思索に耽る苦行の軌跡

――存在論的窒息といふと? 





――字義そのままの通り存在論的に《存在》はその息の根を止められる。





――だから、それは具体的に如何いふ事なのかね? 





――つまり、物体といふ《存在》は光になり得ず、また、堪へられぬといふ事さ。





――へっ、物体といふ《存在》は光になり得ず、光に堪へられぬ? これは異な事を言ふ。《存在》はそれが何であれ絶えず光に曝露され、また、Energie(エネルギー)として扱ってゐる筈だがね? 





――見かけ上はね、ふっ。





――見かけ上? つまり、それこそ《存在》が被ってゐるに違ひない特異点を蔽ふのみの能面の如き面でしかないと? 





――当然だらう。高々光に曝された位で、特異点がその正体を現はす筈はないんだから。それ以前に《吾》たる《存在》はその様態を《もの》から《光》へ変化出来るかい? 





――ふむ。《もの》から《光》か――。辛うじて核分裂反応を連鎖的に起こして僅かな僅かな僅かな《重さ》を光に変へてゐる、換言すれば原子力発電や原爆でほんのほんのほんのほんの一寸《もの》を《光》へ変化させたはいいが、そのほんのほんのほんの一寸の《重さ》が光に変化しただけで、ちぇっ、たった一発の原爆の凄まじさに、つまり、何十万もの人間が殺戮できるかもしれぬ事にこの馬鹿者の「ニンゲン」は愕然とし、へっ、とどのつまりが人間はその扱ひに四苦八苦して梃子摺ってゐる、ちぇっ、神の面前での赤子でしかない! 否、赤子ですらない! その人間が核融合に挑戦する危ふさを、人間はその存続を懸けてやるしかないんだが、さて、如何なる事やら……。まあ、原子力や核融合は別にしても、この《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する数多の表象群は如何かね? 





――まあ、よからう。ところが、その表象群を外在化し、具体化すると、表象に《重さ》が授けられ、確かにそれら具体化された表象群は此の世に《存在》することになるのは間違ひないのだが、そして、街衢(がいく)が既に誰とも知らぬ《他》の脳、ちぇっ、否、《他=存在》の五蘊場の外在化でしかない事を世界=内=存在する《吾》は渋々ながら受け容れるしかないのだが、こと映像に関して、映像には《重さ》が、物体としての《重さ》が《存在》してゐるかね? 





――つまり、頭蓋内の闇たる五蘊場で繰り広げられてゐることが、例へば映像となって外在化される事態に、さて、困ったことに「現存在」たる《吾》は為す術がないのが本当のところで、その映像に《重さ》がないことが問題だと? 





――さうさ。それがどんなに異常な事か《吾》にはその自覚がない。つまり、映像なる《光》が如何に危険な毒薬かといふ自覚が全くない。《光》だぜ。ピカドンもまた物質が《光》に変化しただけの事なんだぜ。





――しかし、一方で毒薬は、適量を服せば、良薬にたちどころに変化する。





――だから、映像といふ《光》は尚更危険なのさ。





――つまり、それは映像といふ《光》が眼球の瞳孔を通って可視化されることで、ちぇっ、簡単に《主体》たる《吾》を洗脳出来ちまふ恐ろしさにもっと自覚的にならないと、《吾》は、へっ、地獄たる《吾》はあれよといふ間に簡単に芥子粒の如く自滅するのが落ちさ。





――ちぇっ、それで構はぬぢゃないかね? 





――ああ、《吾》が生き残らうが自滅しようがそんな事は知ったこっちゃない。しかし、未だ此の世に未出現の未来の《存在》には、映像が残ってゐる事は、毒にこそなれ良薬には、多分、ならない事を自覚しておくんだな。





――何故に映像は毒にこそなれ良薬にはならぬのかね? 





――頭蓋内の闇たる五蘊場が各々違った場として《存在》してゐる筈のこの《吾》なる《もの》にとって、映像は違ふ筈の《他》の頭蓋内の闇たる五蘊場にも全く同じ表象若しくは記憶となって擦り込まれる恐ろしさは、確実に《吾》を自滅させるに違ひないのさ。





――それは言ふなれば《吾》においての《吾》の不在、換言すれば、《吾=他》といふ何とも奇怪な《存在》の在り方の事かね? 





――はて、それは《吾》の膨脹若しくは拡散かな――?まあ、何れにせよ、《光》でしかない映像はその扱ひ方を間違へると洗脳の道具と紙一重の違ひしかないのさ。





――すると、例へば《吾》が厳然と《他》とは違った《吾》たる事を《個体力》と名付けると、その《個体力》が現代では確実に減退してゐると? 





――さうさ。既にそんな危険極まりない事態は進行してゐて、世界について未だ訳も解からぬ乳飲み子の段階で《光》たる映像は母親よりも重要な位置付けがなされて、乳飲み子の頭蓋内の闇たる五蘊場は《個》である事を絶えず侵されながら、仕舞ひには映像と五蘊場が同調する事を強要される。それがどんなに《吾》を世界=外=存在に追ひ詰めるか解かるかい? 





――つまり、《吾》はどんなに足掻かうが現前のMonitor(モニター)に映されてゐる世界に入れぬ、換言すればMonitorが恰も世界の如く振る舞ふ世界=外=存在として、己を否が応でも自覚せねばならぬ世界に投企されてゐる。そして、その状態に適応出来た《もの》のみが子孫を残して行く不気味さを、へっ、そんな下らぬ世界にお前はお前が《存在》する事を己で受容し、そして、そんな己をお前は許せるかね? 





