男たちには判らない
昨年の写真から



大昔のヨーロッパの写真。

2010 07/10 21:44:29 | くるま全般 | Comment(0)
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あまり暑いもので、池田の長屋を夜8時過ぎに出て、
猪名川の夜風に当たって涼んできました。



呉服橋たもとから、そのまま中の橋を渡って兵庫県川西市側へ。

川に沿って上っていくと次の橋が、歌枕のような風流な
名前の絹延橋です。
対岸に五月山、中腹に伊居太(池田)神社があります。
織り姫伝説の里ですから、絹延の名はそこからきている
のでしょう。



ここにはあと、能勢電の最初の駅があります。
夜景撮影、オン!





通過列車がええ感じでしょう。
この辺りには旧能勢街道の風光がまだ残っていました。


さて、江戸時代の池田は呉服橋を中心に栄えました。
中の橋周辺も古い佇まいでしたが、近年橋を渡った池田側が
取り払われて風景が一変しました。

この絹延橋も、新橋が完成し、旧橋は今月持たないかも
しれません。
これがその表情。





今は兵庫県川西市と大阪府池田市に別れて、いささか無駄な
行政を敷いています。

遠くに“ゲーテッド・シティ”(阪急車庫跡)が見えて
本日の冒険は無事終わりました。

2010 07/01 22:09:14 | 長屋暮らし | Comment(0)
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世界の町を旅してきた(←ちょっとおおげさ)
私が思うに、大阪の夜は素晴らしいということです。

昨夜は、「ビヤガーデンに行こう!」と思いつき
友人を強引に誘い、梅田の駅前に集合とメール。

これ、「新」阪急です。やっぱりゴージャスやと感激。



しかし友人から打電、中之島に面白いもの発見と。

そこでてくてく歩き、京阪の新線に乗って難波橋まで一駅
乗って、合流しました。これです。



アールリバーサイドグリル&ビアガーデン
06−6202ー0112
16:00〜23:00

駅前のビヤガーデンが協定か、20時半や21時で終わってしまう
のは、ちと不満。その点ここはのんびり飲めました。
夜も更けると、客数も減り、夜風が素敵です。
昨日は、何十年ぶりにジンギスカンを食べましたが
美味しかったです。

行ってみたい方は私も誘ってね。
2010 06/30 10:28:50 | 都市風景 | Comment(0)
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豊中の岡町の住宅街に迷い込んだら
こんなものがありました。

普通の家です。
でも表札に「近代美術館」と書いてあった。








怖いもの見たさで興味シンシン。だけど、絶対、私より
変わったおじさんが出てきて

「いらっしゃい」と、手招きするに違いない。



ああどうしよう。
ピンポンダッシュで逃げるかい。

http://www.okuuchi-museum.or.jp/
2010 06/25 01:42:58 | 日記 | Comment(0)
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温泉宿の朝は、強い朝日で目覚めました。
この素晴らしい上越の朝をごらんあれ。



今朝の会場までには、関西軍団のリーダー、ていさんの
124の助手席に乗せてもらいました。


上越線も湯檜曽を過ぎると、山岳鉄道です。



そんな辺りに今回の会場はありました。
ここからあとはアトランダムに紹介しましょう。





やれ具合が素敵なX1/9



ちょっと?な124S

こっちは原型の1400です。

こういうのがきているのが嬉しいフェラーリ412


これはセラです。



クーペ2台



会場風景アラカルト

ジムカーナ風景


124S






らんちたいむ


痛車


それではさようなら

2010 06/15 21:02:27 | くるま全般 | Comment(0)
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今年のフィアットの祭典は、恒例の昭和の日からずれて6月6日に行われました。
会場も10年続いた伊那から離れ、遠く群馬の水上スキー場に。
インフォメが最初に流れた際は、関西勢は「えーっ”」でしたが、それでも
何名か関西から行くという強者が現れ、小生は友人をおだて、同乗でいって
きました。
このノリに呼応してくれた熱い友たちにホントに感謝です。



午前5時に大津PAに124Sと黒デルタ2で待ち合わせ。
その後は二度ほど休憩しつつ、佐久のホームセンター駐車場まで
まっしぐら。

黒デルタと水色124Sの関西コンビ。



関東組から地元勢の124SとX1/9



前日から出発して軽井沢の仲間の所に泊まっていた西宮からの
850スパイダー



佐久からエンジンが完成して慣らしが終わったばかりの850Sに
乗り換えさせてもらいオープンを満喫。



軽井沢は実に落ち着いた大人のリゾートですが、こんな懐かしい感じの
ドライブインも。



軽井沢付近にて



浅間山を望む絶景。憧れる風景です。



850Sの後ろを付いて来る横浜からの850クーペ。



夏の初めの鮮やかな緑が眼に飛び込んできます。



次のポイントは榛名湖でした。



この小山が榛名山。このあたりの名物は高崎のだるまくらいですが
近年は頭文字Dのマンガでも知られています。
土産物屋にありましたよ(笑)



