男たちには判らない
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2017 03/03 01:23:53 | 日記 | Comment(0)
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私の住むI市というところは良いところだが
もう一つ地域の感覚が自由でない。
少し離れた日本初の団地ニュータウンを持つ
S市から、私の普段の行動と、これまでの活動を踏まえ
何かやっていただけませんかと、3ヶ月前に依頼があった。

打ち合わせに向かい、私を知る施設の女性と、初対面の少し
コワそうな女性所長と面談して、シニア問題より、その手前の
アナタ自身の生き方を語って欲しいと言われた。

そこで思いついたのが、表題のタイトルである。

初めはシニアの手前を、プレシニアくらいで行こうかと思ったが、
何だか、固い。
そこでクラシックカーに入りきれない1980年代車ブームを
ネオクラシックカー、ネオクラと言うのだから、「ネオシニア」でいったらどう?
と、提案すると、所長さんも、それは面白い。決まったねということに。


ブログを休んでいたことは、お詫びするというより仕方ないと想っていた。
この事業は、私の脱サラ5年の集大成である。

その間も毎日働きに行き、くたくたになるまで仕事をして、帰って来て自炊する。
ネットは、もう止めようとか、短時間でちょろちょろっとできるFacebookを見る
だけにするか、悩んでいた。

きょうは再開の記事というより、今後はだらだら書けないと思うが、
まとめ報告の一筆である。

事業はすごくよかった。
私のファンの彼女が、ファシリテーターを務めて司会進行してくれたが
大旨私がしゃべって、進行をした。



内容はこんな感じである。

時間も普段の事業は平日の昼間が多いが、働いている世代や人間に
来てもらおうと、最終土曜日の夕方からにした。

反響も予想を超えて、会場側の「普通は10名前後で進めている」が、最終的に
25人も聴きにきてくれました。


私は昨年から、シニアネット総研と言うNPOで、様々な取り組みをしている。

この春から、大阪駅前の施設を借りて、4回勉強会をした。
シニア問題は、まだ語れないので、その手前の40代中心の、高齢化社会
予備軍の、問題意識に刺激をかけてみた。
そこの流れからの追っかけ組3人も忙しい中、来てくれました。

実際、今の60代以上は年金も余裕もある。
だが、僕ら50代から後は年金も遠のいた感がある。
支給も5年以上延ばされて、その間の就労は苦痛だし、生活保護と言う
わけに行かない。この不公平感は大きい。

会場には大学生の男の子、20代女性、あとは40代、50代が多く
60代の毎日が日曜日の、施設リピーター数名、70代がおふたり
そのうち一人はうちの理事長も来てくれた。

みんな抱えているテーマは少しずつ異なれど、やっぱり人生は重い。
でも、大変よいテーマで語り合えたと、大きな反響が有った。
「ネオシニア」のタイトルに引かれてきました、という人も多かった。
そのネーミングのセンスの良さは、所長さん以下のスタッフも、さすがは
元プロやなあと感心してくれました。



閑話休題

2時間の講演を終わって、あとは向こうの用意してくれた懇親会に。
8名の席に13人詰め込み押し合いへし合いの宴会になった。



大分飲んでくたくたになったが、女傑の所長と、顔馴染みの1メートル75ある
お姉さんが、「まだ飲もう」ということで同じ場所で3次会。

このアマゾネス二人と飲むのは愉快だが、しんどかったなあ。
もうちょっと若かったら、朝になったら川の字で寝ていただろう(爆笑)。

冗談はさておき、ほんとうにこういうことが私の小さな夢であった。

長い付き合いのある大学の研究者も夫婦で来てくれた。



この2時間(飲んで合計5時間)の自由闊達な雰囲気は、カルチェラタンであり
今の時代に、見られなくなった、本音の自由討議が出来たと思う。

私の評論家デビューではないが、大学の先生から、「kotaroさんが他の人から
「せんせい」と呼ばれるの、初めて見ましたわ」と、冷やかされた。

しかし実際の私は、今は寡黙な一労働者である。

この場所に来れなかった人も含めて、新しい時代は、政府や政治に期待
するのでなく、自分たちで何かそれぞれがテーマを持ち、活動していけば
いつか必ず、花と実になるのではないですかとしめくくった。

実際はすごくアツい話と議論で、固くないかと思ったが、20代の人は
自分の親たちを思って、すごく勉強になりました、と感想を聞けました。


途中、少し持論の旧車趣味の話も交えて、「失われた20年」と言い続ける
のは止めようの提案も。

実際この20数年で日本人の内実ははるかに深度が深まったと思いますし
エンスー趣味はじめ、日本はアジア1のディレッタントな国に成長しています。

またサヨク右翼のこともさらりと触れたり、なぜヘイトスピーチが活発になったり
この20数年のアジア事情で為替の差が急速に圧縮されたことが背景に
あることも説明しました。

欧米の1989と日本の平成元年の意味など、私にしかできない
面白い展開だったのではと思います。


しばらくは、完全放電したので、鳴りを潜めて生きて行きます。

今後は盛り上がりは減るでしょうが、私は、社会事業とソーシャルな生き方の
ほうが今は面白い、と思っております。

ご質問はご自由にくださってかまいません。




2014 10/01 03:05:13 | 日記 | Comment(0)
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2004年の敬老の日から彼岸まで10日間ほど
一人でヨーロッパに旅行してきたことがあった。

行って来たのは、パリとトルコのイスタンブール、
それにバルカン半島の東欧の諸国である。

当時勤めていた会社に、勤続20年で、
休暇を貰い、こういう制度がまだ往時は、
残っており、働く人の一つのご褒美であった。


ふと、あれから10年後の自分の境遇と、この10年の
ヨーロッパ社会を、振り返ってみることにしたい。

最初の一コマは、最近話題のルノー12を、当時はまだルーマニアで
ダチアの名前で引き続き生産していた。

ルーマニアの国土は行けども行けども、この車ばかりが、走っており
ローカル都市での、私の乗った列車と、踏切風景でダチアを写してみた。




首都ブカレストでは、もっと古いダチアも見かけた。
ルノー8そのものである。

排ガスが、大昔のままで、交差点の信号が変わると、一斉に煙が漂う、
日本の1970年頃みたいな風景だった。

東欧の崩壊は1989年のビロード革命だが、15年たち、諸国の格差が
出始めていた。ルーマニアとブルガリアは、まだEUに正式加入できておらず
遅れが目立ち、国境を鉄道で通過する度に、パスポートの厳重なチェックが
残っていた。



