男たちには判らない


何とも言えません。
2011 08/06 11:45:50 | 都市風景 | Comment(0)
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暑かったねえ、みなさん。
2011 07/10 22:20:40 | 都市風景 | Comment(0)
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6月後半の土曜日は、雨の予報を覆し、爽快な青空が広がった。

気持ちの良い朝を迎え、朝食のあと、家の中のカビ掃除に1時間
掛けた後は、緑地公園わきの原っぱへ向かった。
2ヶ月休んだ、子供遊びボランティアに駆けつけるためである。

4年目になるこの野外活動は、いかにも北摂らしい高邁な思想と、
それを利用している普通の子供たちの、ナチュラルな動機のバランスが
とれた、市民運動である。

海外体験などのある普通の主婦が、使われていない遊休地の非経済的
有効利用を考えついて、ここまで定着させるまでに発展した行事だ。

行政からの上から目線でなく、商業者らの目的利用でもない。
本来市民というのは、こうあっていいのではないかという、新しさを
感じたので、私は3年前から希少な男性ボランティアとして手伝っている。

この試みが東京の杉並や世田谷、また三鷹あたりでなく、大阪・豊中
というのが良いと思う、
また岸和田や河内八尾あたりでもなく、というと叱られるが
いかにも北摂らしさを感じてしまう。



この日は、午後の一区切りが着いた後は、再び家にとって帰り、息子と
冷麺の昼食を作って食べるとすぐに、阪急電車を乗り継いで天六に向かった。
この青空は、長柄付近で見かけた阪急電車からの淀川風景である。

今度は何かというと、北区天神橋六丁目付近にある、銭湯の栄温泉が
この月末で廃業になるというので、「銭湯文化サポーターズ」のイベントが
開催されることを、2日前に知ったばかりであるが、折角の機会だからと
参加することにしたのである。



栄温泉は、北区では珍しい、御影石の床を残す、大阪の古式に則った
公衆浴場である。見学&入湯の前に、折角だからという機会なので、
天六にある住いと暮らしのミュージアムに入り、ここに復元されている江戸後半の
なにわの銭湯というものを見学して、お風呂屋さんの由来に着いて、勉強会をした。

参加者は解説者含めて、20名程度で、中心年齢は40代から60代くらい、
男性大半、女性ちらほらといったところである。


ミュージアムに来るのは、久しぶりである。
10年ほど前にこれが出来る前は、まだこんなに余裕の無い時代では
なかったが、その辺りから大阪市や府の財政赤字が、叫ばれ始めた。
皮肉な文化行政だが、この施設は面白いと思った。ただ15年20年を
過ぎると万博のように飽きられはじめ、移り気なナニワッ子は
おそらく来なくなってしまい、折角作った文化施設も、要らないのでは、
と新聞あたりで叩かれてしまうことを、繰り返しそうである。




この日の展示は、「江戸時代の天神祭」をモチーフとして、美しかった。

午後5時の閉館まで、1時間半の見学の後は、温泉に行き、男性と女性、
それぞれ分かれての、入湯タイムである。
団体で入るといっても、共同購入のチケットを使い、特別な気分はない。
小1時間の入湯のあとは、近所にある奄美料理店の「ていだ」に行き二次会となった。

ここまでの流れは、概ね破調もなく、こういう集まりなのかなと、思った。

で、二次会は、ここからがオフ会の妙味かもしれない。
狭い店の席に膝を突き合わせ、座った者同士で酒を飲むうちに、次第に打ち解ける。
半世紀、いや大昔から、酒の入る社交というものは、あった筈だ。
男たちは、おずおずと、オフ会用に作った名刺というものを差し出す。
私は手ぶらなので、「オフ会評論家」がいたらNGを出されそうだ。

この「オフ会デビュー」のような一瞬は、何ともビミョーな甘ったるいような
緊張感のない瞬間だ。軍事や政治、経済や商業でも名刺交換はあるのだが、
それは「肩書きの入った名刺」だから、緊張感が伴う。
三国志や戦国時代に、合戦で刃を合わせる前は、各々の旗印で相手を確認
したことにも、通じるようなものである。

こんな「猫が腹を見せる」ような名刺交換は、やっとられるかぁ!と「オフ会の狼藉者」
は最初は大人しくしておるが、しかし段々と興が乗るに連れて自己紹介していく。

気が付くと、結構喋ってしまった。 幾人かの方には強烈なインプレッション
も与えたような気もする。もう一軒、シマを変えて飲みに行き、遅い時間に
へろへろと、電車で長屋に戻った。
この時間から、風呂屋に行かなくてもいいだろう。また少し汗もかいたが。
面白い、忙しい一日であった。子供遊びのボランティアに、銭湯巡り。自由な
時間がたくさん増えた意義をいろいろと感じる。
銭湯に関していえば、私の場合、普段から風呂が無くて行っている立場なので
珍しいものを見るような視線はない。ただ、いろんな人が居るのだなあと思った。
2011 07/02 07:06:29 | 日記 | Comment(0)
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昨年、一緒に仕事をした人から電話がかかってきて
私が仕掛けた、北摂論の続きをやることになった。

