男たちには判らない


どちらも、昔の暮らしには、無くてはならなかったものである。

今の時代は、日本酒も炭も、代わりのもので用が足せるので
昭和20ー30年代までは、池田と言えば、酒と炭の町であったと言っても
今ではピンと来ない人の方が、圧倒的であろう。

池田暮らしが、4年目に入り、今年はこの2つを調べてみたり、
取り組んでみることにした。
2013年1月12日、元の青年の家、現カルチャープラザの
「池田炭と茶の湯」3ヶ月間の実地教室に通うことが始まった。

といっても月に2回程度ののんびりしたものである。
だが、次回から豊能町に現地集合し、山の中で材料の切断から
炭焼きまで、春近き能勢の山林で取り組む予定だ。

今年のコースの参加者は定員の40名。
男性女性半々くらいであったが、男性は圧倒的に定年リタイア組
が多い。それに比べて女性は、半数が同世代以下のように思える。
炭焼きの道と、里山との共存共栄について、考えていきたいし、
細々とした特産品であるが、名産復活に盛り上げていけないかと
手前勝手ながら思った次第である。

なぜかというと、40名のうち地元池田の人は、わずか3名。
後は圧倒的に市外からの参加希望者である。
池田市民の関心の低さと言うか、廃れた文化に対する冷たさが伺える
ではないか。

もう一つの池田の酒は、昨年の暮れ近くに、面白い本を手に取った。
大正時代刊行の「池田酒史」を復刻して、再び本にされたのを
拝見する機会に恵まれたのである。

いつも行く立ち飲み酒場に、1冊の本を持ち寄っていた方は、個人で
歴史を研究されている篤志の方である。
この方と年末にお会いする機会に、遭遇した。
私がこの本に大変興味を持ったことを知った、酒場の主人が知らせてくれて
お話しする幸運に、会話が進んだ。

池田の酒は、徳川家康が暗峠に陣を構えた際に、当時の最大の酒屋、
満願寺屋が、陣中に見舞として贈り届け、多いに喜ばれたこと。
家康が天下人となって以降、「天下無双」を名乗り大いに栄えて
江戸に送られて高名になったこと。
下り舟で運ばれた池田酒が高級品で、江戸に行かないことを
「下らない」という言葉の語源になったこと。
満願寺屋の隆盛に、嫉妬した他社から横槍が入り、朱印状は単なる
礼状に過ぎないと、阿諛が入り満願寺屋が、あっという間に失墜したこと。

時代は下がって、呉春の先代当主が、戦時中に酒にかこっていた、文豪
谷崎潤一郎に、統制中もせっせと酒を送り届けて、文壇仲間は飲むことに
不自由しなかったので、谷崎帰京後の東京で、出版界中心に、呉春の
ファンが増えて、今も東京で名声の伝説が続いていると言う。

しかし、この大正時代の本は、昭和天皇摂政時代に、姫路の陸軍大演習
に届けるために、在郷軍人会の大物であった酒造会社の棟梁らで20日間
ほどの突貫で作った歴史書であるため、記述内容に考証が不徹底なところも
あり、伊丹などから注文が付いて、あまり歴史学の面から評価されなかった
という側面もある。

いわば幻の本であったのだが、池田の酒だけについて書かれた書は他に無く
その点を除いても、非常に価値があると思う。
特に渡来人の秦氏が池田に伝えた、産業の一つが酒造りではないかという
記述に私は、我が意の同意を得た気がした。

今年からと言うより、今後も引き続き、池田の歴史に付いては研究を続けて
面白い発見があれば、記事にして行きたいと思う。

2013 01/12 22:30:54 | 長屋暮らし | Comment(0)
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