男たちには判らない

2010年 04月 の記事 (4件)

平成22年4月23日(金)、大阪府池田市にある阪急グループの
創設者、小林一三の旧宅がリニューアルされ新たに記念館として
再オープンされました。



ちょうど今年は、阪急電鉄が開業してから、満100年。
小林が亡くなったのは53年前の1957年ですから、開業前から半世紀の
50年に渡り、小林は池田に住み続けたことになります。
巷間、小林の事業家としての手腕、評価には悪い評判はありません。
しかし私は、一介の市井ジャーナルの眼から「その後」も含めて
池田という軸から見てみることにしましょう。

小林が池田を拠点に選んだことは、出身の甲州韮崎に風光が似ている。
今回の資料展で生家の写真を見て直感しました。
池田は能勢街道と西国街道のほぼ交差にあたり、古より物流の集散や
特産品の出荷場所として栄えました。
韮崎の実家も街道に面し、宿場の風情がかつては漂っていました。



自宅(記念館)正面には能勢の旧家から移築した長屋門が聳えます。庄屋
クラスの豪農が能勢にあったのでしょう。
小林が池田に接点を持つのは、阪急の直前に携わった仕事である、
阪鶴鉄道(現代のJR福知山線の前身)の経営に関わるようになったからだと
思われます。

阪鶴は伊丹付近の酒造の運搬目的で尼崎港までの路線が最初でした。
その後、明治期に海軍港となった舞鶴と大阪を結ぶ地方鉄道に昇格します。
今の国道176号線が福知山へ向かい175号線と合流し舞鶴に至るのは
この歴史背景が有るからです。

さて、池田に活動の本拠を選んだ理由、それは明治期の池田が比較的大きな
町であり、ここで古美術や茶の湯との出会いがあったからだと思われます。
町を貫く街道沿いには旧家が並び、呉春や蕪村といった美との遭遇がありました。



これはそのひとつ。江戸期から続く旧家で本物の芸術を見たことで、小林
一三は生涯に渡る柱の一つ、茶の湯、数寄にこだわるようになります。

昭和10年代に建てた現在に残る居宅、「雅俗山荘」にもいくつも茶室を造りました。




これらの茶室で茶道を介在とした茶室社交を各界の一人者と広げます。
この頃の池田は、一番華やかだった頃でしょう。
人口の多い豊中が、ちょうど西宮に当たるならその隣の芦屋のような
雰囲気も山の手にはあったのかもしれません。

ここでもう一点、茶室というのは無我の境地で茶を嗜むもので、華美は
無縁。またどちらかというと寒い一室で茶の暖を摂ることで、神髄がある
ように思えます。池田は酒どころ故、冬寒く、春も大阪市内より遥かに遅い。
この日覗いた茶室からも冷気がひやっときて、思わず身をすくめました。



それは寒い甲州育ちの一三好みがこの池田の地に多くあったからでしょう。



明治43(1910)年3月、箕面有馬電軌が田圃の中を走り出して100年。
阪急の栄光は長く続き、今でも日本一の私鉄と言う人も多いです。
しかし発祥の宝塚線を詳細に見ると、これで良いのかと思う点も多い。
池田は歴史の流れから取り残されたような印象もあり、どうしてこう
なったのか。あまりにも高いプライドが邪魔し、豊中や箕面と連携しなか
ったからか、今や市中心駅の池田駅は近隣の川西池田(川西能勢口)や
石橋に対しても劣勢です。
全線で8人しか置かれていない主要駅駅長も、今の池田には居ません。



一三没後の半世紀が過ぎても、阪急の登記上の本社は池田市です。
ここには豊能税務署もありますし、戦前の地銀本部としては立派な池田銀の
本店もあります。その向かいには中高層建築の日本生命の立派な支店が
あり、駅構内を「日生」エキスプレスという名の特急が能勢電の日生
ニュータウンまで走り抜けています。
でも転居の手続きをしに日生の事務所に行くと、閑散としていました。

