今年の梅雨は、雨が少ない。
その原因を、思い当るに、4月が寒かったこと、
5月も陽気が短かったことがある。
梅雨の入りは、5月後半と例年無く早い時期であった。
それから1ヶ月と少し経ったが、今の時期の水不足の感は否めない。
8月に日照りになるか、台風のような豪雨が
どの時期に到来するか、そのくらいの予測はしている。
名古屋まで、また走って来た。
京都から150キロ圏。大阪からだと片道200キロ弱になる。
現代の車なら、ベンツBMWでなくても、あの面白くないプリウスでも
短時間に行けて、日帰りも普通の人でも疲労が無く翌朝に出勤可能だ。
それを名神・東名開通の数年後のクルマで、走る。
私の旅の組み立て方は、頭の中に1969年の脳内ナビをインプットして、
どう攻略しようかと言うところから始まる。
古いカーナビで走ると、新東名や新名神が出て来ない。
軽いギャグを逆手に取り、コンピューターの無い時代の−2.0くらいの
OSを考えながら、さあこのクルマで行ってみるか。
旧車に乗り旅をする楽しみは、落差の感覚を失望でなく、
好奇心に昇華することで感じる、リバースの喜びだと答えておこう。
それも近年、私の愛車は、心臓部であるエンジンに思い切って手を入れた。
普通の人なら、大ショックを受けるエンジンブローで数百キロ走り
満身創痍で帰還するところから、生き返ったことによる。
それでエンジン状態が以前より遥かに向上したので、今は年に数回、
東京まで走って行ったり、以前のような悲壮感のある旅が減少した。
車は年々古くなるのにである。
C571号機という蒸気機関車のことを、ご存じであろうか。
SL列車「やまぐち号」の先頭に立つこと30年。全国の保存蒸気の運転の
始まりとなったSLのトップランナーである。
このC57型という蒸気機関車は、均整の取れたスタイルと、性能の良さで
長く日本中を走っていたSLだが、とりわけ1号機には秘密の歴史がある。
C57型は、戦前から戦後にかけて200数台が造られたので、年次により
改良が入っている。ところが一番最初に造られた1号機がなぜ、好調なのか。
実は1号機は一度死んで生き返った過去がある。
昭和30年代前半に、北陸路の運用に就いていた頃に、親不知付近の地滑り
災害に、看板列車「日本海」(のちの最近まで残っていた急行「きたぐに」
トレインコード501、2列車)を引いていた1号機は遭遇し、大破した。
通常なら当然、車でいう全損で、廃車である。
ところが、当時はSLブームは遥か以前であるが、鉄道関係者とくに
技術関係の人や、車両運用や現場系の偉い方々、日本海縦貫線(北陸本線、
信越本線、羽越本線)に携わり、交通網を死守する人たちが事故の復旧と
ともに、人気の高いC57型の“長男”を死なしてしまうのは、あまりにも不覚
痛恨の出来事にならないか、という意見が多数出て、再生させようという
判断になり、この機関車は土中から掘り出されて、1年以上の年月をかけて、
奇跡の現役復活した。
ボイラー新製の上、台枠と呼ばれる下回りのシャーシーもやり直して
生まれ変わったのである。人によっては1号機は、ラストナンバー201号の
次の「202号機」と親しみ込めた敬称で呼ぶ人もいるくらいなのである。
これは長男自身の幸運もある。事故が起きた時はSL新製を打ち切って
まだ数年後の技術と製造装置が、残っていた時代であったからである。
もう数年遅ければ、全国のSLを追放して、電化を急ぎ、国鉄近代化の
荒波に当然残れなかったであろうと推測される。
機械にも幸運を持ったものは。確実に居て、それを保守して愛用して信頼
する。それが正しい機械と人間の関係なのであろう。
話が長くなったが、私の機械に対する考え方の一端である。
8時に大阪を出て、名古屋には11時過ぎに入った。
齢42年の車で、地図に無い新名神と伊勢湾岸を、飛行機のように飛んで
走って、このパフォーマンスなら、本当にノープレブレムだ。
カーナビを装着して来なかったので、2005年に行った「愛地球博」の記憶
を辿り、長久手と言う地名を思い出して、地図頼りに公園の横に到着。
南駐車場は迷ったが、何とか大会関係者の誘導で、展示場所まで徐行しつつ
10分ほど広い園内を進んで行く。
せっかちの人なら我慢が出来るかな?の時間を反対に、これこそスペシャルタイム
と楽しもう。さあ着いた。随分後ろの方だが、本物の緑の上にクルマを置くのは、
このカークル系イベントの美点である。
懐かしいアルピナのC1。当時はニコルが扱っていた。私が新人サラリーマンのときに