この写真の車は古いフィアット124系だ。
ラーダかもしれないし、トルコで作っていたムラートかもしれない。

イスタンブールの裏路地は、古いフィアットのセダンが好きな私が
喜びそうな風景が残っていた。



日本では131ミラフィオーリで知られた、131セダンがたくさん残っていた。
もちろん、フィアットでなくトルコの国産ムラートのノックダウン車である。




トルコの石畳は、ほんとうに絵になる。
私の写真でも、十分に上手いように見えるであろう。

古いインパラが、妙に似合っていたのも印象的であった。

一方今度はパリの風景から。




こういった、庶民の大衆車の歴史が、明確で、日本人の思っている
輸入車のイメージ=高級車というのは、一部の幻想だと思った。





この3枚もパリの裏道である。
説明は不要であろう。

まだ、みんカラも、Facebookも無い時代で、私は夢中で車の居る風景を
写し回った。
こういった写真専門の仕事で食って行けたら、などと当時は新聞社に
勤めており、甘い考えで転身のことを考えていたのである。





写真はすべてアナログである。
フィルムをスキャンし直したら、もっと鮮明になるであろう。

当時はまだ、古い機材で、ホームページを作っていただけである。

今、この10年を振り返ってみると、自分自身も、訪問した諸国も、
正に激動の時間が流れていたことに、思い当たった。

日本では、新聞社が、かなり時代の隅に追いやられて、こんな余裕のある
従業員待遇は、無理に近い空気になり、私は5年後に退職した。

ヨーロッパでは、この10年間、通貨としてのユーロが進んで、東欧のルーマニア
やブルガリアもユーロ圏に入った。

しかしギリシャ問題や、イタリアの経済の後退、そしてこの時代は
フランスとドイツは、ヨーロッパの盟主国として比肩されていたが、シラクの
後の東欧系出身のサルコジがちょうどこの頃、大統領となり、強権的な
政治を行った後に、フランスは大きく失墜した。

帰国数ヶ月後にパリ郊外で、若者と低収入労働者の大きな暴動があった。
それを予兆した、ちょっとした出来事が、パリ滞在中にあったことを
続きで書いてみたい。
2014 09/11 06:04:01 | 旅日記 | Comment(0)
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こんなタイトルで、9月に千里ニュータウンの
小さな場所で、トーク企画をやることになりました。
いつもの自分が仕掛人に回るのでなく、喋ってください
の方である。

あがり症なので、心配もあるが、私の50代になって生きて来た5年間と
それまでのことも少し触れてみようと思う。

みんカラ日記に書くのは適当かと言うと、他で書くと大袈裟になるので
車ライフのことも、少し講演内容に加えてみようかと思います。



地域の交流センターから、声がかかったのは、そこに勤める職員さんと
これまで豊中市などで、いくつかの事業で接点があったことなど。

月に一度のテーマカフェで、初めはシニア問題について語って欲しいと言う
コンセプトで、打ち合わせに赴いたのであるが、そこのセンター長さんの
なかなか手強そうな女史は、来てみたおっさんが「なんだ若いじゃないの」
よく話すとまだ50代、それも同じ昭和34年同士ということで、最初の企画
アイデアと違うなあ、じゃあどうしようかと、鳩首会談。

やっぱりシニアのことを大きく語るより、その手前の生き方の方が
実体験も含めて興味が湧いたようである。

タイトルは「プレシニア」にしようか、というので、いや最近は、
クラシックカーの手前をネオクラシックと言ったりするので、というと
それにしましょう、ということになった。

若いクラシックカーならぬ、若いシニア層の問題に付いて喋らないと、
面白くなかろうと思う。
センター側も、これまで来所しなかった新しい層に来てもらいたい、
私もニッチなものに光を当てたいと考えている思惑に、ようやく一致した
到達点の答えが見つかったのは、1時間後のことであった。



時間が有ると言っても、下書きの構想も練らないと行けない。
本を1冊書くくらいの心構えが要るだろうと思う。

今の私が、普通の会社に勤めている人に較べれば、危機感の塊みたいな
人生を送っている。
いや普通に会社に勤めていても、20年、15年前の50代や40代後半のように
「はい定年ご苦労さま」といった人生のゴールが楽に見えていた時代の
ようにはとてもいかない。

それは時代が変わったからという、認識はあっても、何だか納得いかない
なあと思っていても、どうにも自分が変われない。
そんな空気を「生きにくさ」というネガなイメージからどう変えて行けば
いいのだろう。



上の世代は「勝ち逃げ」に近い。何かにつけ、お前らはとタメ口で説教する。
今は悲しいけれど、それも現実だ。
私のような34年組でも、40年以降からみれば羨ましいと思われるかも
しれない。

ちょっとしたことで、この春より空気は変わってきている。
来年以降の新卒求人は増えてきて、早くも人手不足は上がって来ている。
増税されて苦しくなりましたという声、それも本当だが、株価だけをみれば
儲かっているのは一見企業だが、徐々に影響は出始めている。

そんな時代の空気の中で、ネオシニアは上の世代に較べて数倍敏感な
感性とアンテナを延ばして、自分らがリアルシニアになったときの生き方を
考え始めなければ、潰されるというのは脅かしに近いが、ハッピーリタイア
と大きな現実の差が出来るだろうと思う。

だから私は身を以ていろんなことを始めている。
研究所にも属して活動をしながら、取り組んでいる。
生活の保障はぎりぎりだが、苦にせずに明るい材料探しに奔走している。

50代での路線変更は、怖かったがやってみないと始まらない。
その前の、ママ母の「公園デビュー」みたいなソーシャルデビューは
40代の終わり頃から、退職前に始めていた。

地域社会デビューになったきっかけは、なんだったんだろう。
それはその頃同居していた妻の、働く女たちのネットワークつくりを
横目で見て、「こりゃ、なんか始めないと、オイラはとんでもなく、
時代遅れな旧式マシンになる」と感じていたのだろう。

無名の頃から勝間克代女史が関わっていた「ムギ畑」、
佐々木かおりらのe-ウーマン、
関西の働く女性たちの30年前からの連隊機構である「よこの会」、
みんな当然と言った感じで、テーブルの向こうの彼女は深く知っていた。

私のような一見理解し難い、行動と生き方を、ようやく納得行かれ、
男性と女性の間に立ち開かる溝のような物の向こうに、一瞬だけ
お互いの素顔が見えたような気持ちがした。


            ◇


9月最終土曜日の夜に、私のトークイベントは行う予定です。
ご興味のある方は、阪急千里線・南千里駅隣接の会場にお出で下さい。
近くなりましたら、募集の要項をお知らせします。

