男たちには判らない

カテゴリ[ 都市風景 ]の記事 (22件)

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ユダヤ系の英国人歴史学者の Tony Judtは62歳で
2010年に、異郷のNYで生涯を閉じた。

その亡くなる直前に書いた回想録。

膨大な知識と社会全般に対する見識、分析。
1945年以降の世界のうねりと民族の自我と興亡。
それらを死に行く前の者として、冷徹に、しかも
やさしく見ていった、格好の現代史書である。

そして1940-2010年に生きるものとして、同時代史は
決して日本だけや、フランスのパリや、ロンドン郊外の
鉄道発展系の類推からも、わかるように「同時に進行した」
物語であったことがよくわかる。

これほどの鉄道や交通といった体系システムを愛した
歴史学者も珍しかったのでは、ないだろうか。

高尚な本ではあるが、非常に具体性に富み面白い。
僕らが生きてきた戦後社会とはなんだったのか。
20世紀の後半を今もう一度、この夏に振り返るなら、
最上に勧めたい本である。

\3150
発売元: みすず書房

2012 08/08 07:50:04 | 都市風景 | Comment(0)
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久しぶりに平和公園に行った。
その向かいの県庁周辺には、広島カープ縁のモニュメントがある。



今やこの人(サチ・衣笠)も生前顕彰された乃木将軍のようだ。



原爆ドームを、晴れた空の下で見るのは、初めてかもしれない。





建築学的には、興味の多い構造だと思う。
しかしここだけ、ドレスデン、コベントリー以上に、戦争の痛みを伝える、人類の傷跡が残されている。






ああ、今の平和なこの街にて、我は何思う。


2012 05/24 06:32:37 | 都市風景 | Comment(0)
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村野藤吾である。

現在、存続を巡って、論議中である。
http://www.yonago-city.jp/bunka/koukaido1.htm

市民会議といって、建築の価値を啓蒙するサイトもある。
http://www.nokosaiya.org/kokaido.shtml

想いを寄せる人たちも多い。
http://donguri-do.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-b72e.html

まあみてください。





















正直に言うと、村野にしては、B級かなー?という
気もするのだが、B級はB級で価値があると思う。
ちょっと可愛らしい建築なのである。











どうでしょう!。

町の規模には、ぴったりと思うのですが。

http://www46.tok2.com/home/arc/tottori/tottori_02.htm
2012 04/19 06:46:28 | 都市風景 | Comment(0)
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何とも言えません。
2011 08/06 11:45:50 | 都市風景 | Comment(0)
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暑かったねえ、みなさん。
2011 07/10 22:20:40 | 都市風景 | Comment(0)
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昨年、一緒に仕事をした人から電話がかかってきて
私が仕掛けた、北摂論の続きをやることになった。

土曜日は天気が良いので、豊中駅前のビルで別の打合せが
終わった後に、駅前の大池小の所から、梅花の近く、豊高の
あたりの上野の端まであるいてみた。



このあたり、嫌みのない良い生活空間があるなあと再確認。
数年前の転居の際に、住みたいと一瞬思ったものだ。



大阪でも特異な空気の流れる、北摂の一部の研究は
ずっと続きそうで面白い。

日曜日には、生まれてから47年、こちらがわ(豊中北側)に
住んでいる後輩に面会してインタビュー。
これも興味深かった。



久しぶりに会う後輩は、「出向しまして」と言いながら
子会社の社長さんになっていた。

会社も辞めた私は、そうかと言いながら、いろんな友たちの
30年間の人生が、フラッシュバックした、1時間であった。
2011 06/06 06:17:09 | 都市風景 | Comment(0)
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北摂という言葉が本来あらわす摂津の北は、京都との境から
兵庫県の一部のエリアまで含んでしまうのだが、猪名川流域に
拓けた町村がいちばん言葉的にもらしい雰囲気がある。

兵庫県の県都・神戸市は、摂津というと大阪を意味することを嫌ってか、
明治以降ひたすら旧国を廃することにつとめてきた。これが神戸の
新しさに通じるのであろう。

はるか上代から人が住み、中世には城下町であった大阪府池田市と
兵庫県伊丹市。南部に控える尼崎も城下町であったが海に面する港町の
性格もあり、やや言葉気風が異なる。
そうすると、北摂というと猪名川流域の、池田、豊中、兵庫県の川西、
伊丹、宝塚、せいぜいと箕面と言ったあたりが一番、気風が似ているの
ではないであろうか。

