男たちには判らない

2010年 05月 の記事 (3件)



2010年の5月のある日曜日、福岡県にある高校の総合同窓会に
出席するため、私は久しぶりに九州入りしました。
午前中にフェリーで上陸、午後の会合まで時間があります。
そこで数日前に会った人が、筑豊の蒸気機関車の写真を見せて
くれたことを思い出し、久しぶりに筑豊に行ってみることに
しました。

都市高速〜国道〜県道と奥地に向かい、辿り着いたのは福岡県
宮若市にある石炭資料館でした。
ナビも無く、目的地設定もありません。
30数年前の記憶と現在を繋ぎながら、昔行ったことのある
炭坑地帯に入り込んだ結果、そこに資料館があったまでの
ことです。



ここに昔存在したのは、貝島炭鉱という非財閥系の企業です。
そしてこの資料館はその昔、貝島が建てた私立小学校でした。

筑豊の石炭採掘の歴史は、江戸期に発見され、明治の近代化で
用途が激増し、北九州・八幡の製鉄事業などの工業と火力発電、
そして市民社会のエネルギーとして、動力と経済を支えます。
それは昭和の戦中戦後がピークで、40年代まででした。



この貝島炭鉱は、三井、三菱、住友などの財閥系でなく,福岡県に
ルーツを持つ私企業で、一時は筑豊御三家と呼ばれるほど栄えました。
あとの2つは、安川電機のルーツ安川家と、前首相の実家、麻生家です。

貝島は昭和51年まで、筑豊で最後の採掘を続けました。
炭坑(ヤマ)の男たちの人生を見届けてといえば、間違っていない
と思います。
ここにあるのはその1世紀の記録なのです。

私は昭和49年にこの地を訪れています。その頃は最後の石炭採掘と、
国鉄宮田線への積み替えが行われ、つぶさに作業を観察し、専用鉄道の
SLたちの珍しい姿を撮影しました。
いま、敷地内に貝島のSLと貨車が1台保存されています。



今回のブログ記事で書きたかったことが、最後になってしまいました。
資料館の説明をしていただいた、70代の男性の証言から判ったことは
当時の炭坑町の生活は、とても良いものだったということです。

逆説的になりますが、
離職して名古屋に出て行き、一般企業で働いた人の最初の驚き。
「電気、水道がタダでない!」「知らんかった!」

炭坑では、住居から学校まですべて民間企業が面倒を見ていたことが原因なのですが、
これは貝島が、親分肌の創業者の気っ風を最後まで引いていた
独立系の民間企業だったことが大きいと思います。

そこでの炭鉱住宅生活は、一種のコミューン(共同体)であり
世話になる、面倒をかけるといった日常は、思いやりにあふれ
命がけの仕事ゆえの厳しい日常の裏側には、社会性の底流があった、
ということが判りました。



私たちは炭坑夫の生活を、イメージとして暗く考え過ぎていなかったか、
その後の高度成長社会に転化するあたりの近代化を、ずっと
良いことと、社会政策的に思っていました。
だけども、彼らに取り原則タダであった水も電気も住宅費も、
仕事にありつくことも、すべて今のような競争社会になった。
それは、どうだったのでしょう。

わしゃ、筑豊から出たことが無いけん、ずーっとこの町を愛しちょる
という言葉の中にある故郷を思う気持ち、愛郷心には嘘は無いと思いました。

今回の短い旅を通じて知ったこと、得た感想は、「強いものが弱いものを助ける」、
当たり前のそのことが、半世紀前の日本にはあり、高尚な社会政策学より
実際に機能していたのではないでしょうか。



袋小路に入って出口の無い明日の続く日本。今回の探訪がヒントの一つに
なることを祈り、記事を終わります。

2010 05/30 08:11:14 | 旅日記 | Comment(0)
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阪急の中で、最も歴史のあるといえば、きこえはいいのだが、設備の古い宝塚線。
今年はちょうど100年目にあたる。
昨日、鉄道関係の本のプロデュース業もされている人と、さらに、豊中の写真関係者と3人、
喫茶店でこの話題を談義してみた。

 写真は1世紀の歴史を誇る?そのままの石橋駅の曲がったホーム。



まず私から、阪急電車が池田に本拠地の登記を置き続ける理由について。
創業者、小林一三と池田との関わりに付いては、前々回のブログに書いた通り。
取っ掛かりになる阪鶴鉄道(JR福知山線ルーツ)時代は池田駅は現在の川西池田駅より
もっと猪名川に近い場所にあり、水運の荷揚げと結ばれていたことが話題に出た。
また、池田町での古美術との出会いに付いては、豊中の住人は深く頷かれた。

さらに今回は座談なので、もっと踏み込んだ考察を提示してみた。
ずばり、一三は大阪(的なるもの)と関西財界が苦手だったのではないかという、仮説である。

この考えに至ったのは、原武史氏の名著「民都と帝都、思想としての関西私鉄」を
今回、読み直して、むむっと思った点にある。

原説によれば、小林は官なるものが嫌いで、梅田(あえて大阪とせず)開発は
民間でできる、余計なことは言わないで欲しいと独力で、今の阪急の前身から
ターミナルデパート開業(S4年)まで、独力でこぎつけた。
しかし昭和初期に、国鉄と阪急の線路配置の上下関係が逆転する。
この時に大阪の世論(新聞等)は渋る阪急に対し「一私鉄の阪急ごときが」と強い非難を浴びせた。