2014 06/16 13:29:03 | 日記 | Comment(0)
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夏旅、鉄道旅シリーズもずいぶん間が空いたが、終わっていない。高崎からの続きを書く。

倉賀野で八高線を接続して北関東の要都、高崎に着く。ここからは信越本線が碓氷峠を越えて軽井沢、長野、直江津を過ぎて新潟を目指し、もう一本は、上越線というトンネルで関越国境をぶちぬく新線が戦前に開通した。



現在も残る高崎ー横川の区間の開通は明治18年(1885)と大変古い。

東海道線の全通より古いのは、この区間に後に安中の東邦亜鉛の工場
(1937)や富岡の官営製糸工場(1872)が作られたことに依る。
今回は乗らなかったが、日本海側の直江津ー長野間も1886ー88年の
間に開通し、明治時代の近代化は20年代に入り加速したと覚えていて
欲しい。

ところが1997(平成9)年の長野オリンピックで、北陸新幹線のうち
長野までの区間が開通し、碓氷峠の区間、横川ー軽井沢間は不要と
みなされ廃止された。日本の歴史ある幹線区間で、新幹線廃業となった
最初の区間である。

ご覧の写真の通り、100年続いた動脈パイプは切られてしまい、
バスに転換。あれから16年経ったがこのショックは大きかった。



私は6月に30年ぶりに軽井沢を訪問し、おぎのやの釜飯を食べながら
現在のこの区間に興味を持った。横川駅で10分で接続の間に、お茶と
釜飯を買い、乗り込む。この日も暑く、観光客が多いので、バスは臨時に
2台で上信の国境を越えていった。何十を超えるカーブを繰り返し、
オンボロバスは車体をきしませ走る。窓の外は次第に絶景となり、団体の
中国人の若者が歓声を上げる。



昔の日本の若者代表の私は30年間の社会の変化を感じつつ、傾く車中で、
必死に釜飯を堪能していた。酔いそうになりつつも(笑)。



現在の軽井沢は2段構造だ。
有閑族やビジネス客は、2階の長野(北陸)新幹線でしゃっと訪れるか
通過する。その下部で、バス客と、3セクになったしなの鉄道線に乗り換え
上田や長野を目指す客もある。しかし往年の栄光は戻ってこない。

下の方の昔の軽井沢駅を覚えている人には懐かしいが、旧駅舎と往年の
信越線で奮闘した歴代の車両が展示されている。放置までいかないが
誰も見に行かないので、日本人は過去の歴史に敬意を払わない人が多い。
私は鉄道が廃止されたことが、勿体なくてしようがない。
碓氷峠の歴史についてはリンクを参照)



明治時代に電化された時に使用された日本最初の電気機関車の1台であり
アプト式のEC40(10000)型とかEF63、それから横軽協調運転用の
169系電車などが、構内に展示されていた。



明治26(1893)年から昭和38(1963)年までの70年間は、峠区間は
アプト式と言い、スイスの登山鉄道に範をとった2本のレールの間に
もう1つ歯車式のガイドレールを敷き、それに機関車は歯車を噛み合わせて
この坂を上り下りしていたのである。
またアプト式廃止後は、2台の機関車が横川側に付いて電車列車を押し上げ
峠を下る列車は、ブレーキを合わせながら運転する、全国でもこの区間しか
見られない、特殊運転が97年まで34年間続けられた。



鉄道に関わらず、マニアは「限定」や「例外」と特殊用途に弱い。

この区間のEF62と63が連結された特急、急行電車は、30年前の訪問では
写真に写している。その時代の大らかな空気の中でも、関西から旅する
学生の私には、物珍しさと上流の保養地に憧れる感覚。キョンキョンが
デビューした年に、「軽井沢のお嬢さんを見てきたぞ」と京都の大学に
帰って喋れば、自慢できたものである。

まだ見ぬこれからの人生の壮図、鉄でありながら甘酸っぱい浪漫も胸に
描き1枚の切符(周遊券)で旅する。わかるかなあ、こんな青春の時間。




僅かな乗り換えの時間に「青い夢」を思い出し、次の駅へ向かう。
軽井沢から2駅。追分で降りると駅舎は昔のままであった。ここから
狩人の「コスモス街道」よろしく別荘地帯を抜けて本日の宿に向かいます。






2013 09/24 21:15:12 | 旅日記 | Comment(0)
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最初はつくばエキスプレスだが、これが出来たのは、2005年だった。
8月の最終週で、9月からの新学期輸送に間に合わせて開業しました。
別名(正式名称)首都圏新都市鉄道という。
最高運転速度130km/hの日本一の俊足通勤路線である。線名に高速とか
急行と入れていないのがクールなのか。

ご存じない方のために補足すると、常磐線の輸送量の増加に伴い、
1980年代より構想はあった。
常磐線は、上野ーいわき(旧平)ー仙台を結ぶ幹線だが、
長距離の旅客と、取手以南の通勤輸送、さらに貨物と
3つの役割を負わねばならず、新幹線は東北本線に沿って作られたので
やはり通勤輸送の補完は必要となっていたと思う。

1960年代までの常磐線は、SLの煙が残り、ローカル情緒の残った
路線でもあった。
通勤電車の代名詞、103系のカラーリングも、中央線、総武線、山手線、
京浜東北線までは出て来るが、常磐線?何色だっけ、の印象が
乗らないものには強かったと記憶する。

TXが出来て、大きく変わったのは、始発秋葉原のイメージと、
流山などの沿線風景だと思う。
知人が足の便が良い、流山市にいるので、乗るようになった。
私もその特徴について、やっと考えるようになったところである。


流山には、こんな電車もある。



総武流山電鉄だと思っていたら今は流鉄(りゅうてつ)が正式名称らしい。
常磐線松戸駅から少し先の馬橋から流山市役所の横まで5キロ強。
全線単線2両編成の電車が、とことこ走っている。

趣味的には「こっちだ」と思った人。私もその一人です。
首都圏でも、こんな奇跡のような路線が生き残っているのが嬉しい。
常磐線の道中、上野を出て最初に探訪する中小私鉄だったのです。



TXの電車の顔も、非貫通の2枚窓運転台風だが、流鉄のこいつは、元西武の
2代目101系で、西武顔しています。
このあと馬橋まで戻らず、一駅手前の幸谷で降りました。

