男たちには判らない

2013年 09月 の記事 (3件)

夏旅、鉄道旅シリーズもずいぶん間が空いたが、終わっていない。高崎からの続きを書く。

倉賀野で八高線を接続して北関東の要都、高崎に着く。ここからは信越本線が碓氷峠を越えて軽井沢、長野、直江津を過ぎて新潟を目指し、もう一本は、上越線というトンネルで関越国境をぶちぬく新線が戦前に開通した。



現在も残る高崎ー横川の区間の開通は明治18年(1885)と大変古い。

東海道線の全通より古いのは、この区間に後に安中の東邦亜鉛の工場
(1937)や富岡の官営製糸工場(1872)が作られたことに依る。
今回は乗らなかったが、日本海側の直江津ー長野間も1886ー88年の
間に開通し、明治時代の近代化は20年代に入り加速したと覚えていて
欲しい。

ところが1997(平成9)年の長野オリンピックで、北陸新幹線のうち
長野までの区間が開通し、碓氷峠の区間、横川ー軽井沢間は不要と
みなされ廃止された。日本の歴史ある幹線区間で、新幹線廃業となった
最初の区間である。

ご覧の写真の通り、100年続いた動脈パイプは切られてしまい、
バスに転換。あれから16年経ったがこのショックは大きかった。



私は6月に30年ぶりに軽井沢を訪問し、おぎのやの釜飯を食べながら
現在のこの区間に興味を持った。横川駅で10分で接続の間に、お茶と
釜飯を買い、乗り込む。この日も暑く、観光客が多いので、バスは臨時に
2台で上信の国境を越えていった。何十を超えるカーブを繰り返し、
オンボロバスは車体をきしませ走る。窓の外は次第に絶景となり、団体の
中国人の若者が歓声を上げる。



昔の日本の若者代表の私は30年間の社会の変化を感じつつ、傾く車中で、
必死に釜飯を堪能していた。酔いそうになりつつも(笑)。



現在の軽井沢は2段構造だ。
有閑族やビジネス客は、2階の長野(北陸)新幹線でしゃっと訪れるか
通過する。その下部で、バス客と、3セクになったしなの鉄道線に乗り換え
上田や長野を目指す客もある。しかし往年の栄光は戻ってこない。

下の方の昔の軽井沢駅を覚えている人には懐かしいが、旧駅舎と往年の
信越線で奮闘した歴代の車両が展示されている。放置までいかないが
誰も見に行かないので、日本人は過去の歴史に敬意を払わない人が多い。
私は鉄道が廃止されたことが、勿体なくてしようがない。
碓氷峠の歴史についてはリンクを参照)



明治時代に電化された時に使用された日本最初の電気機関車の1台であり
アプト式のEC40(10000)型とかEF63、それから横軽協調運転用の
169系電車などが、構内に展示されていた。



明治26(1893)年から昭和38(1963)年までの70年間は、峠区間は
アプト式と言い、スイスの登山鉄道に範をとった2本のレールの間に
もう1つ歯車式のガイドレールを敷き、それに機関車は歯車を噛み合わせて
この坂を上り下りしていたのである。
またアプト式廃止後は、2台の機関車が横川側に付いて電車列車を押し上げ
峠を下る列車は、ブレーキを合わせながら運転する、全国でもこの区間しか
見られない、特殊運転が97年まで34年間続けられた。



鉄道に関わらず、マニアは「限定」や「例外」と特殊用途に弱い。

この区間のEF62と63が連結された特急、急行電車は、30年前の訪問では
写真に写している。その時代の大らかな空気の中でも、関西から旅する
学生の私には、物珍しさと上流の保養地に憧れる感覚。キョンキョンが
デビューした年に、「軽井沢のお嬢さんを見てきたぞ」と京都の大学に
帰って喋れば、自慢できたものである。

