男たちには判らない

2011年 10月 の記事 (2件)

swaybackということばを覚えたのは、中学時代であった。
日本人に判りにくい概念であるが、カタカナで検索すると
「猫パンチをスエーバックで避けるワンコの画像」などが
出てくるが、これはボクシングの用語だ。

本来は老馬の背中などが、長年の苦役で著しく曲がった状態などをいう。
>脊柱彎曲症,
swayback (uncountable) 1. An excessive sagging of the spine of a quadruped animal, especially a horse.

中学時代に知ったのは、アメリカ型の貨車(貨物車)で木製のものが、
古くなると背中が垂れ下がる。これをスエィバックドといって
模型でもわざとこういった味のあるものを作ろうという試みがあった。
1950年代の模型雑誌からの転用記事であるが、ませた中学生には
大人の趣味は面白いと、多いに感じたものである。

今回の岐阜県の旅の最後に訪ねたのは、高山から来る高速道に
何所から乗るか。郡上市か美濃市か、迷って今回は美濃を選んだ。
この美濃市は、20年ほど前は名鉄の美濃町線が岐阜市内から
通じていた。その頃に訪ねた記憶がある。
美濃町と言う方が相応しい、美濃紙で栄えた、少し山あいの古都である。
久しぶりに訪れた町に車を停めて、少し歩いてみることにした。



20年ぶりに訪ねた街は、景観条例を用いたのか、すっかり綺麗な、
町並みに変わっていた。いや、変わり過ぎていたのが気になるほど
の徹底ぶりである。
この「うだつ」(隣家との防火壁)を特色にした旧い町並み景観地区に
足を一歩入れて、「変だ」と思ってしまった。



電線の地中化、舗装の非アスファルト化は、まだよい。
気になったのはスカイライン=屋根の稜線が全部定規で引いたよう
に真っ直ぐになっていることである。
1軒だけであろうか。いや隣も向かいも、通りに面した古民家全ての
屋根が、堂々たる本瓦造りで、へこみやゆがみの無い直線で、
リニューアルされていたのである。

あちゃー、この町の再生を考えたプロデューサーが
もう、曲がったことの大嫌いな真面目人間だったのか。
これでは味も何にも無い。
旧い民家の屋根は、適度にスエィバックしながら、稜線を連ねる
ものなのである。お役所も、建築家も、街の人たちも、「これでいい」と
思ったのだろうなあ。生真面目な若手建築家、とくに女性あたりが
監修して、「こんな綺麗な」町並みにしてしまったのではないか。




これではまるで「映画村のセット」である。
私はため息より苦笑を禁じ得なかった。「うだつ」の町並み、
歩けば歩くほど、完璧に手直しされた軒並み、甍が連なっている。
屋根をピカピカにすると、こんなに街が造ったみたいになるのである。
お陰で、観光客は話題の、新しくなった美濃町に訪れるように
なったようである。そしてレトロな旅情を楽しんでいるようであるが。



いま、レトロ風なまち興しが各地で繰り広げられているが
ヨーロッパのような中世の街角風景がそのままで観光資源に
なっているのと違い、日本の場合、特に戦後に継ぎ接ぎで
変わってしまった街角を「もう一度江戸時代に」戻してみて
一体何になるのだろうかという、思いも強い。

一時的なカンフル剤や、観光資源として、町並みを再評価する
のはよい。しかし街というのは生き物であり、これからの世代が
暮らして行く土台である。
おそらく馬籠や妻籠の町風景を参考にした部分もあるであろう。

美濃町に関して言えば、美濃紙、奉書紙で栄えた時代に
デディケイドして、町のヒストリーを見つめ直して、本格的な
歴史の評価をすることは良いことである。
うだつが造られたのは、燃えやすい紙製品を扱う商家が
多かったことに、始まっているのだと思われた。




町並みを一周し、路地や奥に入ると、改修されていない民家に
出くわし、何かホッとした。
さあ遅くなった。岐阜の旅も終幕章を閉じよう。
でも、昔の美濃町駅のあとに作られた無人のミュージアムで
また1時間捕まってしまった。
ここで、レトロな1970年代のシングルレコードを5枚選び
ちゃんと「料金箱」に500円入れて、帰ってきました。

わたしのレトロは、この辺なのだなあと、思った。


2011 10/06 01:15:01 | 旅日記 | Comment(0)
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岐阜の旅から一週間が経った。
秋の日が過ぎるのは早いものだ。
日記更新がゆっくりしているので、旅紀行の文を急ごう。
苗木は今では中津川の対岸の小村だが、明治4年の廃城令までは
奥濃のこのあたりを治めていた城は、昨晩泊まったこの苗木に
あったのである。
遠山資料館が、民宿を出てすぐの所にあるので、きょうは時間を
惜しまずに寄ってみた。
苗木遠山氏12代の歴史と、中世以前の中津川近辺の歴史のことまで
詳細な史料が展示されているのに、感心した。
小一時間見学したあと、出口で質問をすると遠来の訪問者に
館長先生まで出て頂いて、「遠山」の由来や、私が興味を持つ
中津川から美濃福岡方面に出ていた、「北恵那鉄道」の沿革迄
説明して頂いた。



さあ、ここでも城跡を見て行って欲しいと直に言われたら、流石の
私も二枚舌は使えないので、資料館から「城山」へ車を向けた。
お城の跡は、現在の苗木の民が自慢するだけに、中々風情がある。
規模も大きい。
これ迄幾つもの古城跡を見てきた。
ヨーロッパの中世の城跡、シルクロードの跡に残る中国とも
インドとも、アフガン、パキスタンとも入り交じった桜蘭の
ような痕跡、そしてアルジェのカスバ。
そりゃ、私が兼高かおるだったら世界中を見てきたい。





