男たちには判らない
2012年1月29日 極寒

朝は荻窪から出発した。
前夜は西郊ロッジのご主人に荻窪とプリンス自動車のお話を伺った。
中央線沿線がまだ武蔵野の時代から、軍人の町になり、戦中派になじみの深い
中島航空機から富士重工(スバル)と富士精密(プリンス)が生まれたのである。



このガレージの2台隣には、なんとグロリアが寝ているのだよ。

(参考写真)


さて、首都高に乗るのに、高井戸に出ようとしたらご主人は「新宿に出た方が近いですよ」
と事も無げに言われる。ままに青梅街道を走って行くと高円寺中野と過ぎ、朝の新宿に
程なく出たので、本当に荻窪は都心に近いのに静かな町なので驚いた。



お台場には、個人エントリー車は朝の7時から8時の間に入るのがルール。
7時過ぎに荻窪を出て8時前には難なくお台場到着。結構私も首都高や東京を
走る回数が増えてきた。道に迷っていらいらすることもない。
会場周辺は早朝から、エントリー、非エントリーの2派が異様な空間を演出している。
エントリー車は、真面目くさった旧車、もしくは少数だが外国製の本物のクラシック。
非エントリー組は、ヤンジャンや、ヤンマガの漫画からそのまんま出て来たみたいな
落ちこぼれブルース、いや私は否定はしていないのだよ。むしろこれはエスノロジー
(民俗学)だと思っている、興味ある「標本」がたくさん集まって、そこら中を旋回
してたり、朝から爆音を鵞鳴り上げている。
こういうときにそっちに反応する人も多くて面白い。
「まあ、ええんじゃないの」と私も見に行きたいのだが、今年は寒くて、さらに
再入場が面倒くさい方式に変わったので、行きそびれてしまった。

一般入場前の時間帯は、会場の空気が澄んでいて、エントリーと関係者だけなので
挨拶がしやすい。
私もこの時間が一番好きだ。常連のあの車はは来ているか。面識は無くともお互い
人生まだ生きていて、好きな車に乗れている。これが新年の賀詞なのである。
だからニューイヤーミーティングなのであり、浪速からわざわざ走って参加する、
意義はそこに最大のポイントがあるといえよう。


今年も来ていた大阪ナンバーのワンオーナーのジャガーXJ6のシリーズ2モデル。
まだ三角窓の残っている時代の70年代後半あたりの車だ。
非常に当りの悪い個体の多かったシリーズ2を、ここまで維持するとは並大抵でないと思う。
一度ベテランオーナー氏にインタヴューしたら、「買った値段の数倍かけて、普通に走る
車にしあげた」と仰られた。その通りだと思う。「その後は楽ですよ」、頭が下がる。

私はイベントにエントリーしている車というのは、見てもらいたくて出しているのである
から、ナンバーを修正して消す必要はないと判断するので、そのままピックアップします。
必要が有る人はコメントいただければ修正します。


隣に124スパイダーがやってきた。この方も何度か会場で並んでいる。

これが2つ前のオールドタイマーに乗っていたサーブ99である。
一見非常に900の初期に似ているので、改名しただけかと思っていたが、実のところは
結構別のモデルのようで在る。
こういう、地味な、平凡な、(不人気な/笑、御免)すっぴんの輸入車を選んで乗り、
もちろん「ディーラー車」の誇りを矜持しつつ、乗るオーナーは、俺は漢(おとこ)
だと思う。我もそういう傾向が在る。「花の慶次」に出て来る漢というのは、そういう
野郎たちのことではないのか。



サーブ99の“たまらない”ところを、何パートかピックアップしておく。

今年気になったのは、いすゞフローリアンである。

この横浜ナンバーのグリーンの綺麗な個体は、記憶では10年以上前から来ている。
この車が、「だんだんと仲間を」集めてきて、今年は3台の花(フローリアン)が咲いた。
岩5ナンバーは前照灯が変形角2のオリジナルデザインに近い初期の後期モデルである。


ところで、東北には昔はフローリアンがたくさん走っていた。なぜだろう。
駅前タクシーには非常に多くて、私は1981年に初の東北旅行をした時に考えた。

その答えは、天然ガス車よりディーゼルの方が、寒冷地では強いからでは、と
推理した。
その頃ディーゼルを日本で作っていたのはいすゞである。
鈍重で不格好なフローリアンタクシーが、そう思った瞬間、実に頼もしく思え、
一度学生旅行なのに乗ってみた。いやーこれだなー。それが「来ていた」のである。