まだ見ぬこれからの人生の壮図、鉄でありながら甘酸っぱい浪漫も胸に
描き1枚の切符(周遊券)で旅する。わかるかなあ、こんな青春の時間。




僅かな乗り換えの時間に「青い夢」を思い出し、次の駅へ向かう。
軽井沢から2駅。追分で降りると駅舎は昔のままであった。ここから
狩人の「コスモス街道」よろしく別荘地帯を抜けて本日の宿に向かいます。






2013 09/24 21:15:12 | 旅日記 | Comment(0)
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最初はつくばエキスプレスだが、これが出来たのは、2005年だった。
8月の最終週で、9月からの新学期輸送に間に合わせて開業しました。
別名(正式名称)首都圏新都市鉄道という。
最高運転速度130km/hの日本一の俊足通勤路線である。線名に高速とか
急行と入れていないのがクールなのか。

ご存じない方のために補足すると、常磐線の輸送量の増加に伴い、
1980年代より構想はあった。
常磐線は、上野ーいわき(旧平)ー仙台を結ぶ幹線だが、
長距離の旅客と、取手以南の通勤輸送、さらに貨物と
3つの役割を負わねばならず、新幹線は東北本線に沿って作られたので
やはり通勤輸送の補完は必要となっていたと思う。

1960年代までの常磐線は、SLの煙が残り、ローカル情緒の残った
路線でもあった。
通勤電車の代名詞、103系のカラーリングも、中央線、総武線、山手線、
京浜東北線までは出て来るが、常磐線?何色だっけ、の印象が
乗らないものには強かったと記憶する。

TXが出来て、大きく変わったのは、始発秋葉原のイメージと、
流山などの沿線風景だと思う。
知人が足の便が良い、流山市にいるので、乗るようになった。
私もその特徴について、やっと考えるようになったところである。


流山には、こんな電車もある。



総武流山電鉄だと思っていたら今は流鉄(りゅうてつ)が正式名称らしい。
常磐線松戸駅から少し先の馬橋から流山市役所の横まで5キロ強。
全線単線2両編成の電車が、とことこ走っている。

趣味的には「こっちだ」と思った人。私もその一人です。
首都圏でも、こんな奇跡のような路線が生き残っているのが嬉しい。
常磐線の道中、上野を出て最初に探訪する中小私鉄だったのです。



TXの電車の顔も、非貫通の2枚窓運転台風だが、流鉄のこいつは、元西武の
2代目101系で、西武顔しています。
このあと馬橋まで戻らず、一駅手前の幸谷で降りました。

ここから歩いてすぐの所に、常磐線の新松戸駅があります。
そこから武蔵野線に乗り換えました。



新松戸ー府中本町までの武蔵野線の最初の開業区間が開通したのは
1973年4月1日。
これに伴い府中の東京競馬場近くを走っていた盲腸線の下河原線が廃止になり
日本一長い駅名(当時、国鉄)の「とうきょうけいばじょうまえ」駅が廃止に
なったことを思い出します。

武蔵野線は、今年でちょうど開業40周年です。
この駅看板はおそらく国鉄時代からのものではないかと推察します。
またエスカレータや自動改札は、関西の阪急あたりが最初に採用し、首都圏では
武蔵野線が始まりだったと言われます。
今目の前に見ている風景は40年前のナウ、既視感のようでした。
私って、変な所に感動する人間ですね。



走って来たのは国鉄最後の新製通勤型電車の、205系です。
関西のJR西日本には、数編成しか投入されなかった珍しい形式です。
この電車が出来た頃が、83、4年で、サラリーマン1年生だった頃。
東海道線で入線して来ると、嬉しかった記憶が甦りました。

      北?
      |
      ?
      |
   西?ー南?ー東?

