思索に耽る苦行の軌跡

カテゴリ[ 哲学 文学 科学 宗教 ]の記事 (263件)

私は雪を銀杏の街路樹の下に誘ひPocketから煙草の箱を取り出して先づは雪に勧めたのであった。といふのも雪は「男」に陵辱されてから多分の煙草を喫むやうになったと信じて全く疑はなかったのである。実際、雪は私が差し出した国産煙草で最も強いのは頭がくらくらするからと言って自分の煙草を鞄から取り出して一本極々当然といった自然な仕種で銜へたのである。



君は自殺してしまったフォーク歌手、西岡恭蔵の「プカプカ」といふ名曲を知ってゐるかな。




  1971(S.46)年、西岡恭蔵さんの自作自演曲だが

  Creditは


象狂象 作詞/作曲   西岡恭蔵 唄    JASRAC作品コード072-1643-2




一 俺のあん娘(こ)は たばこが好きで


  いつも プカプカプカ


  身体(からだ)に悪いから 止(や)めなって言っても


  いつも プカプカプカ


  遠い空から 降ってくるっていう


  幸せってやつが あたいにわかるまで


  あたい たばこ 止めないわ 

  プカプカプカプカプカ




二 俺のあん娘(こ)は スウィングが好きで


  いつも ドゥビドゥビドゥ


  下手くそな歌は 止(や)めなって言っても


  いつも ドゥビドゥビドゥ


  あんたが あたいの どうでもいい歌を


  涙流して わかってくれるまで


  あたい 歌は 止めないわ 

  ドゥドゥビドゥビドゥビドゥ




三 俺のあん娘(こ)は おとこが好きで


  いつも ムーーーーーー


  俺のことなんか ほったらかして


  いつも ムーーーーーー


  あんたが あたいの 寝た男たちと


  夜が 明けるまで お酒飲めるまで


  あたい おとこ 止めないわ ムーーーーーーーー




四 俺のあん娘(こ)は 占いが好きで


  トランプ スタスタスタ


  よしなっていうのに おいらを占う


  おいら あした死ぬそうな


  あたいの 占いが ピタリと当たるまで


  あんたと あたいの 死ねるときがわかるまで


  あたい 占い 止めないわ トランプ 

  スタスタスタ




といふ歌詞なんだが私は雪の或る一面をこの「プカプカ」の女性に重ねてゐたのだ。想像するに難くないが、雪は普段は対人、特に「男」に対する無意識の恐怖心の所為で、例へば過呼吸等緊張の余り呼吸が乱れてゐる筈で、煙草の一服による深々とした呼吸が雪を一時でも弛緩し呼吸を調へるのだ。さうでなければ雪が純真無垢な微笑を浮かべられる筈はない。あの時期の雪にとって煙草は生きるのに不可欠なものだったのさ。

一方で私だが、私にとって煙草はソクラテスが毒杯を飲み干して理不尽な死刑を敢行した、或いは詩人のランボーの詩の中に「毒杯を呷る」といふやうな一節があった気がするが、私にとって煙草を喫むのは《生》を実感する為の毒なのだ。私には毒無しには一時も生きられない程、既にあの時から追い詰められてゐたのさ。《生きる屍》として何とか私が生きてゐたのは何を措いても煙草があったからなのさ。飯は食はずとも煙草さへ喫めればそれで満足だったのだ。今も病院で私は強い煙草を喫んでゐる。最早終末期の私には何も禁じる物なんかありはしない。へっ――。

(以降に続く)




2007 10/28 07:19:20 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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私の部屋には電池を交換するとき以外一時も休むことなく《渦》を巻き続けてゐるものがある。さう、長針、短針、そして秒針があるAnalog(アナログ)の時計である。この時計とはもう二十数年来の付き合ひである。当然、この時計も一度は私の手で分解され再び組み立てられた代物である。私は幼少時より時計も含めておもちゃの類やちょっとした機械は必ず分解してみないと気が済まない性分なのである。これは如何ともし難く、しかし、それでゐて殆どが再び組み立てられずに唯のがらくたに成り下がったもの多数である。それでも分解は止められないのであるが、最近は電子基盤に電子部品が何やら地図のやうに貼り付けられた電子機械ばかりで分解の仕様もなく、私にとって機械のBlack box(ブラックボックス)化は誠に欲求不満を募らせるどう仕様もない唯の《物体》でしかなく、其処に愛着といふ《魂》が全く宿らない代物なのである。


さて、しかし、時計の針が動く様を凝視してゐた在る時、不意にこの時計の針を無限大にまで引き伸ばしに引き伸ばしたならば、さて、時計の針は進めるのだらうか? といふ疑問が湧いたのであった。例へば秒針が無限大の時、一秒針が進むのでさへ∞の円周を秒針は回転しなければならない筈である。さて、さて、Aporia(アポリア)の出現だ。


其処で私の思考はx0 = 1(x > 0):0より大きい数の 0乗は 1 となるといふ処へ飛んだのであった。ここで時計の針を無限大にまで引き伸ばすのは断念せざるを得ないのではないかといふ考へが閃き、つまり、時計の針を引き伸ばしても針が進める境界域が存在し、それが個時空ではないのかといふ考へに思ひ至ったのであった。その個時空ではx0 = 1(x > 0):0より大きい数の 0乗は 1 となるといふ、時空の大河に生じた時空のカルマン渦といふ個時空が存立する。そして、其の個時空の境界外は∞の0乗の世界ではないのかと考へたのである。即ち、その∞の0乗がこの宇宙を流れる時空の大河の正体に違ひないと直感したのであった。そして、∞の0乗が一になった瞬間この宇宙は死滅する。私は常々x0 = 1(x > 0):0より大きい数の 0乗は 1 となるといふことは《死》を意味してゐると看做して来たのである。0乗は生の一回点、即ち、一生の終着点といふ《死》を意味してゐると看做して来たのであった。それ故∞の0乗が一になった瞬間にこの宇宙は死滅するのである。


更にこの個時空といふ考へに従ふと、物理学を始めとするこれまでの時間の扱ひ方――私は常々この時間の扱ひ方が時間を侮蔑してゐると考へてゐる――からすると





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で定義されるストークスの定理は必然であって、さて、物理数学が《渦》にお手上げなのは必然である。




さて、時間が進むといふ事は時々刻々とx0 = 1(x > 0):0より大きい数の 0乗は 1、即ち、xで《象徴》されてゐる小宇宙が一つ消滅してゐるといふ事であって、つまり、時々刻々と《宇宙》が消滅し続けてゐるのである。将に此の世は《諸行無常》である……。
















2007 10/22 07:35:19 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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君も多分不思議に思ってゐるだらう。何故月の盈虚がこれ程生物の生死、また、地震の生起に深く関はってゐるのかを。人間で言へば新月と満月の日が出生する赤子と死に行く人間の数が他の日に比べて多いといふのは、私の思ふところ仄かな仄かな重力の差異が人間の運命を大きく左右する、つまり、仮に《運命次元》なるものが存在し、重力の仄かな仄かな差異がその《運命次元》を発生させまた消滅させる契機になってゐるとすると、物理学者は重力の謎を考へれば考へるほど迷路乃至は袋小路に入り込み、多分、生物の運命を左右し重力と相互作用する新たな粒子の存在を考へないと《世界》を説明出来ない筈のやうな気がするのだ。






――へっ、重力は此の世の謎のまま人類の滅亡まで其の謎解きは出来ない。何故ならば、重力に関して主体は観測者では有り得ないのだ。






等と私は時々内心で哄笑して見るのだが……。多分、重力は物理数学の域を超えた何やら占星術のやうな怪しげな、例へばその《値》を数式に表はすと数式を書いた本人の運命が左右されるといった超物理数学が出来なければ重力の謎は解けない気がする。



今のところアインシュタインがその道を開いた重力場の理論は主体とは無関係に研究が進んでゐる筈だが、また、人間は重力を簡単に一言で《重力》と片付けてゐるが、私が思ふに《重力》を構成するのは∞の量子若しくは次元に違ひない……。さうすると当然これまで主体は観測者といふ《特権的》な存在で《世界》乃至《宇宙》乃至《素粒子》を扱って来たが、こと重力に関しては主体はその観測者といふ《特権》を剥奪されて重力といふ物理現象に飲み込まれ、翻弄される、つまり、主体がモルモットのやうになる以外に重力の説明は不可能だと思ふのだ。



ねえ、君。それにしても月は不思議な存在だね。ブレイクもアイルランドの詩人、イェーツも月の盈虚を題材にOccult(オカルト)めいて幻想的な詩のやうな、思索書のやうなものを著はしてゐるが、月は人間を神秘に誘ふものなのかもしれないね。



多分、君も考へたことはあるだらう。もし月が存在してゐなかったならば生物史はどうなってゐたかを。まあ、それは人類が地球外の、例へば月や火星で生活するやうになれば重力乃至月がどれ程生物の生死に深く関はってゐるのか明らかになる筈だから……。



ねえ、君、私も多分満月の日に死ぬ筈だから左記の括弧に私の死亡した日時を記して送れ。お願いする。



(追記。此の手記の作者は某年某月某日の満月の夜が明けた午前十時四十分四十秒に態態死の直前女性の看護師を病室に呼びにやりと笑って死去する。)






さて、何とも名状し難い悲哀の籠もった不思議な微笑を私に返した雪に私は優しく微笑みかけて東の空に昇り行く満月を指差し雪と二人、暫くその場に立ち止まって仄かに黄色を帯びた優しくも神秘的な月光を投げ掛ける満月を見続けてゐたのであった。






――ねえ、月は生と死の懸け橋なのかしら……






と雪が呟いたので私は軽く頷き雪と私の二人並んだ月光による影に目をやった。雪もまた二人の影を見て






――何て神秘的なんでしょう、月光の影は……






とぽつりと呟いたのであった。と不意に再び私の視界の周縁に光雲が一つ旋回を始めたのであった。



(以降に続く)