構内タクシーの標章。「仙」は仙鉄局。日本国有鉄道仙台鉄道管理局の管轄駅に
乗り入れの可能な登録車両だ。


何か、当時物の補修ペイントとか、新聞や雑誌から構内タクシーの写真とか転載して
室内に並べておられました。こういうプレー(遊び)も有りなのが、このお台場の1日
なのである。変態プレーといったら失礼であろうが、根はコミケに近いものがある。

2012 02/04 04:34:17 | 日記
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北摂の池田という趣きのある町に住んで3年目になる。
おっとりとした旧い車の似合う場所なのであるが、
意外と、街中で「おおっ」と、いう個体に遭遇することは少ない。

昨日は中の橋を渡りながら、凍れる水鳥の写真を撮っていると、
後ろから古いOHVエンジンのサウンドが。
振り返って久しぶり、あっと思った。



銀のシトロエンCXである。ナンバーは3桁で、金属製バンパーでない
セリエ2になるが、1985年以降の最終型の、しかもロングホイール
ベースのプレステージュである。



この橋を渡り、街道に出るあたりの風景は、以前は時が止まったように
古い家並が並んでいたのに、現在は可成りの軒数が取り壊されて
コンビニや空き地に変わってしまった。
無粋なのでトリミングした写真で見直して欲しい。

後ろの江守時計店は戦前からある店だ。
また、信号を渡ったところにある川崎豆腐店は、江戸期の創業で
いまも美味しい豆腐を提供してくれる。
能勢・池田方面訪問の帰りに、お土産として買ってもらってもよい。


2012 01/09 07:02:03 | くるま全般 | Comment(0)
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12月4日(日)
朝から町内会の、新年餅つき大会。
午後から東淀川区東三国へ。
車好きの友たちの忘年会。ギター持参。



翌週の11日(土)。
隣の市にある緑地公園の無料解放区、「緑地のはらっぱ」子ども野遊び隊の
ボランティア打ち上げ。
この夜は見事な月蝕にも酔った。



14日(水)赤穂浪士の討ち入りの日、京都の南禅寺で前に勤めていた会社の
同志で飲む集まりへ。
この日は泊まりがけで京都に行けず、日帰りで戻って来る。



12月18日(日)池田市内の立ち飲みのコミュニティで、山崎にあるサントリー
ウイスキーの工場見学と試飲会。
その足で、高槻の居酒屋で懇親の、まあこれもそうか。



12月22日(木)冬至。
西淀川区御幣島でキャンドルナイトの夜。
エネルギー問題研究の人たち中心のイベント。ここは飲まずに池田に戻る。
スローカフェ、平田タカオという歌手を知る。



23日(祝)
大学時代のサークルの連中と本町のインドネシアレストランで。
10年続いたが今回がこの会場は最後、来年で店は閉じられる。
2次会はいつものようにカラオケ。


24日(土)クリスマスイブ。
長男の大学キャンパスまでスパイダーで出かけ付近の駐車場に停める。
30分100円。
野田秀樹の演劇芝居を見た後は、池田に戻り職場時代の部下が遊びにきて
男二人で鍋をつついて忘年会。日本酒に酔う。
その後は駅前の銭湯で芯から温まり連れを見送る。



25日(日)
妙見山の麓に凍れる朝、車好きが集合。部屋の掃除と洗濯で合流出来ず、
独り妙見山参拝。
午後からは、池田に戻り電車を乗り継ぎ、千日前のトリイホールへ。
上方書生節研究会の公演を見に行く。
夕刻は梅田に戻り、茶屋町のバンドワゴンで、持参の天然スダチでジンフィズ。
最後は久しぶりに家族のいる家に行き、ケンタキとピザとケーキで
軽くクリスマス気分。
子ども3人とよく怒る妻と。





あー疲れた。
もうあと2回くらいかなあ。



2011 12/26 00:52:45 | 日記 | Comment(0)
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文化の日の11月3日、丹波市の旧春日町まで
車のイベントで出かけた帰りに見事な銀杏の木を見つけました。