ここから歩いてすぐの所に、常磐線の新松戸駅があります。
そこから武蔵野線に乗り換えました。



新松戸ー府中本町までの武蔵野線の最初の開業区間が開通したのは
1973年4月1日。
これに伴い府中の東京競馬場近くを走っていた盲腸線の下河原線が廃止になり
日本一長い駅名(当時、国鉄)の「とうきょうけいばじょうまえ」駅が廃止に
なったことを思い出します。

武蔵野線は、今年でちょうど開業40周年です。
この駅看板はおそらく国鉄時代からのものではないかと推察します。
またエスカレータや自動改札は、関西の阪急あたりが最初に採用し、首都圏では
武蔵野線が始まりだったと言われます。
今目の前に見ている風景は40年前のナウ、既視感のようでした。
私って、変な所に感動する人間ですね。



走って来たのは国鉄最後の新製通勤型電車の、205系です。
関西のJR西日本には、数編成しか投入されなかった珍しい形式です。
この電車が出来た頃が、83、4年で、サラリーマン1年生だった頃。
東海道線で入線して来ると、嬉しかった記憶が甦りました。

      北?
      |
      ?
      |
   西?ー南?ー東?

この判じ絵は、何だか判りますか。
鉄道路線図で?の所に入る駅名が浦和です。
今は西と南の間に埼京線が通り、武蔵浦和と言うややこしい駅名が増えています。
昔は時刻表クイズの頻出問題で、好意的に眺めていた大衆も、ネット社会では
安易なネーミングと、厳しい意見を見かけるようになりました。

そこに私は時代の空気の変化を敏感に感じます。
武蔵野線の計画から開業までは、昭和40年代がすっぽり被さります。
高度経済成長期の最後の駆け足が、この73年春で、秋には石油ショックが始まり
ました。
同時期に根岸線も開通して、首都圏は埼玉・千葉・神奈川に完全に広がりました。

この武蔵野線は、貨物輸送のバイパス動脈で、越谷と新座の貨物ターミナルに
新鶴見に殺到する貨物を、常磐、東北線方面に回すために作られたのが目的でした。
首都圏のスプロール化は、80年代まではのんびりしていたのでは、ないでしょうか。

そうやってみると、圏央道とか、高速道路の発展が今の時代の象徴かもしれません。
私は南浦和から東北線に乗り、大宮から、さらに高崎線に乗り換えて高崎を目指し
ました。



大宮の大発展には、鉄道が欠かせないと思う。東北本線が私鉄の日本鉄道で開業
した明治の時代から持っていた運命のようなものが、あるのではないか。
1982年から85年まで、東北、上越新幹線が大宮始発で暫定開業した時にも
大宮は注目を集めた。県庁所在地は浦和であり、大宮はサブの副都心であったが、
この時に一気に大宮の都市機能の優位性がクローズアップされたと思う。



駅横に、県庁所在地級の岡山や広島では見られない、巨大な建造物が並ぶ大宮。
紛れも無い東京の分散機能が、ここに集結している。市政開始は1940年で、
私の住む池田より後なのに、驚いた。



ところで社会批判でなくルポだと思って読んでいただきたいが、首都圏の東京への
通勤は100kmがおかしくない。その為にはあらゆる利用者本位の鉄道社会が
成り立っており、新幹線通勤も通学もあることは、知っている。
近年東京に行く度に、いやでも目に着く2階建てのグリーン車について少し書く。

211系の2階建てグリーン車が東海道線の快速電車に連結され始めたのは、1989年
の景気の良い頃であった。
その前に新幹線100系が1985年に登場し、食堂車とグリーン車は、鉄道旅のカンフル
剤効果を狙って、国鉄では初の2階建て車両となった。
これに範を得たのだろうなと当初は思っていたし、東海道線と横須賀線は、戦前から
2等車(グリーン車)を連結するのが、常であった。
大磯辺りに静居する貴人や政治家、横須賀線は上級軍人の利用のためである。

内田百閧フ「阿房列車」などを読むと、1950年代でも仙山線や準幹線級のローカル線に
2等車が連結されており、先生は「お金が無い」と言いながら、紳士は上等車と、きめ
ているのが可笑しい。
今のローカル急行は、もうないから、特急のグリーン車と思ってもらっても良いが
性質は、ちょっと違うのである。

この首都圏の通勤グリーン車は、「失われた20年」に、飛躍的に伸びた。
とくに2004年秋から湘南新宿ライナーが大増発されて、北関東方面から山手線西側を
通り神奈川県中央部まで、快速電車が駆け抜けるようになり、国鉄時代の鉄道知識は
役に立たない「古い辞書」のようになってしまった。舌を巻くような「運転」が首都
圏でされているのを目の当たりにして、全く時代は変わったと痛感する。

15連で編成されたE231系快速が、数分おきに駆け抜け、4、5号車には2階建てサロが
必ず連結されて、私も「贅沢」と思いながら行く度に、好んで乗るようになった。

埼玉県の深谷の隣に籠原と言う駅がある。地味な駅だがここが15連の始発であり、
高崎まで行くのは10連だ。川口あたりで迂路ついていると、籠原という行き先を
書いた電車がよく通るので、すっかり名前を覚えたが、通ったのは今回の旅が
始めてであった。



今は常磐線や、総武線快速にも2階建てグリーン車は連結されている。
新幹線と東京を中心にした金銭感覚は、遠慮なく、遺憾なく発揮されるようになった。
落ちて行く地方都市の中で、車でいえばベンツに乗れるような、地方の名家は
少しずつ没落して行っている。
資産を維持することの難しさと、一極に集中するモノの対比。
私の旅というのは、そのような歴史の渦の中で、変わって行くことの焦燥感や
諦めに似た思いを抱えた苦しみがつきまとう。

何かのせいとは思わない。ただ、少しずつ変化する社会の中で、生きることは
旅に似ているなと、思ったら、終着の高崎の都市風景が、車窓に映り始めた。



2013 09/14 06:07:17 | 旅日記 | Comment(0)
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先月の30日から3日まで長い旅に行ってきました。

今回は暑いので、自動車の利用を見送りコストはかかりますが、その分、
交通機関と言う当たり前のものを、趣味的に見直してみることに
挑戦しました。



まずはこれは、行きの新幹線の車内から撮れた、車両の中で珍しいと思った、
現役のDD51。名古屋付近。初期のものは昭和37、8年登場で、新しい物でも
昭和50年頃だから、いまみると、結構カッコ良い。キャブ付近のデザイン、
しびれませんか。



名鉄のセントレア直通特急車。簡素な前面デザインはJR東の成田エキスプレスの
影響と思います。名古屋的ゴージャスを止めているので、インパクトが薄い。
ポケモンジェットのシンボルを車体に書いて、利用の落ちている空港をアピール。