2007 10/21 04:17:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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この極東の日本では神が御旅所等へ渡御する途中に一時的に鎮まる輿を《神輿》と名付けてゐて、それは人間、特に氏子が《担ぐ》ことで《神》は《神》として《在る》のである。



例へば一例であるが西欧ではMarionette(マリオネット)、つまり糸操り人形があるが、これは《人間》が上部で下部の《人形》を糸で《操る》のである。



これだけでもこの極東の日本と西欧では《神》の居場所が全く異なり、つまり、その世界観の《秩序》が全く異なってゐるのである。



西欧などの一神教の世界観では《神》は天上の玉座から一歩なりとも動かず、まるで《糸》を地上に垂らして《人間》をその《糸》で《操る》が如くであるのに対して、この極東の日本では《神》はこの地上に舞ひ降りて《人間》と《対等》の《位置》に鎮座ましまするのである。



さて、神輿によく見られる左三つ巴の紋様は《渦》紋様の一つであるが、仮に此の世が右手系であるならば右螺旋(ねじ)の法則の如く天から、或ひは森羅万象から注がれる《神力》が左三つ巴紋を通して神輿に《輻輳》し神輿の担ぎ手並びに此の世の衆生全てにその《輻輳》した《神力》が遍く振り撒かれることになるのである。



即ち、この極東の日本では《神々》は衆生の中に何時でも《居られる》のである。






三位一体。西欧などの一神教の三位一体は《父と子と聖霊》といふ、其処にはどうしても抗ひ切れない《縦関係》が見て取れてしまひ、それが一神教における《絶対》の《秩序》であるが、この極東の日本で三位一体と言へば文楽の太夫、三味線、そして人形遣ひの《三業》による三位一体が思ひ起こされるが、さて、ここで文楽の人形を《神》に見立てるとこの極東の日本の世界観が俄に瞭然となるのである。






ところで、出来映えこの上ない極上の文楽を観賞してゐると太棹の三味線の音色若しくは響きと太夫の浄瑠璃語りと人形遣ひの妙技による人形の動きが見事に《統一》若しくは《統合》された《完璧》この上ない《宇宙》が浄瑠璃の舞台に現れるのである。勿論、観客も《一体》となったその《宇宙》は《極楽》に違ひないのである。



それはまさしく漣一つない水面に一滴の雫が落ち、誠に美しい《波紋》がその水面に拡がるが如しの唯一無二の完璧な《宇宙》が此の世に出現するのである。それはそれは見事この上ない世界である。






さて、ここで忘れてならないのが《翁》であるが、これは別の機会に譲る。


2007 10/15 03:28:42 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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袖触れ合ふも他生の縁。私は相変はらず伏目で歩いてゐたが、私の右手首を軽く握った雪が私を握った左手で私の歩行の進行を見事に操るので、私は内心



――阿吽の呼吸



等と思ひながら密かに愉悦を感じざるを得なかったのである。そして、私と雪が相並んで睦まじさうにゆったりと二人の時間を味はひながら歩く姿を、私達の傍らを通り過ぎる人達が興味津々の好奇の目を向けてゐる、その多少悪意の籠もった視線の数々を感じながら、私は、この私達の傍らを好奇の目を向けて通り過ぎる彼らもまた他生の何処かで会ってゐる筈だと内心で哄笑しながら



――さて、彼等の他生の縁(えにし)は人としてなのだらうか



等と揶揄してみては更に内心で哄笑するのであった。






それはまさしくゆったりとした歩行であった。






不意に雪を一瞥すると雪は例の純真無垢な微笑を返すのである。雪もまたこのゆったりとした歩行に何かしらの愉悦を感じてゐたのは間違ひない。






男女が二人相並んで歩くといふ行為は考へると不思議極まりない、ある種奇蹟の出来事のやうな錯覚に陥る。偶然にも同時代に生を享け、偶然にも互ひに出会へる場所に居合はせ、互ひに何かしら惹かれあふものをお互ひに感じ、そして、互ひに見えない絆を確信し相並んで歩く……、これは互ひに出会ふして出会ってしまった運命といふ必然の為せる業なのかもしれない……。






私は雪に微笑みかけ、雪もそれに答へて微笑み返す……。人の縁(えにし)とは誠に不思議である。






そして、ゆったりとした歩行は続くのであった。






と不意に私と他生の縁を持った人間がこの瞬間に此の世を去ったのであらう、私の視界の周縁に光雲が出現し、左目は時計回りで、右目は反時計回りでその光雲が旋回し始めたのであった。そのまま雪を見ると



――……また誰か亡くなったのね……。あなたの目、何となく渦模様が浮かんでゐる気がするの……不思議ねえ……何となくあなたの異変が解ってしまふの。



私は軽く頷くと都会の人工の灯りが漏れ出て明るい夜空に目を向け



――諸行無常



といふ言葉を胸奥に飲み込むのであった。すると、雪が



――諸行無常。



と溜息混じりにぽつりと呟いたのである。私が振り返ると雪は何とも名状し難い悲哀の籠もった不思議な微笑を私に返したのであった。



(以降に続く)


2007 10/14 03:32:05 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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梨地の型板硝子が嵌め込められた東の窓から満月の皓皓と、しかし、散乱する月光が視界に入ってしまふともうどう仕様もない。これは中学時代に梶井基次郎の「Kの昇天」を読んでしまったことが原因なのだ。

私はいつものやうに或る小さな川の橋上で影踏みをする為に満月の月光の下、家を出たのであった。

満月の月光による影は「Kの昇天」で記されてゐるやうに最早影ではなく「生物」若しくは「見えるもの」である……。

その影踏みはいつもこんな風である。「Kの昇天」にあるやうに影踏みは満月が南中する時刻、つまり影が一番短い時刻に限るのである。それまでの間は私は川面に映る満月をじっと視続けながら《時間》といふものに思ひを馳せるのが常であった。

――川は流れ……水鏡に映る満月は流れず……。私もまたこの水鏡に映る満月のやうに《時間》の流れに乗れずに絶えず《時間》に置いて行かれる宿命か……。《存在》する以上《時間》の流れに乗れないのは、さて、《自然の摂理》なのか……。

…………

――物理量としての《時間》、そこには勿論、itcと表はされる《虚時間》も含めてdtとして微分可能なものとして現はれる物理量としての《時間》は、さて、一次元構造ではなく……もしかすると∞次元として表はされるべき《物理量》ではないのか……すると、ふっ、物理学は最早物理学ではなくなってしまふか……。

…………

――《時間》の流れに見事乗りおおせた《もの》は恒常に《現在》、つまり、《永遠》を掌中にするのだらうか……。つまり、《瞬間》を《無限》に引き伸ばしたものが《永遠》ではなく……恒常に《現在》であることが《永遠》の定義ではないのか……。しかし……恒常に《現在》であるものにも《個時空》は存在し……《永遠》を目にする前に《自己崩壊》する《運命》なのか……。

等と湧いては不意に消え行く思念の数々。この思念の湧くがままの《時間》こそ私の至福の《時間》なのであった。

さて、満月が南中に達する頃、私は手には必ず小石を持って徐に立ち上がる。そして、橋上の真ん中に位置すると私は私の影を暫くじっと凝視し影が《影》なくなる瞬間に手にした小石をその《影》の顔目掛けて投げつけるのであった。

これが影踏みを始めるにあたっての私流の儀式なのである。石礫を私に投げつけられた《私》の胸中に湧いてくる何とも名状し難い哀しい感情のまま、私は右足から影踏みを始めるのである。その《時間》は哀しい自己問答の時間で、「Kの昇天」のやうな陶酔の《時間》では決してなかったが、私は今もって満月下の影踏みは止められないのである。

――《吾》、何者ぞ、否、《何》が《吾》か。

――ふっ、豈図らんや、そもそも《吾》、夢幻なりや……
2007 10/08 04:45:25 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――断罪せよ。

例へば澱んだ溝川(どぶがわ)の底に堆積した微生物の死骸等のへどろが腐敗して其処からMethane Gas(メタン・ガス)等がぷくりぷくりと水面に浮いてくるやうに私の頭蓋内の深奥からぷくりぷくりと浮き上がっては私の胸奥で呟く者がゐたのは君もご存知の通りだ。

――お前自身をお前の手で断罪せよ。

これが其奴の口癖だった。

多分、私が思ひ描いた私自身の《吾》といふ表象が時々刻々と次々に私自身が脱皮するが如くに死んで行き、その表象の死屍累々たる遺骸が深海に降る海雪(Marine snow)のやうに私の頭蓋内の深奥に降り積もり、それがへどろとなって腐敗Gasを発生させ、その気泡の如きものが私の意識内に浮かび上がっては破裂し

――断罪せよ。

となると私は勝手に考へてゐたが、雪との出会ひが私をしてそれを実行する時が直ぐ其処に迫ってゐることを自覚しないわけにはいかなかったのだ。今にして思へば雪との出会ひは私が私自身を断罪するその《触媒》であったのだらうとしか思へないのだった……。

勿論、私の頭蓋内の深奥には深海生物の如き妄想の権化と化したGrotesque(グロテスク)な異形の《吾》達がうようよと棲息してゐた筈だが、其奴等も私が余りにも私自身の表象を創っては壊しを繰り返すので意識下に沈んで来た《私》の表象どもの遺骸を喰らふのに倦み疲れ果てて仕舞ってゐたのは間違ひない……。

多分、其の時の私の頭蓋内の深奥には私が創った表象の死骸が堆く積み上がる一方だったのだ。

――断罪せよ。

…………

…………

さて、私はSalonで読書会がもう始まってゐるので画集専門の古本屋に寄ってSalonに行かうと雪に言付けして其の古本屋を出やうとすると、雪が

――一寸待ってて。二三冊所望の本を買ってくるから。

と言ったので私は軽く頷き其の古本屋の出口で待つことにしたのであった。

外はAsphaltとConcreteから発散する熱と人いきれの不快な暑気に満ちてゐて、其の中、淡い黄色を帯びた優しい白色の満月の月光が降り注ぐ、何とも名状し難い胸騒ぎを誘ふ摩訶不思議な世界へと変貌してゐた。東の夜空を見上げると美麗な満月がゆるりと昇って、満月は、暑気による陽炎に揺れてゐたが、私は『今夜は何人の人が誕生し、そして何人の人が亡くなるのか』等とぼんやりと生死について思ひを巡らせずにはゐられなかったのである。満月の夜は必ずさうであった。私にとって月は生物の生死の間を揺れ動く弥次郎兵衛のやうな存在で、且、生物の生死を司るある種創造と破壊の神、シヴァ神のやうな存在に思へたのである。

