阪急の中で、最も歴史のあるといえば、きこえはいいのだが、設備の古い宝塚線。
今年はちょうど100年目にあたる。
昨日、鉄道関係の本のプロデュース業もされている人と、さらに、豊中の写真関係者と3人、
喫茶店でこの話題を談義してみた。
写真は1世紀の歴史を誇る?そのままの石橋駅の曲がったホーム。
まず私から、阪急電車が池田に本拠地の登記を置き続ける理由について。
創業者、小林一三と池田との関わりに付いては、前々回のブログに書いた通り。
取っ掛かりになる阪鶴鉄道(JR福知山線ルーツ)時代は池田駅は現在の川西池田駅より
もっと猪名川に近い場所にあり、水運の荷揚げと結ばれていたことが話題に出た。
また、池田町での古美術との出会いに付いては、豊中の住人は深く頷かれた。
さらに今回は座談なので、もっと踏み込んだ考察を提示してみた。
ずばり、一三は大阪(的なるもの)と関西財界が苦手だったのではないかという、仮説である。
この考えに至ったのは、原武史氏の名著「民都と帝都、思想としての関西私鉄」を
今回、読み直して、むむっと思った点にある。
原説によれば、小林は官なるものが嫌いで、梅田(あえて大阪とせず)開発は
民間でできる、余計なことは言わないで欲しいと独力で、今の阪急の前身から
ターミナルデパート開業(S4年)まで、独力でこぎつけた。
しかし昭和初期に、国鉄と阪急の線路配置の上下関係が逆転する。
この時に大阪の世論(新聞等)は渋る阪急に対し「一私鉄の阪急ごときが」と強い非難を浴びせた。
小林にとって開業以来20年、順調であった阪急の最初の試練である。
もう少し話しは続くのだが、読んで飽きる内容なので、少し横道へ。
大阪平野の気風や感覚の中でも、よく冗談めいて言われるのが、ベタな南部に対し、
スカした阪急沿線の上品さである。
これって、大阪人は常識すぎて何の疑問も抱かなかったが、よく考えると、これは
阪急神戸線と宝塚線沿線だけなのですね、気取っているのは。
そして宝塚歌劇や、人気の出なかった阪急ブレーブスについても言えるけど、正直
ガラの悪い大阪というイメージから、かけ離れている。
よく考えると、そこに誰か個人の存在を感じないか。
そう、慶応出身で、関西財界と一線を引いていた個人主義者、小林一三である。
小林は、昭和の戦前、一旦阪急の社長の座を辞し、東宝の経営や東京電灯(今の東京電力)に重心を移す。
ここで池田と大阪から離れて、東京で財界活動をするのである。
そこには東急の五島慶太がおり、計画プランに参与した田園調布があり、さらに慶応閥があった。
やがて一三は戦時直前の商工大臣(経産相)にもなるのであるが、ここでも官僚の岸信介
(後の自民党総裁、総理)と合わずに辞職する。
座談会の相手からも「一三は財界でも一匹狼だったみたいですな」のコメントがでる。
一三は失意のまま、関西に戻り、昭和10年代に建てた池田の家、「雅俗山荘」に引きこもる。
私鉄王の意外な横顔だが、彼自身日記に記している。
昭和19年の「呉城小景」と22年の「薮の細径」である。
前者は、瓦斯、電気を引いた自宅も燃料統制で不便をかこち、(池田は戦前から都市ガスだったのか)
薪炭を使わざるを得ず。特産の池田炭も手に入らず、と。
戦後の公職追放中の記事では、池田の山間を散策して自宅に戻るまでの日常が描かれ、
夕暮れの電車のヘッドライトと鉄橋に目をやり、自宅ベッドの体を投げ出し
「老いたるかな、老いたるかな」と故郷離れ幾年月、70代になった鉄道王の
老境の孤独がしみ入るような文である。