そのキーワードは、明治の終わりに一人の男が引いた鉄道による。
男の名は小林一三。鉄道は阪急電鉄である。
この間から、伊丹に行く用事があって行ってきた。
風景が随分変わったなと道を歩きながら、旧市街地の近くに
できた音楽ホールが、開館20周年を迎えたことも知る。

震災前のバブル期とその後の阪神大震災。25年程の時空間に、
日本は豊かさについてじっくり考える時間があった。
見かけの豊かさと、精神の空白と。
そういう時代の中で、比較的翻弄もされず、急速な人口流出も
なく維持しているこの都市群は、運がいいのかもしれない。
それは戦後の早い時期までに街の骨格が出来ていたこと、
最大の理由は交通インフラの要である私鉄が、小林の先見性で
もっと早い1920年代までに開通していたことが大きい。

さて、街の大切な機能に学校教育がある。
学校が無い街は発展が遅れるのは、昔の人ほど分かっており
熱心に誘致したものである。
伊丹と池田は学校も出来るのは早かった。
女性の教育にも熱心で、女学校はこのあたりでは大阪は池田
兵庫は伊丹であったという。

続く



2011 03/10 07:15:29 | 都市風景 | Comment(0)
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\

とつぜんですが、近松門左衛門のことを調べに、今日は尼崎に来ております。
同行はこの休日に、小生宅を訪問したので、急遽門人のように
着いて来てくれることになったぽち君です。



カーナビを頼りに辿り着いた所が、尼崎市久々知という所。
この一帯は尼の中心から外れた、山手幹線と五合橋線の交差
する国鉄の塚口駅から少し行った、旧田園地区でした。
周囲はこんな感じで、風呂屋の煙突に「新近松温泉」の文字が
見えます。


この近くに、広済寺という寺の中に墓所があり。現在はその隣
に近松記念館があるというので訪ねました。
それもこれも、2月に曾根崎心中のことでパネリストを引き
受けることになり、本日は下見と近松のお墓に挨拶にきました。



この背景の森が広済寺です。



この民家の塀には、こんな看板が!。このあたり、別に地名が
近松村でもありませんが、これには地下の近松も苦笑してそうです。



風呂屋に名前を付けた新近松温泉。「新」が「新諸国物語」
みたいですね。(あれは西鶴)

近松の里は静かな所で、他に見る所は少なく、私の家の近所の
池田にある伊居太神社と同じ名前の神社がありました。
こちらは「いこた神社」と読むようです。

さて探訪も短く終わってしまったので、ぽち君のススメで同じ
尼にある出屋敷に昔遊郭があって面白いというので、そっちに向かいました。



途中こんな建物や、



こんな船のような小学校

そして着いた所には、いきなりこんな超シブい大衆
喫茶がありました。



その隣から続いている商店街を見ました。これが入り口。




そしてなかはこうです。




これは凄い。殆ど時間が止まっています。
空いているお店も1、2軒でしたが、看板に
出ているお風呂屋さんは残っていました。



案外新しい外観です。



通りの裏側から見るとまたいい感じ。



路地って、良いものです。誰も見直さないけど
縁があればこういう所を訪ねてみたい。

通り抜けるとそこは阪神電車の出屋敷駅前でした。
ここには昔大衆演芸場が残っていて、無料券を
もらって、原田ヒロシという歌手の演芸ショー
を見たことを思い出しました。もう15年くらい
昔のことです。



そう、これが懐かしい天満座の跡です。
もうすっかり跡は無いものと思っていましたが
未だに残っていました。この中でおでんに熱燗の酒
飲みながら、演芸ショーを見たなあ。



このあと、少し出屋敷情緒を去り難く、近所にあった
ジャパンという昭和な喫茶店で小一時間、ぽち君と
世相談義。大人の男にはこういう時間が必要です。

この一帯は風呂屋さんが今でも多く、もうちょっと
暖かくなったら、軽自動車に乗って風呂屋さん巡りも
いいね!と思いました。

おまけ。

箕面の地ビールです。これがうまい。
ナンバのバー、キタヤマでよく飲んでいましたが、
土曜日に娘を箕面のピアノ教室に送って行き、近所で
ついに工場と直売所を発見しました。