と、其の時ぽんと私の左肩を軽く叩き

――お待たせ。

と、雪が声を掛けたのであった。私は左を向いて雪の瞳を一瞥して不意に歩き出した途端、雪は私の右手首を今度は軽く握って

――もう、待ってよ、うふ。

と私に純真無垢な微笑を送って寄越したのであった。しかし、私は其のまま歩を進めたのである。

――もう、うふ。

と、雪は私の右側にぴたりと並んで歩き出したのであった。

(以降に続く)

2007 10/07 03:46:49 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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私の幼少時に他界した父方の祖母の思ひ出と言へば紬(つむぎ)の機織である。繭を重曹を加へた湯に浸したところから始める糸つむぎ、そして絣(かすり)くくりされ職人によって丹精に染められた糸をゐざり機で一心不乱に織る祖母の姿が私の瞼に鮮明に焼き付いてゐる。

糸つむぎ――祖母の糸をつむぐ手は『魔法の手』であった――は、盥一杯の繭から作られた真綿の山に『渦』を作り細く捻った『螺旋』状の『四次元』の細い糸を人力で作る作業である。この作業は女性に限られてゐた。女性の唾液が糸つむぎには一番であったのである。

そして機織である。経糸(〈たていと〉英語で言へば話題のwarp)は上糸640本、下糸640本の計1280本の『四次元』の糸を整経し緯糸(よこいと)を杼(ひ)を使って一本一本ゐざり機を足で自在に操り紬を織って行く。これまた祖母は『魔法使い』であった……。

…………

…………

さて、機織は『宇宙創成』の御業である。更に言へば日本の和服、それも特に女性の絹織物全ては世界でも屈指の『宇宙創成』の結果生まれた傑作品である。それは何故かと言へば『螺旋』状の『四次元』の何本もの糸で織り上げられた着物はそれ自体『X次元』の『宇宙』で、そして着物には『柄』として『森羅万象』が織り上げられ、または染め上げられてをり、光をここでBulk(物理学での高次元空間全体のこと)を自由に動けるBulk粒子と見立てれば最先端の理論物理学が言ふ宇宙論が着物にぴたりと当て嵌まってしまふのである。

和服を見事に着こなした女性が都会の雑踏の中に一人現はれただけでそこの雰囲気は一変する……。

衣紋掛けに掛けられた『開いた宇宙』の状態の着物はそれはそれで美しいのであるが、『主』、つまり、『宇宙の主』のゐない着物は詰まる処『もの』でしかないが、『宇宙の主』がその着物を纏って『閉ぢた宇宙』の状態になると着物を着た女性が存在するだけで世界は一変するのである。そして、着物を着た女性は『美の女神』に変貌するのである。

少なくとも『宇宙』は着物の数だけ『宇宙内』に存在する。つまり、『宇宙』はUniverseではなくMultiverse(物理学での宇宙の中に互いに相互作用するか、するとしても極度に弱くしか相互作用しない別々の領域があるとする、今のところ仮説上の宇宙)である。

即ち、最先端の宇宙論は多神教の世界観といふことである。
2007 10/01 04:22:12 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――さうね、《自由》《平等》《友愛》を掲げ、神をその玉座から引き摺り落とし《理性》が神の玉座に座ったフランス革命が好例ね。ブレイクもフランス革命における人間の愚劣さを「The French Revolution」として著してゐるけれども、人間が《自由》のど真中に抛り出されると如何に《愚劣》か……さうよね、あなたの言ふ通りかもしれないわ……、人間は《自由》を持ち堪へられないのかもしれないわね。

*******つまり、人間はどうあっても《下等動物》でしかなく、つまり、その《宿命》から逃れられない《大馬鹿者》であるといふ自覚がなければ、つまり、結局《縄張り》争いの坩堝に自ら進んで身を投じ、つまり、最後は無惨な《殺し合ひ》に終始する《愚劣》な生き物といふことを自覚しなければ、つまり、人間にとって《自由》は《他者を殺す自由》に摩り替はってしまふ外ない。つまり、レーニンがネチャーエフを認め、つまり、『革命家の教義問答』をも認めてゐたことは有名な話だけれども、つまり、レーニンが最も自身の後継者にしてはならないとしてゐたスターリンがソヴィエトを引き継ぎ、つまり、《大粛清》を行ったのも人間が《自由》に抛り出された末に辿り着く《宿命》、つまり、《自由》に堪へ切れずに人間内部に《自然発生》する《猜疑心》の虜になるといふ《宿命》、つまり、即ち《他者を殺す自由》が人間に最も相応しい《自由》といふことを証明してゐる。つまり、人類史をみれば、つまり、《自由》が《他者を殺す自由》でしかない事例は枚挙に暇がない。つまり、《他者を殺す自由》以外は全て排除、つまり、《自由》は《自由》に《抹殺》されてしまふ。

――そこでだけど、ねえ、《自殺する自由》はどう ? 

――……。

――やっぱり、あなたも考へてゐるのね、《自殺する自由》を……。

*******つまり、《何か》を《生かす》以外、つまり、《自殺》は地獄行きさ。つまり、卵子と精子の例じゃないけれど、つまり、《壱》のみ生き延びさせるための《自死》以外、つまり、《自殺》は、つまり、地獄行きだ。

――どうして《自殺》は地獄行きなの ?

*******つまり、例へば、僕も君も、つまり、一つの受精卵から子宮内で十月十日の間、つまり、全生物史を辿るやうに全生物に変態した末に人間に成るが、つまり、その一つの受精卵の誕生の一方で、つまり、《自死》した数多の卵子と女性の体内で死滅した数多の精子の《怨念》を、つまり、《背負はされて》此の世に誕生した訳だが、つまり、《自殺》はその死滅した、つまり、卵子達と精子達が許さず、そして、つまり、生き残った奴が《自由》に《自殺》した場合、つまり、此の世に誕生する事無く死滅させられた卵子達と精子達が、つまり、《自殺》した奴を地獄に送るのさ。更に《生者》が《自殺》するまで食料として喰らはれて来たこれまた数多の《他の生物達》の《怨念》も含めて、つまり、あらゆる《生者》は生まれた時から《死者》の数多の《怨念》を背負ってゐるから、つまり、《自殺の自由》を《生者》が行使した場合、つまり、地獄行きは《必然》なのさ。

――それでね、《他者》が存在するのは……。人間は独りでは《自由》を持ち堪へられない、故に《他者》が存在する、うふ。

*******さう、そして、つまり、未だ出現されざる未出現の《未来人》を必ず《未来》に出現させる為にも、つまり、《現在》に《生》を享けた人間は、つまり、与へられた《生》を全うしなければならない。つまり、その為には人間は数多の《他者》と共に生きねばならない。

――ねえ、さうすると、人間は《自由》とどう関はれば良いと思ふ ?

*******正直言ふと、つまり、僕にはそれは解らないんだよ。つまり、阿修羅の如き《自由》……、君はどう思ふ ?

――さうね、人間は分を弁えるしかないんじゃないかしら……、うふ、私にもこの《残虐非道》な阿修羅の如き《自由》に対しての人間の振舞ひ方は解らないわね、うふ。だって、《自由》を自在に操れるのは《神様》以外在り得ないもの。ねえ、さうでしょ、うふ。

…………

…………

君もさう思ふだらうが、雪の微笑みは何時見ても純真無垢な美しさに満ち溢れてゐたが、この時の雪の微笑みも『これぞ純真無垢 ! !』といふやうな飛び切りの純真無垢な美しさに包まれてゐて私は心地好かったのである……。

(以降に続く)
2007 09/30 02:57:26 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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東の窓を不図見上げると秋の十三夜月の仄かに黄色を帯びた柔らかな白色の月光を放つ月が見えたので、その月明かりに誘はれるまま漫ろ歩きに出掛けたのであった。

これは空耳なのか何処とも知れぬ何処かから「四智梵語」だと思ふがのその神秘的で荘厳な声明(しゃうみゃう)が、始終、聴こえて来るのであった。

その声明に誘(いざな)はれるままに私の歩は嘗ては門前町として栄えたであらうが今はその面影は全く無く十数か所の寺寺だけが残るとある場所を気が付くと歩いてゐたのであった。

――『祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。』(平家物語冒頭より)

と、私は無意識に呟いてゐたのであった。

と、不意に

――ぐわぁ〜〜ん……わぅ〜〜ん………うぉ〜〜ん…………

と何処の寺から美しく余韻を残す梵鐘が聴こえて来たのであった。

梵鐘の形は《宇宙の歴史》を形象したやうに思へてならないである。《無》からBig Bang(ビッグバン)の大爆発が発生してこの宇宙に膨張・成長されたと考へられてゐるが、梵鐘の天辺に付いてゐる宝珠と竜頭が原始宇宙を表はし、釣鐘本体は今に至る宇宙の歴史を具現化したものに思へるのである。そして、梵鐘の乳の間、池の間、そして草の間は宇宙の歴史で起こった三度の相転移を見事に表はしてゐて感心一入(ひとしお)である。そして、梵鐘下部の下帯(かたい)は現在の宇宙でその下の駒の爪が宇宙の涯を表はしてゐるのであるとすると、誠に見事といふ外ない。

梵鐘、即ち、《宇宙》である。

――ぐわぁ〜〜ん……わぅ〜〜ん………うぉ〜〜ん…………

この清澄な余韻ある美しき響きは音波たる《波》、即ち、物理学の「拾次元超ひも理論」若しくは「拾壱次元超重力理論」若しくは「余剰次元の宇宙論」等等の具現化に思へなくもないが、さて、物理数学はこの宇宙を将来「説明」出来るのか……。