次のポイントは榛名から伊香保に向かいます。途中は皐月ツツジが綺麗でした



伊香保にはおもちゃと自動車の博物館があります。

エントランスはこんな疑似レトロ風景。



でも奥に行き上の階に置いてある自動車の展示は熱が入っていました。
殆どが国産車です。

レーシングZ



TSサニー



初代ギャランのラリー仕様



トヨタ2000GT



こういうのが置いてあるのが私好みで嬉しい。初代マーク2のハードトップ。



あっ、GTO



バンダイのプラモで1/20を作りました。
僕らはスーパーカーでなく、70’sカーですね、実際憧れたのは。
これこれ、この横顔に見とれたのです。小5のとき。



ホンダ1300クーペ。まさに時代はクーペ全盛。



これも好きだなあ。初代ファミリアクーペ。スレンダーな美車です。



初代コスモスポーツの美しい部位。古典的な配置とクロスオーバーする未来。
円盤とか宇宙と言うが、このアンビバレンツがこのクルマの魅力なのだ。



最後は刺激たっぷりの「超えてる」チェリーから。
クーペX1Rの迫力ある、おケツをお目にかける。



最後の公認オーバーフェンダー車というだけで、プレミアムがついたもの。
実際速かったし、自重はたったの600キロ台。馬力はグロスで80から83。
同じ1000〜1200ccクラスで既にサニーがあったのに、別働隊でチェリーを
作ったのは、一説に合併したプリンスのエンジニアたちに小型FF車を任せたと言われている。
この流れは後にパルサー、最後はラングレーまで存続して、プリンス店で
スカイラインと並んで売られたことから、あながち間違いではない。

この時代の日産をどう評価するか。それが40年後の車好きの任務と思う。
原資も基礎も低い国の中の一企業が、これだけ果敢な挑戦をしていた、
国民も一緒になって夢を見た、夢から覚めれば、現実はフェラーリもベンツも
身近になったが、ボクらがいま、思い出せねばならないものは、こんな
ちっぽけなモノ作りに込められた情熱ではないだろうか。
 てな感想を残して翌日の本番へ続きます。


2010 06/11 22:51:48 | くるま全般 | Comment(0)
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2010年の5月のある日曜日、福岡県にある高校の総合同窓会に
出席するため、私は久しぶりに九州入りしました。
午前中にフェリーで上陸、午後の会合まで時間があります。
そこで数日前に会った人が、筑豊の蒸気機関車の写真を見せて
くれたことを思い出し、久しぶりに筑豊に行ってみることに
しました。

都市高速〜国道〜県道と奥地に向かい、辿り着いたのは福岡県
宮若市にある石炭資料館でした。
ナビも無く、目的地設定もありません。
30数年前の記憶と現在を繋ぎながら、昔行ったことのある
炭坑地帯に入り込んだ結果、そこに資料館があったまでの
ことです。



ここに昔存在したのは、貝島炭鉱という非財閥系の企業です。
そしてこの資料館はその昔、貝島が建てた私立小学校でした。

筑豊の石炭採掘の歴史は、江戸期に発見され、明治の近代化で
用途が激増し、北九州・八幡の製鉄事業などの工業と火力発電、
そして市民社会のエネルギーとして、動力と経済を支えます。
それは昭和の戦中戦後がピークで、40年代まででした。



この貝島炭鉱は、三井、三菱、住友などの財閥系でなく,福岡県に
ルーツを持つ私企業で、一時は筑豊御三家と呼ばれるほど栄えました。
あとの2つは、安川電機のルーツ安川家と、前首相の実家、麻生家です。

貝島は昭和51年まで、筑豊で最後の採掘を続けました。
炭坑(ヤマ)の男たちの人生を見届けてといえば、間違っていない
と思います。
ここにあるのはその1世紀の記録なのです。

私は昭和49年にこの地を訪れています。その頃は最後の石炭採掘と、
国鉄宮田線への積み替えが行われ、つぶさに作業を観察し、専用鉄道の
SLたちの珍しい姿を撮影しました。
いま、敷地内に貝島のSLと貨車が1台保存されています。



