男たちには判らない

2010年 05月 30日 の記事 (1件)




2010年の5月のある日曜日、福岡県にある高校の総合同窓会に
出席するため、私は久しぶりに九州入りしました。
午前中にフェリーで上陸、午後の会合まで時間があります。
そこで数日前に会った人が、筑豊の蒸気機関車の写真を見せて
くれたことを思い出し、久しぶりに筑豊に行ってみることに
しました。

都市高速〜国道〜県道と奥地に向かい、辿り着いたのは福岡県
宮若市にある石炭資料館でした。
ナビも無く、目的地設定もありません。
30数年前の記憶と現在を繋ぎながら、昔行ったことのある
炭坑地帯に入り込んだ結果、そこに資料館があったまでの
ことです。



ここに昔存在したのは、貝島炭鉱という非財閥系の企業です。
そしてこの資料館はその昔、貝島が建てた私立小学校でした。

筑豊の石炭採掘の歴史は、江戸期に発見され、明治の近代化で
用途が激増し、北九州・八幡の製鉄事業などの工業と火力発電、
そして市民社会のエネルギーとして、動力と経済を支えます。
それは昭和の戦中戦後がピークで、40年代まででした。



この貝島炭鉱は、三井、三菱、住友などの財閥系でなく,福岡県に
ルーツを持つ私企業で、一時は筑豊御三家と呼ばれるほど栄えました。
あとの2つは、安川電機のルーツ安川家と、前首相の実家、麻生家です。

貝島は昭和51年まで、筑豊で最後の採掘を続けました。
炭坑(ヤマ)の男たちの人生を見届けてといえば、間違っていない
と思います。
ここにあるのはその1世紀の記録なのです。

私は昭和49年にこの地を訪れています。その頃は最後の石炭採掘と、
国鉄宮田線への積み替えが行われ、つぶさに作業を観察し、専用鉄道の
SLたちの珍しい姿を撮影しました。
いま、敷地内に貝島のSLと貨車が1台保存されています。



今回のブログ記事で書きたかったことが、最後になってしまいました。
資料館の説明をしていただいた、70代の男性の証言から判ったことは
当時の炭坑町の生活は、とても良いものだったということです。

逆説的になりますが、
離職して名古屋に出て行き、一般企業で働いた人の最初の驚き。
「電気、水道がタダでない!」「知らんかった!」

炭坑では、住居から学校まですべて民間企業が面倒を見ていたことが原因なのですが、
これは貝島が、親分肌の創業者の気っ風を最後まで引いていた
独立系の民間企業だったことが大きいと思います。

そこでの炭鉱住宅生活は、一種のコミューン(共同体)であり
世話になる、面倒をかけるといった日常は、思いやりにあふれ
命がけの仕事ゆえの厳しい日常の裏側には、社会性の底流があった、
ということが判りました。



私たちは炭坑夫の生活を、イメージとして暗く考え過ぎていなかったか、
その後の高度成長社会に転化するあたりの近代化を、ずっと
良いことと、社会政策的に思っていました。
だけども、彼らに取り原則タダであった水も電気も住宅費も、
仕事にありつくことも、すべて今のような競争社会になった。
それは、どうだったのでしょう。

わしゃ、筑豊から出たことが無いけん、ずーっとこの町を愛しちょる
という言葉の中にある故郷を思う気持ち、愛郷心には嘘は無いと思いました。

今回の短い旅を通じて知ったこと、得た感想は、「強いものが弱いものを助ける」、
当たり前のそのことが、半世紀前の日本にはあり、高尚な社会政策学より
実際に機能していたのではないでしょうか。



袋小路に入って出口の無い明日の続く日本。今回の探訪がヒントの一つに
なることを祈り、記事を終わります。

2010 05/30 08:11:14 | 旅日記 | Comment(0)
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