月光の下の墓場は神聖な美しさと此の世を映す《猥雑さ》に満ちてゐる。私は墓場が大好きで昼夜問はず己を律するときには必ず墓場を訪れるが――その所為で頻繁に私には《霊》が憑依し《霊》が去るまで《重たい》身体を引き摺るやうに過ごしながら、そして、大概《霊》は毎晩《夢》で私と何やら問答をし、納得してかその問答に飽きてかは解らぬが一週間程して私の右足の皮膚を破って出て行くのである。勿論、私の右足には《霊》が破いた皮膚に傷が残される事になるのであるが――、その時も寺寺の境内の墓場に歩を進め巡り歩いたのは勿論の事である。墓場は大概綺麗に清掃されてゐるが、しかし、《生者》に《見捨てられた》墓所の前に来ると墓碑若しくは墓石が何やら《泣いてゐる》やうに感じられ、よくよく見ると何十年にも亙ってその墓を親類縁者の誰一人も参りに来てゐないのがその墓所の《姿》から察しがつくのである。私はさういった墓には合掌し鄭重に一礼するのを常としてゐるのであった。

さて、とある寺に着くとその寺の本堂の扉は全て開かれて内部は三本の和蝋燭の燈明の灯りのみで宵の闇に照らし出されてあったのである。私は本堂の入り口に来ると

――すみません。失礼します。

と、大声で声を掛けたが何時まで経ってもその静寂は破られることは無かったのであった。

――お邪魔します。

と言って私は本堂に上がり御燈の前に正座したのであった。前方にはこの寺の本尊なのかもしれない然程大きくも無く朴訥と彫られた古びた阿弥陀仏が鎮座なさってをられたのである。

――自在……

これは仏像を見ると必ず私が胸奥で呟く一言である。暫くその阿弥陀仏に見入ってゐると不意に声明と共に誰かの声が聞こえたのであった。

――未だ具足なれざる者、《吾》は《自在》か。

――《自在》です。

――此の場で朽ち果てるのみでもか。

すると一陣の風が本堂の中を通り過ぎ蝋燭の炎がゆらりと揺れたのであった。当然、阿弥陀仏もゆらりと揺れたやうに見えたのであった。

――あなた様は絶えず《動いて》らっしゃるではありませんか。今もさうです。ゆらりと動きなさいました。

――はっは。お前の《錯覚》じゃ。何故《吾》《自在》なるか。

――《内的自由》。あなた様は《自由自在》、《変幻自在》です。あなた様の《内的自由》は《無限》だからです。

――小賢しい。《吾》不自由故に《自在》なり。《無限》是《無》乃至《空》なり。色即是空、空即是色なり。

――ぐわぁ〜〜ん……わぅ〜〜ん………うぉ〜〜ん…………

と何処で再び梵鐘が鳴り響き、そして、何時までも声明は消えることは無かったのであった。
2007 09/25 01:28:40 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――えっ、自由か……、それが私には解らないのよ。そうね、例へば、主君の死に殉じて自ら殉死する人々、一遍上人は禁じてゐたにも拘はらず一遍上人の死に殉じて入水(じゅすい)した僧や癩者達、そして《死の自由》の狂信者としてドストエフスキイの作品《悪霊》に登場するキリーロフ等々、何れも《何か》の《殉死》だけれども……う〜ん……《自由》の問題を考へると私は如何しても《死の自由》に行き着いちゃうの……。どれも極端だけどもね。

ここで私は雪に『一寸』といふ合図を右手で送って鞄から或るMemo帳を取り出してバクーニンが草稿を書きネチャーエフが補足したといはれてゐる『革命家の教義問答』を雪に読ませたのであった。その内容はかうだ。

【革命家は既に死刑を宣告された者である。彼は個人的な興味も個人的な感情も持たない。彼自身の名さへ持たない。彼は唯一つの観念を持ってゐる。革命がそれである。彼はこの教養ある世界のあらゆる法律、あらゆる道徳律と断絶してゐる。彼がその世界の一部である如くに振舞ひながらその世界の中で生活するのは、唯只管その世界をより的確に破壊するがためである。この世界の中の全ての事物は等しく彼にとって憎むべきものでなければならない。彼は冷ややかでなければならない。彼は常に死ぬ用意をしてゐなければならない。彼は苦痛に耐へる訓練をしてゐなければならない。そして、自己内部のあらゆる感情を圧殺するため絶えず備へてゐなければならない。彼の目的を妨げる怖れのある時は名誉の感情さへ含めて、彼は唯その目的に貢献する者のみに友情を感じて差支へない。彼はより低い能力を持った革命家達を唯消費すべきところの資本と看做さねばならない。もし同志が危難に陥った時は、その運命は彼の有益性と、彼を救ふために必要な革命勢力の消費度によって決定されねばならない。支配する側については、革命家はその構成員を、その個人の悪しき性質によってではなく、革命の大義に害悪を齎す様様な度合に応じて、区分しなければならない。最も危険なものは直ちに除かれねばならない。けれども、そこには次のやうな他の部類に属する者がゐる。その或る者は、放任されたままでゐる限り、怖るべき所業を敢行し民衆を昂奮せしめることによって革命の利益を促進し、また或る者は、恐喝と脅迫によって大義の目的に役に立ち利用され得るのである。自由主義者の部門は、彼等の方針に一致するかの如く彼等を信じしめ、それによって、こちらの方針をもまた容れることを妥協せしめながら、彼等を利用せねばならない。他の急進主義者については、多くの場合彼等を完全に破滅せしめる行動に駆り立てねばならない。そして、稀な場合、それが彼等を革命家に仕立てあげるのである。革命家の唯一の目標は手を使う労働者達の自由と幸福であるが、この事態が唯全は全破壊的な、全人民の革命によってのみ成し遂げられることを考慮して、革命家は全力を傾倒して人民がついに忍耐心を失うに至るだらうところの全ての悪行を推し進めなければならない。ロシア人は、西欧諸国において一般化してゐる革命の古典的な形態、つまり、財産に対し、また、所謂文明と道徳による伝統的な社会秩序に対して常に足踏みし、そして国家を唯別の国家によって置き換へてゐるところの革命の古典的形態を断乎として拒絶しなければならない。ロシアの革命家は国家を、その全伝統、全制度、全階級とともに、根こそぎに廃絶しなければならない。かかるが故に、革命を醸成するGroupは人民に対して如何なる政治的組織をも上から押し付けやうと試みないであらう。未来社会の組織は、疑ひもなく、人民自体の中から生まれる。吾々の事業は唯恐怖すべき、完璧な、全般的な、無慈悲な破壊を為すことにある。そして、この目的のため、大衆の頑固に反抗する諸部分を結合せしめるばかりでなく、ロシアにおける唯一の真実な革命家であるところの法の保護を失へる全ての者達の不屈な集団を団結せしめばならない。】(埴谷雄高著「埴谷雄高ドストエフスキイ全論集」【講談社】の参照より)

*******どう ? つまり、これもまた《自由》の一形態だが……

――ネチャーエフが《悪霊》のスタヴローギンのModelだとは知ってゐたけれども『革命家の教義問答』を読むのは今日初めて……。

******つまり、《自由》は冷徹非道性を必ず備へてゐなければ、つまり、それは《自由》として取り上げるに値しない……つまり、《自由》は、つまり、そもそも《残虐非道》なものに違ひない……と思ふけれども、つまり、君は、如何思ふ ?

(以降に続く)
2007 09/23 16:03:58 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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このBlogの「瞼考?――過去にたゆたひ未来にたゆたふ」等を参照にすれば外界に於ける「過去」と「未来」が《主体》次第で何時でも転換可能だといふ事、つまり、此の世は《個時空》といふ《渦時空》、例へば《主体》の《個時空》や《地球》の《個時空》や《太陽系》の《個時空》や《天の川銀河》の《個時空》等々のそれぞれの《渦時空》が各々相互作用しながらも個々に存在してゐると考へられるのである。去来現(こらいげん)、つまり、過去・現在・未来は私見であるが全て《渾沌》の中で《渦》を巻いてゐるのである。

更に妄想を肥大させるともしかすると此の世には渦状の《螺旋》を形作る《宿命次元》若しくは《運命次元》が《個時空》各々に存在し、その《宿命次元》若しくは《運命次元》が《主体》それぞれを貫いてゐるやうに思ふのである。生物について言へばその《宿命次元》若しくは《運命次元》は《主体》の二重螺旋のDNAと相互作用を及ぼし合ひながら《主体》の生老病死を決定してゐるやうに思へてならないのである。

例へば交通事故で死す人々を思ふと此の世の無情の《不合理》に怒りすら覚へ、『何故あの人が……』と死への疑問を覚へながらも、其の反面、胸奥では『これがあの人の《運命》だ……』と何処かである種の諦念にも似た思ひを抱き変に納得してゐる自分がゐるのであるが、不思議なものであるが《宿命次元》若しくは《運命次元》が確かに存在すると考へれば尚更納得出来てしまふのである。

多分、《宿命次元》若しくは《運命次元》は確かに存在する……

例へば、各々の《主体》の《宿命次元》若しくは《運命次元》が縄を捩るやうに互いに巻き付けばそれは《仲間》やら《友人》やら《恋人》やら《伴侶》やら《家族》やらになる筈で、一方互いの《宿命次元》若しくは《運命次元》が《垂直》に互いの次元をぶった切るやうに交はればそれは交通事故死のやうに《死》を齎すに違ひないと思はれる……

さて、The Concrete Jungle(コンクリートジャングル)と異名を持つ都市の景色を見渡すと、先づ、《地球》の《個時空》の《現在》たる地肌をAsphalt(アスファルト)やConcreteで蔽ひ此の世を《過去》へ無理矢理に追い遣って《現在》から遁走してゐるのである。つまり、《主体》は《地球》の《過去》の世界で敢へて《現在》を《永劫》に追い求める《仮象》の中で生きる《倒錯》の中に存在してゐるやうに思へてならないのである。つまり、都市に住む現代人は全て《現実逃避》の中で生きるといふ無責任極まりない生き方をしてゐるのである。そもそも《現実》は不便なもので《便利》とは、即ち《現実逃避》の別名である。そこで、もし自然が今直ぐにでも憤怒の鉄槌を人類に下して人類の数を半減させなければ今の自然環境は打ち壊れ、多分、昆虫と人類以外の殆どの生物は絶滅する筈である。

すると、人類は食料確保の為に《人間狩り》を始め《共食い地獄》に堕ちる筈である。武田泰淳の「ひかりごけ」や大岡昇平の「野火」の地獄を見るに違ひないのである。今のままでは必ず人類は《共食い地獄》に堕ちるしかない――。

さて、《宿命次元》若しくは《運命次元》が重力と深い関係にあると仮定するならば地肌をAsphaltやConcreteで蔽った都市世界は、もしかすると《宿命次元》若しくは《運命次元》の《力》がAsphaltやConcreteでぶった切られて羸弱してゐるに違ひないのである。

――さあ、剥がせ ! !、剥がせ ! ! AsphaltもConcreteも剥がすのだ ! ! でなければ……人類は地獄行きだ ! ! さあ、地の上に直に立たう ! ! でなければ人類は死滅するのみ ! !
2007 09/17 09:47:00 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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*******いや、つまり、僕が思うに、つまり、《秩序》は《不合理》を、つまり、許容しなければならない。つまり、何故だと思う ?

