男たちには判らない

2010年 04月 27日 の記事 (1件)


平成22年4月23日(金)、大阪府池田市にある阪急グループの
創設者、小林一三の旧宅がリニューアルされ新たに記念館として
再オープンされました。



ちょうど今年は、阪急電鉄が開業してから、満100年。
小林が亡くなったのは53年前の1957年ですから、開業前から半世紀の
50年に渡り、小林は池田に住み続けたことになります。
巷間、小林の事業家としての手腕、評価には悪い評判はありません。
しかし私は、一介の市井ジャーナルの眼から「その後」も含めて
池田という軸から見てみることにしましょう。

小林が池田を拠点に選んだことは、出身の甲州韮崎に風光が似ている。
今回の資料展で生家の写真を見て直感しました。
池田は能勢街道と西国街道のほぼ交差にあたり、古より物流の集散や
特産品の出荷場所として栄えました。
韮崎の実家も街道に面し、宿場の風情がかつては漂っていました。



自宅(記念館)正面には能勢の旧家から移築した長屋門が聳えます。庄屋
クラスの豪農が能勢にあったのでしょう。
小林が池田に接点を持つのは、阪急の直前に携わった仕事である、
阪鶴鉄道(現代のJR福知山線の前身)の経営に関わるようになったからだと
思われます。

阪鶴は伊丹付近の酒造の運搬目的で尼崎港までの路線が最初でした。
その後、明治期に海軍港となった舞鶴と大阪を結ぶ地方鉄道に昇格します。
今の国道176号線が福知山へ向かい175号線と合流し舞鶴に至るのは
この歴史背景が有るからです。

さて、池田に活動の本拠を選んだ理由、それは明治期の池田が比較的大きな
町であり、ここで古美術や茶の湯との出会いがあったからだと思われます。
町を貫く街道沿いには旧家が並び、呉春や蕪村といった美との遭遇がありました。



これはそのひとつ。江戸期から続く旧家で本物の芸術を見たことで、小林
一三は生涯に渡る柱の一つ、茶の湯、数寄にこだわるようになります。

昭和10年代に建てた現在に残る居宅、「雅俗山荘」にもいくつも茶室を造りました。




これらの茶室で茶道を介在とした茶室社交を各界の一人者と広げます。
この頃の池田は、一番華やかだった頃でしょう。
人口の多い豊中が、ちょうど西宮に当たるならその隣の芦屋のような
雰囲気も山の手にはあったのかもしれません。

ここでもう一点、茶室というのは無我の境地で茶を嗜むもので、華美は
無縁。またどちらかというと寒い一室で茶の暖を摂ることで、神髄がある
ように思えます。池田は酒どころ故、冬寒く、春も大阪市内より遥かに遅い。
この日覗いた茶室からも冷気がひやっときて、思わず身をすくめました。



それは寒い甲州育ちの一三好みがこの池田の地に多くあったからでしょう。



明治43(1910)年3月、箕面有馬電軌が田圃の中を走り出して100年。
阪急の栄光は長く続き、今でも日本一の私鉄と言う人も多いです。
しかし発祥の宝塚線を詳細に見ると、これで良いのかと思う点も多い。
池田は歴史の流れから取り残されたような印象もあり、どうしてこう
なったのか。あまりにも高いプライドが邪魔し、豊中や箕面と連携しなか
ったからか、今や市中心駅の池田駅は近隣の川西池田(川西能勢口)や
石橋に対しても劣勢です。
全線で8人しか置かれていない主要駅駅長も、今の池田には居ません。



一三没後の半世紀が過ぎても、阪急の登記上の本社は池田市です。
ここには豊能税務署もありますし、戦前の地銀本部としては立派な池田銀の
本店もあります。その向かいには中高層建築の日本生命の立派な支店が
あり、駅構内を「日生」エキスプレスという名の特急が能勢電の日生
ニュータウンまで走り抜けています。
でも転居の手続きをしに日生の事務所に行くと、閑散としていました。

敢えて言うと、何か間違っていないか。登記の本社をダイハツや阪急が
他所へ持って行ったらこの市はどうなるのでしょう。
酒造も炭ももう細々とした産業です。
栄町の商店街も、頭を使った工夫はしていますが、何かに頼るばかりで
自力は弱いと思います。

一三の没後53年、ずっと過去の栄光に縋ってきたとは思いませんが、
小さなしくじりをいくつも重ねてしまい、今日の池田の姿があるように
思えてしまいます。
まさか「一三さんが生きとったら、そんなことは言わんやった」
新しい話があるたびにそんな言葉で芽を摘んできたとは思いたくないの
ですが。
2010 04/27 18:58:43 | 日記 | Comment(0)
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