男たちには判らない

鈴鹿と言う所へ行って来た。

鈴鹿は、京や大阪から行くと、滋賀県から鈴鹿峠を越えて
三重県の亀山へ降りて行った先になる。

国道の長男、1号線は、大昔の東海道を置き換えて、昇格させた
ものだから、今でも国道1号線で、滋賀の栗東付近で南下して、
鈴鹿峠を越えるのが、伝統的に正しい行き方だと思う。

明治時代以降、鉄道の時代が来て、東海道本線は、琵琶湖の
水上を結んだ短期間経路のあと、米原〜岐阜回りに決定した。

こっちは、昔の中山道で、鵜沼から太田、多治見、中津川へと
行くのが本当の筋だ。

鈴鹿市という現在の地名のある所は、微妙な付け方だ。
本田技研が自動車と二輪の工場を置き、自前のサーキットを
昭和38年に完成させて、有名な町になったと記憶する。



(ホンダが誇るスーパースポーツNSXの最終モデルがサーキット走行
練習用に、色違いで3台並んでいた)


今も付近には、自動車を整備する工場も多い。
自動車好き濃度が、特別に高いように思えるのである。

鈴鹿郡と河芸郡のどちらが、メインとなる中心地だったのであろう。
それにしても、すずかの声音は響きが良い。
女性の名前にも使えそうな音であるが、鳥の名前のようである。

いかるが「何鹿」という古名であり、鳥の名に通じる万葉の優しさを
感じてしまう。
そして鈴鹿は、草深い峠の道を思わせる、古名だ。

いにしえの明治の鉄道時代は、旧東海道に沿って私鉄の関西鉄道が
路線を引いた。
草津から柘植に出て、亀山に至る鉄道である。

この山線区間の峠越えに使われた機関車は、「鬼鹿毛」と呼ばれ
アメリカブルックス社のモーガル型テンダ機関車である。
勾配用の強力機関車であったのだが、私鉄の関西鉄道は、民鉄らしく
機関車の形式名に昔の名馬を、あやからさせたのである。
「鬼鹿毛」、いかにも逞しく、深い山道を掻き分け登るクライマーに
相応しい名前ではないか。



  峠を越えた、「彼ら」が憩うた、関の駅である。



ところで今回鈴鹿に行った理由は、鈴鹿サーキットを自転車で走る競技に
参加するためである。

朝が早かったため、流石の私も現在の交通機関を用い、草津から新名神を
使って亀山に至るルートを使った。



その帰り、行きと同じ高速道路を使ったのでは、旅好きの名が廃る。
鈴鹿市内を通り抜け、



亀山を通り、峠越えの道に挑戦した。

関という駅の名前は、古来にあった鈴鹿の関に名を由来する。



関駅の駅前広場横、国道1号線に隣接するあたりに、歴史の長そうな
寿司店が残っていた。

昼以降、何も食べていなかったので、付近にあった道の駅で
ようやくラーメンとおにぎりにありついた。



峠越えの道を、軽自動車の限界を考えながら、駆け上がる。
重量物を運ぶトラック、その他の一般の旅人は殆ど新名神回りになったのか
交通量は多くなく、快適に雨の峠道を上って行った。




この道を生まれて初めて通ったのは、大学の若い日に遡る。

四日市の大きな燃料店の倅が、一学年上にいた。
彼は現役で来ていたので、歳はいっしょだ。その上早生まれだから、生年は
私の方が、早い。
この男が、ちょっと変わった男で、お坊ちゃん育ちのようで、結構ワルとも
付き合いがあったようなのである。「ゴン太」なんて先輩に名付けられていた。

仕事はできた。
少し反目もあったが、その内に一緒にコンビを組んで、原稿を紙面にしあげる
のに、いつでも徹夜で付き合った。お互いクルマ好きの部分で共鳴するところ
があったからである。

この男に、頭が上がらなくなった事件は1年の時である。
学生食堂で、ご飯を食べていた私は平気で残していたのである。
それをはっきりと批判された。ヤンキー上がりと思っていた私は恥じ入った。
それ以来、どんな御馳走でもご飯粒まできれいに食べるようになった。

いいとこ育ちの甘えを指摘されて、こんなヤツと思ってた男に、ついていく
ことに決めた。

よく遊んだし、福井の山奥まで三菱ミニカのピックアップを拾いに行くのに
付き合ったこともあった。

学生時代が終わり、名古屋のスーパーに勤める彼を訪ねて、友達と電撃訪問
したこともあった。

そんな頃からさらに月日が経ち、ある時にサークルのOB会の席で、飲んでいる
と、2年上の先輩から、彼が亡くなっていたことを知らされた。
その日は正体が無くなるまで痛飲した。

過労死のような、はっきりした理由は今でもわからない。



ただ、50を過ぎた、今の私が鈴鹿の坂を駆け上がるとき、
あの日、深夜の東海道を古いギャランで駆け下りて、ここが鈴鹿、ここが関、
ここが坂の下の旧跡だと教えられ、真夜中の四日市のコンビナートの夜景を
一緒に眺めた20才過ぎの日の印象は、忘れていない。



瞑目は、何のためにすべきか。
その答えはまだ見つからない。

ただ私は、車を走らせ、来た道を、亡き友に問うだけである。

田植えも終わった近江の村には、梅雨の雨雲が、垂れ込めていた。





2011 06/01 08:44:06 | 旅日記 | Comment(0)
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