今度はケース買いして、池田の家ではこれを飲んで
いようかな。
2011 01/24 06:23:20 | 都市風景 | Comment(0)
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あけましておめでとうございます。

昨年の暮れに、行った広島県三原市の糸崎という町の紹介をします。
この町には、大昔、鉄道の機関区があったり、興味を引く歴史がいくつも
あり、いつも通過する度に気になっていました。

今回の帰省でなく広島訪問はずっと在来線を使い、乗り換えの直前に
思いきってこの駅で降りて町を歩きました。
すると古い旧の湊の回りに思いもかけない歴史の痕跡を多数発見しました。



この唐破風屋根の着いた玄関を残す建物は何でしょう。
この玄関はある方角を向いています。その視線の先は。



こうなって、湊に入ってくる船を見ているのです。
この町にはこんな風景も。





正体を明かすと、これらは多分元遊郭です。松浜と呼ばれたこの地区は
江戸時代くらいから栄えた、港町情緒のある色町であったようです。
多分昭和の30年代前半で、役目を終えたこの町は廃墟もあり、傷みは烈しく
文化財にもならないと思います。
訪れる人もない港町の元遊郭を見ていると、過ぎ去った日の男と女の
愛と涙の物語りが伝わってくるようです。

さて、山陽本線はこのあたり、尾道にも似た、山と海に挟まれた小都市の
風景が広がります。



国道の高架の下をくぐれば、目線より高い所に鉄道の路盤が。



山側に上がればこんなに暖かな蜜柑の取れそうな風景が広がっていました。



丘の斜面には、海の見える古い墓地がありました。
死後の世界は普段考えないのですが、こんな所にお墓があったらいいなあと
思いました。




坂道を降りていくと、昔から気になる建物がひとつあります。



糸崎の洋館、そう勝手に名付けて10年以上になります。

最初は、電車が駅に入る一瞬手前にこの建物の屋根を見つけたときは
ドキンとしました。



その後何度か確かめて、国道と海のあいだに建つこの建物に今は
住む人がいないことも判りました。
しかし取り壊されることもなく、また、荒れていくこともなく
この建物はいつか、再び住む持ち主が帰ってくるのをじっと、
待っているように思えました。

2011 01/05 00:40:06 | 都市風景 | Comment(0)
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3月から始めた、池田暮らしも長くなりました。



市役所から駅に向かう、夕暮れの入り口のころ。



これが国道176号線、池田駅前手前の風景。
梅田の堂山付近からここまで20キロ程度です。





駅裏にこんな懐かしい洋館風の屋敷も残っていました。







これは、池田に本社のある、ダイハツ関係の、やや古い建物。
昭和40年代調のシックな外観に、切り抜き風の細い文字がよく似合っている。



床屋、何気ないけど懐かしいなと思わず、言える商店群風景のすぐ裏まで高層マンションが迫っている。





あっと驚く、昔のままの風情の池田中央市場。
特にこの横の道に面している部分など、昭和の、国鉄購買部を思わせるような佇まいである。



8月5日
一斉の水まきの日。




夜の駅前、ビアガーデン。



2010 08/04 23:42:19 | 都市風景 | Comment(0)
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今年も宵山に行ってきました。

少し早めにいって、日が暮れるまでの間が
一番好きな時間です。

夏の京都の良さを、一番体感できるのが
涼しくなり始める、夜のプレリュードアワー。



祇園祭2010年をご覧になってください。
(2010.7.16撮影)







2010 07/21 16:47:45 | 都市風景 | Comment(0)
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世界の町を旅してきた(←ちょっとおおげさ)
私が思うに、大阪の夜は素晴らしいということです。

昨夜は、「ビヤガーデンに行こう!」と思いつき
友人を強引に誘い、梅田の駅前に集合とメール。

これ、「新」阪急です。やっぱりゴージャスやと感激。



しかし友人から打電、中之島に面白いもの発見と。

そこでてくてく歩き、京阪の新線に乗って難波橋まで一駅
乗って、合流しました。これです。



アールリバーサイドグリル&ビアガーデン
06−6202ー0112
16:00〜23:00

駅前のビヤガーデンが協定か、20時半や21時で終わってしまう
のは、ちと不満。その点ここはのんびり飲めました。
夜も更けると、客数も減り、夜風が素敵です。
昨日は、何十年ぶりにジンギスカンを食べましたが
美味しかったです。

