男たちには判らない
この齢になって、なんで旅から旅を続けるかというと
腰が据わった人生が描けないのと、人間50年以上も
生きていると、そろそろくたばることが近くなり、死に場所を
探すことが最後の目標のように思えてくる。

実は、しまなみ海道の旅は、開通した1999年の5月に、
当地を舞台に繰り広げられたクラシックカーラリーに家族
5人でエントリーしている。
さらにその4年前の95年7月に、いくつかの島を巡る物語
を、描いたことがあった。

そのことについては筆に興が乗れば書いてみても良いと思う。


生口島の瀬戸田は、古い港である。前々回に来た時は
フィアット850であったが、この時には耕三寺に参拝するのは
参道そばに車を有料で停めた。
そして、この古い港の付近で昼食を一家で摂った記憶が残っている。



今でも港は残っているが、橋が架かる前の様に賑わっておらず、
狭い道は拡幅されて、余計、時空間が広がってしまったように思われる。



ところがご覧の様に、港の常夜灯であった灯廊横の、古い土蔵の脇から
耕三寺前までに、なんとも懐かしい、参詣用の土産物屋小路が続いていて、
今も残っているのである。これには前回全く気が付かなかった。



猫も居る。このオブジェの様にじっと動かない濃い茶の猫は、港通り商店街に
生まれて、この地で子供を産み育てて、一生を終えるのだろう。



18年前に初めてこの島に来た時には、僕は35才であった。その頃には
子供の数は2人。その後もう1人生まれて3人の子供を育てた。
これから18年後には僕は生きていないかもしれない。猫の人生も僕の
人生も、あまり変わらないと、思う。



いい感じの町並みと路地が続く。



耕三寺まで「徒歩7分」と書かれていたが、のんびり写真を撮りながらなので
実際は倍以上掛かったが、こんなぶらり歩きは実に悪くない。



とくにレトロを強調するでも無く、殆ど手つかずの昭和な風景にすっかり
魅了されていた。




居抜きで使ったらそのまんま映画のセットにも使えそうな元スナックのお店たち。





和風キッチュ趣味の耕三寺については、多くは説明しない。

ここは戦前に事業で成功した人物が、お金を使って母親の生まれた故郷に
最初、豪華な家を造り、亡くなった後はその周囲に、次々と神社仏閣を模した
建造物を、供養の為に取り付かれたように作ったと言われている。

昭和一桁から、戦中を挟んで戦後の平和が戻ると、さらに拍車がかかり、20年代
いっぱいに手掛けられて、30年代には瀬戸内の新しい観光名所になった。



その男の物語が偉人伝化されていない所が良い。



戦後の瀬戸内海は、一時憧れの旅行コースになり、人気を博した。

壷井栄の二十四の瞳も、同じ時代に小豆島を全国区の人気観光地にプロデュース
した。耕三寺と同じ動機だというと叱られそうだが、戦争中は呉の海軍機密地帯を
抱えたこの「地中海」は、自由の海ではなかったのである。



だから、戦後が来ると、明るい風光の瀬戸内海に、まだ海外旅行は夢の夢であり、
民衆は憧れ、自由と根明かな風景に熱狂して、支持をしたのである。

耕三寺の狙った親子の慈愛と極楽往生は、たくさんの人が戦死した日本の国土に
レクイエムとして、共感を呼んだのじゃなかろうかと、オイラは思うのである。



ただ歴史建造物として、イミテーションみたいな物の上に、独自の宗教観で
トッピングしたデコレーションが施されており、これはタイガーバーム庭園に近い。



ところが、このイミテーションも、もう時代がそこそこ古くなって来たので、
これからは積極的評価を、加えるべきかの段階になって来た。



今回の耕三寺訪問は、純粋なお寺ではないから、僕のような頭から考えとろう
とする者には、抵抗が無いでもない。TDLやUSJが大の苦手な僕には、
テーマパークは社会性必然が無いので苦手なのだが、ここは18年ぶりに来て
共栄という宇宙観や引力を感じた。

とくに平山郁夫美術館を横に呼び寄せたのは、耕三寺の特AでなくBな感覚と
呼応するものがあったのでは、ないか。平山も京都なら100年後も悪く言われる
かもしれないが、生口島なら言われまい。

それから今回、初めて入って感動したのが、この潮聲閣という和風数寄の
建築である。



ここは正に耕三寺建立者が、母親の為に昭和初期に贅を尽くして建てた、
和風建築の逸品である。この建物には、ため息が出た。池田にある電鉄王
小林一三の邸宅と、同じ時期だが、こんな島の中に在るが、金のかけようが
遥かに上なのである。迷いが無いと言うのは、ほんとうに贅沢で良い。