――いいや、決して。《吾》は自同律の事で精一杯の筈さ。





――しかし、お前の記憶は、お前と同じ映像を見た《もの》全てと同じ、つまり、お前はお前の頭蓋内の闇たる五蘊場ですら《他》と交換可能な《存在》にお前自身が最早なっちまってゐるんだぜ。





(六十の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 12/07 06:50:12 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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と、さう私が吐き捨てると同時に《そいつ》は完全に私の瞼裡の薄っぺらな闇の中にその気配を晦(くら)まし、はたと消えたのであった。





――姑息な!





と思ひながら、私はゆっくりと瞼を開けて世界を眺めるのであった。





――ほら、其処だ! 





 私はぎろりと眼球を動かし、私の視界の縁に《そいつ》がゐるのを確認すると、





――何のつもりかね? 





と、私が問ふと《そいつ》がかうぬかしよるのであった。





――いや、何ね、俺も∞に重なってみたくなったのさ。





――∞? 





――それは、つまり、俺の瞼裡には∞はないと? 





――瞼裡の薄っぺらな闇も闇には違ひなく、へっ、詰まる所、闇といふ闇には零と∞の区別はないのさ。





――だから、また、俺の視界の縁をうろちょろし始めたと? 





――ふっふっふっ。何せ此の世の裂け目としてお前といふ《存在》は目を開けたのだから、つまり、お前は此の世に誕生してその目玉を開けて世界を見てしまったのだから、零と∞は、無限を内包し、既に開かれてしまったのさ。くっくっくっ。





――つまり、目玉を開けることが即ち世界を裂く行為に等しいといふ事かね? 





――さうさ。盲た人には誠に誠に申し訳ないが、眼球を此の世で開けるといふ事は、世界に《穴》を開ける事に違ひないからさ。





――《穴》? それは《零の穴》でも《∞の穴》とも違ふ《穴》かね? 





――つまり、その眼球といふ《穴》は、《闇》として重なり合ってゐた零と∞を仮初にも分かつ此の世に開いた《零の穴》、否、《一の穴》とでも言ふべきかな。





――へっ、《一の穴》? そもそも《一》に《穴》はあるのかね? 





――仮初にも《一の穴》は仮象は出来る筈だ。





――例へば? 





――例へば、此の世が複素数ならば、当然、此の世に《存在》する森羅万象は、己を《一》として自覚しながらも、その《一》は《零》にも《∞》にも仮象出来てしまふのさ。





――つまり、それは《存在》が特異点を内包してゐるからだらう? 





――さう。距離が《存在》しちまふが故に過去世若しくは未来世でしかない世界の中で、唯、《吾》を《吾》と自覚した《存在》のみは未来永劫に亙って現在に独り取り残されてあるのみ――。





――さうすると、現在とはそもそも世界=内においては特異な現象といふ事になるが、さう看做してしまって良いものか……? 





――ふっ。現在が此の世に《存在》する事がそもそも異常なのさ。





――異常? ふむ。現在は去来現(こらいげん)の中では異常な事象か――ね……。





――お前はすると現在を何だと思ってゐたのかね? 





――現在が此の世の度量衡だとばかり考へてゐたが、さて、その現在のみが去来現において特異な事象であるならば、ずばり聞くが、実存とはそもそも何の事かね? 





――へっ、《吾》の泡沫の夢に過ぎぬ《もの》さ。





――泡沫の夢? すると、実存とは《吾》の勘違ひに過ぎぬと? 





――《吾》を《一》の《もの》と規定しなければ、《吾》は《吾》といふ《存在》に一時も堪へられなかったのさ。そして、これからも《吾》は《吾》を恰も《一》の《もの》であるかのやうに取り扱ふ以外に、最早、為す術がない! しかしだ、《吾》が《存在》である以上、《吾》は特異点を何としても内包せずば、これまた一時も《存在》出来ぬのだ。





――それはお前の単なる独断でしかないのではないかね? 





――ああ、さうさ。俺の独断論に過ぎぬ。しかし、此の世が去来現としてあるならば、現在のみが特異な現象でなければ《存在》は特異点をその内部に内包出来ぬ筈なのだ。つまり、《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象群は、元来、因果律は壊れて表象されるだらう? 





(九の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009 12/05 06:12:43 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――それを言っちゃあ、お仕舞ひぢゃないかね? ふっふっふっ。





――でもさう言はざるを得ぬのは解かるよな? 





――ああ。さうさ。《吾》が本当の地獄だと。





――Abyss、つまり、深淵が彼方此方に《存在》の仮象を被ってる――ふっ。





――また、特異点かね? 





――さう。特異点だ。これ程摩訶不思議な、しかし、多分、《物自体》を不意に露はにするに違ひない特異点こそ、地獄といふ名に相応しいと思はないかい? 





――つまり、特異点にこそ《存在》の不気味な正体が何食はぬ顔で潜んでゐて、また、《存在》にこそ特異点が潜んてゐないと、「苦悩による苦悩の封建制」が成立せずに尚も神を《存在》の十字架に磔にしたまま、ちぇっ、下らぬ主体天国の世で、へっ、しかし、それでも《主体》は、《吾》たる《もの》の不可解さから、神を《存在》の十字架に磔にしながらも、自らも《吾》の《存在》、即ち自同律の陥穽に落っこちて、へっ、そのAbyss若しくは深淵がその大口をばっくりと開けた中に《存在》するであらう虚空を自由落下若しくは自由上昇することで、重力からの解放といふ勘違ひの中に《吾》の仮象を夢幻空花しちまふへまを何時までも続ける愚行が止められぬまま、《吾》なる《もの》はその仮象の惑はしの中で犬死にするのが関の山だ。





――しかし、《吾》たる《もの》は、土台、《吾》を夢幻空花して《吾》といふ名の仮象に翻弄されながら、結局、《吾》の《存在》は、死ぬ事のみによって《存在》の何たるかが仄かに解かる《存在》の謎に拘泥したまま、《存在》は次世代といふ《存在》に《存在》の不可解さを残したまま、自らは死すべき運命を受容するしかないとしたならば、ちぇっ、そんな《吾》といふ《存在》をお前は憐れむかね? 