行ってみたい方は私も誘ってね。
2010 06/30 10:28:50 | 都市風景 | Comment(0)
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阪急の中で、最も歴史のあるといえば、きこえはいいのだが、設備の古い宝塚線。
今年はちょうど100年目にあたる。
昨日、鉄道関係の本のプロデュース業もされている人と、さらに、豊中の写真関係者と3人、
喫茶店でこの話題を談義してみた。

 写真は1世紀の歴史を誇る?そのままの石橋駅の曲がったホーム。



まず私から、阪急電車が池田に本拠地の登記を置き続ける理由について。
創業者、小林一三と池田との関わりに付いては、前々回のブログに書いた通り。
取っ掛かりになる阪鶴鉄道(JR福知山線ルーツ)時代は池田駅は現在の川西池田駅より
もっと猪名川に近い場所にあり、水運の荷揚げと結ばれていたことが話題に出た。
また、池田町での古美術との出会いに付いては、豊中の住人は深く頷かれた。

さらに今回は座談なので、もっと踏み込んだ考察を提示してみた。
ずばり、一三は大阪(的なるもの)と関西財界が苦手だったのではないかという、仮説である。

この考えに至ったのは、原武史氏の名著「民都と帝都、思想としての関西私鉄」を
今回、読み直して、むむっと思った点にある。

原説によれば、小林は官なるものが嫌いで、梅田(あえて大阪とせず)開発は
民間でできる、余計なことは言わないで欲しいと独力で、今の阪急の前身から
ターミナルデパート開業(S4年)まで、独力でこぎつけた。
しかし昭和初期に、国鉄と阪急の線路配置の上下関係が逆転する。
この時に大阪の世論(新聞等)は渋る阪急に対し「一私鉄の阪急ごときが」と強い非難を浴びせた。

小林にとって開業以来20年、順調であった阪急の最初の試練である。




もう少し話しは続くのだが、読んで飽きる内容なので、少し横道へ。

大阪平野の気風や感覚の中でも、よく冗談めいて言われるのが、ベタな南部に対し、
スカした阪急沿線の上品さである。
これって、大阪人は常識すぎて何の疑問も抱かなかったが、よく考えると、これは
阪急神戸線と宝塚線沿線だけなのですね、気取っているのは。
そして宝塚歌劇や、人気の出なかった阪急ブレーブスについても言えるけど、正直
ガラの悪い大阪というイメージから、かけ離れている。

よく考えると、そこに誰か個人の存在を感じないか。
そう、慶応出身で、関西財界と一線を引いていた個人主義者、小林一三である。



小林は、昭和の戦前、一旦阪急の社長の座を辞し、東宝の経営や東京電灯(今の東京電力)に重心を移す。
ここで池田と大阪から離れて、東京で財界活動をするのである。
そこには東急の五島慶太がおり、計画プランに参与した田園調布があり、さらに慶応閥があった。
やがて一三は戦時直前の商工大臣(経産相)にもなるのであるが、ここでも官僚の岸信介
(後の自民党総裁、総理)と合わずに辞職する。

座談会の相手からも「一三は財界でも一匹狼だったみたいですな」のコメントがでる。



一三は失意のまま、関西に戻り、昭和10年代に建てた池田の家、「雅俗山荘」に引きこもる。
私鉄王の意外な横顔だが、彼自身日記に記している。
昭和19年の「呉城小景」と22年の「薮の細径」である。
前者は、瓦斯、電気を引いた自宅も燃料統制で不便をかこち、(池田は戦前から都市ガスだったのか)
薪炭を使わざるを得ず。特産の池田炭も手に入らず、と。
戦後の公職追放中の記事では、池田の山間を散策して自宅に戻るまでの日常が描かれ、
夕暮れの電車のヘッドライトと鉄橋に目をやり、自宅ベッドの体を投げ出し
「老いたるかな、老いたるかな」と故郷離れ幾年月、70代になった鉄道王の
老境の孤独がしみ入るような文である。



