からの脱却なぞ、土台、絵に描いた餅でしかない事の証左だぜ。





――すると、《存在》は生き恥を曝して、ふっ、武田泰淳の『司馬遷』ぢゃないがね、《存在》はその羞恥の塊でしかない生き恥をしっかりと曝して、尚、生きろと? 





――勿論。《存在》は仮令それが何であれ生き恥をしっかりと《他》に曝して《存在》しなければ、何故、《吾》なる《もの》が此の世に出現せざるを得なかったのか、未来永劫に亙って解からず仕舞ひだぜ。





――しかし、ふん、生き恥を曝して《他》と共に《吾》が《存在》するとして、其処に《神》に代わる若しくは《摂理》に代わる、《存在》を《存在》たらしめる《もの》の《存在》の何かの糸口でも見つからないのだらうか? 





――へっ、輝かしき「科学」があるぢゃないか! 





――それは皮肉かね? 





――だとしたなら「科学」以外で何か《存在》を語り尽くせる何かは、さて、あると思ふかい? 





(六十二の篇終はり)







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2009 12/21 06:45:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、そもそも君の言ふ《吾》とは何かね? つまりだ、自同律で言ふと、《吾》が《吾》であるとは、《吾》が《吾》である確率が《《他》に比べて一寸ばかり一に近しいからに過ぎぬのぢゃないかね? 





――つまり、《吾》は確率が零から確率一までを自在に揺らいでゐると? ふはっはっはっはっ。それはその通りに違ひないが、《吾》なる《もの》は、それが何であれ、己を「《吾》!」と名指したいのさ。





――その君の言ふところの己とは何かね? 君は何の躊躇ひもなく、今、己と口にしたが、君が言ふ己とは、君の頭蓋内の闇たる五蘊場で君が勝手に作り上げ、己と祭り上げた《幻影》、換言すれば夢幻空花なる《吾》に過ぎぬのぢゃないかね? 





――《幻影》の《吾》、つまり、《吾》なる《もの》は何処まで行っても夢幻空花なる《吾》以上にはなり得ぬといふ事の何処がまづいのかね? 己なる《もの》が、つまり、《吾》は何処まで行っても《幻影》で構はぬではないか? 





――へっ、居直ったね。すると《客体》も《幻影》に過ぎぬと? 





――ふっ、違ふかね? 





――すると、単刀直入に言っちまふと、此の世の森羅万象が《杳体》の《影》に過ぎぬと? 





――違ふかね? 





――さうすると、森羅万象が《杳体》の《影絵》でしかないといふ乱暴極まりない論理が罷り通る事になるが、ちぇっ、つまり、一言で言ふと、《杳体》と《物自体》の何が違ふのかね? 





――別に《杳体》と《物自体》が同じでも構わぬではないか。更に言へば、《杳体》は《物自体》をも呑み込んだ何かには違ひない! 





――つまりは、色即是空、空即是色か――。





――だからと言って《吾》は《吾》から遁れられやしないぜ。《吾》が《吾》である確率が《他》より一寸ばかり高いが故に、《吾》は「先験的」に《吾》をとことんまで突き詰めねばならぬ定めにある。そして、《吾》は《吾》を捩ぢ伏せるとともに、此の宇宙を震へ上がらせるのさ。





――それが可能だと? 





――ふっ、《杳体》の鼻をあかしてみようぢゃないか! 





――何故《杳体》の鼻をあかさねばならぬのか? 





――ふっふっ、決まってゐるぢゃないか。此の世に満ち満ちた怨嗟の類は何も死んだ《もの》達や未だ出現せざる《もの》達の専売特許ぢゃないぜ。此の世に《存在》させられてしまった《もの》達もまた、この悪意に満ちた宇宙に対して怨嗟の類を抱き呻吟してゐるのさ。





――何故此の宇宙に悪意ばかりが満ち満ちてゐるのか? 





――君は悪意なんぞは全く此の宇宙に満ちてなんかゐやしないとでも思ふのかい? 





――いや、決して。





――《存在》が《存在》するのに《他》の死が必須な仕組みは、其処に悪意がなければ絶対成立しない理不尽極まりない《もの》だ。





――しかし、ちぇっ、此の宇宙をこれっぽっちも弁護はしたくないが、新たな《存在》を生む為にはさうせずにはゐられなかったとすれば、此の宇宙もまた深い深い深い深い懊悩の中にあるに違ひない筈だ! 





――其処さ。つまり、その懊悩を背負はされてゐる《存在》の象徴が神だらう? 





――否、森羅万象の《存在》と《非在》と《無》と《空》のそれらに類する《もの》全てが、神をもそれに含めて、あらゆる《もの》が、深き深き深き深き懊悩の中にゐる。





――何故さうなってしまふのだらうか……? 