――へっ、自らを憐れむ自慰行為は決して止められないのさ、この《吾》といふ名の地獄は――。





――つまり、《吾》が自らの《存在》を憐れむ自慰行為こそが、《存在》たる《もの》が全て神に甘えてゐる証左でしかないと? 





――さうさ。《吾》たる《もの》は苦悩しか背負へぬ宿命になければならぬ。





――何故、そんな宿命になければならぬのかね? 





――《吾》たる《もの》は、詰まる所、《吾》を心行くまで味はひ尽くさねば気が済まぬからさ。





――気が済まぬ? 





――さう、気が済まぬ、それだけの事さ。





――それから? 





――へっ、JAGATARAの故・江戸アケミを気取ってゐるのかね? 





――別に構はぬだらう、《吾》が誰を気取らうが――。





――まあね。JAGATARAの音楽が江戸アケミの遺言にしか聴けぬ俺にとって、かうして《吾》が《吾》と自問自答する事が、即ち、俺の遺言に、そして、《吾》の死後も頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅した表象群が虚空で尚も明滅しながらその表象群が《もの》となって《存在》する事になるかもしれぬ可能性だってあるといふ事さ。





――言葉はそれが発せられるか、記されるかした途端に、既に、《吾》たる《もの》の遺言に変化する。





――ふっ、それもまた《個時空》の事だらう? 





――さう。《個時空》だ。言葉を発するか、記すかする等の行為によって《吾》は言葉を外在化させる。それは、つまり、《吾》の内部に留まってゐた未来とも過去とも現在とも何れにおいても不確定だった内在化した言葉をひと度外在化させると、言葉はその言葉を発した《吾》との距離を授けられ、言葉を発した《吾》にとってそれは過去か未来かの何れかに言葉を呪縛させる行為に外ならない。そして、《吾》たる《もの》はさうやって《存在》した証を世界に残すのさ。





――ふはっはっはっ。過去か未来の何れかの呪縛? それぢゃ、未だ、言葉は不確定のままだぜ。つまり、過去と未来の様相がその外在化された言葉において《重ね合はされ》た状態、つまり、量子論的な《存在》として現在の俎上に上る。さうして、言葉は過去と未来の両様が《重ね合わされ》た状態で《存在》しちまふ。そして、その《吾》から外在化された言葉は絶えず現在の俎上に上らされてその《存在》を露はにする。言葉がさうだとすると、映像は《吾》において何を意味するのかね? 





――過去若しくは未来と言はせたいのだらうが、さうは問屋が卸さないぜ。映像は《吾》において一見、過去にも未来にも変化したかの如く《吾》にとって外在化した《もの》に思へるが、しかし、映像はそれが徹頭徹尾或る《主体》、例へば、それを故・タルコフスキー監督と名指せば、映像は徹頭徹尾、タルコフスキー監督の意のままに映され編集され、最終的にはその映像を撮った《もの》たるタルコフスキー監督の責任において《他者》に見られるのでなければ、そんな映像は《吾》の《存在》の「苦悩による苦悩の封建制」にある、つまり、この《吾》といふ《存在》の「苦悩」を麻痺させるだけの鎮静剤の如き毒でしかないのさ。





――しかし、映像も記録に変化するぜ。





――其処さ、言葉を記した書物は物体となってゐるので手に持てる《存在》であり続け、其処には自ずと《存在》の限界が必ず《存在》するが、しかし、どう足掻いても世界の断片でしかない映像が、波でも量子でもある光といふ《存在》故に恰も全世界を映してゐるかの如き錯覚を齎して《吾》といふ《存在》をまるで蜃気楼を見てゐるのと同様な出口なき錯覚の中で溺死させる、つまり、世界といふ名の世界の仮象を実像と看做しちまふしかないどん詰まりに、それが光故に映像は《吾》といふ《存在》を追ひ込んで已まない! そして、《吾》は、最後は映像といふ名の光の量子論的な振舞ひ翻弄されて、そして、光に溺れて存在論的に窒息死するしかない! 





(五十九の篇終はり)







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2009 11/30 06:52:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――《存在》そのものが、そもそも矛盾してゐるぢゃないか! 





――だから《存在》は特異点を暗示して已まないのさ。





――へっ、矛盾=特異点? それは余りにも安易過ぎやしないかね? 





――特異点を見出してしまった時点で、既に、特異点は此の世に《存在》し、その特異点の面(おもて)として《存在》が《存在》してゐるとすると? 





――逆に尋ねるが、さうすると、無と無限の境は何処にある? 





――これまた、逆に尋ねるが、それが詰まるところ主体の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象にすら為り切れぬ泡沫の夢達だとすると? 





――ぶはっ。





――をかしければ嗤ふがいいさ。しかし、《存在》は、既に、ちぇっ、「先験的」に矛盾した《存在》を問ふてしまふ《存在》でしかないといふTautology(トートロジー)を含有してゐる以上、《存在》は《存在》することで既に特異点を暗示しちまふのさ。





――さうすると、かう考へて良いのかね? つまり、《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果(おほ)せると? 





――現にお前は《存在》してゐるだらう? 





――くきぃぃぃぃぃぃんんんんん――。





と、再び彼は耳を劈く不快な《ざわめき》に包囲されるのであった。





…………





…………





――しかし、《存在》は己の《存在》に露程にも確信が持てぬときてる。その証左がこの不愉快極まりない《ざわめき》さ。





――ふっふっふっ。《存在》が己の《存在》に確信が持てぬのは当然と言へば当然だらう。何せ《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果す特異点の仮初の面なんだから。





――やはり、《存在》は仮初かね? 