――さうね、《秩序》が《合理》であるとすると、う〜ん、そっか、その《社会》には《合理》しか有り得ない。さうすると《主体》は《不自由》ね。

*******さう。つまり、《人類》より遥かに進化してゐる、つまり、昆虫、中でも、つまり、蜂や蟻を考えてごらん。

――御免なさい。私、昆虫は余り詳しくないの。

*******つまり、蟻を例にすると、つまり、蟻は大きな群れを作って、つまり、集団で生活してゐるね。つまり、蟻は、つまり、《社会性昆虫》と言われてゐる。ところで、つまり、君、蟻に《脳》は、つまり、有ると思ふかい ?

――えっ、さうね、有るんじゃないの。

*******さう、つまり、昆虫にも、つまり、《脳》はある。つまり、さうじゃなきゃ、つまり、此の世は、つまり、《昆虫天国》になる筈はない。それじゃ、君、つまり、蟻は《思考》すると思ふかい ?

――えっ、それは、う〜ん、解らないわ。

*******つまり、蟻が、つまり、《思考》するかどうかは、つまり、これからの研究に待たなければならないんだが、つまり、仮に蟻が《思考》するとして、つまり、蟻は血縁の社会だが、つまり、さうすると、何故、つまり、蟻の社会には、つまり、働き蟻による《内訌》や《叛乱》や《謀反》が、つまり、起こらないのだらうかね。

――う〜ん、……《自由》の問題かしら ?

*******さうだね、つまり、《自由》の問題になるのかもしれないね。そこで、つまり、君、蟻の社会は《合理的》だよね。つまり、そこでだ、つまり、蟻のやうに《合理的》な、つまり、それも、つまり、《合理》をとことん突き詰めたやうな、つまり、《秩序》が《合理》そのものの《社会》で、つまり、《思考》する、つまり、《主体》の《自由》は、つまり、《許容》されると思ふかい ?

――さうね。《主体》の《自由》は無きに等しいわね。それは将に《洗脳社会》だわ。《主体》は皆全て《洗脳》された《自由》無き、考へただけでもぞっとする程気色悪い、寒気がする社会ね。ねえ、さうすると、《秩序》はそもそも《不合理》だとして、う〜ん、《秩序》が《不合理》であればある程、《主体》の《自由》は保障されるといふことかしら ?

*******つまり、それも《按配》だね。つまり、君、《渾沌》に《自由》はあるかい ?

――うふ、《渾沌》には《自由》しかないわ。だって《秩序》が無いんだもの。でも、《主体》はその《渾沌》の《自由》に潰されるわね。《破滅》のみね、《渾沌》にあるのは。そして、うふ、《渾沌》から《秩序》が生まれる……。うふ、パスカル風に言ふと《二つの〈渾沌〉の中間点が〈秩序〉》……ね。不思議ね。

*******君、その陰陽魚太極図が、つまり、《渾沌》から《秩序》が、つまり、生まれる瞬間の《象徴》だよ。つまり、《人間は思考する葦である》。つまり、人間は《渾沌》も《秩序》も、つまり、《思考》出来る《自由》がある。だけども、つまり、この《自由》が、つまり、曲者なんだよ。ねえ、君、つまり、そもそも人間は、つまり、《自由》を持ち堪へるに十分な、つまり、《存在》だと思ふかい ?

(以降に続く)
2007 09/16 05:37:46 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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水分子間の水素結合……これが諸悪の根源なのか……。

純度百%の超純粋水は一時も『吾』たる事に堪へられず、手当たり次第に『他』の物質を水たる『吾』に溶解させ、『不純』なる水に、即ち、『不純』なる『吾』に変容することを渇望して已まない……

故に、『吾』、既に『吾』為らざる『吾』たり。

水分子間の水素結合が生体に不可欠なたんぱく質のその立体構造を生成するのに重要な役割を果たしてしまってゐることは周知の事実であるが、この水分子間の水素結合が此の世の『寛容』の、即ち、『神』の『寛容』の淵源か。

…………

…………

或る日、私が湯船に浸かると不意に口から出た言葉があった……。

――『初めに言葉ありき』(新約聖書の「ヨハネによる福音書」より)。否、『初めにLogos(ロゴス)ありき』。

さて、一神教の世界に『無』は在るや。

――基督教が生まれた中東も含め、西洋の『言葉』は全て横書きなのは『天』に、若しくは『頭上』に厳然と『神』が坐し給ひしためなり……、即ち、それは『有』が全ての創造物の前提になってゐるからか……。其処には『無』は有り得ず、『空虚』若しくは『真空』のみ有る……つまり、全ての根源が『有る』事が前提なのか……

――つまり、一神教の世では『人』が直立するのに『自力』で地に立つのではなく、『神』が『既に』人を地に立たせてしまってゐる……、つまり、其処には『白紙』の『紙』は存在せずか……

――一方、『初めに言葉無き』極東のこの地では『臣安萬侶(やすまろ)言(もう)す。 夫(そ)れ混元(こんげん)既(すで)に凝(こ)りて、氣象(きしょう)未だ效(あらわ)れず。 名も無く爲(わざ)も無し。 誰か其の形を知らん。 然れども乾坤(けんこん)初めて分れて、參?(さんしん)造化(ぞうけ)の首(はじめ)と作(な)り、陰陽(めお)斯(ここ)に開けて、二靈(にれい)群品(ぐんぴん)の祖(おや)と爲りき。 所以(このゆえ)に幽顯(ゆうけん)に出入して、日月目を洗うに彰(あらわ)れ、海水に浮沈して?祇(じんぎ)身を滌(すす)ぐに呈(あらわ)れき。 故(かれ)、太素(たいそ)は杳冥(ようめい)なれども、本?に因(よ)りて土(くに)を孕(はら)み嶋を産みし時を識(し)れり。』(古事記 上つ卷から) ……云々。つまり、初めに『無』ありき。

――それで ?

――この極東の地で『人』が地に直立するには『自力』で、つまり、『神』無しに『立つ』外無し。

――それで ?

――然れば、先づ『人』は此の世に『天地』を定めるなり。

――そして ?

――『人』、『白紙』の如し。故に極東のこの地では『人』が直立するべく『無』たる『白紙』に縦書きで『字』を認(したた)めし。縦書き為らずばこの極東の地に『人』、即ち『直立』出来難し。

…………

…………

また、湯船の中で次の言葉が不意に口に出た……。

――『胎内瞑想』。

これは埴谷雄高が暗黒舞踏の創始者、土方巽について書いたEssay(エッセイ)の題名……。

――『舞踏とは命がけで突っ立つ死体』(土方巽)。

――この湯船の中……、『水』によって『浮揚』する……『吾』……

――さて、胎児は羊水の中で『浮遊』しながら何思ふ……、ふっ。

2007 09/10 07:34:09 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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*******つまり、君には酷な話になるが、つまり、君は既に、つまり、独りで立ち上って、つまり、何かを《決心》してゐるから、つまり、直截的に言ふよ。つまり、特に人間だが、つまり、君は、つまり、一つの卵子が作られる、つまり、過程は知ってゐるね ?

――ええ、多くの卵細胞から卵子に成れるのはたった一つ。後は卵胞閉鎖で自ら死滅して行くのよ。それを今ではApoptosis(アポトーシス)と名付けて生物学者は何か新発見をしたかのやうにしたり顔で馬鹿みたいに《歓喜》してゐるわ。

*******つまり、君は、何故卵子は一つなのか、つまり、君の考えを、つまり、聞かせてくれないか。

――えっ ! 何故 ? そんな事これまで考えもしなかったわ。御免なさい。私、それが《自然》で当然のことだとしか思ってゐなかったわ。何か理由でもあるの ?

*******つまり、これは私の独断だが、つまり、遺伝子には《諦念》或いは《断念》といふ情報が組み込まれてゐる、つまり、私はそれを《断念遺伝子》と勝手に名付けてゐるが、つまり、生き物は《断念》、これは詩人の、つまり、石原吉郎に影響されたんだが、つまり、生物は《断念》を、つまり、《宿命》付けられてゐる。つまり、《断念》無しに、つまり、此の世の《秩序》は在りっこ無いんだ。

――《断念》……ね。うふ、一つの卵子には無数の死滅した卵子成れざるの卵子達の《怨念》が負わされてゐるのかしら ?