場所は国道176号線を柏原から鐘が坂峠を越えて、
篠山側にトンネルを出て降りて来たあたりです。

車窓右手に、あまりに見事な大木が見えたので
ハンドルを右に切りました。











あまりの美しさに見とれてしまいました。

最近気の悩みが多いのですが、こういった何百年も経った
古樹たちは、人間の生き様を何代にも渡って見てきたのでしょう。



私は、どう生きて行くべきなのか。

古い車と大きな木。

長く続いているものに、不思議な力が宿っていました。


2011 11/04 05:47:48 | 旅日記 | Comment(0)
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swaybackということばを覚えたのは、中学時代であった。
日本人に判りにくい概念であるが、カタカナで検索すると
「猫パンチをスエーバックで避けるワンコの画像」などが
出てくるが、これはボクシングの用語だ。

本来は老馬の背中などが、長年の苦役で著しく曲がった状態などをいう。
>脊柱彎曲症,
swayback (uncountable) 1. An excessive sagging of the spine of a quadruped animal, especially a horse.

中学時代に知ったのは、アメリカ型の貨車(貨物車)で木製のものが、
古くなると背中が垂れ下がる。これをスエィバックドといって
模型でもわざとこういった味のあるものを作ろうという試みがあった。
1950年代の模型雑誌からの転用記事であるが、ませた中学生には
大人の趣味は面白いと、多いに感じたものである。

今回の岐阜県の旅の最後に訪ねたのは、高山から来る高速道に
何所から乗るか。郡上市か美濃市か、迷って今回は美濃を選んだ。
この美濃市は、20年ほど前は名鉄の美濃町線が岐阜市内から
通じていた。その頃に訪ねた記憶がある。
美濃町と言う方が相応しい、美濃紙で栄えた、少し山あいの古都である。
久しぶりに訪れた町に車を停めて、少し歩いてみることにした。



20年ぶりに訪ねた街は、景観条例を用いたのか、すっかり綺麗な、
町並みに変わっていた。いや、変わり過ぎていたのが気になるほど
の徹底ぶりである。
この「うだつ」(隣家との防火壁)を特色にした旧い町並み景観地区に
足を一歩入れて、「変だ」と思ってしまった。



電線の地中化、舗装の非アスファルト化は、まだよい。
気になったのはスカイライン=屋根の稜線が全部定規で引いたよう
に真っ直ぐになっていることである。
1軒だけであろうか。いや隣も向かいも、通りに面した古民家全ての
屋根が、堂々たる本瓦造りで、へこみやゆがみの無い直線で、
リニューアルされていたのである。

あちゃー、この町の再生を考えたプロデューサーが
もう、曲がったことの大嫌いな真面目人間だったのか。
これでは味も何にも無い。
旧い民家の屋根は、適度にスエィバックしながら、稜線を連ねる
ものなのである。お役所も、建築家も、街の人たちも、「これでいい」と
思ったのだろうなあ。生真面目な若手建築家、とくに女性あたりが
監修して、「こんな綺麗な」町並みにしてしまったのではないか。




これではまるで「映画村のセット」である。
私はため息より苦笑を禁じ得なかった。「うだつ」の町並み、
歩けば歩くほど、完璧に手直しされた軒並み、甍が連なっている。
屋根をピカピカにすると、こんなに街が造ったみたいになるのである。
お陰で、観光客は話題の、新しくなった美濃町に訪れるように
なったようである。そしてレトロな旅情を楽しんでいるようであるが。



いま、レトロ風なまち興しが各地で繰り広げられているが
ヨーロッパのような中世の街角風景がそのままで観光資源に
なっているのと違い、日本の場合、特に戦後に継ぎ接ぎで
変わってしまった街角を「もう一度江戸時代に」戻してみて
一体何になるのだろうかという、思いも強い。

一時的なカンフル剤や、観光資源として、町並みを再評価する
のはよい。しかし街というのは生き物であり、これからの世代が
暮らして行く土台である。
おそらく馬籠や妻籠の町風景を参考にした部分もあるであろう。

美濃町に関して言えば、美濃紙、奉書紙で栄えた時代に
デディケイドして、町のヒストリーを見つめ直して、本格的な
歴史の評価をすることは良いことである。
うだつが造られたのは、燃えやすい紙製品を扱う商家が
多かったことに、始まっているのだと思われた。