――仮初でなけりゃ、何《もの》も《吾》である事に我慢が出来ぬではないか! 《存在》は《存在》において、《一》=《一》を見事に成し遂げ、此の世ならざる得も言はれぬ恍惚の境地に達するとでも幽かな幽かな幽かな幻想でも抱いてゐたのかね? 





――それぢゃ、お前がげっぷと言ふこの不愉快極まりない《ざわめき》は何なのかね? この《ざわめき》こそ《存在》が《存在》しちまふ事の苦悶の叫び声ではないのかね? 





――仮にさうだとしてお前に何が出来る? 





――やはり、苦悶の叫び声なんだな……。





――さう。《存在》するにはそれなりの覚悟が必要なのさ。だが、今もって何《もの》も《吾》が《吾》である事に充足した《存在》として、此の全宇宙史を通じて《存在》なる《もの》が出現した事はない故に、へっ、《吾》が《吾》でしかあり得ぬ地獄での阿鼻叫喚が《ざわめき》となって此の世に満ちるのさ。しかし、その《吾》といふ名の地獄での阿鼻叫喚は苦悶の末の阿鼻叫喚であった事はこれまで一度もあったためしがなく、つまり、地獄の阿鼻叫喚と呼ぶ《もの》の正体は、《吾》が《吾》である事に耽溺した末の《吾》に溺れ行く時の阿鼻叫喚、つまり、性交時の女の喘ぎ声にも似た恍惚の歓声に違ひないのさ。





――歓声? 





――さう。喜びに満ちた《存在》の歓声さ。





――ちぇっ、これはまた異な事を言ふ。この不愉快極まりない《ざわめき》が喜びに満ちた歓声だと? 





――性交時の女の喘ぎ声にも似た《吾》が《吾》の快楽に溺れた歓声だから、へっ、尚更、《吾》はこの《ざわめき》が堪(たま)らないのさ。惚れた女の恍惚の顔と喘ぎ声は、男を興奮させるが、しかし、その興奮は、また、気色悪さで吐き気を催す感覚と紙一重の違ひでしかなく、つまり、酩酊するのも度が過ぎれば嘔吐を催すといふ事に等しく、女と交合してゐる男は、さて、どれ程恍惚の中に耽溺してゐる《存在》か、否、交合においてのみ死すべき宿命の《存在》たる《吾》といふ名の《地獄》が極楽浄土となって拓ける――のか? 





――つまり、約(つづ)めて言へば、この《ざわめき》は恍惚に満ちた《他》の《ざわめき》だと? 





――さうさ。





――すると、《吾》にとって《他》の恍惚が不愉快極まりないのは、《吾》が《吾》に耽溺するその気色悪さ故にその因があると? 





――当然だらう。特異点では別に《一》=《一》が成り立たうが、成り立たなからうが、どうでもよい事だからな。





――へっ、そりゃさうだらう。だが、《一》の《もの》として仮初にも《存在》せざるを得ぬ《吾》なるあらゆる《もの》は、此の世で《一》=《一》となる確率が限りなく零に近いにも拘はらず、《吾》は現世において《吾》=《吾》を欣求せずにはいられぬ故に、ちぇっ、《吾》は《吾》に我慢がならず、その挙句に《吾》は《吾》を忌み嫌ふ結果を招くのではないか? 





(九 終はり)







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2009 11/28 05:49:02 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――しかし、何もかも地獄に帰したところで何も目新しい《もの》は生まれやしないぜ。





――へっ、それで構はぬではないか。別に何か目新しい《もの》の出現は誰も望んぢゃゐないぜ。





――ぢゃあ、この《吾》とは何なのだ? 





――だから地獄と言ってゐるではないか! 





――だが、何《もの》も地獄なんぞには棲みたかないぜ。





――これまでの存在論の脆弱さのその根本は、何《もの》も《吾》を心底味はひ尽くさない事に尽きるのさ。逆に尋ねるが、お前は《吾》に《存在》の全権を委ねてるかね? 





――《存在》の全権といふと? 





――《吾》が外ならぬ《吾》でしかないといふ事さ。





――つまり、全宇宙史を通じて《吾》なる《もの》は《吾》以外であった事がないといふ事かね、その《存在》の全権とは? 





――ちぇっ、結論を先に言ってしまへば、地獄を知らずして浄土が解かる筈はないといふ事さ。





――つまり、《吾》が《吾》なる事を心底味はふ地獄を生き延びぬ内は、《吾》ならざる《吾》が何なのか《吾》には結局名指し出来ぬといふ事だらう? 





――へっ、そんな尤もらしい事をぬかしをって、ちぇっ、腹の底は煮えくり返ってゐるのぢゃないかね? 





――所詮、《吾》は《吾》に我慢がなぬ《存在》として、此の宇宙に《存在》することを強要されてゐるとしか《吾》には《吾》の《存在》自身を認識出来ぬ《吾》なる《もの》の不幸――。





――へっ、それは不幸かね。幸ひではないのかね? 





――嗚呼、《吾》なる《もの》は《吾》なる事に苦悶する――。





――だから? 





――だから《吾》は《吾》ならざる《もの》を渇望して已まない。





――ちぇっ、《吾》はそんなに下らぬ《もの》かね? 





――下らぬ? 





――さう、下らぬ《存在》かね、《吾》なる《もの》は? 





――ふむ。





――それさ。《吾》なる《もの》はそれが何であれ尊大極まりない下らぬ《存在》だといふ事にそろそろ気が付いても良いが! 





――《吾》が尊大? 





――ああ、尊大極まりない! 





――それはまた何故に? 