*******へへ。つまり、僕の独断で言へば、つまり、負ってゐる。つまり、自ら死滅した卵子達の、つまり、死の大海に、つまり、たった一つの卵子が浮かぶ。つまり、そのたった一つの卵子は、つまり、死滅した無数の卵子達の《怨念》を、つまり、負はなければならない《宿命》なのさ。

――すると、ねえ、……

*******精子だね。さう、つまり、受精はたった一つの卵子とたった一つの精子のみしか出来ない、つまり、受精はそもそも、つまり、無数の《死》をその存在の前提で背負わされてゐる。つまり、無数に女性の、つまり、膣内に放出された、つまり、精子達は女性の体内で《死滅》して行く。つまり、僕や君が、つまり、此の世に存在する前提に、つまり、既に無数の《死》が、つまり、厳然と存在してゐる。

――さう……ね。……ちょっと待って。ねえ、何故人間は全ての卵子と全ての……精子……を受精させないの。受精以前に自ら《断念》して死滅する必然なんて何処にも無いわ。

*******さうだね。つまり、其処なんだよ、此の世に《秩序》がある《理由》が。つまり、人間もまた、つまり、魚類や昆虫等々と、つまり、一緒に、つまり、他の生物の《餌》になる前提で、つまり、無数の受精卵が、つまり、胎内に、つまり、《断念》せず存在してても良い筈なんだ。しかしだ、つまり、現実はさうは成ってゐない。つまり、DNAはどの生物も、つまり、その組成物質のたんぱく質は、つまり、《同じ》にも拘はらず、ある生物は、つまり、他の生物の《餌》となるために、つまり、《死滅》せず無数の受精卵が存在し、つまり、また、ある生物は《餌》とならないために、つまり、特に人間は、つまり、無数の《死》の大海に、つまり、たった一つの受精卵を存在させる。へへ、つまり、此の世の《秩序》は、つまり、《不合理》だね。

――それって《神》の気紛れかしら。ええっと、Credo……何だったかしら ?

*******Credo,quia absurdum。つまり、《不合理故に吾信ず》。

――それそれ。ねえ、《秩序》は《不合理》の異名なの ?

(以降に続く)
2007 09/09 05:58:56 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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私は幼少時から昆虫を異常な程偏愛してゐるが、中でも黒蟻と蟷螂への偏愛は特別である。黒蟻はその巣の出入り口を一日中でも見続けてゐられる程であるが、黒蟻についてはまたの機会に譲る。

蟷螂は冬に芒等の枯れた茎に蟷螂の卵鞘(らんせう)を見つけるとそれを茎ごと家に持ち帰って日一日とその卵鞘から蟷螂の幼虫がうようよ出てくるのを待つのが楽しみであった。

また、初秋以外は自然の中にゐる蟷螂をじっと見続けてゐるだけで何とも言へない幸福感に包まれるのであった。

さて、問題は産卵期が近づいた初秋の蟷螂で、私は蟷螂を見つけると雄雌区別なく竹製の籠――Plastic(プラスティック)は幼少時から嫌いである。それはある日風呂に入るとそれまで木製だった桶等が全てPlastic製品に変はってゐてそのPlastic製品を手にした瞬間の嫌悪感が未だに克服できないのである――に入れ空かさず蟋蟀等の蟷螂の餌を捕まへて蟷螂に喰はせるのである。その様をずっと見てゐるのがこれまた名状し難い幸福な時間なのである。

蟷螂は蟋蟀を鎌で確りと掴み先づ蟋蟀の腹に喰らひ付く。その喰ひっぷりがこれまた何とも名状し難い程素晴らしいのである。今思ふとそれは後年『生』と『死』について思索するといふ陥穽へと陥ることになる予兆であったのかもしれない……。

それはそれとして、蟷螂が見事な喰ひっぷりで蟋蟀を一匹喰ひ終はると二匹目を蟷螂に喰はせ蟷螂が満腹になって喰ひ残した蟋蟀を鎌から放り投げるまで続けるのであった。そして、満腹になった蟷螂を捕まへた場所に戻し、私は名状し難い幸福感に包まれて其の日を終へるのであった。何も私は死体嗜好者ではないが蟷螂だけは別物なのである。

さて、それは或る秋の日のことであった。不意に道端に繁茂する雑草に目を向けると雄と雌の蟷螂が交尾してゐるのを目撃してしまったのである。最早私は蟷螂の交尾を凝視し続けるしかないのである。

それは不意に起こったのである。雌蟷螂が突然雄蟷螂の首を噛み切り首を落としたのである。依然として交尾は続いてゐた。そして、交尾が終はると雌蟷螂は雄の腹に喰ひつきその首がなく唯痙攣したやうに反射運動をしてゐるだけの、不自然に脚をばたつかせてゐた雄蟷螂を一匹丸々喰らったのであった……。

一方、首を落とされた雄蟷螂は想像するに、多分、恍惚の中に陶酔したまま彼の世に逝った筈である。生物史を見れば『性』と『死』は表裏一体の切っても切れない仲なのは明白で、雄蟷螂の死は『自然』の『慈悲』が最も良く具現化された『極楽』に思へてならないのである……。

さて、これは多分私だけの現象に違ひないが、快楽のみを求めて無用な性行為をしてゐる人間の男女は異様な瘴気を放ってゐて、私はそれを幻臭と名付けてゐるが、彼等は『死臭』若しくは『腐乱臭』の幻臭を放ってゐるのである。当然のこと、私が彼らの傍らを通り過ぎると幻臭に襲われ嘔吐するのである。そして、彼等は総じて老けるのが早く『醜悪』極まりないのである。

ランボーだったかボードレールだったかマラルメだったか忘れてしまったが、フランスの詩人のギロチンをMotifにした詩を読んだ記憶があるが、私が思ふにギロチンで死に逝く者は幸福なのかもしれないと、蟷螂が教へてゐるやうな気がしてならないのである。ギロチンが落とされ斬首された首の持ち主は、消え行く意識の中、多分、首は自由落下してゐるので『天上』へ向かって飛翔してゐる『錯覚』と『陶酔』の中で死んで逝ってゐる筈である……
2007 09/03 06:05:31 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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*******Credo,quia absurdum、つまり、君は、つまり、《不合理故に吾信ず》といふ、つまり、箴言を知ってゐるね。つまり、確か、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)の言葉だったと思ふが、否、つまり、この前に、つまり、君は、つまり、此の世に《秩序》があると思ふかい ?

――ええ、勿論あるわ。

*******へっへ。つまり、此の世に、つまり、《秩序》があるのに、つまり、君は、つまり、西洋の《論理》は、つまり、《理不尽》といふ。つまり、君の《論理》に、つまり、《矛盾》がないかい ?

――うふ、《矛盾》はないわよ、天邪鬼さん。だって此の世の《秩序》がそもそも《理不尽》なのだもの、うふ。

*******つまり、《真理》若しくは《摂理》といふ名の、つまり、《神》の御業を、つまり、把握したいが為に人間は、つまり、哲学から、つまり、始まって、そして、つまり、数学やら物理やらを、つまり、派生させ、つまり、《真理》の追究に、つまり、邁進して来たが、つまり、君はどう思ふかな、つまり、哲学者や数学者や物理学者等に、つまり、定理、公理、法則等が、つまり、此の世に厳然と、つまり、存在すると、つまり、君達は言ふが、つまり、では、その、つまり、定理やら公理やら法則やらは、つまり、何故、如何して、つまり、存在するのかを、つまり、彼らに尋ねると、さて、つまり、彼らは何と答えるか ?

――さうね、多分、解らないと答へるでしょうね。

*******つまり、其処さ。つまり、彼等は言外で、つまり、《神》の存在を、つまり、認めてゐるのさ。更に言へば、つまり、彼等は全て、つまり、一神教の《神》が此の世を創世したと深奥では、つまり、信じてゐるのさ。

――さう、それが私の言ふ《理不尽》の根本なのよ。幾何学等を発展させたエジプトやギリシア、そして零を発見したインド、更にニュートンやライプニッツに比肩するほどの独自の和算を発展させた日本、これら全て多神教よ。

*******つまり、ギリシアを始め、つまり、欧州に原始基督教が布教した頃は、つまり、土着の信仰も許容してゐた筈なのだが、つまり、私の勝手な考えだけれども、つまり、欧州の土地が、つまり、石畳で蔽はれるのと機を一にして、多分、つまり、一神教の圧制が、つまり、始まったと思ふ。つまり、これは、つまり、人間の性だが、つまり、《単純明快》が《美的感覚》と、つまり、結び付いてゐる、つまり、一神教の圧制は、つまり、必然なのさ。

――さうかもしれないわね……。

*******つまり、話は一気に飛躍するけれども、つまり、無性生殖の単細胞から有性生殖の多細胞へと、つまり、生物が、つまり、進化したことと、つまり、《単純明快》が《美的感覚》と結び付く人間の性と、つまり、関係してゐるのさ。

――えっ。どうして ?

(以降に続く)
2007 09/02 05:52:51 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――ゆあゆあ……ゆあ……ゆあゆあゆあ……じっじっじー……ぽっぽっぽ……

飛んで燈にいる夏の虫。何処からともなく此方に飛んできてゆるりゆるりと眼前の蝋燭の燈の周りを渦を巻くように何回か巡り小さな羽虫が蝋燭の炎に焼かれた……。

――ゆあ……ぽっ……ゆあゆあゆあ……

複眼を持つ昆虫は光線に対して直角に進むやうに『仕組まれて』ゐるので蝋燭の炎に飛び込み焼け死んだあの小さな羽虫は『直進』してゐたにも拘はず『渦』を描いてゐた。

――あの小さな羽虫もまた蝋燭の燈に魅せられてしまったのか……

――ゆあゆあゆあ……ゆあゆあゆあゆあ……ぽっ……

不意に眼前の蝋燭の炎が揺れた。

――揺らめく……揺らめく……世界が……揺らめく……

眼前の蝋燭の炎を中心とした『渦時空間』に死者たちの魂もまた魅せられてその蝋燭の炎の周りを巡ってゐるのか……。

――ゆあゆあ……ぽっぽっぽっぽっ……ゆあゆあゆあゆあ……

陰翳が絶えず移ろふこの『渦時空間』こそ、死者たちの祝祭の場……。

――眼前の蝋燭の炎は吾の命の『炎』なのか……死者共が吾の『炎』を酒の肴に喰らってゐるではないか……

この蝋燭の炎の『ゆあゆあゆあ』といふ揺らめく輝きは死者共の哄笑で満ちてゐる憩ひの場。そして、また、吾も清浄なる死者共の祝祭に招かれし。

――わっはっは。

死者と戯れしこの無上の時間。そして……終焉の時。

――ふうっ。

吾は己の命の『炎』を自ら吹き消したのだ。

――何なのだらう、この静謐なる心地よさは……

闇の中、吾の網膜に残る蝋燭の炎の残像を吾は己の命を慈しむやうにずうっとずうっと眺め続けてゐたのであった。

――吾、未だ、苟も生かされてしまってゐるのか。祝祭だ、祝祭だ、吾の生に乾杯 ! !



