阪急の中で、最も歴史のあるといえば、きこえはいいのだが、設備の古い宝塚線。
今年はちょうど100年目にあたる。
昨日、鉄道関係の本のプロデュース業もされている人と、さらに、豊中の写真関係者と3人、
喫茶店でこの話題を談義してみた。
写真は1世紀の歴史を誇る?そのままの石橋駅の曲がったホーム。
![](http://bany.bz/coupe/img/fqqmzcq5s32peks.jpg)
まず私から、阪急電車が池田に本拠地の登記を置き続ける理由について。
創業者、小林一三と池田との関わりに付いては、前々回のブログに書いた通り。
取っ掛かりになる阪鶴鉄道(JR福知山線ルーツ)時代は池田駅は現在の川西池田駅より
もっと猪名川に近い場所にあり、水運の荷揚げと結ばれていたことが話題に出た。
また、池田町での古美術との出会いに付いては、豊中の住人は深く頷かれた。
さらに今回は座談なので、もっと踏み込んだ考察を提示してみた。
ずばり、一三は大阪(的なるもの)と関西財界が苦手だったのではないかという、仮説である。
この考えに至ったのは、原武史氏の名著「民都と帝都、思想としての関西私鉄」を
今回、読み直して、むむっと思った点にある。
原説によれば、小林は官なるものが嫌いで、梅田(あえて大阪とせず)開発は
民間でできる、余計なことは言わないで欲しいと独力で、今の阪急の前身から
ターミナルデパート開業(S4年)まで、独力でこぎつけた。
しかし昭和初期に、国鉄と阪急の線路配置の上下関係が逆転する。
この時に大阪の世論(新聞等)は渋る阪急に対し「一私鉄の阪急ごときが」と強い非難を浴びせた。
小林にとって開業以来20年、順調であった阪急の最初の試練である。
![](http://bany.bz/coupe/img/r3zdvqkce3ypw8y.jpg)
もう少し話しは続くのだが、読んで飽きる内容なので、少し横道へ。
大阪平野の気風や感覚の中でも、よく冗談めいて言われるのが、ベタな南部に対し、
スカした阪急沿線の上品さである。
これって、大阪人は常識すぎて何の疑問も抱かなかったが、よく考えると、これは
阪急神戸線と宝塚線沿線だけなのですね、気取っているのは。
そして宝塚歌劇や、人気の出なかった阪急ブレーブスについても言えるけど、正直
ガラの悪い大阪というイメージから、かけ離れている。
よく考えると、そこに誰か個人の存在を感じないか。
そう、慶応出身で、関西財界と一線を引いていた個人主義者、小林一三である。
![](http://bany.bz/coupe/img/ksf2q6mqahdsqcu.jpg)
小林は、昭和の戦前、一旦阪急の社長の座を辞し、東宝の経営や東京電灯(今の東京電力)に重心を移す。
ここで池田と大阪から離れて、東京で財界活動をするのである。
そこには東急の五島慶太がおり、計画プランに参与した田園調布があり、さらに慶応閥があった。
やがて一三は戦時直前の商工大臣(経産相)にもなるのであるが、ここでも官僚の岸信介
(後の自民党総裁、総理)と合わずに辞職する。
座談会の相手からも「一三は財界でも一匹狼だったみたいですな」のコメントがでる。
![](http://bany.bz/coupe/img/u1x2d6udxvx35rh.jpg)
一三は失意のまま、関西に戻り、昭和10年代に建てた池田の家、「雅俗山荘」に引きこもる。
私鉄王の意外な横顔だが、彼自身日記に記している。
昭和19年の「呉城小景」と22年の「薮の細径」である。
前者は、瓦斯、電気を引いた自宅も燃料統制で不便をかこち、(池田は戦前から都市ガスだったのか)
薪炭を使わざるを得ず。特産の池田炭も手に入らず、と。
戦後の公職追放中の記事では、池田の山間を散策して自宅に戻るまでの日常が描かれ、
夕暮れの電車のヘッドライトと鉄橋に目をやり、自宅ベッドの体を投げ出し
「老いたるかな、老いたるかな」と故郷離れ幾年月、70代になった鉄道王の
老境の孤独がしみ入るような文である。