――何故もへったくれもありゃしない! 《吾》は無数の《異形の吾》共を抱へ込んでゐるにも拘はらず、ちぇっ、さうである故にか、まあ、どちらにせよ、その《吾》が無数の《異形の吾》を抱へ込んでゐるにも拘はらず、とどの詰まり《吾》は結局《吾》である事に満足してゐるのさ。





――ぷふぃ。全宇宙史を通じて《吾》が《吾》なる事に満足した《存在》は出現したかね? へっ、未出現な筈さ。





――否、地獄に堕ちた《もの》共は全て《吾》なる事に満足してゐる筈だ。





――地獄に堕ちた《もの》共が《吾》たる事に満足してゐる? はて、地獄では有無も言はずに《吾》は未来永劫《吾》である事を強要されるのぢゃないかね? 





――さて、本当に地獄に堕ちた《もの》共は《吾》なる事を強要されてゐるのかね? 俺は逆に思ふがね。





――逆? 





――つまり、《吾》が《吾》である事を全的に認めて《吾》たる恍惚の中に溺れてゐるのが地獄の本当の姿ぢゃないかね? 





――それぢゃ、地獄絵図は真っ赤な嘘だと? 





――ああ。《吾》が一番恐れてゐる事が《吾》なる事を全肯定した自同律の恍惚に溺れた悦楽だから、それを避けるべく地獄絵図はあれ程おどろおどろしくなったに違ひないのさ。





――へっ、つまり、地獄こそ《吾》なる《もの》の桃源郷だと? 





――ああ、さうさ。





(五十八の篇終はり)







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2009 11/23 04:34:26 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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 死んで腐乱してゐる《吾》の死体を形象せずにはをれぬ、その《吾》のおかしな状況を鑑みると、《吾》が腐乱する死体として形象するのは、多分、《吾》が《生》の限界と、それと同時に《生》の限界を軽々と飛び越える《死》への跳躍を経て《超越》してしまふ《吾》、つまり、《生》と《死》の《存在》の在り方を《超越》する《吾》と名指せる何かへの仄かな仄かな仄かな期待が其処に込められてゐるのではないかと訝しりながらも、





――さうか。《吾》からの《超越》か――。





と、不思議に《超越》する《吾》といふ語感に妙に納得する《吾》を見出す一方で、





――はて、《吾》は《吾》に何を期待してゐるのか? 





と、皮肉な嗤ひとともに《吾》を自嘲せずにはをれぬ私は、《超越》という言葉を錦の御旗に《存在》ににじり寄るれるとでも考へてゐるのか、





――腐乱し潰滅し往く《死体》たる《存在》のその頭蓋内の闇には、尚も、《吾》を認識する意識――意識といふ言葉には違和を感じるので、それを魂と呼ぶが――その意識若しくは魂が尚も脳の腐乱し潰滅し往く《吾》の頭蓋内の闇には確かに《存在》する筈だ! 





と、考へると同時に、





――《生者》が《生者》の流儀で《存在》に対峙するのであれば、《死者》は《死者》の流儀で《存在》に対峙するのかもしれぬ。





と、無意識裡に、若しくは「先験的」に私は《生》と《死》に境を設けてしまふ単純な思考法若しくは死生観から遁れ出られずそれに捉はれてしまってゐる事を自覚しつつも、《生》の単純な延長線上に《死》は無いと、そして、また、私といふ生き物には、《死》は《生》が相転移し、全く新しい事象として《存在》する何かであると看做す「思考の癖」があることを自覚しながらも、





――然り。





と、何の根拠もないのに不敵な嗤ひを己に対して浮かべながら、《生》から《死》へと移行するその《存在》が相転移する様に、もしかすると《存在》の未知の秘密が隠されてゐるかもしれぬと、私の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象を浮かぶままにしながら茫洋とその《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場を覗き込むのであった。





…………





…………





――さて、《闇の夢》を見ざるを得ぬ《吾》は、其処に未だ出現せざる未知なる何かを隠し、それがほんの一寸でも姿を現はすのをじっと待ってゐるのであらうか? 





と、不意に発せられた自問に、私は私が《闇の夢》を見るのはもしかすると、世界=内=存在たる《吾》の全否定の表はれではないかと訝しりながらも、





――それは面白い。





と、独りほくそ笑んでは





――私が《闇の夢》を見るのは、もしかすると《吾》は勿論の事、全世界、つまり、森羅万象の《存在》を無意識裡では全否定して、夢の中だけでも《存在》が、その見果てぬ夢たるこれまでの全宇宙史を通して《存在》した事がない未知なる何かが《闇》には尚も潜んでゐるに違ひないと看做してゐるのではないか? 





と、私の《闇》への過剰な期待を嗤ってみるのであるが、しかし、《闇の夢》を見ながら





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と嗤ってゐた私を思ふと、私は、やはり、《闇》に未知なる何かを表象させようと《闇の夢》に鞭打ち、《闇》が未知なる何かに化けるのをずっと待ち望んでゐたと考へられなくもないのであった。





――《吾》は、多分、これまでその《存在》を想像だにしなかった何か未知なる《もの》の出現を、Messiah(メシア)の出現の如くにあるに違ひないと《吾》は《吾》といふ《存在》にじっと我慢しながら、確かにその未知なる何かたる「Messiah」を待ち望んでゐる。ぢゃなきゃあ、私は「《吾》だと、ぶはっはっはっはっ」などと《吾》が夢で見る《闇の夢》に対して嗤へる筈などないに違ひないではないか――。





 成程、私は、多分、《吾》のどん詰まりに私を私の自由意思で私を追ひ込み、遂に《闇の夢》を見るに至ったに違ひないのである。つまり、此の世の森羅万象を全否定したその結果として、また、その途上として私は《闇の夢》を見、その《闇》にこれまで《存在》が想像だにしたことがない未知の何かを出現させることを無理強ひしつつも、





――《吾》だと、ぶはっはっはっはっ。





と《闇の夢》に対して嗤ふしかない私は、私において何か未知なる《もの》の形象の残滓が残っていないかと私の頭蓋内の闇たる五蘊場を弄(まさぐ)っては何も捉へられないその無念さを心底味はひながら、





――何にも無いんぢゃ仕方ない……。





と、私の頭蓋内の闇たる五蘊場にその未知なる何かの形象を何としても想像する事を己に鞭打ちやうにして私は《吾》に課してゐたに違ひないのであった。





(七の篇終はり)







自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp



2009 11/21 05:52:53 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――へっ、一つ尋ねるが、お前は自存した《存在》かね? 