JR東海、在来線非電化区間の特急車、キハ85。カミンズエンジンの性能の良さを
見せつけられる俊足は、ディーゼルのイメージを一新させたと思います。



同じく快速「みえ」用のキハ75。急行用キハ58の置き換えに、3ドアセミクロスで
登場。全国的にも珍しい、亜幹線用の高性能急行車。電車のコンセプトにかなり近い。





名古屋駅の新と旧。といってもツインタワーも登場して10年以上。
旧の方、JRホームの端の先にある国鉄時代からの、職員詰所。昭和40ー50年代か。
ちょっと気になるデザインなので、パチリ。



名古屋東京間、公団系の団地か。こういった簡素デザインは元社会主義圏に多い。
日本にも、戦後社会主義的な考え方の時代があったということを、あらためて見直す。



東京駅から安房館山行きの高速バスに乗り換える。これは駅に一番近い首都高京橋入り口。
巨体のバスが、サーカス芸のようにこの狭いゲートを通り抜けるのに、田舎者は仰天。



遠くに東京スカイツリーが見える。まだ行ったことは無い。やがてはシンボルになるか。







東京湾アクアライン入り口。次は海の上を走る区間。木更津で千葉県に上陸後は
高速は房総半島の山の中を走り、海も殆ど見えない単調な風景ばかりでした。



高速を下りて房総半島の観光拠点、館山駅に着いて客の半分が降りる。
駅前にはパームツリーが植えられ、キッチュなムードだが、バスは路地裏を抜ける。





内房線も館山から先は、このようなローカル線風景だ。東京駅から2時間走ると
田舎になると言うか、時間感覚もすべて大きな落差がある。



モダンなデザインの千倉駅。



そのそばにはこのような竹材商があり、ギャップがすごい。
関西ではあまり見かけぬ竹材業は、流山電鉄でもみかけた。



特急バスの終点、安房白浜。誰が見ても昭和な風景の中に、先ほどまで東京駅
八重洲口にいた、大型バスが憩う。







半木造の白浜バスターミナル。続いてアクアライン。最後が都心終点付近の風景。
バスと運転手は、毎日このような風景を見て、往復するのが日常だ。
何が言いたいかと言うと、やっぱり関東は、東京シティーが、すべてを圧倒しており
田舎に居るものは、対等感は持てないし、無力な気持ちにならないか。
いやそれぞれの幸福感は、別にあると思う。
ただ、都心から出ている高速バスと、内房線の特急電車の運転手では、
後者は眺める風景に、溜息が出るほどの違いが無いと、思いました。

以上房総半島の横顔篇、終わります。

2013 09/07 10:43:51 | 旅日記 | Comment(0)
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今年の梅雨は、雨が少ない。
その原因を、思い当るに、4月が寒かったこと、
5月も陽気が短かったことがある。
梅雨の入りは、5月後半と例年無く早い時期であった。
それから1ヶ月と少し経ったが、今の時期の水不足の感は否めない。
8月に日照りになるか、台風のような豪雨が
どの時期に到来するか、そのくらいの予測はしている。

名古屋まで、また走って来た。
京都から150キロ圏。大阪からだと片道200キロ弱になる。
現代の車なら、ベンツBMWでなくても、あの面白くないプリウスでも
短時間に行けて、日帰りも普通の人でも疲労が無く翌朝に出勤可能だ。

それを名神・東名開通の数年後のクルマで、走る。
私の旅の組み立て方は、頭の中に1969年の脳内ナビをインプットして、
どう攻略しようかと言うところから始まる。

古いカーナビで走ると、新東名や新名神が出て来ない。
軽いギャグを逆手に取り、コンピューターの無い時代の−2.0くらいの
OSを考えながら、さあこのクルマで行ってみるか。
旧車に乗り旅をする楽しみは、落差の感覚を失望でなく、
好奇心に昇華することで感じる、リバースの喜びだと答えておこう。

それも近年、私の愛車は、心臓部であるエンジンに思い切って手を入れた。
普通の人なら、大ショックを受けるエンジンブローで数百キロ走り
満身創痍で帰還するところから、生き返ったことによる。
それでエンジン状態が以前より遥かに向上したので、今は年に数回、
東京まで走って行ったり、以前のような悲壮感のある旅が減少した。
車は年々古くなるのにである。



C571号機という蒸気機関車のことを、ご存じであろうか。
SL列車「やまぐち号」の先頭に立つこと30年。全国の保存蒸気の運転の
始まりとなったSLのトップランナーである。

このC57型という蒸気機関車は、均整の取れたスタイルと、性能の良さで
長く日本中を走っていたSLだが、とりわけ1号機には秘密の歴史がある。
C57型は、戦前から戦後にかけて200数台が造られたので、年次により
改良が入っている。ところが一番最初に造られた1号機がなぜ、好調なのか。
実は1号機は一度死んで生き返った過去がある。

昭和30年代前半に、北陸路の運用に就いていた頃に、親不知付近の地滑り
災害に、看板列車「日本海」(のちの最近まで残っていた急行「きたぐに」
トレインコード501、2列車)を引いていた1号機は遭遇し、大破した。

通常なら当然、車でいう全損で、廃車である。
ところが、当時はSLブームは遥か以前であるが、鉄道関係者とくに
技術関係の人や、車両運用や現場系の偉い方々、日本海縦貫線(北陸本線、
信越本線、羽越本線)に携わり、交通網を死守する人たちが事故の復旧と
ともに、人気の高いC57型の“長男”を死なしてしまうのは、あまりにも不覚
痛恨の出来事にならないか、という意見が多数出て、再生させようという
判断になり、この機関車は土中から掘り出されて、1年以上の年月をかけて、
奇跡の現役復活した。

ボイラー新製の上、台枠と呼ばれる下回りのシャーシーもやり直して
生まれ変わったのである。人によっては1号機は、ラストナンバー201号の
次の「202号機」と親しみ込めた敬称で呼ぶ人もいるくらいなのである。

これは長男自身の幸運もある。事故が起きた時はSL新製を打ち切って
まだ数年後の技術と製造装置が、残っていた時代であったからである。
もう数年遅ければ、全国のSLを追放して、電化を急ぎ、国鉄近代化の
荒波に当然残れなかったであろうと推測される。
機械にも幸運を持ったものは。確実に居て、それを保守して愛用して信頼
する。それが正しい機械と人間の関係なのであろう。