町並みを一周し、路地や奥に入ると、改修されていない民家に
出くわし、何かホッとした。
さあ遅くなった。岐阜の旅も終幕章を閉じよう。
でも、昔の美濃町駅のあとに作られた無人のミュージアムで
また1時間捕まってしまった。
ここで、レトロな1970年代のシングルレコードを5枚選び
ちゃんと「料金箱」に500円入れて、帰ってきました。

わたしのレトロは、この辺なのだなあと、思った。


2011 10/06 01:15:01 | 旅日記 | Comment(0)
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岐阜の旅から一週間が経った。
秋の日が過ぎるのは早いものだ。
日記更新がゆっくりしているので、旅紀行の文を急ごう。
苗木は今では中津川の対岸の小村だが、明治4年の廃城令までは
奥濃のこのあたりを治めていた城は、昨晩泊まったこの苗木に
あったのである。
遠山資料館が、民宿を出てすぐの所にあるので、きょうは時間を
惜しまずに寄ってみた。
苗木遠山氏12代の歴史と、中世以前の中津川近辺の歴史のことまで
詳細な史料が展示されているのに、感心した。
小一時間見学したあと、出口で質問をすると遠来の訪問者に
館長先生まで出て頂いて、「遠山」の由来や、私が興味を持つ
中津川から美濃福岡方面に出ていた、「北恵那鉄道」の沿革迄
説明して頂いた。



さあ、ここでも城跡を見て行って欲しいと直に言われたら、流石の
私も二枚舌は使えないので、資料館から「城山」へ車を向けた。
お城の跡は、現在の苗木の民が自慢するだけに、中々風情がある。
規模も大きい。
これ迄幾つもの古城跡を見てきた。
ヨーロッパの中世の城跡、シルクロードの跡に残る中国とも
インドとも、アフガン、パキスタンとも入り交じった桜蘭の
ような痕跡、そしてアルジェのカスバ。
そりゃ、私が兼高かおるだったら世界中を見てきたい。





日本の古城址に登る度に私はいつも胸に去来するものがある。
それは、戦前まであった、旧制高校や中学などに残っていた
「風」である。
「グロテスクな教養(主義)」という本をかつて読んで、「あっ」と思ったことがあった。
日本では死語になった教養主義について、女性が取り組んだ
稀本なのである。
これは男性中心の戦前のエリート教育の功罪でなく、少し
ルーツに踏み込んだ部分が良かった。いまあちこちのブログを
読んでみたが、おそらく殆どの人が気づいていない。
かつての青年たちは、古城址に登りゲーテやリルケを紐解き
「シュトルムウントドランク(疾風怒濤)」などの言葉をくち
ずさみ、ときに小便の「スコール」(放水)をして騒ぎ、なにが
やりたかったのか。

全国各地の、小都市にあったものは、明治4年迄の「城の跡」で
ある。そして旧制の学問は、殆どが「藩校」の流れを汲んであった
ことに気づくべきである。
回顧主義とノスタルジア、それだけで語ってはいけない。幕末から
維新にかけて、武士階級は心が折れるような体験をして、その子弟
たちをいかに、これからの「時代に役立つ」ように育てるかに
腐心したのである。だから有能な人材も多く輩出した。その中から
現実主義な人間も出たことが今と成っては面白い。







私は旧い血を引く人間である。
かつて、1世紀どころか数十年前まで、ここに城があり、自分たち
の先祖が出仕していた統治の拠点を思いつつ、地方から中央集権に
なった現実に即して生きる。それが明治から昭和、戦前迄のインテリ
層のテーマだったのではないのか。


城跡を降りながら、朴(ほお)の木の大葉が遠くからでも目に着いた。

但馬の竹田城でも気が付いたが、古城跡にはホオがよく生えている。
非常食か利用目的が何かあったのではないか。

随分時間を食ってしまった。旧遠山の城のあった美濃福岡に行きたいが
その前に、中津川市内に一旦車を走らせ、「す屋」の真ん前にクーペを
横付けて、「栗きんとん、ばらで5つ」買って大急ぎで出発した。