――何からの自存かね? 





――世界さ。





――ふむ。世界から自存した《存在》……。





――ちぇっ、考へるまでもなからう。





――つまり、俺は世界から自存する訳がないと?





――実際さうだらう。これまで全宇宙史を通じて世界から自存した《存在》が、へっ、《存在》したかね? ちぇっ、《存在》する訳がなからうが!





――だから世界が、《他》の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅した表象群に埋め尽くされた《吾》のみ其処に居場所がないことに、文句も言はず、その、ちぇっ、下らぬ世界を受容せよと? 





――現にお前は世界の中で生きてゐる、つまり、《存在》してゐるだらうが。





――つまり、《存在》は世界を選べないといふ事かね? 





――当然だらう。此の世界、否、此の宇宙を選べぬばかりでなく、《存在》は絶えず世界に試されてゐるのさ。





――つまり、《吾》は《吾》を選べぬ故に《吾》は《吾》たらむと欲すること試されてゐるが、しかし、《吾》が《吾》であることには実際我慢がならぬ! 





――へっ、皮肉なもんだな。《吾》は《吾》ばかりでなく、世界も選べぬ悲哀! そして、それをとことん味はひ尽くすのみといふ創造主の残酷な仕打ち――。





――なあ、一つ尋ねるが、《吾》は《吾》に対して、そして、《吾》は世界に対して反りが合ふやうに《存在》させられる、つまり、《吾》は《吾》といふ《存在》を《吾》からも世界からも強要され、ちぇっ、つまり、何《もの》も《吾》の存在を祝福することなく、世界の中に《存在》することを強要される外に、最早、《存在》が《存在》する余地は残されてゐないと? 





――実際さうだらう。





――すると、さうして《吾》は《吾》なる《もの》を標榜するうちに、《吾》の頭蓋内の闇たる五蘊場に逃げ込んだとしたならば、《吾》とはそもそも悲哀その《もの》ぢゃないのかね? 





――さうだとしたなら、如何する? 





――如何するも何もないさ。唯、《吾》を呪ってみるがね、ふはっはっはっはっ、ちぇっ。





――それで? 





――木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になったまでさ。





――それは如何いふ意味かね? 





――つまり、《吾》といふ木乃伊を奪還、ちぇっ、それが何からの奪還かは依然不明のままだがね、その木乃伊たる《吾》を何かから奪還する筈が、へっ、《吾》そのものが干からびた《吾》の死体たる木乃伊でしかなかったといふ話だ。





――つまり、《吾》が《吾》を語り始めるや否や、その《吾》は最早解剖可能な死体でしかないといふ事だらう? 





――何をもって《吾》の死体といふかの問題は残るがね。しかし、《吾》が《吾》のことを一言でも語り始めた刹那、その語られる《吾》は何時でも、最早、《死体》でしかないのさ。





――つまり、《吾》が《吾》を客観視する場合、その客観視される《吾》は、最早、《吾》の死体でしかないと? 





――仮にさうだとすると、主観と客観を自在に使ひ分け、つまり、ある時は主観的に、またある時は客観的にいとも簡単に成り果(おほ)せる《吾》は、此岸と彼岸の境を、つまり、《生》と《死》を生きながらも死の予行練習を兼ねる形で自在に往ったり来たりしてゐるといふ事なんだらう? 





――《吾》は《異形の吾》を「先験的」に認識してゐる摩訶不思議なる《存在》だ――。





――さうして《吾》は永劫に《吾》に成れぬ宿命! これを何とする? 





――へっ、地獄に堕ちればいいのさ。





――つまり、《吾》が《吾》であるのは地獄のみといふ事かね? 





――ああ、さうさ。





――さうすると、ぷふぃっ。《吾》の桃源郷は地獄になるが、それは如何かね? 





――それで構はぬではないか。





――構はぬ? するとお前は《吾》が《吾》なることを欣求するこの《吾》を地獄と名指すのか? 





――それは前にも言った筈だが、《吾》は地獄の別称でしかない。《吾》も世界も皆《吾》なる事を欣求する以上、それは地獄と名指すしかないのさ、ちぇっ。





(五十七の篇終はり)







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2009 11/09 09:18:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――其処で一つ尋ねるが、《吾》は人力以上の動力で神の世を人の世に作り変へた、つまり、その徹頭徹尾《吾》の与り知らぬ《他》の手による人工の世界で、世界は時空間的には伝達若しくは《存在》の輸送手段の高速化故に見かけ上縮小し、それは即ち此の人工の世界に誕生させられた《吾》が否が応でも生き残る為に、膨張した架空の《吾》を《吾》と名指してみたはいいが、その実、己の内部にぽっかりと空いた《零の穴》若しくは《虚(うろ)の穴》に閉ぢ籠る外なかったのが、《吾》の置かれたのっぴきならぬ現状だとは思はぬか? 





――つまり、其処には《反=吾》が棲まなければならぬ《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》に、へっ、当の《吾》が己の身を《他》が満ち溢れてゐるとしか認識できない人工の世界から守るべく閉ぢ籠ったと? 





――さう。《零の穴》若しくは《虚の穴》は《吾》にとって最後の砦になっちまったのさ。





――それは《吾》にとっては堪へ難き矛盾だらう? 





