男たちには判らない

2011年 08月 27日 の記事 (1件)


8月20日、朝遅く起きると、長屋の裏手では鉦や太鼓が
チンチン、ドンドン。
そうか、きょうは槻木町の子どもだんじりの日であったと思い出し
フィルムカメラを手にして、ゆっくりとその後ろを追いました。
ブログに入れたのはデジタルで撮った写真です。



おっとり町内会の顔役のハヤジさんに遭遇。
ハヤジさんは、近所の立ち飲みの常連です。
今回の子どもだんじりは、総責任者として仕切っておられ
いつもと雰囲気違うかなと、遠くで見ていると私の姿に気が付かれ
「写真係が生憎居りまへんのや。頼まれてくれまへんか」と言われ
記念写真を引き回しのあとで、会館前で撮りたいと言うので了承。

しかしカメラ小僧ならぬカメラオヤジは、揃いの法被着た町衆のあとを
着いて行くことに決めました。



商店街やお店のある場所に行くと、ほんとうに昔からの町らしく
「御祝儀袋」を持った店主や女将が出てきて、会計役の女性が受け取り
頭を下げるとハヤジさんが「ほれー、宮太鼓三回!」と合図を送り
子どもらは一斉に賑やかに囃子をあげます。それがまた嫌みがなくて
ほんまにええ祭りやなと、ついて歩きながら思いました。




昔は、新町や西本町、各町内に地車(だんじり)はあったそうです。
「今でも仕舞っておいてあるんやないやろか」
町の酒場で遭遇する初老の紳士はそう話しました。
我が町内だけが存続しているとはいえ、一時は子どもが7人と、存続の
危機もあったようです。
それでも「子どもが嬉しそうにするんやから」とハヤジさんらが
中心になり続けてきました。今では子どもの数が、増えました。偶然
阪急の電車の車庫の跡地が戸建てに分譲されて、民家が増えたからです。

私の住む長屋街は、昭和初年のまま。そして新住民からは帰国子女や
くるくる頭のドイツ人とのハーフの子なども参加してきます。
警察の届けは当初予定、子ども20人だったのが実際は倍くらいの人数に
増えました。



地車を会館倉庫に仕舞うと、「ま、一杯」と打ち上げに誘われて
私も近くの自治会館へ。昼間のビールは回ります。
余所者の私も昨年から、町内に住み着き、顔見知りも出来たうえ、
今回は子ども祭りの写真係を偶然務めました。
1年以上前の自分の暮らし方を思うと、何だか夢のようです。
「こりゃ、自治会費払うて入らんと」と感じているのを察したのか
「月300円でっせ」と早速誘われました。「入ります、、、」

こうやってこの町は400年以上も街道に沿った宿や市として
生計を立て、時に私のような流れ者も受け入れてきたのでしょう。
もちろん人物や技量を見て。町という有機体の懐の広さを感じた瞬間でした。

その日の夜は、恒例の猪名川花火大会でした。
昼の酒で夕方まで畳の上で突っ伏して寝ていると、もう5時過ぎ。
こりゃあいかんと飛び起きて、昼間に現像に出した写真を受け取り
駅前の銭湯でひとっ風呂浴びます。
それから家に戻り、猪名川の土手を歩き始めました。



立ち飲みの常連さんらは、花火を待ちきれずに
近くの小料理屋に集まって、すでに飲み始めているようです。
こういった間の取り方、ほとんど江戸時代の空気のようなものが
この町には残っているなと感じる瞬間です。

私も土手を降りて神田(こうだ)方面から来る道に戻り
目当ての店で仲間と合流。先程のハヤジさんも女性連れで来ています。
暖簾をくぐり、「おう、」と三々五々の町衆が声を掛けて私も座ります。
頭にまげがあったり、女性が綺麗な着物を来た町娘の恰好をしていても
全く違和感のない状況です。

ゼネコンのAさんは大工の棟梁、酒屋の大将のハヤジさんはそのまま、
女性のあの子は小間物問屋に務める町娘、私は武家屋敷に住む侍でなく
長屋に住んでいる「先生」ということで、ちょうど良いでしょう。
こんな町に住んでみたいと思う人は、江戸時代だったら俺は何屋かな、
とイメージして、来て下さい。
墓石屋、畳屋、学問所の指南(大学教授)いろんな人たちと知り合いに
なりました。



雨も上がり20分遅れで花火が上がり始めました。
お店を出て、川土手の方に向かいます。

燃えている瞬間というのは綺麗なものですが、
消えるほんの手前というのは映像で見ると、こんなイメージです。



一瞬、宇宙の底から星を見上げているような、気持ちになりました。

今年の夏も終わりが近くなりました。



2011 08/27 09:33:18 | 長屋暮らし | Comment(0)
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