男たちには判らない

2013年 09月 24日 の記事 (1件)


夏旅、鉄道旅シリーズもずいぶん間が空いたが、終わっていない。高崎からの続きを書く。

倉賀野で八高線を接続して北関東の要都、高崎に着く。ここからは信越本線が碓氷峠を越えて軽井沢、長野、直江津を過ぎて新潟を目指し、もう一本は、上越線というトンネルで関越国境をぶちぬく新線が戦前に開通した。



現在も残る高崎ー横川の区間の開通は明治18年(1885)と大変古い。

東海道線の全通より古いのは、この区間に後に安中の東邦亜鉛の工場
(1937)や富岡の官営製糸工場(1872)が作られたことに依る。
今回は乗らなかったが、日本海側の直江津ー長野間も1886ー88年の
間に開通し、明治時代の近代化は20年代に入り加速したと覚えていて
欲しい。

ところが1997(平成9)年の長野オリンピックで、北陸新幹線のうち
長野までの区間が開通し、碓氷峠の区間、横川ー軽井沢間は不要と
みなされ廃止された。日本の歴史ある幹線区間で、新幹線廃業となった
最初の区間である。

ご覧の写真の通り、100年続いた動脈パイプは切られてしまい、
バスに転換。あれから16年経ったがこのショックは大きかった。



私は6月に30年ぶりに軽井沢を訪問し、おぎのやの釜飯を食べながら
現在のこの区間に興味を持った。横川駅で10分で接続の間に、お茶と
釜飯を買い、乗り込む。この日も暑く、観光客が多いので、バスは臨時に
2台で上信の国境を越えていった。何十を超えるカーブを繰り返し、
オンボロバスは車体をきしませ走る。窓の外は次第に絶景となり、団体の
中国人の若者が歓声を上げる。



昔の日本の若者代表の私は30年間の社会の変化を感じつつ、傾く車中で、
必死に釜飯を堪能していた。酔いそうになりつつも(笑)。



現在の軽井沢は2段構造だ。
有閑族やビジネス客は、2階の長野(北陸)新幹線でしゃっと訪れるか
通過する。その下部で、バス客と、3セクになったしなの鉄道線に乗り換え
上田や長野を目指す客もある。しかし往年の栄光は戻ってこない。

下の方の昔の軽井沢駅を覚えている人には懐かしいが、旧駅舎と往年の
信越線で奮闘した歴代の車両が展示されている。放置までいかないが
誰も見に行かないので、日本人は過去の歴史に敬意を払わない人が多い。
私は鉄道が廃止されたことが、勿体なくてしようがない。
碓氷峠の歴史についてはリンクを参照)



明治時代に電化された時に使用された日本最初の電気機関車の1台であり
アプト式のEC40(10000)型とかEF63、それから横軽協調運転用の
169系電車などが、構内に展示されていた。



明治26(1893)年から昭和38(1963)年までの70年間は、峠区間は
アプト式と言い、スイスの登山鉄道に範をとった2本のレールの間に
もう1つ歯車式のガイドレールを敷き、それに機関車は歯車を噛み合わせて
この坂を上り下りしていたのである。
またアプト式廃止後は、2台の機関車が横川側に付いて電車列車を押し上げ
峠を下る列車は、ブレーキを合わせながら運転する、全国でもこの区間しか
見られない、特殊運転が97年まで34年間続けられた。



鉄道に関わらず、マニアは「限定」や「例外」と特殊用途に弱い。

この区間のEF62と63が連結された特急、急行電車は、30年前の訪問では
写真に写している。その時代の大らかな空気の中でも、関西から旅する
学生の私には、物珍しさと上流の保養地に憧れる感覚。キョンキョンが
デビューした年に、「軽井沢のお嬢さんを見てきたぞ」と京都の大学に
帰って喋れば、自慢できたものである。

まだ見ぬこれからの人生の壮図、鉄でありながら甘酸っぱい浪漫も胸に
描き1枚の切符(周遊券)で旅する。わかるかなあ、こんな青春の時間。




僅かな乗り換えの時間に「青い夢」を思い出し、次の駅へ向かう。
軽井沢から2駅。追分で降りると駅舎は昔のままであった。ここから
狩人の「コスモス街道」よろしく別荘地帯を抜けて本日の宿に向かいます。






2013 09/24 21:15:12 | 旅日記 | Comment(0)
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