――さうさ。《吾》が《吾》であることに「先験的」に矛盾しちまってゐる。





――それでその一つの帰結が決してその《存在》は許されぬところの《吾》は存在論的な蘗といったらいいのか、それは摩訶不思議な《存在》の仕方を選ばざるを得ぬといふ事だったのか? 





――ああ。《吾》に《零の穴》若しくは《虚の穴》があり《吾》の蘗が生えるといふ事は、元来、世界が《吾》にとって慈悲深き《もの》といふ事の証左であったが、世界が神の世から人の世に変はった為に《反=吾》が其処にゐなければならぬ《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》に《吾》それ自身が閉ぢ籠り、へっ、《吾》と《反=吾》はその《零の穴》若しくは《虚の穴》の中で縄張り争ひをしながら、人工の世界ではその存在が存在論的にあり得ぬ、つまり、架空にでっち上げられた存在論的な蘗の《吾》を《吾》と名指して、何とか《吾》と《反=吾》の棲み分けを試みてゐるが、へっ、土台《吾》と《反=吾》は一度出会ふと光となって霧散消滅する。





――つまり、絶えず《吾》と《反=吾》は《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》で出会って、そして、光となりて消滅してゐるとするならば、一体《吾》が《吾》と名指し《吾》と呼んでゐる《もの》は何なのかね? 





――だから言ったらう、《吾》がでっち上げた架空の膨張に膨張を重ねた醜い《吾》の化け物だと。





――つまり、この人工の世界に生き残るには、《吾》は率先して《吾》を滅却する外に、最早《吾》の、ちぇっ、これは変な言い分だが、その《吾》の生き残る《存在》の在り方は残されてゐないといふ事か――。





――それでも《吾》は生き延びなければならぬ。





――へっ、それは如何してかね? 





――聞くまでもないだらう? 





――つまり、後世に必ず出現する未だ出現せざる未知なる《もの》達の為に、世界を人力以上の動力で人工の世界に変へる狂気の例証として《吾》は、この異常極まりない人工の都市で生き残る外ない……違ふかね? 





――更に言へば、《吾》は、《吾》の《零の穴》若しくは《虚の穴》で絶えず《吾》は生成しては即座に其処に棲まふ《反=吾》と出会っては光となりて霧散消滅することを繰り返してゐるとは言ひ条、其処には新たな《吾》の《存在》の仕方が生まれるのではないかといふ密かな密かな期待が、ちぇっ、《吾》のEgo(エゴ)に満ち満ちた下らぬ、誠に下らぬ淡き期待が隠されてゐるのさ。





――しかし、それは《吾》の化け物とはいへ、少なくとも《吾》はそれが人工の世界では存在論的にはあり得ぬ《吾》の蘗に過ぎぬとしてもだ、《吾》が人工の世界=内=存在としての「現存在」たる《吾》が、「《吾》とは何ぞや?」と「現存在」たる《吾》に絶えず問はずにはゐられぬのは、自然の道理ぢゃないかね? 





――ああ。《吾》は《吾》を喪失しても、やはり《吾》は《吾》として《存在》することを強要され、そして、「現存在」たらむとしてあり続ける、言ふなれば何処までもみっともない《存在》ぢゃないかね? 





――へっ、やっと腹を括ったか――。





――腹を括るも括らないも、現に今俺は《存在》してゐる――筈だ。





――筈だ? つまり、《存在》してゐると断言は出来ないんだね、へっ。





(四の篇終はり)







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2009 11/07 08:00:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――いや、神すらも最早何が何だか解からぬ筈さ。





――ふん、また「苦悩による苦悩の封建制」か? 





――さうさ。《吾》たる《主体》は神のゐない《個時空》によって成立する此の世を「苦悩による苦悩の封建制」で統治しなければならぬ筈さ。





――何故に? 





――何度も同じことを念仏の如く繰り返すが、神を《存在》から解放する為さ。





――その一つの帰結として、現代人たる《吾》は誰とは知らぬ全くの赤の他人が作った徹頭徹尾《他》の手になる《他》の世界=内に《存在》する、つまり、《他》の頭蓋内の闇たる《他》の五蘊場に表象し形象された、敢へて言へば《他》の頭蓋内=世界の中に《吾》は独り《存在》する《存在》の様態へ辿り着いたのぢゃないかね? 





――つまり、人間といふ生き物は世界たる環境を己の都合で変へてしまったといふ事だらう? 





――さう。今や世界は「神の御手にあらず、《他》の掌中にのみありし」、さ。





――へっ、そして其処に《吾》の居場所のみ用意されず仕舞ひってか――、ちぇっ。





――一つ尋ねるが、神の御手から全く見ず知らずの赤の他人が《吾》の与り知らぬところで作り上げた、例へば都市といふ世界に《存在》することの居心地はどうかね? 





――ちぇっ、下らぬ事だが、《吾》たる《もの》達はそれが何であれ、皆、ちぇっ、「自分探し」をこの《他》の掌中にある世界、ふん、もしかすると最早世界は《他》の掌中にすらないかもしれぬが、その世界で《存在》する為に「自分探し」といふ下らぬ事にかまける外ない《存在》に堕してしまったよ。





――その「自分探し」の《自分》て何かね? 





――へっ、それが解からぬから《存在》は、皆、「自分探し」をせずにはゐられぬのさ。





――其処さ。最早此の世に《存在》することは、《他》の五蘊場に表象された《もの》がてんでんばらばらに外在化したに過ぎぬその世界に《存在》することの《苦悩》を、若しくは、《吾》のみが其処にゐない世界で《存在》する、へっ、《苦悩》を、《吾》は背負ふしかないのぢゃないかね? 





――つまり、「自分探し」は《吾》が《吾》として《存在》する為に如何しても背負はなければならぬ《原罪》だと? 