土曜日は天気が良いので、豊中駅前のビルで別の打合せが
終わった後に、駅前の大池小の所から、梅花の近く、豊高の
あたりの上野の端まであるいてみた。



このあたり、嫌みのない良い生活空間があるなあと再確認。
数年前の転居の際に、住みたいと一瞬思ったものだ。



大阪でも特異な空気の流れる、北摂の一部の研究は
ずっと続きそうで面白い。

日曜日には、生まれてから47年、こちらがわ(豊中北側)に
住んでいる後輩に面会してインタビュー。
これも興味深かった。



久しぶりに会う後輩は、「出向しまして」と言いながら
子会社の社長さんになっていた。

会社も辞めた私は、そうかと言いながら、いろんな友たちの
30年間の人生が、フラッシュバックした、1時間であった。
2011 06/06 06:17:09 | 都市風景 | Comment(0)
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鈴鹿と言う所へ行って来た。

鈴鹿は、京や大阪から行くと、滋賀県から鈴鹿峠を越えて
三重県の亀山へ降りて行った先になる。

国道の長男、1号線は、大昔の東海道を置き換えて、昇格させた
ものだから、今でも国道1号線で、滋賀の栗東付近で南下して、
鈴鹿峠を越えるのが、伝統的に正しい行き方だと思う。

明治時代以降、鉄道の時代が来て、東海道本線は、琵琶湖の
水上を結んだ短期間経路のあと、米原〜岐阜回りに決定した。

こっちは、昔の中山道で、鵜沼から太田、多治見、中津川へと
行くのが本当の筋だ。

鈴鹿市という現在の地名のある所は、微妙な付け方だ。
本田技研が自動車と二輪の工場を置き、自前のサーキットを
昭和38年に完成させて、有名な町になったと記憶する。



(ホンダが誇るスーパースポーツNSXの最終モデルがサーキット走行
練習用に、色違いで3台並んでいた)


今も付近には、自動車を整備する工場も多い。
自動車好き濃度が、特別に高いように思えるのである。

鈴鹿郡と河芸郡のどちらが、メインとなる中心地だったのであろう。
それにしても、すずかの声音は響きが良い。
女性の名前にも使えそうな音であるが、鳥の名前のようである。

いかるが「何鹿」という古名であり、鳥の名に通じる万葉の優しさを
感じてしまう。
そして鈴鹿は、草深い峠の道を思わせる、古名だ。

いにしえの明治の鉄道時代は、旧東海道に沿って私鉄の関西鉄道が
路線を引いた。
草津から柘植に出て、亀山に至る鉄道である。

この山線区間の峠越えに使われた機関車は、「鬼鹿毛」と呼ばれ
アメリカブルックス社のモーガル型テンダ機関車である。
勾配用の強力機関車であったのだが、私鉄の関西鉄道は、民鉄らしく
機関車の形式名に昔の名馬を、あやからさせたのである。
「鬼鹿毛」、いかにも逞しく、深い山道を掻き分け登るクライマーに
相応しい名前ではないか。



  峠を越えた、「彼ら」が憩うた、関の駅である。



ところで今回鈴鹿に行った理由は、鈴鹿サーキットを自転車で走る競技に
参加するためである。

朝が早かったため、流石の私も現在の交通機関を用い、草津から新名神を
使って亀山に至るルートを使った。



その帰り、行きと同じ高速道路を使ったのでは、旅好きの名が廃る。
鈴鹿市内を通り抜け、



亀山を通り、峠越えの道に挑戦した。

関という駅の名前は、古来にあった鈴鹿の関に名を由来する。



関駅の駅前広場横、国道1号線に隣接するあたりに、歴史の長そうな
寿司店が残っていた。

昼以降、何も食べていなかったので、付近にあった道の駅で
ようやくラーメンとおにぎりにありついた。



峠越えの道を、軽自動車の限界を考えながら、駆け上がる。
重量物を運ぶトラック、その他の一般の旅人は殆ど新名神回りになったのか
交通量は多くなく、快適に雨の峠道を上って行った。