話が長くなったが、私の機械に対する考え方の一端である。



8時に大阪を出て、名古屋には11時過ぎに入った。
齢42年の車で、地図に無い新名神と伊勢湾岸を、飛行機のように飛んで
走って、このパフォーマンスなら、本当にノープレブレムだ。
カーナビを装着して来なかったので、2005年に行った「愛地球博」の記憶
を辿り、長久手と言う地名を思い出して、地図頼りに公園の横に到着。
南駐車場は迷ったが、何とか大会関係者の誘導で、展示場所まで徐行しつつ
10分ほど広い園内を進んで行く。

せっかちの人なら我慢が出来るかな?の時間を反対に、これこそスペシャルタイム
と楽しもう。さあ着いた。随分後ろの方だが、本物の緑の上にクルマを置くのは、
このカークル系イベントの美点である。



懐かしいアルピナのC1。当時はニコルが扱っていた。私が新人サラリーマンのときに
同じフロアの関テレの契約会社のカメラマンがこれに乗っていた。
マスコミと言う業界だけで、すでにバブルは萌芽しかけていたのかも、しれないが、
当時はクルマ社会版「坂の上の雲」だったと記憶する。サッカーユニホームのような
派手なブルーストライプのシートに、褪せた80年代を感じて胸が疼いた。



親近感を覚える、フィアット・ディーノと、フェラーリ製ディーノの揃い踏み。
60年代から70年に向かう頃の、このラインを近年真似る車も多いが再現し
きれていない。



異端、ポルシェ914系。しかしこのスピリットは911系列に抗えなかったが、
試行錯誤はスポーツカーの最も面白い、過程である。924以降の乗り易くなった
乗用車型ポルシェに比べると、この割切り方が好きだし、ドイツ人の遊びは
真面目だから、つい好きになってしまう。



ランチアと言う好物に群がる好き者たちに、最高のドルチェは、ザガートボディの
フラミニアシリーズであろう。徳島より参戦か。



見直して良い、FR時代後期のアルファスパイダー。
まさにプアマンズフェラーリとして、この時代を担ったのは、彼女たちだろう。
今ほど通俗的でないアルファは、見ていて実に気持ちが良いし、今より潔癖である。



AXのいる風景。5ドアハッチバックの最小ボイチュアは、プジョー104であり、後跡
を温めたのは、このシートの柔らかい、ノンハイドロシトロエン。
使い方としては、このようにファミリーで出掛けるのが理想的だが、写真のご夫婦は
我家の様に子供たちが、イベント同行から「卒業」されたように思われて、20年前の
クルマなんだなあと、思わず古いアルバムを見るようであった。



フォードシエラ・コースワース。80年代にグラナダやコルチナといったオールド
ネームを廃止させて登場した、英国フォードのニューウエポン。
このスタイリング変更で、内実もメカは全面変更かと思ったら、FRだった。
英国流の保守性に驚いた記憶がある。



2台のベンツ190シリーズ。
片や190エボと呼ばれた、これもツインカム16バルブを積むコースワース
チューン。右はボアアップで3ナンバーになった2.3である。



中京圏のアルフィスタたち。
真ん中のジュリアスーパーの男性は、後でお話しする機会に恵まれた。



創業75周年を記念して作られた、アルファロメオ75のサイドビュー。
直線的なデザインだが、リアのドアの後ろで、サイドラインが跳ね上がる
独特の美学に、このクルマの印象は深い。デザイナーという者はこれくらい
やらないと、名を残せない。


さて、緑の上で、くつろいでいると、話しかけられたので、応対すると
「kotaroさんですね?」と聞かれたので、「はい」と答えた。

その男性は、このブログを時々読んでくれているという。
ブログは思った以上に、いろんな方に読まれているのだなと、感心すると共に、
クルマという話題から、広い範囲で、世の中を見渡していくという書き方に、
共感を憶えて頂けるなら、これほど有り難い読者はいない。

書き手冥利というのは、こういう時に実感する。
わざわざでもないが、ガソリンと高速代を使い、愛知県まで旅に出る目的って、
単にこのイベントを見て、レアなクルマの話題だけでは、勿体ないと思っている。
旅の道中やプロセスで出会う、人やクルマ含めて、全てが旅を構成する要素だと
思う。

こういう初対面の人と、あらかじめ、私の主張も読み共感していただける部分が
ある、そういう出会いがあるというのは、すごく書くことに励みになる。

さて、イベントは蒸し暑かったが、日照で酷暑というほどでなくちょうど良く
思われる6月最後の日曜日となった。
3時半に大会終了、4時過ぎに退出となった。

これから無理して大阪に帰る気持ちもなかったので、どこかに泊まろうと考える。
よく使う、岐阜の中津川の宿も、泊まり易いが、地図を見ているうちに久しぶりに
南三河の蒲郡方面に行きたくなった。

手持ちの宿ガイドで、渥美半島の先端の伊良湖岬まで行ってみよう。
蒲郡クラシックホテルは、一人で泊まるには、もったいない。豊橋市内のビジネス
ホテルも考えたが、ざわざわしていそうで、きょうの気分でない。
会場をやっとでて、高速で岡崎まで走り、蒲郡を通って渥美半島の42号線に辿り
着いた頃には、もう夏の長い一日も黄昏を迎えていた。





ここから長い長い半島の先端まで、小一時間以上かかったが、宵闇のなか、
何とか宿に到着出来た。
遅い食事もとれて、明日の朝からの旅の続きが楽しみである。
フェリ−で海を渡ってみよう。




2013 07/07 10:07:54 | 旅日記 | Comment(0)
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この齢になって、なんで旅から旅を続けるかというと
腰が据わった人生が描けないのと、人間50年以上も
生きていると、そろそろくたばることが近くなり、死に場所を
探すことが最後の目標のように思えてくる。

実は、しまなみ海道の旅は、開通した1999年の5月に、
当地を舞台に繰り広げられたクラシックカーラリーに家族
5人でエントリーしている。
さらにその4年前の95年7月に、いくつかの島を巡る物語
を、描いたことがあった。

そのことについては筆に興が乗れば書いてみても良いと思う。


生口島の瀬戸田は、古い港である。前々回に来た時は
フィアット850であったが、この時には耕三寺に参拝するのは
参道そばに車を有料で停めた。
そして、この古い港の付近で昼食を一家で摂った記憶が残っている。



今でも港は残っているが、橋が架かる前の様に賑わっておらず、
狭い道は拡幅されて、余計、時空間が広がってしまったように思われる。



ところがご覧の様に、港の常夜灯であった灯廊横の、古い土蔵の脇から
耕三寺前までに、なんとも懐かしい、参詣用の土産物屋小路が続いていて、
今も残っているのである。これには前回全く気が付かなかった。