付知川に沿って今は市内に合併されている福岡町方面に車を進める。
昭和48年迄は、この道路に沿い、北恵那鉄道と言う寂しい私鉄が走っていた。
先ほどの資料館の館長氏がずばり、大井ダムが出来たのが大正12年、
北恵那が出来たのは、材木が水運で運べなくなったからで、開通も同じ
12年ですと明答してくださった。
それにしても、大井ダムを造ったのも慶応出身の福沢桃介である。
木曽や、下流の八百津など東濃の電源開発の殆どに出てくるこの男の
残した「跡」は今でも色濃く残っている。
「愛人」であった貞奴の伝説とともに。



さて、昼飯はどうするか。丁度いいところで蕎麦屋を見つけた。
昼飯どきと言うことか、えらく混んでいたが、運良く一人で座っている
男性の向かいに相席を取って頂き、すぐに座ることができた。
後で向かいの男性に聞いたら、この辺りでは結構有名な店らしい。
待ち時間の間に中日新聞を取って来て読む。戻そうとした向かいの
人が話しかけてきた。目を上げてみると結構上品そうなご主人だ。
大阪から来たと言うと、その方は名古屋の人で、この近くでパラグライダー
をした帰りで、ここはよく来るという。
私はさすがに愛車の写真は見せなかったが、おそらく呉服問屋の主人のような、
相手の方は、それなりの豊かな暮らしも出来て、お互い子供も大きくなり
好きなことが休日に出来る境遇なのであろう。

ふと、江戸時代の茶屋で、旅の恰好をしたお互いを想像してみる。
茶屋の従業員も相席にするなら、それなりに無茶な相席にはさせない。
ここで旅のヒントになる会話が成立するのも、旅の醍醐味だと思った。
私の方が、先に出立した。







恵那郡から加茂郡へ。白川と言うところに出ることにする。
川に色の名前が付いているのが、旧苗木藩の藩境の特徴だと、資料館
展示に書いてあったが、途中の黒川と言う所に、ちょっとした「場」
があって、橋のある袂に「白川茶」という文字が見えたので、車を
停めて名産品を買うことにした。

だれも居ない昼下がりのショップ。呼びボタンを押すと返事があり
歳の頃30過ぎの白川美人が出て来られた。
こういう時の文章が面白い。司馬遼太郎ならどう書くか。
「街道を往く」のはきょうは、私だ。
媚びもせず妙な愛想の良さもないが、この女性、中々雰囲気がある。
きっと名古屋か岐阜の学校を卒業されて、地元に戻られたのではないか。
茶所の歴史や、どんな所に納めているか、お茶の相場迄、二杯目の
お茶を飲み干している間に、お話させていただいた。
「あて」にいただいた梅の実を蜂蜜につけた「お茶請け」が美味しい。

おそらくは、苗木の殿様が藩内で茶を自製させ、名物として出荷させる
までに育てた。とりわけここ白川の茶は、有名らしく、自慢であったで
あろう。この女性にも背筋の伸びた印象があった。
「最近の洪水で、近くで一人流されてまだ見つかってない」らしい。
旅の道中の安全を祈り、お茶屋での一服の後、再び出発する。
お土産には、一袋2000円弱の、良いものを買っておいた。

「おーい誰か、栗きんとんを持って来ないか!」
「殿、粗茶はまだ味が出る少し前にて、ござります!」
「今しばらくの、お待ちをー。。」

2011 10/01 14:30:01 | 旅日記 | Comment(0)
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私がいつも泊まるのは、中津川の駅の回りにある市街から離れた、
苗木と言う村にある民宿である。
鄙びた温泉であるが、この宿はとりわけ奥の方に入ったところにあり、
北から越えて来た道を降りて行くと南に面した日当りの良い土地に、
共同墓地がある。墓と言っても凄まじいものでなく実に穏やかな墓所
なので、その隣といっても気にならない。そして何より嬉しいのは、
この宿の前庭や二階の部屋から恵那山の遠望が見渡せるのである。







私の世代前後であれば、遥か昔に葛城ユキがポプコンで賞を取った
「木曽は山の中」という歌を覚えている人も多いであろう。
雪解け時期の遠く望む恵那山の風景が、春を知らせることが
「やけにうれしくて」の恵那山である。
この山の表情は優しく美しい。
今回苗木の歴史を、資料館と後述する古城跡に行き、知ったのだが、
このあたりの藩主は遠山を名乗っていた。遠山とは、関ヶ原を越えて、
今の岐阜県である美濃に入った辺りから見えていた、恵那山のことで
あるらしい。
資料館の館長先生は「ここからでは近い山ですが、遠くからもその姿が
見えていたからでしょう」と説明する。