この道を生まれて初めて通ったのは、大学の若い日に遡る。

四日市の大きな燃料店の倅が、一学年上にいた。
彼は現役で来ていたので、歳はいっしょだ。その上早生まれだから、生年は
私の方が、早い。
この男が、ちょっと変わった男で、お坊ちゃん育ちのようで、結構ワルとも
付き合いがあったようなのである。「ゴン太」なんて先輩に名付けられていた。

仕事はできた。
少し反目もあったが、その内に一緒にコンビを組んで、原稿を紙面にしあげる
のに、いつでも徹夜で付き合った。お互いクルマ好きの部分で共鳴するところ
があったからである。

この男に、頭が上がらなくなった事件は1年の時である。
学生食堂で、ご飯を食べていた私は平気で残していたのである。
それをはっきりと批判された。ヤンキー上がりと思っていた私は恥じ入った。
それ以来、どんな御馳走でもご飯粒まできれいに食べるようになった。

いいとこ育ちの甘えを指摘されて、こんなヤツと思ってた男に、ついていく
ことに決めた。

よく遊んだし、福井の山奥まで三菱ミニカのピックアップを拾いに行くのに
付き合ったこともあった。

学生時代が終わり、名古屋のスーパーに勤める彼を訪ねて、友達と電撃訪問
したこともあった。

そんな頃からさらに月日が経ち、ある時にサークルのOB会の席で、飲んでいる
と、2年上の先輩から、彼が亡くなっていたことを知らされた。
その日は正体が無くなるまで痛飲した。

過労死のような、はっきりした理由は今でもわからない。



ただ、50を過ぎた、今の私が鈴鹿の坂を駆け上がるとき、
あの日、深夜の東海道を古いギャランで駆け下りて、ここが鈴鹿、ここが関、
ここが坂の下の旧跡だと教えられ、真夜中の四日市のコンビナートの夜景を
一緒に眺めた20才過ぎの日の印象は、忘れていない。



瞑目は、何のためにすべきか。
その答えはまだ見つからない。

ただ私は、車を走らせ、来た道を、亡き友に問うだけである。

田植えも終わった近江の村には、梅雨の雨雲が、垂れ込めていた。





2011 06/01 08:44:06 | 旅日記 | Comment(0)
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米子に行って来た。
米子という町は、鳥取県にある大山(だいせん)という
山の麓と弓ケ浜半島の付け根の古里だ。

鳥取市と倉吉市そして西の端にある米子市が
大きな町の代表格だ。
米子を過ぎるともう、島根県の松江市になる。

この町には、自慢がいくつかあるが、
中でも建築家・村野藤吾がデザインした公会堂は
あまり知られて無く、現在休館ということもあり
存続が論議されている。

1950年代の村野の作品の一つであり
日生劇場などと共に忘れてならぬ作品であり
ミッドセンチュリーの日本のモダニズム建築として
再生が多いに望まれる。
活かす方法は、耐震化するよりないのか。
公共建築ゆえ、英断が望まれる。



米子の夜は面白い。
人口の割には松江よりずっと夜が賑やかだ。
盛り場には、程よい路地が多く、戦災戦後、
まだ昭和の活気のあった時代が息づいている。








今回は友人の家に泊めていただいた。
ヒダマリハウスと言う名称で、ソーラーエネルギーを
活用し、温水だけでなく冬の寒さ対策にも
太陽光エネルギーを使った優れもの住宅である。
http://hidamariom.exblog.jp/i9/

中庭を通して、ガレージを見るの図。
今の季節は、庭のヤマホウシの木の花が、
綺麗に咲いているという。



屋内には、吹き抜けの天井の下、
広々とした空間が広がる。
こういった理想的な環境の中で、子供さんらを
育てている主人夫婦のための家である。

翌日は、朝食を済ませると、旗が崎という地区にある
自動車学校を舞台にした、車のイベントにコマを進めた。

楽しい一日を通じて、山陰、山陽地方の車好きの友人が、
新たに幾人も加わった。
ご主人の幼いお嬢さんも来られて、私の車の助手席に。

まだウチの娘らが幼かった日を思い出し、
少し懐かしく感じたのであった。



2011 05/25 11:52:56 | 旅日記 | Comment(0)
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大阪の北に豊中市という町があり
そこに服部緑地という大変広い公園がある。
豊中市の財産でなく、大阪府民のものなのだが
そこにある施設は、電動遊具がひとつもなく、昔のままで、
民間の広告や、けばけばしい装飾がひとつもない。