この判じ絵は、何だか判りますか。
鉄道路線図で?の所に入る駅名が浦和です。
今は西と南の間に埼京線が通り、武蔵浦和と言うややこしい駅名が増えています。
昔は時刻表クイズの頻出問題で、好意的に眺めていた大衆も、ネット社会では
安易なネーミングと、厳しい意見を見かけるようになりました。

そこに私は時代の空気の変化を敏感に感じます。
武蔵野線の計画から開業までは、昭和40年代がすっぽり被さります。
高度経済成長期の最後の駆け足が、この73年春で、秋には石油ショックが始まり
ました。
同時期に根岸線も開通して、首都圏は埼玉・千葉・神奈川に完全に広がりました。

この武蔵野線は、貨物輸送のバイパス動脈で、越谷と新座の貨物ターミナルに
新鶴見に殺到する貨物を、常磐、東北線方面に回すために作られたのが目的でした。
首都圏のスプロール化は、80年代まではのんびりしていたのでは、ないでしょうか。

そうやってみると、圏央道とか、高速道路の発展が今の時代の象徴かもしれません。
私は南浦和から東北線に乗り、大宮から、さらに高崎線に乗り換えて高崎を目指し
ました。



大宮の大発展には、鉄道が欠かせないと思う。東北本線が私鉄の日本鉄道で開業
した明治の時代から持っていた運命のようなものが、あるのではないか。
1982年から85年まで、東北、上越新幹線が大宮始発で暫定開業した時にも
大宮は注目を集めた。県庁所在地は浦和であり、大宮はサブの副都心であったが、
この時に一気に大宮の都市機能の優位性がクローズアップされたと思う。



駅横に、県庁所在地級の岡山や広島では見られない、巨大な建造物が並ぶ大宮。
紛れも無い東京の分散機能が、ここに集結している。市政開始は1940年で、
私の住む池田より後なのに、驚いた。



ところで社会批判でなくルポだと思って読んでいただきたいが、首都圏の東京への
通勤は100kmがおかしくない。その為にはあらゆる利用者本位の鉄道社会が
成り立っており、新幹線通勤も通学もあることは、知っている。
近年東京に行く度に、いやでも目に着く2階建てのグリーン車について少し書く。

211系の2階建てグリーン車が東海道線の快速電車に連結され始めたのは、1989年
の景気の良い頃であった。
その前に新幹線100系が1985年に登場し、食堂車とグリーン車は、鉄道旅のカンフル
剤効果を狙って、国鉄では初の2階建て車両となった。
これに範を得たのだろうなと当初は思っていたし、東海道線と横須賀線は、戦前から
2等車(グリーン車)を連結するのが、常であった。
大磯辺りに静居する貴人や政治家、横須賀線は上級軍人の利用のためである。

内田百閧フ「阿房列車」などを読むと、1950年代でも仙山線や準幹線級のローカル線に
2等車が連結されており、先生は「お金が無い」と言いながら、紳士は上等車と、きめ
ているのが可笑しい。
今のローカル急行は、もうないから、特急のグリーン車と思ってもらっても良いが
性質は、ちょっと違うのである。

この首都圏の通勤グリーン車は、「失われた20年」に、飛躍的に伸びた。
とくに2004年秋から湘南新宿ライナーが大増発されて、北関東方面から山手線西側を
通り神奈川県中央部まで、快速電車が駆け抜けるようになり、国鉄時代の鉄道知識は
役に立たない「古い辞書」のようになってしまった。舌を巻くような「運転」が首都
圏でされているのを目の当たりにして、全く時代は変わったと痛感する。

15連で編成されたE231系快速が、数分おきに駆け抜け、4、5号車には2階建てサロが
必ず連結されて、私も「贅沢」と思いながら行く度に、好んで乗るようになった。

埼玉県の深谷の隣に籠原と言う駅がある。地味な駅だがここが15連の始発であり、
高崎まで行くのは10連だ。川口あたりで迂路ついていると、籠原という行き先を
書いた電車がよく通るので、すっかり名前を覚えたが、通ったのは今回の旅が
始めてであった。



今は常磐線や、総武線快速にも2階建てグリーン車は連結されている。
新幹線と東京を中心にした金銭感覚は、遠慮なく、遺憾なく発揮されるようになった。
落ちて行く地方都市の中で、車でいえばベンツに乗れるような、地方の名家は
少しずつ没落して行っている。
資産を維持することの難しさと、一極に集中するモノの対比。
私の旅というのは、そのような歴史の渦の中で、変わって行くことの焦燥感や
諦めに似た思いを抱えた苦しみがつきまとう。