今回の旅は電撃旅行で、私に取っては珍しいことでもない。
この宿は、コンビニで見つけた500円の「全国安い宿情報」という簡便な
本で見つけた。いつも行きたい所付近で、短い紹介のなかで、何となく
適当に古くて良さげな宿に目星をつけて電話するのである。
ここは何回目の訪問になるのであろうか。
いつも空いていて、宿の回りが建て込んで無く、山の中を散歩している
ような気分になる。隣といっても50mほど離れた墓地の周囲などに植え
られた花が、宿のアプローチ(導入路)含めてずっと、玄関前までに
続いている。これまでに来たのは春が多かったが、秋も良い。







それから温泉なのか、風呂は24時間入れる。
何度もここにきているが、これはありがたい。循環式は一時期衛生面で
騒がれたことがあるが、それより今回は風呂場の老朽化が最初気になった。
木曽檜の故郷ゆえ、風呂の大きな浴槽が、木造なのである。
そして風呂の蓋というのが、建築用の廃材の長い板を何枚も、ずらりと
横に並べてあり、入浴するときは、この板をめくってパタパタンと除けて
いかなくてはならない。
独りで入浴するなら、全体の15%くらい、6枚もめくれば入れる。











ここに来るようになり、7年が経った。部屋は民宿レベル。蒲団は
せんべい布団。風呂は古くて暗いが何が良いのであろう。
やっぱり風呂に何度も何時間も入れるから、地元の農民が農閑期に
一年の労働で疲れた体を癒しにくる、湯治の宿ではないのか。

私も今回は前日の深酒と、精神的逃避、それと背骨のエンド、お尻周辺の
痛みが抜けないのに苦しんでいた。
宿に着いて直ぐにひと風呂浴び、食事の用意ができなかったので、
食べに行こうかと思ったが、3時頃に高速のパーキングで食べた
お腹が重く、一食抜くことにした。いや朝も抜いたのでこの日はまさに
プチ断食になった。
それからまた夜遅く風呂に行った。

どうやら連休の土曜日というのに泊まり客は他に無く、風呂は遠慮なく
入れる。最初「汚いな」と思っていた木造の浴槽も、苔でなく菌類の生えかけた
風呂の蓋も「自然のものだから、生物が生えたりするのか」と考えを改めた。

これは防腐剤や化学薬品が人体に与える影響と、自然に腐って行く
食べ物を比較して「(これくらいなら)食べても死にゃあせん」という
姉の思考に最近は影響を受けているようだ。
一応姉は国立大学で生物学を学んだレベルなのである。

体の痛みを直すには、いつもよりじっくり風呂に浸かり、芯まで温める。
のぼせて来たら、出て休めるのだが、腰掛けも木製で黒ずんでおり
あまり座る気になれない。風呂桶も木製で同様だ。
そうか他の客もいないし、蓋の閉めてある風呂の縁に座っても大丈夫
だろう。それより思い切ってこの檜の廃材を並べた蓋の強度を考えれば
たぶん、と思いごろりと大の字になってみた。
いや愉快。
キノコの生えかかっている板なので、キタナいのだけど、風呂に入ったり
出たりを繰り返している間は、ちゃんと掛かり湯をしていますし。

7年前にイスタンブールでハマム(岩盤浴)で寝転がった時は
タオルがはらりとなって、監視のおっさんに大いに怒られたことがあった。
イスラムではポロリは大罪なのである。
いやいや他に入ってくる客もいないことを確認してるといえ、これは
いい気分。
大の字になって暗い浴室で瞑想していると、段々疲れや妄想が抜けて来た。









山の中なので夜更けは少し冷えるが、まだ9月だ。
換気扇のカラカラいう音を停めて、浴室の窓を開けてみた。
静寂(しじま)に冴え渡る虫の声。
秋だなあ。
センチメンタルにはならないが、人間は何のため苦しんだり
悩んだりしながらも生きるのであろう。

