男たちには判らない
夏旅、鉄道旅シリーズもずいぶん間が空いたが、終わっていない。高崎からの続きを書く。

倉賀野で八高線を接続して北関東の要都、高崎に着く。ここからは信越本線が碓氷峠を越えて軽井沢、長野、直江津を過ぎて新潟を目指し、もう一本は、上越線というトンネルで関越国境をぶちぬく新線が戦前に開通した。



現在も残る高崎ー横川の区間の開通は明治18年(1885)と大変古い。

東海道線の全通より古いのは、この区間に後に安中の東邦亜鉛の工場
(1937)や富岡の官営製糸工場(1872)が作られたことに依る。
今回は乗らなかったが、日本海側の直江津ー長野間も1886ー88年の
間に開通し、明治時代の近代化は20年代に入り加速したと覚えていて
欲しい。

ところが1997(平成9)年の長野オリンピックで、北陸新幹線のうち
長野までの区間が開通し、碓氷峠の区間、横川ー軽井沢間は不要と
みなされ廃止された。日本の歴史ある幹線区間で、新幹線廃業となった
最初の区間である。

ご覧の写真の通り、100年続いた動脈パイプは切られてしまい、
バスに転換。あれから16年経ったがこのショックは大きかった。



私は6月に30年ぶりに軽井沢を訪問し、おぎのやの釜飯を食べながら
現在のこの区間に興味を持った。横川駅で10分で接続の間に、お茶と
釜飯を買い、乗り込む。この日も暑く、観光客が多いので、バスは臨時に
2台で上信の国境を越えていった。何十を超えるカーブを繰り返し、
オンボロバスは車体をきしませ走る。窓の外は次第に絶景となり、団体の
中国人の若者が歓声を上げる。



昔の日本の若者代表の私は30年間の社会の変化を感じつつ、傾く車中で、
必死に釜飯を堪能していた。酔いそうになりつつも(笑)。



現在の軽井沢は2段構造だ。
有閑族やビジネス客は、2階の長野(北陸)新幹線でしゃっと訪れるか
通過する。その下部で、バス客と、3セクになったしなの鉄道線に乗り換え
上田や長野を目指す客もある。しかし往年の栄光は戻ってこない。

下の方の昔の軽井沢駅を覚えている人には懐かしいが、旧駅舎と往年の
信越線で奮闘した歴代の車両が展示されている。放置までいかないが
誰も見に行かないので、日本人は過去の歴史に敬意を払わない人が多い。
私は鉄道が廃止されたことが、勿体なくてしようがない。
碓氷峠の歴史についてはリンクを参照)



明治時代に電化された時に使用された日本最初の電気機関車の1台であり
アプト式のEC40(10000)型とかEF63、それから横軽協調運転用の
169系電車などが、構内に展示されていた。



明治26(1893)年から昭和38(1963)年までの70年間は、峠区間は
アプト式と言い、スイスの登山鉄道に範をとった2本のレールの間に
もう1つ歯車式のガイドレールを敷き、それに機関車は歯車を噛み合わせて
この坂を上り下りしていたのである。
またアプト式廃止後は、2台の機関車が横川側に付いて電車列車を押し上げ
峠を下る列車は、ブレーキを合わせながら運転する、全国でもこの区間しか
見られない、特殊運転が97年まで34年間続けられた。



鉄道に関わらず、マニアは「限定」や「例外」と特殊用途に弱い。

この区間のEF62と63が連結された特急、急行電車は、30年前の訪問では
写真に写している。その時代の大らかな空気の中でも、関西から旅する
学生の私には、物珍しさと上流の保養地に憧れる感覚。キョンキョンが
デビューした年に、「軽井沢のお嬢さんを見てきたぞ」と京都の大学に
帰って喋れば、自慢できたものである。