2010 05/20 09:18:43 | 都市風景 | Comment(0)
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4月の土曜日、知人の誘いで「奈良少年刑務所と市内の近代建築を見て歩く」
ツアーに参加した。市内北京終町で開催中の、少年刑務所の貴重な内部を写した
写真展に合わせてのイベントだ。



この催しは、詩作で同刑務所に通い、支援活動されている作家の関わられる
「ならまち通信社」と、私の友人である歌人と、NPO法人・Jヘリテイジの合同企画で
ある。ここで、Jヘリテイジという若い人たちの(まだ発足して日は浅いが)、グループ
を知った。
http://j-heritage.org/



言葉の説明は省くが、彼らのうち、いくらかは「廃墟マニア」の出身であったらしい。
元気がないといわれる現代の若者だが、マニアの行動力は面白い。
日本中の廃墟の話。中でも北海道の炭鉱の跡を回っている若い人の興味・関心は
私の心に深い印象を残した(今の言葉でいうと「刺さった」というのですね)。私は
北九州・筑豊の閉山最終期の話を、実話として語れるからである。



廃墟マニアは、目立ってくるようになると「(いつまでも)アブナイ人たちのままでは
イカンだろう」と、いうことで、一部は産業考古学に合流し、ここに独自の観点で、自ら
も日本中を回るのなら、「歴史観光」というジャンルが合ってもいいのではないかと、
新しいツーリズムを確立した。以上が私の分析である。



もちろん推測の多い文章なので、改めることがあれば順次補正する。
ただ、近年の里山を初め、日本を再発見するツーリズムの中に、何か、新しい風が
吹いてくるのを感じてしようがない。
日本は「ツーリズムの時代」に入ったのではないか。
炭鉱を知らない人たちに、坑道の奥まで見たいとさせるエネルギー。そこには「欲
する」と「調べて回る」という楽しさが付いて回る。旅の原点はこちらだ。

奈良町の坂を上がり下りしながら、こんな街のゲストハウスを起点に、ランドナー
(旅行用自転車)で探訪する旅もいいな、と感じ始めた一日であった。

2010 04/11 13:17:41 | 都市風景 | Comment(0)
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一昨年、昔の北摂のデートコースの話題で盛り上がったことがありました。
菊一堂やVWのドライブショップなどなど。
じゃあ神戸方面の定番スポットは、というと誰でも思い出される
ちょいと今では懐かしくも恥ずかしい流行の先端だったのが
ココ、須磨のウエザーリポートでしょう。





この写真は1985年のGWのころ。私は社会人3年生。
他の仲間は女の子をのぞいてみんな一つ下の学年です。



駐車場を見てみましょう。
僕らは黒のFFファミリアとミラージュの2台でした。
え〜とソアラに、プレリュード、AE86にシティターボ。
1台だけ場違いな30系カローラが停まっていますが
大凡、若い人のデートカーはこんなもので外車はまだ
少なかったです。

国道の方には白いベレGも見えますね。(



当時の僕らの記念写真を見ると、まだ大学生の気分のまま
ですね。僕らはほぼ全員が京都で下宿生活でしたから、
神戸は都会(シティ)でオノボリサン気分でした。
紅一点の彼女はその後、後輩の奥さんになり2女の母です。

テトラポッドの上に立つ25歳の小生。



最後のショット。キャビネに伸ばしたお気に入りの1枚。
青春グラフィティですね。



目線やぼかしは敢えて入れていません。お許しを。


2010 02/24 00:02:10 | 都市風景 | Comment(0)
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やっぱり私は写真が好きだというきょうの作品から。



台風の前触れの雨で、すっかり秋めいた近くの緑地公園1シーン。



いまは秋の植木市が開催中ですが、今日は中止。横に積まれた堆肥土にびっしりと雨粒が光っていました。



中央花壇はコスモスが見頃。観覧の人影も無く雨が降る。



待ち合わせの本町スタバ前に到着。既に飲んでます。



向かいのビルはネオクラシカルな外観で竣工しました。
ここは以前イトマン(伊藤万)の本社があったところ。
露光を長くして浮かび上がらせた夜のビル。



外のオープンカフェも、ここは平気です。私の好きな都市風景。



待ち合わせの友人が到着。なんて素敵な車なんだ。



露出を変えてもう一枚。

背景のビルとよく似合う。アーバンな夜、これからどこへ。

貴女とジャズと夜が、ゆっくり溶け出していく。
2009 10/07 00:56:46 | 都市風景 | Comment(0)
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デジタル写真とネット転載の時代になって写真術もずいぶんオキテが変わりました。
私のような保守派の人間でもデジカメを持つようになり3年になります。
私が使っているのはソニーのDSC-1という2万円くらいの普通のコンパクト1台です。