猫も居る。このオブジェの様にじっと動かない濃い茶の猫は、港通り商店街に
生まれて、この地で子供を産み育てて、一生を終えるのだろう。



18年前に初めてこの島に来た時には、僕は35才であった。その頃には
子供の数は2人。その後もう1人生まれて3人の子供を育てた。
これから18年後には僕は生きていないかもしれない。猫の人生も僕の
人生も、あまり変わらないと、思う。



いい感じの町並みと路地が続く。



耕三寺まで「徒歩7分」と書かれていたが、のんびり写真を撮りながらなので
実際は倍以上掛かったが、こんなぶらり歩きは実に悪くない。



とくにレトロを強調するでも無く、殆ど手つかずの昭和な風景にすっかり
魅了されていた。




居抜きで使ったらそのまんま映画のセットにも使えそうな元スナックのお店たち。





和風キッチュ趣味の耕三寺については、多くは説明しない。

ここは戦前に事業で成功した人物が、お金を使って母親の生まれた故郷に
最初、豪華な家を造り、亡くなった後はその周囲に、次々と神社仏閣を模した
建造物を、供養の為に取り付かれたように作ったと言われている。

昭和一桁から、戦中を挟んで戦後の平和が戻ると、さらに拍車がかかり、20年代
いっぱいに手掛けられて、30年代には瀬戸内の新しい観光名所になった。



その男の物語が偉人伝化されていない所が良い。



戦後の瀬戸内海は、一時憧れの旅行コースになり、人気を博した。

壷井栄の二十四の瞳も、同じ時代に小豆島を全国区の人気観光地にプロデュース
した。耕三寺と同じ動機だというと叱られそうだが、戦争中は呉の海軍機密地帯を
抱えたこの「地中海」は、自由の海ではなかったのである。



だから、戦後が来ると、明るい風光の瀬戸内海に、まだ海外旅行は夢の夢であり、
民衆は憧れ、自由と根明かな風景に熱狂して、支持をしたのである。

耕三寺の狙った親子の慈愛と極楽往生は、たくさんの人が戦死した日本の国土に
レクイエムとして、共感を呼んだのじゃなかろうかと、オイラは思うのである。



ただ歴史建造物として、イミテーションみたいな物の上に、独自の宗教観で
トッピングしたデコレーションが施されており、これはタイガーバーム庭園に近い。



ところが、このイミテーションも、もう時代がそこそこ古くなって来たので、
これからは積極的評価を、加えるべきかの段階になって来た。



今回の耕三寺訪問は、純粋なお寺ではないから、僕のような頭から考えとろう
とする者には、抵抗が無いでもない。TDLやUSJが大の苦手な僕には、
テーマパークは社会性必然が無いので苦手なのだが、ここは18年ぶりに来て
共栄という宇宙観や引力を感じた。

とくに平山郁夫美術館を横に呼び寄せたのは、耕三寺の特AでなくBな感覚と
呼応するものがあったのでは、ないか。平山も京都なら100年後も悪く言われる
かもしれないが、生口島なら言われまい。

それから今回、初めて入って感動したのが、この潮聲閣という和風数寄の
建築である。



ここは正に耕三寺建立者が、母親の為に昭和初期に贅を尽くして建てた、
和風建築の逸品である。この建物には、ため息が出た。池田にある電鉄王
小林一三の邸宅と、同じ時期だが、こんな島の中に在るが、金のかけようが
遥かに上なのである。迷いが無いと言うのは、ほんとうに贅沢で良い。



私はこれは見ていて気持ちが良かった。それと今回の旅は母の介護問題である。

両家がちょっとでも贅沢をすると、生意気だとか、いろんな礫が飛んで来るので
私は出家したような人生を選んだ。

間違っていたのではないか。私に金があればぐうの音も出せずに解決できた
問題だったのかもと、貧乏を選んだことを恥じた。ここに偶然これたことは
結果的に良かったと思う。耕三寺を作った人の名は金本耕三と言い、やっぱり
金の力で親孝行できたのである。皮肉だが私は親孝行の道を直球で受け止め
られなかったのである。


さあ、道を急ごう。参詣道中でお昼ご飯のチキンや串カツ類を買い、ご飯も
買ったので、どこか雄大な風景の下で食べたい。
島を巡る途中でこういう廃車体群も見つけてしまった。



こんな所まで、ダイハツも来ているんだなあと、ミラの男は思う。



これはポーターのバンですね。



これはレモンの実っている所。生口島はレモンの島で、この時期は島全体が
甘い香りに包まれており、ヤニ臭い中古のミラもずっと窓全開で走ったから、
少しは脱臭できたかしら。



美しい花を付けた大きな木が海沿いに生えていた。これは何の樹だろう。



車は再び橋を渡って、大三島に入ります。

ここは変わっていた所もあったが、1995年と、しまなみ全通の99年を知って
いるので、その時の観光地化は落ち着いた感も取り戻している。
海沿いのやたら広い駐車場区画で、車を海の側に停めてお昼にする。

食べ終わったら昼寝をせずに、大三島神社の参拝に真っ直ぐ向かう。



宮浦と言う地名の所が、大山祇神社のある場所である。駐車スペースは道の駅に
なっており、神社真横の一等地の駐車できる所は昔からある土産物屋が、「無料で」
停められますと書いてあるが、さすがに私も道の駅に停め直して歩くことにした。



やっぱりクスの御神木が綺麗だ。



この時期の緑は、モノクロでフィルターをかけて撮ると、かげろひ立つ
ように写る。それが好きでずっとモノクロで新緑を撮るのだが、今回はたくさん
写真に納めることができた。



社殿の敷地に足を進める。ここの宮代に入るのは2度目であるが、橋が架かる
までは、絶海の孤島の祕殿に参るような心持ちがしていた。



それが便利になったということは、飽きられてしまうことに繋がり、神通力を
弱めてしまうことになるかもしれない。
畏れ多いことを言うのではなく、島の持つ神秘性が1000年以上崇め奉られて来た
最大の理由であったからである。



初めてここに来た1995年には、いくつもの島を渡って、船も何度か乗り継ぎ、
辿り着いた大山祇神社の社殿に有り難みを感じたのである。橋続きで観光バスで
来られるのも良いが、私は道の駅の出来た1999年にはここで「たらの芽」を
買ったことを、思い出した。ラリーの途中にである。