まだ見ぬこれからの人生の壮図、鉄でありながら甘酸っぱい浪漫も胸に
描き1枚の切符(周遊券)で旅する。わかるかなあ、こんな青春の時間。




僅かな乗り換えの時間に「青い夢」を思い出し、次の駅へ向かう。
軽井沢から2駅。追分で降りると駅舎は昔のままであった。ここから
狩人の「コスモス街道」よろしく別荘地帯を抜けて本日の宿に向かいます。






軽井沢の一夜を挟んで、翌日のことである。

現地に住む友人との、年齢相応の人生談義もこなし、激しい雨の音で目覚めました。今日は雨か。

追分に今年できたパン店で、朝食し、駅まで送ってもらい、友と別れ、しなの鉄道に雨の中、乗り込みました。

西へ行く電車に乗り、長野まで出るか。まずは接続が良ければ
小海線に乗ってみようと思いました。

12:02に小諸に着くと運の良いことに、すぐに06発の中込行きがあります。
中込で乗り換えると、小淵沢には14:23に着く。これなら文句はない。



小諸で時間が全くないのは、少し残念でした。

ホーム上には3セクなのに、まだ駅そばが残っているではないですか。
この次来る時にはない可能性あり。うーん、信州そば喰いたし!。
紺の豚氏に劣らず、関西人は食い意地が張っております。



しなの鉄道の元急行型電車の中吊りを見ると、一時期熱心に読んだ玉村豊男氏が、東御市のワインフェスタにゲストで出ている告知がありました。若い頃から最近まで、この人のパリ放浪や東欧旅行記を読み耽り、最後の方は病気と死生観まで、随分“影響”を受けました。(笑)
ヴィラデステ/今日より良い明日はない/まで私は信者だったかも。でも、お元気そうですね、「死ぬ」と言ってる人ほど長生きするのかも。

小海線のホームに向かうと、私の苦手なキハ111系が待っていました。
なぜ嫌いなのか、理由は後述します。

このJR東の100系気動車は、性能はカミンズエンジンで良いのですが、窓がはめ殺しなのは仕方ないとしても、座席が2人掛けの通路反対は1人掛けで、使いにくいのです。

これは通勤時の混雑より、最初の配属方面が北国が多く、まだブームだった大きな荷物を持ったスキー客が、通路に立っても行き来しやすいようにとの配慮だったと思います。

秋田新幹線開業前の、田沢湖線が改軌工事で1年不通だった時に、代行輸送で北上線を走った「秋田新幹線リレー」で特急運用に使われたこともあります。お役御免後は通常の、2人掛け2列にして欲しかったです。



小海線に乗ったのは国鉄時代以来の31年ぶりでした。その間に私は車の趣味に傾注し、小淵沢付近も毎年通るようになりましたが、鉄道旅行は、旧車趣味とは違った、モノの見方を教えてくれます。31年前はペンションブームの最盛期で、男同士で泊まるには勇気が要りました。

今回は通過ですが、小海線の眺望の良さは、日本一の標高を走る鉄道路線以外にも、この線の独自のプレミアム性を強く感じました。電化はしない方が良いと思いますが、軽井沢始発で、小諸ー小海ー野辺山・清里ー小淵沢(北杜市)ー甲府ー高尾または八王子といった「日本版『氷河急行』」はどうでしょう。

ディーゼルもしくは最先端のハイブリッドトレインで、車両は星野リゾートあたりが所有発注して、第3機関に運行させる。運行&営業にはJR九州の特急「ゆふいんの森」の成功例が参考になります。

小諸ー野辺山間の少し退屈な時間には、アトラクションが欲しい。北杜市のサントリーディスティラリーなど、提供と集客誘致に持って来いです。
また、甲府から臨時で身延線に入り、富士宮まで走らせて、富士観光も世界に発信できます。これら全部を自動車で回るよりも、鉄道ベースで旅行した方が、何倍も優雅だと、私は考えます。世界遺産「富士」を、大事にしたいならば、身延線の富士連絡のほかに、新幹線の新富士に延長接続させて、外国からのとくにヨーロッパからの客は、鉄道で富士宮まで行くのが良いと思いました。21世紀というのは、そういう時代ではありませんか?