フィルム写真をスキャンしてHPを作っていた時と違いはありますが、
それはデジタル加工の手順です。

デジな写真論としていちばんの特徴は、シヤッターと露光の関係が
思い切り変わったこと。それが顕著なのが暗いところの写真が「誰でも簡単に」
写せるようになったことです。

ただしここで自分の武器の特徴を知っておきましょう。
デジカメの場合、フィルム感度によるラチュードを幕面に
露光させるのでなく、弱い光信号を静かに読み取るという
作法ですね。
このために夜間は、静かに
1ストロボに頼らず
2長時間シャッターをきり
3ぶらさないためにカメラを持たずに置いて
夜景を撮るようになりました。

もちろん近接したものは従来通りピカッと光らせて撮ってもいいのですが
従来無理だった夜間のシーンを撮るのには、撮影モードを
P(プログラム)にすると自動的に遅速シャッターになります。
これ以外の月マークなどによる夜間モードもありますが
Pで十分対応できます。

撮影例をあげましょう。


夏祭りからですが、これは場面が明るいので標準モード、
ノンストロボ。ただ緩速撮影ですので相手が停まった一瞬を
掬い撮っています。失敗したら消してまた写す、のココロで。



これは楽に写せました。対象がしっかり撮れているかはモニタリングを駆使して。



得意のバー写真。これはロウソクの光源をグラスの背にして
あとはカメラ任せデス。



反対にこれもストロボを使わず、手持ちで軽く写した写真。



夜景の限界に挑戦。月明かりの公園。遠い水銀灯と月光だけで撮影。
カメラは水平な所に置き、絶対ぶれないために、セルフタイマー
を併用しています。



これも苦しいですがデジカメならではの面白いショット。



夜の都会の排気塔。車の途切れた一瞬ですが数十秒だけの静寂。



歩道橋から。動いているものと動かないものの対比。


同じく。



これは失敗なんですが、人が完全に消えてしまって。ただ
写真としては面白いのでやり過ぎはこうなるという見本。




プロや写真家の技法はもっと高度にあると思います。
アマチュアのやり方としてベストとは思いませんが、
デジカメが拓いた夜間撮影の面白さについて、手元の教材で
もっと遊んでみてください。
そんな所で、失礼いたしました(ぺこり)

2009 09/05 23:07:24 | 都市風景 | Comment(0)
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都市に住んでいて面白いと感じるのは、違う視点を
持って見ると意外な発見があることでしょう。

7/31と8/1の2日に大阪・肥後橋の古い川沿いのビルで
夜、最上階の5階フロアとテラスを使ってビールを飲もうというイベントが開かれました。
偶然見ていたネットで気付いた私は最終日にとりあえず町へ出ました。



梅田から西梅田へ。久しぶりに第1ビルの中古カメラ店3軒を見て、そのあと馴染みのブティックでバーゲンのパンツを買ったりして肥後橋に着いたのは8時前。
曖昧なメモ片手に会場を捜します。リバーサイドの片言で見つけたのがこんなシーン。



どうやら左岸の今では背の低いビルの灯りが灯っている部分だと判りました。

エレベータを使わず階段を歩いて5階へ。少しドキドキ。
会場は自由な雰囲気で、これなら入れそう。
入り口でいきなり声を掛けられました。
振り向くとと同じように街歩き好きな知り合いの女性(実は同僚)
「な〜んだきてたのか」「Hさんこそ」