2007 08/27 05:00:05 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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雪は終始愉快なやうであった。即ち、私が愉快であったのである。他者は自己の鏡である。雪が愉快だととふことは取りも直さず私が愉快だったことが雪に映ってゐただけのことに違ひない……

*******つまり、渦の紋様が、つまり、古の昔から存在してゐて、つまり、しかもそれが、つまり、人類共通の、つまり、紋様だったことは、つまり、知ってゐるね。

――ええ。アイヌの方々の衣装を見ただけでも自明のことよ。日本は、勿論、唐草紋様は特に世界共通の渦紋様だわ。……それが物理数学的に未だ数式で記述できないって事が不思議でならないわ。

*******つまり、そこなんだ、つまり、問題は。つまり、僕の、つまり、直感だけれども、つまり、渦を、つまり、数式とかで記述するには、つまり、∞の次元が、つまり、自在に、数式で、つまり、操れないと、つまり、記述できないと、つまり、思へて仕方がない……。

――∞の次元 ? ねえ、それは何の事 ?

*******つまり、此の世は、つまり、アインシュタインのやうに、つまり、四次元であるといふのが、つまり、一般的だが、つまり、君は、つまり、特異点を知ってゐるね。つまり、人類が、つまり、未だ渦を、つまり、物理数学的な数式で、つまり、記述できないことが、つまり、この世界を、つまり、量子論と相対論とを、つまり、統一できない、つまり、根本原因だと、つまり、その歪が、つまり、特異点として、つまり、現れて、つまり、人類は特異点の問題を、つまり、姑息な手段で、つまり、成るべく触れずに、つまり、取り繕って、つまり、何事か、つまり、世界が物理数学で、つまり、記述できると、つまり、錯覚してゐたい、つまり、穴凹だらけの地面を見て、つまり、《この土地はまっ平らな土地だねえ》と、つまり、錯覚してゐるに、つまり、過ぎないのさ。

――えっ ? もっと解りやすくお願い。

*******つまり、僕の直感だけれども、つまり、渦は、つまり、四次元以上、つまり、∞次元の、つまり、四次元での、つまり、仮の姿に、つまり、過ぎない。そして、つまり、渦は、つまり、此の世の結び目、つまり、四次元時空間を、つまり、宇宙として繫げてゐる、つまり、結節に違ひないのだ。

――つまり、銀河の事ね。パスカルじゃないけれど、二つの無限の中間点が……渦といふ事ね。そして、人間もまた……渦といふことね。

*******さう。

――うふ。

*******つまり、渦が、つまり、物理数学的に記述できるといふことは、つまり、《無限》の仮面が、つまり、剥がれる、つまり、時さ。そして、つまり、人類は、つまり、此処に至って漸く本当の《無限》に、つまり、出遭ふのさ……

――本当の《無限》 ?

*******つまり、人類が、つまり、無限大を、つまり、∞といふ《象徴》で、つまり、封印したことが、つまり、間違ひの元凶だったのさ。しかし、∞といふ、つまり、象徴記号が、つまり、なかったならば、つまり、科学の発展は、つまり、もっともっとゆっくり進んだに違ひない……つまり、ねえ、君、人類は、つまり、得体の知れぬものに、つまり、《仮面》なり、《象徴記号》なり、《名前》なり、つまり、付けられずに、つまり、堪へられる、つまり、生き物だらうか ?

――さうね……《心》がその典型ね。きっと無理ね。

――……

――ねえ、うふ、《得体の知れぬ》あなたは、形而上で呼吸をしてゐる《不思議》な生き物ね……。ドストエフスキイ曰く、あなたは《紙で出来た人間》の眷属なの、えへ。

*******さうかもね、へへ。つまり、《魂の渇望型》の、つまり、生き物さ。さて、……その、つまり、陰陽魚太極図だけれども、つまり、僕の勝手な、つまり、解釈だけれども、つまり、東洋、つまり、特に日本は、つまり、陰陽===>太極で論証する、つまり、弁証法に比べたら、つまり、曖昧模糊とした論証だけれども、つまり、しかし、陰陽===>太極で思考する方が、つまり、深遠だと思ふ。

――さうね。さうかもしれないわ。

*******君は、つまり、今、つまり、道元と親鸞に、つまり、心酔してゐるね ?

――さう……。キェルケゴールの「あれか、これか」だったかしら、エイブラハムとその子イサクについての基督者の姿勢が書かれてゐた筈だけれども……私……《論理》を超えた《言葉》を……今……渇望してゐるの。それが道元と親鸞なのよ。《神》無き仏教に惹かれるの。それに、私、神が傍若無人を人間に働く「ヨブ記」が大嫌い ! !

*******でも、つまり、ブレイクもキェルケゴールも、つまり、「ヨブ記」に耽溺してゐた筈だが……

――さうね、基督者にとっては「ヨブ記」はある意味、信仰の《踏み絵》ね。確か、ドストエフスキイもさうだった筈だわ。

*******つまり、砂漠の地で生まれた、つまり、ユダヤ教、基督教、回教、何れも、つまり、《自然》といふ名の《神》は、つまり、皆、つまり、悪意に満ちてゐなければならなかったのさ。つまり、彼らは、つまり、それ程過酷な地で生きなければならなかったのさ。

――うふ。それで世界は《秩序立って》ゐたのね。だから、私には虚しい《論理》と《科学》が発展したのね。

*******さう、つまり、《理不尽》にね……。

――さうなの、西洋の《論理》は《理不尽》なのよ。

(以降に続く)
2007 08/26 06:23:14 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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彼の口癖はかうであった。

――超越数の一つとしても知られてゐる円周率πの値が確定された時、『宇宙』は無限を獲得する。つまり、それは、へっ、『宇宙の死』さ。

更に彼は斯く語りき。

――人類は円周率をπとして『象徴記号』に封印したことで『生の世界』と『死の世界』を無理矢理にでも跨ぎ果(おお)せなければならない奇妙奇天烈な生き物へと変貌させられたのだ。

吾、其れを彼に何故だと問ふ。

――なにゆゑに貴君は斯くの如く断言せしむるや。

彼、斯くの如く答ふる。

――それでは貴君に問ふ。此の世に直線は存するや。

吾、斯くの如く答ふる。

――存在するに能はず。然れども数学世界ではπは存在し得る。

彼、更に斯くの如く問ふ。

――さすれば貴君の言ふ数学世界は『死の世界』の総称か ?

吾、彼に斯くの如く問ふ。

――なにゆゑ貴君は数学を『死の世界』と定義するや。

彼、にやりと僅かに嘲笑し、斯くの如く答ふる。

――ふっ、笑止千万。貴君、先に此の世に直線は存在するに能はずと答ふる。然れども数学ではπは存すると語りき。この矛盾、如何せん。

――うむ。如何ともせん。さすれば貴君はなにゆゑ数学を『死の世界』と断言するや。

――古人(いにしへび)とは直感的に円周率に『生』と『死』を跨ぐ《橋》の形をしたπといふギリシア文字を当てた。勿論、数学は『生』の学問ではあるが、しかし、此の世は『生』のみに非ず。『生』と『死』は切っても切れぬ縁(えにし)で結ばれし。『生』有れば必ず『死』有り、『死』有れば必ず『生』有り。はっ、人間は数学的に無限といふ概念を抱へてしまった刹那、数学は『死』をも掌中にせねばならぬ『宿命』を負ってしまったのだ。

――さすれば……

――さすれば、『無限遠』を中心とした円周が……即ち、直線だ。その刹那、『宇宙』は死滅し、死滅した『宇宙』は『∞』を獲得す。そして、πの値も確定す。そして、何も存せぬ『死』有るのみ……

――貴君に問ふ。なにゆゑ数学に『死』が有るや。

――ふっ、簡単だ。『生』を突き詰めれば、これは人類が背負った『宿命』だが、とことん突き詰めねば気が済まぬ人類が『生』を突き詰めれば『死』に至るのは必然だ。そして……、『生』と『死』が対を成さぬ『もの』は全て之まやかしだ。……はっ、つまり、此の世に存在する全てのものは誕生した刹那、『死』に片足を突っ込んでゐるのさ。一休 宗純(いっきう そうじゅん、応永元年1月1日(1394年2月1日) - 文明13年11月21日(1481年12月12日))斯く語りき。

      『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし』(狂雲集)
2007 08/20 05:55:01 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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その古本屋は雪の馴染みの古本屋だった。少し強めに握られてゐた私の右手首から不意に雪は手を放し、雪にはお目当ての本の在り処が解ってゐたのだらう、私を古本屋の入り口に残したまま一目散に其方に向かって歩を進めたのであった。

その古本屋は東洋の思想、哲学、宗教、神話等々の専門の古本屋だった。

雪に取り残された私はその古本屋内の仏典の本棚に向かってゆるりゆるりと歩を進めたのであった。

私は唐三藏法師玄奘譯 (たうさんざうほふしげんじやううやく) の般若波羅蜜多心經(はんにやはらみったしんぎやう)がその時どうした訳か無性に読みたくなったのであった。

「觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不?不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虛故。
說般若波羅蜜多咒即說咒曰
揭帝揭帝 般羅揭帝 般羅僧揭帝菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經」

訓み下し

「觀自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまへり。

舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなはちこれ空、空はこれすなはち色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。

舎利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ぜず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙(けいげ)なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)を得たまえり。故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の咒を説く。すなわち咒を説いて曰はく、

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶(ぎやてい ぎやてい はらぎやてい はらそうぎやてい ぼじそはか)

般若心經」

……くわんじざいぼさつ ぎやうじんはんにやはらみつたじ せうけんごうんかいくう どいちさいくやく……と、真言を頭蓋内で読誦(どくじゅ)しやうとしたが、「觀自在菩薩」の文字を見ると最早私の視線は「觀自在菩薩」から全く放れず「觀自在菩薩」の文字をなにゆゑかじっと凝視したままなのであった。

――觀自在菩薩……何て好い姿をした文字だ……くわんじざいぼさつ……音の響きも好い……何て美しい言葉だ……

不図気付くと私の目に張り付いてゐた業火が私の視界の隅に身を潜めてゐるではないか。目玉をぎょろりと出来得る限り回転させるとやっと視界の境に業火が見えるではないか。

――これも……《觀自在菩薩》……といふ文字の……御蔭か……

私はゆっくりと目を閉ぢ、瞼が完全に閉ぢられた瞬間に姿を現はす勾玉模様の光雲と業火を見つつ胸奥で何度も何度も……《觀自在菩薩》……と唱へたのであった。

暫くすると雪が私を見つけて私の右肩をぽんと叩くのであった。

――これ、どう ?