敢えて言うと、何か間違っていないか。登記の本社をダイハツや阪急が
他所へ持って行ったらこの市はどうなるのでしょう。
酒造も炭ももう細々とした産業です。
栄町の商店街も、頭を使った工夫はしていますが、何かに頼るばかりで
自力は弱いと思います。

一三の没後53年、ずっと過去の栄光に縋ってきたとは思いませんが、
小さなしくじりをいくつも重ねてしまい、今日の池田の姿があるように
思えてしまいます。
まさか「一三さんが生きとったら、そんなことは言わんやった」
新しい話があるたびにそんな言葉で芽を摘んできたとは思いたくないの
ですが。
2010 04/27 18:58:43 | 日記 | Comment(0)
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淡路島の南の丘に、人知らず眠る建築モニュメントがあります。
これは「若人の広場」といい、第2次大戦後20年が経ち、戦争動員で
帰らなかった多くの若者の魂を慰めんと、昭和42年に、大建築家
丹下健三のデザインにより建立された、施設でした。





しかし、国内観光でも、訪れるに不便な場所の故、いつしか忘れられ
瀬戸内海国立公園の風光のなかで、今では無惨な廃墟を曝しています。



設立の趣旨は、間違っていなかったのですが、いつしか時は流れ、
今では、都市伝説や、心霊スポット呼ばわり、さらに幻の丹下健三作品
とまで、呼ばれております。

ここにアプローチするのは、敬虔なる気持ちと、設立の趣旨を理解し
かつ、興味本位でなく、現地の危うさを理解出来る人にお願いしたいと
思いました。
平成22年4月16日訪ねる



2010 04/18 07:02:39 | 旅日記 | Comment(0)
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4月の土曜日、知人の誘いで「奈良少年刑務所と市内の近代建築を見て歩く」
ツアーに参加した。市内北京終町で開催中の、少年刑務所の貴重な内部を写した
写真展に合わせてのイベントだ。



この催しは、詩作で同刑務所に通い、支援活動されている作家の関わられる
「ならまち通信社」と、私の友人である歌人と、NPO法人・Jヘリテイジの合同企画で
ある。ここで、Jヘリテイジという若い人たちの(まだ発足して日は浅いが)、グループ
を知った。
http://j-heritage.org/



言葉の説明は省くが、彼らのうち、いくらかは「廃墟マニア」の出身であったらしい。
元気がないといわれる現代の若者だが、マニアの行動力は面白い。
日本中の廃墟の話。中でも北海道の炭鉱の跡を回っている若い人の興味・関心は
私の心に深い印象を残した(今の言葉でいうと「刺さった」というのですね)。私は
北九州・筑豊の閉山最終期の話を、実話として語れるからである。



廃墟マニアは、目立ってくるようになると「(いつまでも)アブナイ人たちのままでは
イカンだろう」と、いうことで、一部は産業考古学に合流し、ここに独自の観点で、自ら
も日本中を回るのなら、「歴史観光」というジャンルが合ってもいいのではないかと、
新しいツーリズムを確立した。以上が私の分析である。



もちろん推測の多い文章なので、改めることがあれば順次補正する。
ただ、近年の里山を初め、日本を再発見するツーリズムの中に、何か、新しい風が
吹いてくるのを感じてしようがない。
日本は「ツーリズムの時代」に入ったのではないか。
炭鉱を知らない人たちに、坑道の奥まで見たいとさせるエネルギー。そこには「欲
する」と「調べて回る」という楽しさが付いて回る。旅の原点はこちらだ。

奈良町の坂を上がり下りしながら、こんな街のゲストハウスを起点に、ランドナー
(旅行用自転車)で探訪する旅もいいな、と感じ始めた一日であった。

2010 04/11 13:17:41 | 都市風景 | Comment(0)
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閑居もあたたかくなりました。
漸く春の訪れに、次は初夏かなと
掃除ついでに格子戸をよっこらしょと外し
縁側風にしてみました。





こんな感じです。奥にはまだこたつが残っています。



中から外を見た所。
あまり風流でないので、簾を掛けてみました。



6月から7月に、浴衣パーティーをやりたく思いました。
女性陣は浴衣で来てくださいね(
2010 04/06 18:46:33 | 長屋暮らし | Comment(0)
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