彼女のおかげですぐにいろいろな人と話の中に加わり、少しはまじめな話、近代建築から今、戦後建築が注目を集めているという話題で盛り上がりました。



フロアの室内と、窓の外のテラス部のいい雰囲気の写真を掲げます。
もしも「都合が悪い」被写体の方など居られましたら仰ってください。







途中から雨が。今年の梅雨明けが遅いのではなく
オオサカもバンコクのように亜熱帯気候になった、とツクヅク
最近は自問自答します。



そんなこんなのある八月の夜でした。

でも何もしないよりこういう風に時代に仕掛けている
人の方を僕は肯定します。
面白きことのない世を面白く。



http://bldg-mania.blogspot.com/
2009 08/05 09:36:34 | 都市風景 | Comment(0)
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ちょっとギリシア中西部までバカンスに

行ってきまして。

木陰でくつろぐ少女たちの表情を

楽しんで下さい。














というのは ウソ



ホントはひらパーでした。

この子たちのお父さんお母さんはイラン系のように
思えました。
もしかしたらシリア、
パキスタンにしては肌の色が白い。
いずれにしてもムスリム(イスラム)だと思います。

大阪もおもろいでっしゃろ。



2009 07/20 10:10:35 | 都市風景 | Comment(0)
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写真展も自分の出番は終わり息の抜けたお休み日。
きょうは何もせずに家でのんびりしていました。

豊中の自宅近所の風景が1年経ち本当に気に入っています。
部分的には過去に取り上げましたが今回は少し詳しく
紹介しましょう。

国道176号を豊中市に入り庄内、服部を過ぎると自転車だと
結構キツい上りになります。これが城山の坂で右手に寺の
三重塔が見え驚きます。


<small>大きな地図で見る</small>

登り切ると曽根の信号交差点です。ガソリンスタンド3軒、
かつてのドライブ時代の一息地点だったのでしょう。
すぐ先に70年代ムードの残るロイヤルホストと80年代クリス
タルな雰囲気を感じさせる神戸屋レストランが近接しています。

付近のスーパーにもこんな車に乗ってくる人も。

ラングレー、そのままみたいです。ここは昭和60年?


この辺りでチャリンコなら裏にまわってみましょう。

国道もひと時代前の雰囲気なら裏手はもっと期待を裏切りません。

このような昭和の風景がびっしりと。



この辺り、国道右手は桜塚の住宅街。左は曽根の駅から続く
古い住宅街です。
この中に銭湯が残っています。


延命湯といい地蔵でも付近にあったのでしょうか。
今日も一日の最後にゆっくりとしたかったので入ってきました。

ここから岡町の商店街までは古い道が通っています。
その曲がり具合が歩いたりするのに実にいい味わいです。



レトロな商店街だなと思うのはこのあと。



玩具店、時が止まってる。



知られざる有名店「土手嘉」のうどん。駅前通りと能勢街道
の交差点に面し創業は江戸以前。大阪一古いうどん店の一つ。



周辺にはこんな昔の立体構造の長屋(畳屋を今でもやっている)
があったり、

商店街入り口にこんな大木と藁葺き屋根の旧庄屋が残って
たり、

アーケードの向こうに見えるは原田神社の森です。
2009 04/21 02:30:02 | 都市風景 | Comment(0)
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不安と憂鬱の押し迫る頃。
夕暮れの大阪駅を見下ろす高楼ヨドバシ14Fトイレより
対岸大丸アクティのシースルーエレヴェーターが見える。
曇った空に灯るインディケーターのよう。
2007 05/18 04:10:51 | 都市風景 | Comment(0)
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大阪の中でかつて一番あか抜けていた街、心斎橋。
このオシャレなタワーは大丸デパートの北西部分、デザインはウィリアム・メレル・ヴォーリズといい、メンソレータムの会社を作ったアメリカ人宣教師で建築家の人です。
今から75年前にこのデザインで街を創らせた当時の大阪市長は、関一(せき・はじめ)といい東京の一橋大学からヘッドハントで呼んできた人材です。



関はこれらのランドスケープをデザインし、御堂筋を広げ、西日本初の地下鉄を作りました。一番最初の開通区間、梅田ー心斎橋間の各駅は、シャンデリアの意匠が異なり、寝ぼけ眼で車外をこらしてもすぐにわかります。
大丸の前の道の地下にはこんなにモダンで広々したホームの駅が直結しています。
都市創りというのは50年から100年経っても古びない、卓越した設計の力量の要る仕事だなと、現代人が見ても納得する風景です。
2007 03/30 16:45:44 | 都市風景 | Comment(0)
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