今回のブログ記事で書きたかったことが、最後になってしまいました。
資料館の説明をしていただいた、70代の男性の証言から判ったことは
当時の炭坑町の生活は、とても良いものだったということです。

逆説的になりますが、
離職して名古屋に出て行き、一般企業で働いた人の最初の驚き。
「電気、水道がタダでない!」「知らんかった!」

炭坑では、住居から学校まですべて民間企業が面倒を見ていたことが原因なのですが、
これは貝島が、親分肌の創業者の気っ風を最後まで引いていた
独立系の民間企業だったことが大きいと思います。

そこでの炭鉱住宅生活は、一種のコミューン(共同体)であり
世話になる、面倒をかけるといった日常は、思いやりにあふれ
命がけの仕事ゆえの厳しい日常の裏側には、社会性の底流があった、
ということが判りました。



私たちは炭坑夫の生活を、イメージとして暗く考え過ぎていなかったか、
その後の高度成長社会に転化するあたりの近代化を、ずっと
良いことと、社会政策的に思っていました。
だけども、彼らに取り原則タダであった水も電気も住宅費も、
仕事にありつくことも、すべて今のような競争社会になった。
それは、どうだったのでしょう。

わしゃ、筑豊から出たことが無いけん、ずーっとこの町を愛しちょる
という言葉の中にある故郷を思う気持ち、愛郷心には嘘は無いと思いました。

今回の短い旅を通じて知ったこと、得た感想は、「強いものが弱いものを助ける」、
当たり前のそのことが、半世紀前の日本にはあり、高尚な社会政策学より
実際に機能していたのではないでしょうか。



袋小路に入って出口の無い明日の続く日本。今回の探訪がヒントの一つに
なることを祈り、記事を終わります。

2010 05/30 08:11:14 | 旅日記 | Comment(0)
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阪急の中で、最も歴史のあるといえば、きこえはいいのだが、設備の古い宝塚線。
今年はちょうど100年目にあたる。
昨日、鉄道関係の本のプロデュース業もされている人と、さらに、豊中の写真関係者と3人、
喫茶店でこの話題を談義してみた。

 写真は1世紀の歴史を誇る?そのままの石橋駅の曲がったホーム。



まず私から、阪急電車が池田に本拠地の登記を置き続ける理由について。
創業者、小林一三と池田との関わりに付いては、前々回のブログに書いた通り。
取っ掛かりになる阪鶴鉄道(JR福知山線ルーツ)時代は池田駅は現在の川西池田駅より
もっと猪名川に近い場所にあり、水運の荷揚げと結ばれていたことが話題に出た。
また、池田町での古美術との出会いに付いては、豊中の住人は深く頷かれた。

さらに今回は座談なので、もっと踏み込んだ考察を提示してみた。
ずばり、一三は大阪(的なるもの)と関西財界が苦手だったのではないかという、仮説である。

この考えに至ったのは、原武史氏の名著「民都と帝都、思想としての関西私鉄」を
今回、読み直して、むむっと思った点にある。

原説によれば、小林は官なるものが嫌いで、梅田(あえて大阪とせず)開発は
民間でできる、余計なことは言わないで欲しいと独力で、今の阪急の前身から
ターミナルデパート開業(S4年)まで、独力でこぎつけた。
しかし昭和初期に、国鉄と阪急の線路配置の上下関係が逆転する。
この時に大阪の世論(新聞等)は渋る阪急に対し「一私鉄の阪急ごときが」と強い非難を浴びせた。

小林にとって開業以来20年、順調であった阪急の最初の試練である。




もう少し話しは続くのだが、読んで飽きる内容なので、少し横道へ。

大阪平野の気風や感覚の中でも、よく冗談めいて言われるのが、ベタな南部に対し、
スカした阪急沿線の上品さである。
これって、大阪人は常識すぎて何の疑問も抱かなかったが、よく考えると、これは
阪急神戸線と宝塚線沿線だけなのですね、気取っているのは。
そして宝塚歌劇や、人気の出なかった阪急ブレーブスについても言えるけど、正直
ガラの悪い大阪というイメージから、かけ離れている。

よく考えると、そこに誰か個人の存在を感じないか。
そう、慶応出身で、関西財界と一線を引いていた個人主義者、小林一三である。



小林は、昭和の戦前、一旦阪急の社長の座を辞し、東宝の経営や東京電灯(今の東京電力)に重心を移す。
ここで池田と大阪から離れて、東京で財界活動をするのである。
そこには東急の五島慶太がおり、計画プランに参与した田園調布があり、さらに慶応閥があった。
やがて一三は戦時直前の商工大臣(経産相)にもなるのであるが、ここでも官僚の岸信介
(後の自民党総裁、総理)と合わずに辞職する。