良い意味での社会主義的な空間に立つと、日本人とくに
都会人は、身も心も汚染されているなと感じる。

ここにある野音で毎年春の連休に「祝・春一番」という
コンサートがひらかれる。延べで5日間くらい。

金困り、失礼金子マリとか、中川イサトとか、加川良とか
往年のフォークロック陣、
渋谷毅や峰厚介といったジャズメン、
変わったところでは小川美潮のような特徴あるボイス、
圧倒的にしめる関西系の古いミュージシャンらが次々と
壇上に上がり演奏し歌を歌う。

それをオープンの観客席で、半日間ゆっくり音楽を聴く。
聴いている間、こっちも酒類を飲む。
大阪の下町から来ているミュージシャンの半数は、飲みに
来ていて酔っぱらっている。
極めていい加減な空間がそこに介在し、こんなモノサシで
明日からも生きていてイイノダロウカと思うくらい。

福岡風太さんというプロデューサーが、ライフワークで
このイベントを手がけている。
盟友の、あべのぼるさんという仲間を、昨年12月に亡くした。
人生60年くらいが、まあええとこなのやろうね。

出てくるミュージシャンがそういう歳に近づきつつある。
それでもRCサクセションの付き人からスタートした三宅伸治
とか、スピッツやミスチルにひけをとらないロストインタイム
といった若いバンドも猛烈に腕を上げつつある。

今年の三宅伸治バンドは春一番の歴史初と言うアンコールまで
風太さんに認めさせた。
3コードのロックンロール、ギター小僧がステージから観客席
まで縦横無尽に走り回る。

日が暮れて、コンサートから帰る頃。みんなは正気に戻り
非日常からゆっくりと普段の生活に戻ってく。
長い長い緑地公園の中の道を歩いて。
そのほぐれて行く感覚がいいんだなあ。

風を感じたかったら、僕は緑地公園に行く。
コンサートの遠鳴りが、耳に残っているかの様に
そっと、耳を、そばだてている。


2011 05/07 12:22:41 | 日記 | Comment(0)
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何のためにこの夕暮れの中、生きているのだろうと思う。

救うものは自分で見つけるしかない。

こんな自分を必要としている者はあるのか。

それを乗り越えるしかないのだが、疲れて来た。

自分は駄目だとばかり思い込んでしまう。

すいません。

いつまでたっても自分を乗り越えられずに。

2011 05/04 17:23:49 | 旅日記 | Comment(0)
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尾道は今も時をかける少女の舞台です。



さて、福山市にある自動車ミュージアムに行ってきました。



外にも色々な車が置いてありました。
いすゞ3連発




中に入ると、この車に目が停まりました。
マセラッティカムシン。乗り込むのは自由と書いてあったので
入ってみました。
なんともボロボロでしたが、この頽廃ぶりがたまりません。





SP211(一番初期のフェアレディ)に乗り込み、女性学芸員に
写真を撮ってもらいました。

時計と自動車の博物館で、古時計のコレクションもスゴい数に
増えていました。

今回笑ったのが、この和風便器の展示。


それからロックスピリットを感じるヒロシマ出身
ミュージシャン二人のポスター。



世良公則と奥田民生です。

暇つぶしに行くには、もってこい。
非常にオーナーの変わったオーラを楽しんでみて下さい。
2011 04/04 23:18:04 | 旅日記 | Comment(0)
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2011年3月11日 14:46

この時間を境に、人生が全く変わってしまった人たちが
たくさんいる。

世の中は、そんなものと言ってしまってはいけないが、
1995年1月17日を境にして、価値観が少し変わる
くらいの体験をした自分としては、ものさしを少し延ばしても
参考にならないのかもしれない。



好きな車に乗るという小市民的な幸福を、今回は封印しないと
世の中は変わらないかと、この2日間考え続けている、が、
昨日少しだけ車を走らせれば、大阪北部のこのあたり、





こんな目を細めたくなるような可愛い外車にのる
幸せな人たちの風景に遭遇した。



仙台の若林区だって、三陸海岸の気仙沼だって、
福島県の常磐線に沿った海岸線にだって、
数日前までは、こんな風景の一部になる車の走るシーンが
見られていたのであろうと思う。

シーンが暗転したあと、僕らは何を考え、何を思えば
良いのであろう。



寝床のある町にに戻って、迷いつつ立ち飲みに入り
少し飲む。
こんな日常が、海沿いの町にだって、その瞬間までは
あったはずだ。



ここで車を楽しく乗ることを、ためらうべきか、
どうすべきか。その答えは出していない。

ただ震災の年も、僕らは若かったから、
立ち直るのも早かった。
今の自分の年齢なら、もっとダメージが大きかったら
私はどうなっていたのであろうか、
そんなことを考えながら、この国の、この大地の上で
きょうも過ごしている。

2011 03/13 15:21:18 | 日記 | Comment(0)
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