同じフロアの関テレの契約会社のカメラマンがこれに乗っていた。
マスコミと言う業界だけで、すでにバブルは萌芽しかけていたのかも、しれないが、
当時はクルマ社会版「坂の上の雲」だったと記憶する。サッカーユニホームのような
派手なブルーストライプのシートに、褪せた80年代を感じて胸が疼いた。
親近感を覚える、フィアット・ディーノと、フェラーリ製ディーノの揃い踏み。
60年代から70年に向かう頃の、このラインを近年真似る車も多いが再現し
きれていない。
異端、ポルシェ914系。しかしこのスピリットは911系列に抗えなかったが、
試行錯誤はスポーツカーの最も面白い、過程である。924以降の乗り易くなった
乗用車型ポルシェに比べると、この割切り方が好きだし、ドイツ人の遊びは
真面目だから、つい好きになってしまう。
ランチアと言う好物に群がる好き者たちに、最高のドルチェは、ザガートボディの
フラミニアシリーズであろう。徳島より参戦か。
見直して良い、FR時代後期のアルファスパイダー。
まさにプアマンズフェラーリとして、この時代を担ったのは、彼女たちだろう。
今ほど通俗的でないアルファは、見ていて実に気持ちが良いし、今より潔癖である。
AXのいる風景。5ドアハッチバックの最小ボイチュアは、プジョー104であり、後跡
を温めたのは、このシートの柔らかい、ノンハイドロシトロエン。
使い方としては、このようにファミリーで出掛けるのが理想的だが、写真のご夫婦は
我家の様に子供たちが、イベント同行から「卒業」されたように思われて、20年前の
クルマなんだなあと、思わず古いアルバムを見るようであった。
フォードシエラ・コースワース。80年代にグラナダやコルチナといったオールド
ネームを廃止させて登場した、英国フォードのニューウエポン。
このスタイリング変更で、内実もメカは全面変更かと思ったら、FRだった。
英国流の保守性に驚いた記憶がある。
2台のベンツ190シリーズ。
片や190エボと呼ばれた、これもツインカム16バルブを積むコースワース
チューン。右はボアアップで3ナンバーになった2.3である。
中京圏のアルフィスタたち。
真ん中のジュリアスーパーの男性は、後でお話しする機会に恵まれた。
創業75周年を記念して作られた、アルファロメオ75のサイドビュー。
直線的なデザインだが、リアのドアの後ろで、サイドラインが跳ね上がる
独特の美学に、このクルマの印象は深い。デザイナーという者はこれくらい
やらないと、名を残せない。
さて、緑の上で、くつろいでいると、話しかけられたので、応対すると
「kotaroさんですね?」と聞かれたので、「はい」と答えた。
その男性は、このブログを時々読んでくれているという。
ブログは思った以上に、いろんな方に読まれているのだなと、感心すると共に、
クルマという話題から、広い範囲で、世の中を見渡していくという書き方に、
共感を憶えて頂けるなら、これほど有り難い読者はいない。
書き手冥利というのは、こういう時に実感する。
わざわざでもないが、ガソリンと高速代を使い、愛知県まで旅に出る目的って、
単にこのイベントを見て、レアなクルマの話題だけでは、勿体ないと思っている。
旅の道中やプロセスで出会う、人やクルマ含めて、全てが旅を構成する要素だと
思う。
こういう初対面の人と、あらかじめ、私の主張も読み共感していただける部分が
ある、そういう出会いがあるというのは、すごく書くことに励みになる。
さて、イベントは蒸し暑かったが、日照で酷暑というほどでなくちょうど良く
思われる6月最後の日曜日となった。
3時半に大会終了、4時過ぎに退出となった。
これから無理して大阪に帰る気持ちもなかったので、どこかに泊まろうと考える。
よく使う、岐阜の中津川の宿も、泊まり易いが、地図を見ているうちに久しぶりに
南三河の蒲郡方面に行きたくなった。
手持ちの宿ガイドで、渥美半島の先端の伊良湖岬まで行ってみよう。
蒲郡クラシックホテルは、一人で泊まるには、もったいない。豊橋市内のビジネス
ホテルも考えたが、ざわざわしていそうで、きょうの気分でない。
会場をやっとでて、高速で岡崎まで走り、蒲郡を通って渥美半島の42号線に辿り
着いた頃には、もう夏の長い一日も黄昏を迎えていた。
ここから長い長い半島の先端まで、小一時間以上かかったが、宵闇のなか、
何とか宿に到着出来た。
遅い食事もとれて、明日の朝からの旅の続きが楽しみである。
フェリ−で海を渡ってみよう。