浴衣を着て部屋に戻り、電気を消して窓の外を見上げる。
満天に広がる星の海と、虫たちのシンフォニー。
まだ普段は飲んだりしている10時過ぎだが、今夜はこの夜を
楽しめたので、そろそろ蒲団に潜り込むとしよう。
2011 09/28 14:05:32 | 旅日記 | Comment(0)
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また岐阜に行ってきました。
関西人の私が、メランコリーになるとすぐにでも
行きたくなるのは、あの関西とりわけ大阪独特の
人間の距離の近さに、息が詰まることが多いわけで、
30数年経っても、私自身が偽関西人だからなのでしょう。



今回も近所の人のひとことがきっかけでした。
なんかしんどいなあ。
土曜日も日が高くなって、メンタルが最低なのに気づき
思い切って宿を取り、車を出すことにしました。
家を出ると直ぐに大渋滞、前途が思いやられます。
どこから高速に乗ろうか、1時間近く右往左往している
間の気分は、もう最低以下。
それでも「これを乗り切れれば、きっと救われる」と信じ
豊中から名神に乗って、あとはすいすいの道中でした。

目的地が近づくと、山と空の色の濃さにびっくりします。
夏の間に木々の緑は焦げたように濃くなり、季節はそれを
さらにくっきりとした、秋色に変えてしまうからです。
夏の間に愛した女が、秋に成ると変化するのはなぜでしょう。
日射しの角度が変わると、眼元や貌のくっきりとした表情が
顕われて、自分の愛したをんなは、こんな顔だったのだと
不思議な感情と、さらに愛おしさを覚える。
私に取り、岐阜県とくに奥美濃路はそんな風景なのです。

2011 09/26 14:00:42 | 旅日記 | Comment(0)
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8月20日、朝遅く起きると、長屋の裏手では鉦や太鼓が
チンチン、ドンドン。
そうか、きょうは槻木町の子どもだんじりの日であったと思い出し
フィルムカメラを手にして、ゆっくりとその後ろを追いました。
ブログに入れたのはデジタルで撮った写真です。



おっとり町内会の顔役のハヤジさんに遭遇。
ハヤジさんは、近所の立ち飲みの常連です。
今回の子どもだんじりは、総責任者として仕切っておられ
いつもと雰囲気違うかなと、遠くで見ていると私の姿に気が付かれ
「写真係が生憎居りまへんのや。頼まれてくれまへんか」と言われ
記念写真を引き回しのあとで、会館前で撮りたいと言うので了承。

しかしカメラ小僧ならぬカメラオヤジは、揃いの法被着た町衆のあとを
着いて行くことに決めました。



商店街やお店のある場所に行くと、ほんとうに昔からの町らしく
「御祝儀袋」を持った店主や女将が出てきて、会計役の女性が受け取り
頭を下げるとハヤジさんが「ほれー、宮太鼓三回!」と合図を送り
子どもらは一斉に賑やかに囃子をあげます。それがまた嫌みがなくて
ほんまにええ祭りやなと、ついて歩きながら思いました。




昔は、新町や西本町、各町内に地車(だんじり)はあったそうです。
「今でも仕舞っておいてあるんやないやろか」
町の酒場で遭遇する初老の紳士はそう話しました。
我が町内だけが存続しているとはいえ、一時は子どもが7人と、存続の
危機もあったようです。
それでも「子どもが嬉しそうにするんやから」とハヤジさんらが
中心になり続けてきました。今では子どもの数が、増えました。偶然
阪急の電車の車庫の跡地が戸建てに分譲されて、民家が増えたからです。

私の住む長屋街は、昭和初年のまま。そして新住民からは帰国子女や
くるくる頭のドイツ人とのハーフの子なども参加してきます。
警察の届けは当初予定、子ども20人だったのが実際は倍くらいの人数に
増えました。



地車を会館倉庫に仕舞うと、「ま、一杯」と打ち上げに誘われて
私も近くの自治会館へ。昼間のビールは回ります。
余所者の私も昨年から、町内に住み着き、顔見知りも出来たうえ、
今回は子ども祭りの写真係を偶然務めました。
1年以上前の自分の暮らし方を思うと、何だか夢のようです。
「こりゃ、自治会費払うて入らんと」と感じているのを察したのか
「月300円でっせ」と早速誘われました。「入ります、、、」