――つまり、これまで《存在》した事がない《もの》を何としても此の世に出現させる為に《存在》などの全ての《もの》は、どうあっても深き深き深き深き懊悩の中にゐなければならぬ宿命になければ、ちぇっ、詰まる所、此の世の森羅万象は何にも生み出せず仕舞ひにその運命を終へるしかない能なしに過ぎぬ《存在》のまま、へっ、絶えず己を呪って、遂には呪ひ殺さずには済まぬ、のっぴきならぬところへと《吾》は《吾》を追ひ込む馬鹿をするしかないんぢゃないのかね? 





(九 終はり)







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2009 12/19 06:05:10 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――しかし、記録は、映像の記録としての記録は、ちゃんと後世の為に残さなければならぬのもまた信なり――ってか。ふん。土台、歴史としての記録は何らかの形で自然と残っちまふ《もの》ぢゃないのかね? 





――それは当然だらう。何らかの媒体が記録に変化して必ず残るのは当たり前さ。それが口伝であらうが、言語であらうが、映像であらうが、歴史といふ記録は必ず何らかの形で残る。唯、問題なのは現在を生きる《もの》の記憶が《他》の記憶といとも簡単に交換可能な現在の異常事態の中で、《吾》たる《もの》は如何生存して行けばよいのか、未だ何《もの》も解かっちゃゐない事が危ふいのさ。





――馬鹿が! そんな事、解かっちまった方がむしろ《吾》たる《存在》にとって脅威だぜ。





――何故? 





――何故もへったくれもなからうが! 記録もまた生き残る《もの》しか残らないのさ。それ故に、群れてしか《存在》出来ぬ《もの》として仕組まれて創られた、つまり、「先験的」に群れるやうに仕組まれてゐる《存在》は、己の記憶を《他》と共有せずにはゐられぬのもまた自然の道理だらう? 





――だが、しかし、唯の映像が、ちぇっ、映像を見て何か解かった気になる事の馬鹿らしさに、《存在》は既にうんざりしてゐるのと違ふかね? 





――だが、映像は退屈な《時間》を紛らはして呉れるぜ。





――それは別に映像に限ったことぢゃないぜ。音楽鑑賞にしろ読書にしろ《個時空》の《吾》の時空を作品といふ《他》の《個時空》、それは既に死んじまった《もの》の作品といふ名の《他》の《個時空》の場合が多いのだか、その《他》の《個時空》に流れ渦巻く時間に、《吾》の《個時空》の時間は同調し、また、重なり合ふ。





――へっ、それは同調、そして、重なり合ふと言へるのかね? むしろそれは、《吾》の《個時空》が《他》に掠奪されてゐるのと違ふかね? 





――《吾》の《個時空》が《他》に掠奪されてゐる? それはさもありなむだな。ふっ、《個時空》と名付けたは良いが《個時空》なる《もの》をよくよく見れば、世界の中でしか《存在》出来ぬ代物、つまり、《吾》も《他》も全て世界に流れ渦巻いてゐるに違ひない世界=時空の大河に身を委ねちまってしか《存在》出来ぬ、即ち、《個時空》は元来が世界といふ《他》なくしては一時も《存在》出来ぬParadox(パラドックス)を《吾》は生きるしかないのかな……ふっ。





――へっ、《個時空》そのものが元々矛盾してゐるのさ。





――そんな何かを達観した如くに語るのは《吾》は《吾》らしくないぜ。





――《吾》らしい? ふっ、《吾》は元来が《吾》を捕捉し損なった《存在》としてしか此の浮世には《存在》出来ぬのぢゃないかね? 





――土台、《吾》が《吾》と名指してゐる《もの》が夢幻空花なる《もの》、つまり、映像と同様、《物自体》の影しか捕捉できぬ憾みは如何ともし難い! 





――つまり、《吾》は世界を媒介にしてしか《他》と繋がれぬといふ事さ。





――さて、本当に《吾》は世界を媒介にしてしか《他》と繋がってゐないのだらうか? 





――つまり、共同幻想と言ひたいのかね? 





――さう。しかも映像は、それが実際の世界に近しい故に尚更共同幻想を暴走させる。





――ちぇっ、濁流の中にカルマン渦は《存在》出来ぬといふ事かね? 





――さう。映像により尚更助長され暴走を始めてしまった共同幻想の中に《吾》の《個時空》は既に渦巻く事を断念せざるを得ぬのだ。





――それが現代社会だと? 





――付かぬ事を聞くが、お前は社会から自律した《存在》かね? 