座談会の相手からも「一三は財界でも一匹狼だったみたいですな」のコメントがでる。



一三は失意のまま、関西に戻り、昭和10年代に建てた池田の家、「雅俗山荘」に引きこもる。
私鉄王の意外な横顔だが、彼自身日記に記している。
昭和19年の「呉城小景」と22年の「薮の細径」である。
前者は、瓦斯、電気を引いた自宅も燃料統制で不便をかこち、(池田は戦前から都市ガスだったのか)
薪炭を使わざるを得ず。特産の池田炭も手に入らず、と。
戦後の公職追放中の記事では、池田の山間を散策して自宅に戻るまでの日常が描かれ、
夕暮れの電車のヘッドライトと鉄橋に目をやり、自宅ベッドの体を投げ出し
「老いたるかな、老いたるかな」と故郷離れ幾年月、70代になった鉄道王の
老境の孤独がしみ入るような文である。



2010 05/20 09:18:43 | 都市風景 | Comment(0)
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この漫画のことは、もっと詳しい所を探せば
あると思う。
作者のほうさいさんと、私の繋がりは、舞台になった
京都の小さなカウンターバーだ。

その店はもうない。確か三条木屋町を一つ下がって
西に入った小路に北側に面していた。
もう20年以上昔の記憶である。



店の名は、ほんとうは「リラ亭」という。

あがた森魚の「リラのホテル」を思い出すが、
木村さんというマスターが、一人で、店を開けていた。

そこにくるのは本当に一癖もありそうな、京都の住人ばかり。
店の雰囲気と主人は普通なのに。

私は、昭和58年春に社会人になった。多分その後で
隣の職場の友人に誘われて、その店を知ったと思う。

まだウイスキーの味を飲んで美味しいと思う歳でなかった。
一杯500円の水割りは、給料を思えば安くなかったし、
大黒だか、三楽オーシャンのウイスキーなんてものが
あるのを知ったのは、この店からである。

でも、
この店の雰囲気はすぐに気に入った。気取らず
広すぎず、ちょっと客が多く来ると、カウンターの中に
入ってマスターと並んで飲むなんて。
大人はこんなずるい戯(あそび)を知ってるんだと。

こんな雰囲気でした。(漫画から)



その店の長い歴史と関わったのは、そんなに長くない。
学生時代から8年居た京都を離れ、昭和の時代が終わり
やがてマスターは病を得て、帰らぬ人になった。

過ぎさりし日のことを思う人が、葬儀に集まり、1年後には
追悼行事が、三条の「がんこ」で開かれ、文集も作られた。

先の表紙がその本で、中にある写真から、在りし日を
偲ぶ。



       ☆  ★  ☆

リラ亭の思い出を、なんだろう、皆んな捨てるには
あまりに、あっけなかったから、その店は、常連の
一人が引き継いだ。

そうでなくても、実はネット以前の社会でも、
知る人ぞ知る店だったと思う。面白い人の繋がりが
出来、大阪や、多分神戸とは違う、酒場のコミュニ
ケーション。これが大きかったから、この店は、歌や
詩や、画の題材によくなった。

酒場ミモザ、一部では熱心なファンを引きつけ、
全国発売の漫画誌だったので、後継の「カリン亭」
時代にも、よく話題になったのではないか。

しかしカリン亭が10年の期間を終え、店じまいし、
世の中は、もう21世紀になっていた。

2代目店主は、完全に引退され、京都の奥地で
民家を改造した民宿を始められた。
私たちは、リラ亭の思い出を、年に一度は温めようと
その民宿に、集まるようになった。

とださん(ほうさいさん)と、ご縁が出来たのはそれ
からである。

この漫画は、忘れられることなく根強い人気がある
らしく、再出版の動きも、数年前に始まり、このたび
実を結び、2010年、リラ亭終焉から20年の今年春、
ぶんか社から、再発行となった。

そして、先日、ほうさいさんを囲んで、浪速大阪で、
ささやかな、お祝いの宴に私は呼んでいただいた。



私の持つオリジナルの本には、彼女が描いてくれた
似顔絵。
この絵を描いてもらった頃には、こんなに老けてない
のに、と少し不満だったけど、
いまはこの肖像に似て来た。

人生は不思議な縁、そしてそれを紡ぐのは、一人ひとり
の、毎日の生きる思いみたいなもの、と、



この裏表紙が、つぶやいている。



2010 05/11 21:34:10 | 日記 | Comment(0)
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平成22年4月23日(金)、大阪府池田市にある阪急グループの
創設者、小林一三の旧宅がリニューアルされ新たに記念館として
再オープンされました。