ここまで、平日旅を男一人で楽しんでおりました。そういっては何ですが、異性同伴、女性の旅、男だけの旅姿と見てくると、男の単独旅が、一番こ煩そうで厄介です。あまり近づきたくなくなるのは、なぜでしょう。
一つはお洒落な人が少なく、中年の鉄オタは、近寄りがたい雰囲気が目に着き、同性でも一緒にいたくないなあ、と感じます。

偏見でなくて、旅する人には、若くなくなってくると、ある種の清潔さが必要で、それか芸術家タイプの特異性が要ります。その両方とも不足している人は、とにかく身嗜みと、車内でする会話に、仕事や身近な人の話題は、しないことです。

野辺山に着きました。予想外に若い、といっても30代までですが、女性の複数客が乗り込んできて、私も4人掛けの席で、美人でないが、清潔そうな女性客らと3人で空間を所有することになりました。反対側の1人掛け対面シートの使いにくさは、こういう時にはっきり判ります。



こんな旅でも、ヨーロッパ舶来の帽子をかぶり、イタリア製のパンツを履いて、それなりの格好で旅する方が、こういうシーンで女性を前にして臆しません。当たり前のことなのですが、私の前にフランス人のマドモワゼルが座ろうと、服装身嗜みを見られても、「日本人のセンス」と国際力を試されることもあると、僕は思うのです。



残念ながら、日本一標高の高い区間あたりは、降りしきる秋の雨で、八ヶ岳も見えません。この次に小海線に乗りにきた時は、佳い天気であって欲しいと思いました。



小淵沢で10分時間があったので、切符を作り直して、身延線経由の大阪行きを求めましたが、駅員がここまでの切符は回収して、新しい切符を作るのがルールというのが、どうも納得いきません。若い駅員と喧嘩しても時間の無駄ですが、変な精算の仕方です。間違っていないと思うのですが、やれる方法(お客側の主張)を聞かないというのは、JR東職員の、変な思い込み主義のように感じました。

さて甲府まで数駅東京側に戻り、身延線に乗車します。富士から源道寺までの区間は1981年夏の東北旅行の途中で、岳南鉄道訪問と、新車で投入された小豆色の115系の写真が、残っていますが、当時の電車は1台も残っていません。



新宿行きの「あずさ」も発着する東京の匂いがする県庁駅。東京に戻らずに、支線を選んで、遠く遠く回るということに、どれだけの意味があるのでしょう。




車窓は、甲府を出て暫くは、甲州の平凡な田園風景が続きます。
前身の富士身延鉄道は、私鉄でした。昭和初期にも富士山ブームがあり開通。甲府と富士駅を結ぶローカル線ですが、途中の富士宮という富士参拝の麓町は大きな町です。



1時間くらい走ると、やや山峡の温泉町が見えてきました。「下部温泉」と言います。変な名前だなあと、下半身チックな想像をめぐらせていると、隣の駅名が「はだかじま」というのに、吹き出しそうになりました。



漢字で書くと波高島なのですが、かな音だけだと普通「裸島」だと思いますよね。「温泉ストリップ芸者」とか、昭和時代の風俗に影響された子供は、いつ間で経っても、ドリフから抜け出せません。(苦笑)

身延も大きな街なのですが、こちらもお寺の本山のある宗教都市です。
夕暮れ迫る頃に、ようやく富士宮の前を通過しました。






ところが終点の富士に近づくにつれて、単線運転なので、10分程度の遅れだったのが、東海道線の雨による列車遅延の影響を受けて、さらに富士駅の手前で、ホームがいっぱいのために入線できず、25分以上遅れてしまいました。

静岡まで出て、ひかりに乗れば、普通の時間のうちに新大阪に帰りつけられたのですが、ここでも天の邪鬼の心情がむらむら来て、結局静岡駅近くで一泊して、明日の朝から東海道線を普通で戻ることに決めました。
またまた、時間とお金の無駄遣いかしら。



2013 09/24 21:15:12 | 旅日記 | Comment(0)
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