――社会から自律した《存在》の筈がないぢゃないか! 





――それはまた如何してかね? 





――社会若しくは世界からの自律とは、つまり、世界から独立し自存した《存在》として《吾》はあれといふ事ぢゃないかね? 





――ふっ、それが出来ていれば《存在》の様式は今とは全く違った《もの》として《存在》出来た筈だのか、実際は、《吾》を初めとするあらゆる《存在》は世界=内=存在としてしか《存在》の有様は実現不可能なのは一体全体何なのか! ちぇっ。





(六十一の篇終はり)







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2009 12/14 06:07:30 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――そもそも《他》の死肉を喰らふことでしか生き残れないこの《主体》なる《もの》の《存在》の有様は、残酷に創られちまってゐる。





――だから、反旗を翻すのさ。此の宇宙の摂理なる《もの》にさ。





――しかし、それは何処まで行っても虚しい《もの》ぢゃないのかね? 





――当然だらう。《吾》といふ《主体》の在り処がそもそも虚しいのさ。そして、《吾》は《他》の死肉を喰らって生き延びる、ちぇっ。





――へっ、皮肉なもんだな。《他》の死肉は消化器官で消化出来るのに《吾》は《吾》を今もって消化出来ずにゐる。





――そもそも、この《吾》が《吾》をして《吾》を《吾》と名指すことに大いなる矛盾が潜んでゐるのだが、ちぇっ、しかし、《吾》にはそれを如何する事も出来ぬ歯痒さのみが、《吾》の《存在》を《吾》に知らせる。





――それは歯痒さかね? 不快ではないのかね? 





――ちぇっ、また、自同律の問題か――。詰まる所、《吾》以外の事に全く興味がないんぢゃないかね? 





――へっ、当然だらう。《吾》たる《もの》、《吾》以外に興味なし! 





――しかし、《他》は、《世界》は、《吾》の《存在》などにお構ひなしに、これまた「《吾》とは何ぞや?」と懊悩してゐる筈に違ひないのだ。





――へっ、何処も彼処も「《吾》とは何ぞや?」と己の内界を覗き込むのだが、果たせる哉、《吾》の内界に《吾》はゐないか、若しくは無数に《異形の吾》が犇めいてゐる事に愕然とする。





――《存在》とはそもそも猜疑心の塊ではないのかね? 





――さう。《存在》とはそもそも猜疑心の塊としてでしか《存在》する事が許されぬ。





――何に許されぬのかね? 





――「《神》!」と答へさせたいのだらうが、さうは問屋が卸さないぜ。《存在》が唯一《存在》する事の許しを乞ふのは、へっ、《吾》のみだぜ。





――ふっふっふっ。何処まで行っても《吾》は《吾》から遁れられぬか――。





――さてさて、其処で《吾》は如何する? 





――如何するも何もありゃしないさ。《吾》は《吾》である事を渋々と受容する外ない。





――へっ、《吾》に《吾》を受容する度量があるかね? 





――仮令、そんな度量がなくとも《吾》は《吾》を受容するさ。





――仮に《吾》が《吾》を受容出来なかったならば、《吾》は如何なる? 





――それでも《吾》が《吾》を止められやしないし、《吾》は《吾》を《吾》と名指してしまふ宿命にある。





――それはまた何故にかね? 





――《吾》なる《もの》が《存在》した時点で、既に時空間のカルマン渦、即ち、《個時空》といふ渦を巻いてしまってゐるからさ。ひと度渦を巻いてしまった《個時空》たる時空間のカルマン渦は、最早、《吾》の埒外にその回転軸があるのさ。





――ふむ。《吾》の埒外に《個時空》といふ名の時空間のカルマン渦の回転軸がある……か……。





――先づは、《吾》には《吾》が《存在》する事に決して手出しが出来ぬやうに《吾》は此の世に《存在》させられちまってゐる事を自覚せねばならぬ皮肉――。





――さて、全宇宙史を通じて《吾》が《吾》から遁走出来た《存在》は《存在》した事があると思ふかい? 





――いいや、全く思はぬがね。それに加へて全宇宙史を通じて己のみで自存した《存在》もまた《存在》した事はない筈さ。





――それぢゃあ、《個時空》といふ時空間のカルマン渦たる《吾》は何なのかね? 





――ふっ、それは《吾》をも含めたあらゆる《存在》に忌み嫌はれる外ない、何とも不憫な《存在》なのさ。だが、《吾》は決して己を憐れんだりしちゃあならない定めにある、つまり、自慰行為は《吾》にとって未来永劫に亘って禁じられてゐるのさ。





(九の篇終はり)







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2009 12/12 06:18:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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