ちょうど今年は、阪急電鉄が開業してから、満100年。
小林が亡くなったのは53年前の1957年ですから、開業前から半世紀の
50年に渡り、小林は池田に住み続けたことになります。
巷間、小林の事業家としての手腕、評価には悪い評判はありません。
しかし私は、一介の市井ジャーナルの眼から「その後」も含めて
池田という軸から見てみることにしましょう。

小林が池田を拠点に選んだことは、出身の甲州韮崎に風光が似ている。
今回の資料展で生家の写真を見て直感しました。
池田は能勢街道と西国街道のほぼ交差にあたり、古より物流の集散や
特産品の出荷場所として栄えました。
韮崎の実家も街道に面し、宿場の風情がかつては漂っていました。



自宅(記念館)正面には能勢の旧家から移築した長屋門が聳えます。庄屋
クラスの豪農が能勢にあったのでしょう。
小林が池田に接点を持つのは、阪急の直前に携わった仕事である、
阪鶴鉄道(現代のJR福知山線の前身)の経営に関わるようになったからだと
思われます。

阪鶴は伊丹付近の酒造の運搬目的で尼崎港までの路線が最初でした。
その後、明治期に海軍港となった舞鶴と大阪を結ぶ地方鉄道に昇格します。
今の国道176号線が福知山へ向かい175号線と合流し舞鶴に至るのは
この歴史背景が有るからです。

さて、池田に活動の本拠を選んだ理由、それは明治期の池田が比較的大きな
町であり、ここで古美術や茶の湯との出会いがあったからだと思われます。
町を貫く街道沿いには旧家が並び、呉春や蕪村といった美との遭遇がありました。



これはそのひとつ。江戸期から続く旧家で本物の芸術を見たことで、小林
一三は生涯に渡る柱の一つ、茶の湯、数寄にこだわるようになります。

昭和10年代に建てた現在に残る居宅、「雅俗山荘」にもいくつも茶室を造りました。




これらの茶室で茶道を介在とした茶室社交を各界の一人者と広げます。
この頃の池田は、一番華やかだった頃でしょう。
人口の多い豊中が、ちょうど西宮に当たるならその隣の芦屋のような
雰囲気も山の手にはあったのかもしれません。

ここでもう一点、茶室というのは無我の境地で茶を嗜むもので、華美は
無縁。またどちらかというと寒い一室で茶の暖を摂ることで、神髄がある
ように思えます。池田は酒どころ故、冬寒く、春も大阪市内より遥かに遅い。
この日覗いた茶室からも冷気がひやっときて、思わず身をすくめました。



それは寒い甲州育ちの一三好みがこの池田の地に多くあったからでしょう。



明治43(1910)年3月、箕面有馬電軌が田圃の中を走り出して100年。
阪急の栄光は長く続き、今でも日本一の私鉄と言う人も多いです。
しかし発祥の宝塚線を詳細に見ると、これで良いのかと思う点も多い。
池田は歴史の流れから取り残されたような印象もあり、どうしてこう
なったのか。あまりにも高いプライドが邪魔し、豊中や箕面と連携しなか
ったからか、今や市中心駅の池田駅は近隣の川西池田(川西能勢口)や
石橋に対しても劣勢です。
全線で8人しか置かれていない主要駅駅長も、今の池田には居ません。



一三没後の半世紀が過ぎても、阪急の登記上の本社は池田市です。
ここには豊能税務署もありますし、戦前の地銀本部としては立派な池田銀の
本店もあります。その向かいには中高層建築の日本生命の立派な支店が
あり、駅構内を「日生」エキスプレスという名の特急が能勢電の日生
ニュータウンまで走り抜けています。
でも転居の手続きをしに日生の事務所に行くと、閑散としていました。

敢えて言うと、何か間違っていないか。登記の本社をダイハツや阪急が
他所へ持って行ったらこの市はどうなるのでしょう。
酒造も炭ももう細々とした産業です。
栄町の商店街も、頭を使った工夫はしていますが、何かに頼るばかりで
自力は弱いと思います。

一三の没後53年、ずっと過去の栄光に縋ってきたとは思いませんが、
小さなしくじりをいくつも重ねてしまい、今日の池田の姿があるように
思えてしまいます。
まさか「一三さんが生きとったら、そんなことは言わんやった」
新しい話があるたびにそんな言葉で芽を摘んできたとは思いたくないの
ですが。
2010 04/27 18:58:43 | 日記 | Comment(0)
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