小林にとって開業以来20年、順調であった阪急の最初の試練である。




もう少し話しは続くのだが、読んで飽きる内容なので、少し横道へ。

大阪平野の気風や感覚の中でも、よく冗談めいて言われるのが、ベタな南部に対し、
スカした阪急沿線の上品さである。
これって、大阪人は常識すぎて何の疑問も抱かなかったが、よく考えると、これは
阪急神戸線と宝塚線沿線だけなのですね、気取っているのは。
そして宝塚歌劇や、人気の出なかった阪急ブレーブスについても言えるけど、正直
ガラの悪い大阪というイメージから、かけ離れている。

よく考えると、そこに誰か個人の存在を感じないか。
そう、慶応出身で、関西財界と一線を引いていた個人主義者、小林一三である。



小林は、昭和の戦前、一旦阪急の社長の座を辞し、東宝の経営や東京電灯(今の東京電力)に重心を移す。
ここで池田と大阪から離れて、東京で財界活動をするのである。
そこには東急の五島慶太がおり、計画プランに参与した田園調布があり、さらに慶応閥があった。
やがて一三は戦時直前の商工大臣(経産相)にもなるのであるが、ここでも官僚の岸信介
(後の自民党総裁、総理)と合わずに辞職する。

座談会の相手からも「一三は財界でも一匹狼だったみたいですな」のコメントがでる。



一三は失意のまま、関西に戻り、昭和10年代に建てた池田の家、「雅俗山荘」に引きこもる。
私鉄王の意外な横顔だが、彼自身日記に記している。
昭和19年の「呉城小景」と22年の「薮の細径」である。
前者は、瓦斯、電気を引いた自宅も燃料統制で不便をかこち、(池田は戦前から都市ガスだったのか)
薪炭を使わざるを得ず。特産の池田炭も手に入らず、と。
戦後の公職追放中の記事では、池田の山間を散策して自宅に戻るまでの日常が描かれ、
夕暮れの電車のヘッドライトと鉄橋に目をやり、自宅ベッドの体を投げ出し
「老いたるかな、老いたるかな」と故郷離れ幾年月、70代になった鉄道王の
老境の孤独がしみ入るような文である。



2010 05/20 09:18:43 | 都市風景 | Comment(0)
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この漫画のことは、もっと詳しい所を探せば
あると思う。
作者のほうさいさんと、私の繋がりは、舞台になった
京都の小さなカウンターバーだ。

その店はもうない。確か三条木屋町を一つ下がって
西に入った小路に北側に面していた。
もう20年以上昔の記憶である。



店の名は、ほんとうは「リラ亭」という。

あがた森魚の「リラのホテル」を思い出すが、
木村さんというマスターが、一人で、店を開けていた。

そこにくるのは本当に一癖もありそうな、京都の住人ばかり。
店の雰囲気と主人は普通なのに。

私は、昭和58年春に社会人になった。多分その後で
隣の職場の友人に誘われて、その店を知ったと思う。

まだウイスキーの味を飲んで美味しいと思う歳でなかった。
一杯500円の水割りは、給料を思えば安くなかったし、
大黒だか、三楽オーシャンのウイスキーなんてものが
あるのを知ったのは、この店からである。

でも、
この店の雰囲気はすぐに気に入った。気取らず
広すぎず、ちょっと客が多く来ると、カウンターの中に
入ってマスターと並んで飲むなんて。
大人はこんなずるい戯(あそび)を知ってるんだと。

こんな雰囲気でした。(漫画から)



その店の長い歴史と関わったのは、そんなに長くない。
学生時代から8年居た京都を離れ、昭和の時代が終わり
やがてマスターは病を得て、帰らぬ人になった。

過ぎさりし日のことを思う人が、葬儀に集まり、1年後には
追悼行事が、三条の「がんこ」で開かれ、文集も作られた。

先の表紙がその本で、中にある写真から、在りし日を
偲ぶ。



       ☆  ★  ☆

リラ亭の思い出を、なんだろう、皆んな捨てるには
あまりに、あっけなかったから、その店は、常連の
一人が引き継いだ。

そうでなくても、実はネット以前の社会でも、
知る人ぞ知る店だったと思う。面白い人の繋がりが
出来、大阪や、多分神戸とは違う、酒場のコミュニ
ケーション。これが大きかったから、この店は、歌や
詩や、画の題材によくなった。

酒場ミモザ、一部では熱心なファンを引きつけ、
全国発売の漫画誌だったので、後継の「カリン亭」
時代にも、よく話題になったのではないか。

しかしカリン亭が10年の期間を終え、店じまいし、
世の中は、もう21世紀になっていた。

2代目店主は、完全に引退され、京都の奥地で
民家を改造した民宿を始められた。
私たちは、リラ亭の思い出を、年に一度は温めようと
その民宿に、集まるようになった。

とださん(ほうさいさん)と、ご縁が出来たのはそれ
からである。

この漫画は、忘れられることなく根強い人気がある
らしく、再出版の動きも、数年前に始まり、このたび
実を結び、2010年、リラ亭終焉から20年の今年春、
ぶんか社から、再発行となった。

そして、先日、ほうさいさんを囲んで、浪速大阪で、
ささやかな、お祝いの宴に私は呼んでいただいた。



私の持つオリジナルの本には、彼女が描いてくれた
似顔絵。
この絵を描いてもらった頃には、こんなに老けてない
のに、と少し不満だったけど、
いまはこの肖像に似て来た。

人生は不思議な縁、そしてそれを紡ぐのは、一人ひとり
の、毎日の生きる思いみたいなもの、と、



この裏表紙が、つぶやいている。



2010 05/11 21:34:10 | 日記 | Comment(0)
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