何かのせいとは思わない。ただ、少しずつ変化する社会の中で、生きることは
旅に似ているなと、思ったら、終着の高崎の都市風景が、車窓に映り始めた。



2013 09/14 06:07:17 | 旅日記 | Comment(0)
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先月の30日から3日まで長い旅に行ってきました。

今回は暑いので、自動車の利用を見送りコストはかかりますが、その分、
交通機関と言う当たり前のものを、趣味的に見直してみることに
挑戦しました。



まずはこれは、行きの新幹線の車内から撮れた、車両の中で珍しいと思った、
現役のDD51。名古屋付近。初期のものは昭和37、8年登場で、新しい物でも
昭和50年頃だから、いまみると、結構カッコ良い。キャブ付近のデザイン、
しびれませんか。



名鉄のセントレア直通特急車。簡素な前面デザインはJR東の成田エキスプレスの
影響と思います。名古屋的ゴージャスを止めているので、インパクトが薄い。
ポケモンジェットのシンボルを車体に書いて、利用の落ちている空港をアピール。



JR東海、在来線非電化区間の特急車、キハ85。カミンズエンジンの性能の良さを
見せつけられる俊足は、ディーゼルのイメージを一新させたと思います。



同じく快速「みえ」用のキハ75。急行用キハ58の置き換えに、3ドアセミクロスで
登場。全国的にも珍しい、亜幹線用の高性能急行車。電車のコンセプトにかなり近い。





名古屋駅の新と旧。といってもツインタワーも登場して10年以上。
旧の方、JRホームの端の先にある国鉄時代からの、職員詰所。昭和40ー50年代か。
ちょっと気になるデザインなので、パチリ。



名古屋東京間、公団系の団地か。こういった簡素デザインは元社会主義圏に多い。
日本にも、戦後社会主義的な考え方の時代があったということを、あらためて見直す。



東京駅から安房館山行きの高速バスに乗り換える。これは駅に一番近い首都高京橋入り口。
巨体のバスが、サーカス芸のようにこの狭いゲートを通り抜けるのに、田舎者は仰天。



遠くに東京スカイツリーが見える。まだ行ったことは無い。やがてはシンボルになるか。







東京湾アクアライン入り口。次は海の上を走る区間。木更津で千葉県に上陸後は
高速は房総半島の山の中を走り、海も殆ど見えない単調な風景ばかりでした。



高速を下りて房総半島の観光拠点、館山駅に着いて客の半分が降りる。
駅前にはパームツリーが植えられ、キッチュなムードだが、バスは路地裏を抜ける。





内房線も館山から先は、このようなローカル線風景だ。東京駅から2時間走ると
田舎になると言うか、時間感覚もすべて大きな落差がある。



モダンなデザインの千倉駅。



そのそばにはこのような竹材商があり、ギャップがすごい。
関西ではあまり見かけぬ竹材業は、流山電鉄でもみかけた。



特急バスの終点、安房白浜。誰が見ても昭和な風景の中に、先ほどまで東京駅
八重洲口にいた、大型バスが憩う。







半木造の白浜バスターミナル。続いてアクアライン。最後が都心終点付近の風景。
バスと運転手は、毎日このような風景を見て、往復するのが日常だ。
何が言いたいかと言うと、やっぱり関東は、東京シティーが、すべてを圧倒しており
田舎に居るものは、対等感は持てないし、無力な気持ちにならないか。
いやそれぞれの幸福感は、別にあると思う。
ただ、都心から出ている高速バスと、内房線の特急電車の運転手では、
後者は眺める風景に、溜息が出るほどの違いが無いと、思いました。

以上房総半島の横顔篇、終わります。

2013 09/07 10:43:51 | 旅日記 | Comment(0)
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