日本の古城址に登る度に私はいつも胸に去来するものがある。
それは、戦前まであった、旧制高校や中学などに残っていた
「風」である。
「グロテスクな教養(主義)」という本をかつて読んで、「あっ」と思ったことがあった。
日本では死語になった教養主義について、女性が取り組んだ
稀本なのである。
これは男性中心の戦前のエリート教育の功罪でなく、少し
ルーツに踏み込んだ部分が良かった。いまあちこちのブログを
読んでみたが、おそらく殆どの人が気づいていない。
かつての青年たちは、古城址に登りゲーテやリルケを紐解き
「シュトルムウントドランク(疾風怒濤)」などの言葉をくち
ずさみ、ときに小便の「スコール」(放水)をして騒ぎ、なにが
やりたかったのか。

全国各地の、小都市にあったものは、明治4年迄の「城の跡」で
ある。そして旧制の学問は、殆どが「藩校」の流れを汲んであった
ことに気づくべきである。
回顧主義とノスタルジア、それだけで語ってはいけない。幕末から
維新にかけて、武士階級は心が折れるような体験をして、その子弟
たちをいかに、これからの「時代に役立つ」ように育てるかに
腐心したのである。だから有能な人材も多く輩出した。その中から
現実主義な人間も出たことが今と成っては面白い。







私は旧い血を引く人間である。
かつて、1世紀どころか数十年前まで、ここに城があり、自分たち
の先祖が出仕していた統治の拠点を思いつつ、地方から中央集権に
なった現実に即して生きる。それが明治から昭和、戦前迄のインテリ
層のテーマだったのではないのか。


城跡を降りながら、朴(ほお)の木の大葉が遠くからでも目に着いた。

但馬の竹田城でも気が付いたが、古城跡にはホオがよく生えている。
非常食か利用目的が何かあったのではないか。

随分時間を食ってしまった。旧遠山の城のあった美濃福岡に行きたいが
その前に、中津川市内に一旦車を走らせ、「す屋」の真ん前にクーペを
横付けて、「栗きんとん、ばらで5つ」買って大急ぎで出発した。

付知川に沿って今は市内に合併されている福岡町方面に車を進める。
昭和48年迄は、この道路に沿い、北恵那鉄道と言う寂しい私鉄が走っていた。
先ほどの資料館の館長氏がずばり、大井ダムが出来たのが大正12年、
北恵那が出来たのは、材木が水運で運べなくなったからで、開通も同じ
12年ですと明答してくださった。
それにしても、大井ダムを造ったのも慶応出身の福沢桃介である。
木曽や、下流の八百津など東濃の電源開発の殆どに出てくるこの男の
残した「跡」は今でも色濃く残っている。
「愛人」であった貞奴の伝説とともに。



さて、昼飯はどうするか。丁度いいところで蕎麦屋を見つけた。
昼飯どきと言うことか、えらく混んでいたが、運良く一人で座っている
男性の向かいに相席を取って頂き、すぐに座ることができた。
後で向かいの男性に聞いたら、この辺りでは結構有名な店らしい。
待ち時間の間に中日新聞を取って来て読む。戻そうとした向かいの
人が話しかけてきた。目を上げてみると結構上品そうなご主人だ。
大阪から来たと言うと、その方は名古屋の人で、この近くでパラグライダー
をした帰りで、ここはよく来るという。
私はさすがに愛車の写真は見せなかったが、おそらく呉服問屋の主人のような、
相手の方は、それなりの豊かな暮らしも出来て、お互い子供も大きくなり
好きなことが休日に出来る境遇なのであろう。

ふと、江戸時代の茶屋で、旅の恰好をしたお互いを想像してみる。
茶屋の従業員も相席にするなら、それなりに無茶な相席にはさせない。
ここで旅のヒントになる会話が成立するのも、旅の醍醐味だと思った。
私の方が、先に出立した。







恵那郡から加茂郡へ。白川と言うところに出ることにする。
川に色の名前が付いているのが、旧苗木藩の藩境の特徴だと、資料館
展示に書いてあったが、途中の黒川と言う所に、ちょっとした「場」
があって、橋のある袂に「白川茶」という文字が見えたので、車を
停めて名産品を買うことにした。

だれも居ない昼下がりのショップ。呼びボタンを押すと返事があり
歳の頃30過ぎの白川美人が出て来られた。
こういう時の文章が面白い。司馬遼太郎ならどう書くか。
「街道を往く」のはきょうは、私だ。
媚びもせず妙な愛想の良さもないが、この女性、中々雰囲気がある。
きっと名古屋か岐阜の学校を卒業されて、地元に戻られたのではないか。
茶所の歴史や、どんな所に納めているか、お茶の相場迄、二杯目の
お茶を飲み干している間に、お話させていただいた。
「あて」にいただいた梅の実を蜂蜜につけた「お茶請け」が美味しい。

おそらくは、苗木の殿様が藩内で茶を自製させ、名物として出荷させる
までに育てた。とりわけここ白川の茶は、有名らしく、自慢であったで
あろう。この女性にも背筋の伸びた印象があった。
「最近の洪水で、近くで一人流されてまだ見つかってない」らしい。
旅の道中の安全を祈り、お茶屋での一服の後、再び出発する。
お土産には、一袋2000円弱の、良いものを買っておいた。

「おーい誰か、栗きんとんを持って来ないか!」
「殿、粗茶はまだ味が出る少し前にて、ござります!」
「今しばらくの、お待ちをー。。」

2011 10/01 14:30:01 | 旅日記 | Comment(0)
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