でもこの社の中には面白い時空間への入り口があるように思える。
ミシマの三が、神社の御印と言うのも面白いと思う。



現代の巫女さん宮司関係者らが出入りの酒店とお神酒のことで話している。
今は平成だが、昔の人たちも同じことを打ち合わせたのだろうか。



参道を出てお宮をあとにする。
扁額鳥居の文字が、最近の建立は島出身の書家、村上三島の手になる
ものと気付く。その手前の鳥居の文字は伊藤博文だから、村上も並ぶと
知りさぞかし緊張したのではないか。ラリーの時はまだ存命で、参加者は
特別に書を貰い受けることが、チェックポイントで出来た。

私は忘れてたのでもらい損ねたが、元々能書でないので、もらっていても
猫に小判であっただろう。



お宮を出てここの地名の由来になる宮浦港に行ってみる。
昼下がりの港は定期航路もうんと減り、手持ち無沙汰に改修されて綺麗に
なり過ぎていた。



この浜から大山祇神宮まで歩いて半町。港の横に地元のバス会社の大きな
基地が有り、すぐ前の方に大三島役場も郵便局もある。

義経や尊氏が歩いたこの道が、殆ど省みられなくなった現実に、
私は橋が架かったことの衝撃を受け、長い間港に停めたクルマの中で、
歴史の重さを軽くしてしまった近代という救いようの無い潮の流れに、
いつまでも考え込んでしまっていた。

この項ひとまず終わります。
2013 05/28 12:04:59 | 旅日記
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夜明けと共に船が動き出したので
5時半に宿を発つことに致しました。
瀬渡し航路の旅から3日目は始まります。






AM5:45出航しました。船内には私一人と1台だけ。

対岸の千光寺側を船内から見返ります。



向島の船着き場付近には、こういった趣きのある建物が健在でした。



朝もまだ6時前くらいです。夏の夜明けに近く、早くから明るいので
島内を適当に走って海岸に出ることにしました。

これが2013年5月23日の夜明け、尾道にて。
ミラと夜明けの海の組み合わせは、島原以来でしょうか。




足元の砂浜はご覧のような貝殻の浜です。
こんな綺麗な浜は初めて見ました。





この島内の小さな港から、さらに小さな島への航路が出ています。
別に気が遠くなるようなものでもありませんが、旅ってそういう
不便な物を訪ねることなのでしょう。





歌という風流な港に流れ着くらしい。



反対にこの小さな港に上陸すると、この高速有料道路の
雄大な気分にさせる看板が目に着くのです。
ラ・ストラーダ。これぞ「大いなる道」の旅の始まりを意味している。
旅へのいざないって、こういうものに惹かれるのでしょうね。
碧空に聳えます。



古い港で佇んでいるうちに、夜が完全に明けて朝の光が強くなりました。



犬を連れた散歩の婦人と、朝早くから野良仕事の奥さんと
犬の会話で港の前では盛り上がっています。



すぐに有料に乗ってしまうのは勿体ないので、もう少し島内を探検する
ことにしました。
古い社の綺麗な新緑が目に止まりました。



これは絵馬ですが、海上を並んで走る何艘もの古い形の和船が描かれているのが
興味深い。



この社の名前は、津部田の五鳥神社というらしい。
祀っているのは住吉宮、盛大なお祭りも開かれる島の鎮守のようだ。
http://blog.livedoor.jp/takasamurai1209/archives/51553591.html






見事な新緑の大楠をもう一度。
先週はオークス。カンケイナイカ。



地図を見ると、島の西岸には、岩子島という島が並んでいて、橋が架けられています。
こんな機会だからということで、向島から岩子島にも渡ってみました。



何だか平たい島です。農業の島と言った感じ。




でもこういうものにも、目が止まります。巻き上げ網の下に落ちていたイカの甲羅。
あーイカ食いてえ。



車で走り去りかけて、こういう建物にも気になって、停めて調べてみました。
少し山かげに発見した謎の木造建て家。
農業倉庫とは少し違うようです。



何だろうと裏側に回ってみると、こちらにあった入り口には、このような鉄柵が。

昔の牛小屋だったのだろうか。しかしこの模造ガン、それも大型のマシンガン
みたいなものはナニ? ぜったいゴッコプレイしたな、ここでキット(爆)。



“牛小屋”から戻る途中、野壷を発見しました。昔の肥だめ。
よく子供がハマって命を落としたもんです、ハイ。



カラスノエンドウの一種、これは大きくて綺麗なマメ科の花です。



再び向島に戻り、因島を目指すことにしました。その前にこんな風景に
目が止まります。昔のタバコ屋健在。僕らは自動販売機とコンビニの普及で
タバコ屋さんに買いに行くという些細なお使いなどのコミュニケーションも
3―40年くらい前に無くしてしまったのかなあ。
池田の駅前にも、前回の大幅値上げ前までには、古風なタバコ屋さんが居て
お婆さんが囲炉裏こたつに座って、何十年と売っていたんだけれど、廃業して
さらに建物も昨年解体して更地になりました。ここはまだ裏の民家の店舗部として
生きているようです。



これは何でしょう。よく伸びた木陰の後ろに回って見えにくいですがいい感じの
建物。



扉窓部に顔を付けて中をのぞいて、にっこり。何と懐かしい小学校の講堂が
ここには残っていたのでした。私もこういう所で入学式をしたなあ。



西瀬戸自動車道路に戻り、因島に渡ります。橋だけ通って550円。

因島に渡ると一段と植物の花の香が強くなってきました。これがその正体。
今の季節は柑橘系の花が、一斉に実を付けるための開花と甘い香りで
受粉のために昆虫たちを呼び寄せているのです。



こんな花も咲いていました。熱帯植物系の何でしたっけ。何十年に一回しか
咲かない花で、この花が咲くと竹の花のように、その年は天変地異があるんじゃ
なかったっけ?



因島には水軍城の跡が残っていますが、朝の時間なので、その手前にある戦の為の
砦のような中世以来の佇まいのある寺に入ってみることにしました。



裏山が墓所の段々畑にずーっと上の方までなっていて、上がる度に眺望が良くなって行きます。



これは古い、宝篋印塔なので、江戸より前から、この場所にあったのか、
他所から移したのか、非常に古い形式の墓石です、しかもかなり大きい。



一番高い所からの眺め。



道を挟んだ高い山の中腹にも寺の甍らしきものが見えて、下の道を往来する者を見張って
います。

その厳めしさに、この島の特殊な性質が見えるような気がしました。
でも道路脇でこんな種や苗を売る店を見掛けると、平和な時代は良いなあと感じました。


2013 05/28 12:02:11 | 旅日記
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