――さう。人間を初めとする森羅万象は、自らの手で《存在》することの《原罪》を神から奪ひ取ったのさ。





――その挙句が、果たせる哉、それが全く見ず知らずの赤の他人の手になる、例えば都市といふ世界の出現に帰結したのかね? 





――さうさ。最早、神に《存在》することの《苦悩》、即ち《原罪》を背負はせる訳にはいかなくなったのさ。





――だが、それは《吾》たる《存在》が世界に対して復讐を成し遂げた一つの証左ではないのかね? 





――へっ、世界、ちぇっ、此の宇宙がそれで怯えたとでも思ってゐるのかね? 





――いや。





――そりゃさうだらう。此の宇宙にとって世界が都市にならうが痛くも痒くもないからな。





――さて、簡単にさう看做しちまっていいものか……。





――といふと? 





――つまり、世界自らが《存在》を使って世界自体を作り変へてゐるとしたならば如何かね? 





――つまり、世界はとっくの昔に神から自立してゐたと? 





――ああ。





――ああ? 





――ああ、さうさ。世界、即ち此の宇宙もまた、己が《存在》することの《苦悩》を背負ってゐる、つまり、此の宇宙もまた「自分探し」の陥穽に落っこっちまったのさ。





――それは、つまり、此の宇宙もまた《存在》しちまった以上、死滅する宿命を負ってゐるからかね? 





――さう。死滅する故にさ。《死》が《存在》する以上、最早、「苦悩による苦悩の封建制」は渋々ながらも《存在》はそれが何であれ受け入れるしかないのさ。





――その一つの帰結が「自分探し」といふ何処まで行っても底無しの虚しさしか味はへぬ、《吾》のみ居場所がない《他》の頭蓋内の闇たる《他》の五蘊場に明滅する表象群に埋め尽くされた都市の如き此の世界の出現かね? 





(五十六の篇終はり)







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2009 11/02 06:42:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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-ほほう。すると、《吾》の《存在》と世界の関係は如何様になったのかね? 





-相変はらず《吾》無くして世界無しの見方が根強いが、しかし、俺は《吾》無くしても世界は只管《存在》といふ立場だがね。





-するとぢゃ、世界は絶えず《吾》の《存在》を待ち望んでゐるといふ事かな? 





-或るひはさうかもしれぬ。





-さうかもしれぬね? ふほっほっほっほっ。





と、私の瞼裡の薄っぺらな闇にゐ続けるその夢魔は相好を崩して、さもありなむといった哄笑を上げるのであった。





――どうやらわしに対する憤怒は収まったやうだな。





――そんな事なぞ如何でもよい! それより、するとだ、世界は《吾》の《存在》を只管待ち望んでゐるとすると、世界に永劫に《吾》が出現しなければ、例へば世界は自滅するかね? 





――ふほっほっほっほっほっ。世界もまた《存在》する以上、己の自同律の陥穽から遁れられぬのぢゃて。





――ならば、世界は世界自体が《存在》することで既に世界自体の事を《吾》と認識してゐると? 





――違ふとでも? 





――へっ、汎神論の如く何であれそれが《存在》しちまへば、其処に自意識が《自然》と宿るとでも思ってゐるのかね? 





――ああ、さうぢゃ。





――さう? へっ、何を寝惚けた事を! ふはっはっはっはっはっ。すると、意識は《存在》が《存在》すると必ず宿るといふ事かね? 





――さうだとしたならばぢゃ、お前はお前自身の《存在》と世界に《存在》する森羅万象の《存在》の関係を如何する? 





――別に如何仕様もないがね。《吾》と世界の関係は、其処に意識が介在したとしても、《吾》は己と世界の事を認識した「現存在」として、つまり、世界=内=存在として此の世に屹立し、世界は世界でその《存在》が何であれ此の世に出現しちまへば、世界は何の文句も言はずにその《存在》を受け入れる筈だ。





――筈だ? ふほっほっほっほっほっ。お前は未だに己の《存在》に対して確たる確信が持てぬままかね? 





――ああ、さうさ。己に対しても世界に対してもその《存在》に確信が持てぬのさ。





――それでもお前は此の世に《存在》してしまってゐる。それがそもそも気に食はぬのぢゃらう? 





――だから如何したといふのか! 





――それぢゃよ、それぢゃ、ふほっほっほっほっほっ。牙を剥きな、己に対しても世界に対してもぢゃ。





――牙を剥く? 





――さうぢゃ。牙を剥くのぢゃ。





――しかし、牙を剥いたところで、その牙を剥いた相手は何食はぬ顔で《吾》の《存在》を無視し続けるぜ。





――当然ぢゃ。





――当然? 





――当たり前ぢゃて。これまで此の世に《存在》した《もの》が牙を剥かなかったとでも思ってゐるのかね? 





――すると、既に死滅した数多の《もの》達もやはり己と世界に対して牙を剥き、未だ此の世に出現せざる未知なる何かに変容すべく、牙を剥きながら《吾》といふ《存在》に忍従してゐたと? 





――当然ぢゃ。此の世に《存在》した《もの》はそれが何であれ、絶えず未だ此の世に出現せざる何かに化けるべく、己に対しても世界若しくは宇宙に対しても牙を剥いて己の《存在》をじっと我慢する外ないのぢゃ。





――この宇宙自体も例外ではないと? 





――ふほっほっほっほっほっ。当然ぢゃ。





――すると、お前は如何なのだ? 





――ふほっほっほっほっほっ。わしとて例外ぢゃない! 当然、お前がわしをお前の夢世界に呼び出すことには腹を立ててゐるがね。しかし、これは言わずもがなだが、果たせる哉、わしがお前の夢の中に《存在》しちまふ事を、わしはじっと歯を食ひしばって堪へてゐるのぢゃ、ちぇっ、忌々しい! 





(三の篇終はり)







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2009 10/31 06:14:59 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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