私はこれは見ていて気持ちが良かった。それと今回の旅は母の介護問題である。

両家がちょっとでも贅沢をすると、生意気だとか、いろんな礫が飛んで来るので
私は出家したような人生を選んだ。

間違っていたのではないか。私に金があればぐうの音も出せずに解決できた
問題だったのかもと、貧乏を選んだことを恥じた。ここに偶然これたことは
結果的に良かったと思う。耕三寺を作った人の名は金本耕三と言い、やっぱり
金の力で親孝行できたのである。皮肉だが私は親孝行の道を直球で受け止め
られなかったのである。


さあ、道を急ごう。参詣道中でお昼ご飯のチキンや串カツ類を買い、ご飯も
買ったので、どこか雄大な風景の下で食べたい。
島を巡る途中でこういう廃車体群も見つけてしまった。



こんな所まで、ダイハツも来ているんだなあと、ミラの男は思う。



これはポーターのバンですね。



これはレモンの実っている所。生口島はレモンの島で、この時期は島全体が
甘い香りに包まれており、ヤニ臭い中古のミラもずっと窓全開で走ったから、
少しは脱臭できたかしら。



美しい花を付けた大きな木が海沿いに生えていた。これは何の樹だろう。



車は再び橋を渡って、大三島に入ります。

ここは変わっていた所もあったが、1995年と、しまなみ全通の99年を知って
いるので、その時の観光地化は落ち着いた感も取り戻している。
海沿いのやたら広い駐車場区画で、車を海の側に停めてお昼にする。

食べ終わったら昼寝をせずに、大三島神社の参拝に真っ直ぐ向かう。



宮浦と言う地名の所が、大山祇神社のある場所である。駐車スペースは道の駅に
なっており、神社真横の一等地の駐車できる所は昔からある土産物屋が、「無料で」
停められますと書いてあるが、さすがに私も道の駅に停め直して歩くことにした。



やっぱりクスの御神木が綺麗だ。



この時期の緑は、モノクロでフィルターをかけて撮ると、かげろひ立つ
ように写る。それが好きでずっとモノクロで新緑を撮るのだが、今回はたくさん
写真に納めることができた。



社殿の敷地に足を進める。ここの宮代に入るのは2度目であるが、橋が架かる
までは、絶海の孤島の祕殿に参るような心持ちがしていた。



それが便利になったということは、飽きられてしまうことに繋がり、神通力を
弱めてしまうことになるかもしれない。
畏れ多いことを言うのではなく、島の持つ神秘性が1000年以上崇め奉られて来た
最大の理由であったからである。



初めてここに来た1995年には、いくつもの島を渡って、船も何度か乗り継ぎ、
辿り着いた大山祇神社の社殿に有り難みを感じたのである。橋続きで観光バスで
来られるのも良いが、私は道の駅の出来た1999年にはここで「たらの芽」を
買ったことを、思い出した。ラリーの途中にである。



でもこの社の中には面白い時空間への入り口があるように思える。
ミシマの三が、神社の御印と言うのも面白いと思う。



現代の巫女さん宮司関係者らが出入りの酒店とお神酒のことで話している。
今は平成だが、昔の人たちも同じことを打ち合わせたのだろうか。



参道を出てお宮をあとにする。
扁額鳥居の文字が、最近の建立は島出身の書家、村上三島の手になる
ものと気付く。その手前の鳥居の文字は伊藤博文だから、村上も並ぶと
知りさぞかし緊張したのではないか。ラリーの時はまだ存命で、参加者は
特別に書を貰い受けることが、チェックポイントで出来た。

私は忘れてたのでもらい損ねたが、元々能書でないので、もらっていても
猫に小判であっただろう。



お宮を出てここの地名の由来になる宮浦港に行ってみる。
昼下がりの港は定期航路もうんと減り、手持ち無沙汰に改修されて綺麗に
なり過ぎていた。



この浜から大山祇神宮まで歩いて半町。港の横に地元のバス会社の大きな
基地が有り、すぐ前の方に大三島役場も郵便局もある。

義経や尊氏が歩いたこの道が、殆ど省みられなくなった現実に、
私は橋が架かったことの衝撃を受け、長い間港に停めたクルマの中で、
歴史の重さを軽くしてしまった近代という救いようの無い潮の流れに、
いつまでも考え込んでしまっていた。

この項ひとまず終わります。
2013 05/28 12:04:59 | 旅日記
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