こうやってこの町は400年以上も街道に沿った宿や市として
生計を立て、時に私のような流れ者も受け入れてきたのでしょう。
もちろん人物や技量を見て。町という有機体の懐の広さを感じた瞬間でした。

その日の夜は、恒例の猪名川花火大会でした。
昼の酒で夕方まで畳の上で突っ伏して寝ていると、もう5時過ぎ。
こりゃあいかんと飛び起きて、昼間に現像に出した写真を受け取り
駅前の銭湯でひとっ風呂浴びます。
それから家に戻り、猪名川の土手を歩き始めました。



立ち飲みの常連さんらは、花火を待ちきれずに
近くの小料理屋に集まって、すでに飲み始めているようです。
こういった間の取り方、ほとんど江戸時代の空気のようなものが
この町には残っているなと感じる瞬間です。

私も土手を降りて神田(こうだ)方面から来る道に戻り
目当ての店で仲間と合流。先程のハヤジさんも女性連れで来ています。
暖簾をくぐり、「おう、」と三々五々の町衆が声を掛けて私も座ります。
頭にまげがあったり、女性が綺麗な着物を来た町娘の恰好をしていても
全く違和感のない状況です。

ゼネコンのAさんは大工の棟梁、酒屋の大将のハヤジさんはそのまま、
女性のあの子は小間物問屋に務める町娘、私は武家屋敷に住む侍でなく
長屋に住んでいる「先生」ということで、ちょうど良いでしょう。
こんな町に住んでみたいと思う人は、江戸時代だったら俺は何屋かな、
とイメージして、来て下さい。
墓石屋、畳屋、学問所の指南(大学教授)いろんな人たちと知り合いに
なりました。



雨も上がり20分遅れで花火が上がり始めました。
お店を出て、川土手の方に向かいます。

燃えている瞬間というのは綺麗なものですが、
消えるほんの手前というのは映像で見ると、こんなイメージです。



一瞬、宇宙の底から星を見上げているような、気持ちになりました。

今年の夏も終わりが近くなりました。



2011 08/27 09:33:18 | 長屋暮らし | Comment(0)
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ある日。大学の鉄道クラブの掲示板にこんな質問がありました。

「笠岡はむかし、井笠鉄道の分岐駅で、1970年代の廃線後も
笠岡駅を出た辺りの高架道路の下に、昔の気動車が置いて
あったと思います。今はどうなっていますか」

私は最近まであったはずと、記憶を頼りに、これは一度
見て来なくてはいけないと、探偵ナイトスクープの探偵
よろしく、「岡部マリはいま?」じゃなく、「あの井笠の
軽便車両はいま?」とフットワーク軽く、岡山県笠岡市に
向かったのであった。




ありましたね! 山陽道をスズキアルトで数時間、途中ゲリラ
豪雨に遭遇したり、難儀もありましたが、疲れも吹っ飛ぶ
快感です。

この車両は、旧井笠鉄道の「ホジ9」といい、昭和6年に
梅鉢鉄工所で作られた機械式の元ガソリンカーです。
昭和30〜40年代まで、地方私鉄のうち、最もローカルな路線では
こういった旧式の気動車(非電化のディーゼルカー)が多く
走っていたのですが、今や昔の思い出です。
でも廃線後は、殆どの車両が廃車になり、解体され、展示された
運の良い車両でも屋外で朽ちて行きました。

高架道路の下という「屋根付き」保存であったことがひとつ。
あと、実は井笠鉄道の本社は展示場所の裏にあるのです。
ローカルの小企業が、穏やかな地方都市では鉄道廃止後も
その後40年以上も存続して、関係者が大切に保存してきたということが、
この「くるま」の奇跡に近い状態の理由なのではないでしょうか。

この展示保存場所のすぐ横には、笠岡港が物資の積出港で栄えた
時代の証人である商業建物が二つ、現在も痛んだ状態でなく
残っています。



手前の建物は、住友の化学肥料を扱っていた卸関係の
店のようです。



こちらは屋号に名前が入っていました。
「関藤謙治商店」。石炭、セメントに煉瓦、土管、
建設用資材の大問屋だったのでしょう。
木造の住友肥料の店と対称的な洋風の建築です。





2011 08/16 06:26:53 | 旅日記 | Comment(0)
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