雪が私に見せたのは陰陽五行説の陰陽魚太極図であった。

――あなたの目には、今、勾玉が棲み付いてゐる筈よ。何故だかあなたのことが解ってしまふのよ。それに業火もね、うふっ。

雪が微笑んだ顔は何か不思議な力を秘めてゐるやうで、雪が微笑んだ瞬間辺りは一瞬にして《幸福》に包まれてしまったのであった。

――あなたには陰陽魚太極図の意味が解るわね。さう、《宇宙》よ。……わたし、哲学を、それも西洋哲学を専攻してゐるのだけども……西洋哲学の《論理》が今は虚しくてしやうがないの。……特に弁証法がね……虚しいのよ。……私の勝手な自己流の解釈だけれども……正反===>合が何だか自己充足の権化のやうな気がして気色悪いのよ。西洋の哲学者……特にヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年8月27日 - 1831年11月14日)が自己陶酔したNarcist(ナルシスト)に思へてしやうがないの……西洋哲学専攻者としては失格ね、うふっ。

君も知ってゐるやうに私は筆談するとき《つまり》と先づ書き出さないと筆が全く進まないのは知ってゐるね。この時もさうだったのさ。私は常時携帯してゐるB五版の雑記帳とPenを取り出して雪と筆談を始めたのであった。

*******つまり、ヘーゲルには、つまり、陰陽魚太極図の目玉模様が、つまり、陰中の陽と、つまり、陽中の陰が、つまり、無いんだよ。つまり、それで君は、つまり、William Blake(ヰリアム・ブレイク)を、つまり、読んでゐたんだね。

――さう……。

君にも教えておかう。雪は直感的に何故私が《つまり》を連発するのか解ったが、私の当時の思考は堂々巡りだったのさ。或る言葉を書き出すときその言葉を頭蓋内から取り出すには一度思考を頭蓋内で堂々巡りをさせないと駄目だったのだ。ストークスの定理は知ってゐるね。私の思考はストークスの定理を地で行ってゐたのさ。

*******つまり、キェルケゴールも、つまり、読むと善い。つまり、陰陽魚太極図は、つまり、その後でも、つまり、善い。つまり、僕が、つまり、さっき、つまり、「キルケゴール全集」を、つまり、買ったから、つまり、僕が、つまり、読んだら、つまり、君に、つまり、あげるよ。

――有難う。でも、借りるだけね、うふっ。

*******つまり、君は、つまり、知ってゐるかな、つまり、渦は、つまり、未だ数式では、つまり、物理数学的に、つまり、記述、つまり、出来ないことを ?

――えっ ! 知らないわ。さうなの……

(以降に続く)



2007 08/19 07:27:50 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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《人間は考えへる葦である》といふ箴言で人口に膾炙してゐるフランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家であるブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)が、晩年に、ある書物を構想しつつ書き綴った断片的なNoteを、彼の死後に編纂して刊行した遺著『パンセ』【筑摩書房:「世界文学全集11モンテーニュ パスカル集」(昭和四十五年十一月一日発行)より松浪 信三郎訳】から抜粋(一部私が改変)

 第六篇より

      三百四十六

 思考が人間の偉大をなす。

      三百四十七

 人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考へる葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしづくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すよりもいっそう高貴であるであらう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知ってをり、宇宙が人間の上に優越することを知ってゐるからである。宇宙はそれについては何も知らない。

 それゆゑ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆゑ、われわれはよく考へるやうにつとめやう。そこに道徳の根原がある。

      三百四十八

 考へる葦。――私が私の尊厳を求めるべきは、空間に関してではなく、私の思考の規定に関してである。いかに多くの土地を領有したとしても、私は私以上に大きくはなれないであらう。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって、私は宇宙を包む。

      三百四十九

 霊魂の非物質性。――自己の情念を制御した哲学者たちよ、いかなる物質がそれをよく為しえたであらうか?

――以下略

さて、人体の構成を分子Levelで言へば《水》がほぼ七割を占めるので、パスカルの《人間は考へる葦である》を更に推し進め私流にすると《人間は考へる水である》となる。

つまり、《水》が生物の存在を許さなければ生物は此の世に存在出来ないのである。

ところで、《水》がその存在を『許容』しない物質は此の世に存在するのであらうか。つまり、《水》は全てを、《神》の如く、《受容》するのであらうか。

この問題の考察は次回以降に譲る。

閑話休題。

突然であるが、私は他人の、そして動物の死相が見える。「虫の知らせ」等といふ言葉があるので死相が見えることは別段不思議なことだとは考へてゐないが、しかし、他人の死相が見えてしまふことは何とも遣り切れないものである。経験則に過ぎないが、私に死相が見えてしまった人はどんな医学的な治療をしても三年以内には必ず死ぬのである。

先づ、眼光から《生気》が消えると言へば良いのか、死に行く人の眼光は異様に見えるのである……。

そして、他人の死相は死に行く星の様相とそっくりなのである。

例へば、「SN 1987A、即ち超新星1987A」、「エーターカリーナ星」、「エッグ星雲」、「リング星雲」等等と他人の死相は似てゐるのである……。

閑話休題。

星はその最後には星の中心核内にある全てのHelium(ヘリウム)を使ひ切り、次に何が起こるのかはその星の質量によって変はるのであるが、最も重い星、太陽質量の6〜8倍以上の質量を持つ星は、十分な圧力が核内にあるため、核融合で炭素原子を燃やし始め、炭素が無くなると超新星として爆発し中性子星やBlack hole(ブラックホール)が後に残る。軽い星は燃え尽きながら外層を噴き出して美しい惑星状星雲を作る。中心核は高温の白色矮星として残る。

星の死後残った中性子星やBlack holeや白色矮星は人で言へば『霊魂』である、と、私は考へてゐるが、つまり、パスカルと同じく『霊魂』は存在すると考へてゐるのである。といふのも人間の構成は宇宙の構成と原子Levelでは似てゐて『人体』を『宇宙』に喩へるのは極々一般的な考へ方であるからである。

第一章は序といふ事で更なる考察は次回以降に譲る。
2007 08/13 08:49:07 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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ここで話が横道に逸れる私の《死後の世界》について預言しておかう。

私が死して後、私のゐない此の世の様こそ私の《死後の世界》の様相を映してゐると考へておくれ。君や嘗ての雪、即ち攝願やSalonの仲間を初め、私のゐない此の世がまあまあ過し易ければ私は極楽浄土にゐるし、此の世が地獄の有様だとすれば私も地獄に堕ちたと思ってくれ給へ。私のゐない此の世の有様こそ私の《死後の世界》に外ならないのさ。

まあ、それはそれとして、私の死後、君達は、特に攝願、つまり俗名でいふところの雪は彼女が出家するまでに私が施した、例へば雪の為されるがまま私が何の抵抗もせずそれに無言で従ったことは、雪の「男」に対する憎しみやそれに伴ふ底知れぬ苦悩といふ雪の内部でばっくりと傷口の開いた《心の裂傷》を縫合しその傷に軟膏薬を塗布して治療する意図があってのことで、雪も癒された筈だが、といふのも幾ら《生きる屍》に成り下がったとはいへ、私も生物学的には「男」そのものだからね。

そして、雪は出家し攝願と為った訳だが、攝願が尼僧でゐる間は《禊の時間》に過ぎない。攝願の内部の《心の裂傷》が癒えその傷の《瘡蓋(かさぶた)》が剥がれ落ちると攝願の《禊の時間》は終はりを告げる。私も君もSalonの仲間も知ってゐる「男」に攝願は惚れ、攝願は何もかも捨ててその「男」の元へ身を寄せる筈だ。再び雪に戻るのさ。「男」は「男」で雪に逢った時からずっと惚れてゐた。そこで雪はその「男」の子を身ごもり「母」になる。雪の第一子は男の子で雪はその子に私の名を付ける。勿論、雪の「男」も大賛成さ。まあ、これ以上は話さない方がいいので黙って彼の世に持って行くよ。

さて、そこで君にお願ひがある。雪は寺を出た後、その罪悪感に悶絶する程苦悩し続けることになるが君は雪の良き理解者となって雪の「愚痴」の聞き役になってくれ給へ。お願いする。さうすることで君達に起こるであらう艱難辛苦も乗り越へられ私も浄土で安らげるといふものさ。重ね重ね宜しく頼むよ。

話を戻さう。

ところで、古本屋街を漫ろ歩きしてゐた私と雪との間には雪がぽつりぽつりと一方的に私に話す以外殆ど会話は無かった。

沈黙。Salonの仲間とは違った心地よさが雪との間の沈黙にはあったのだ。互ひが互ひを藁をも縋る思ひで「必要」としてゐたことははっきりとしてゐたので、多分、雪と私の間には――他人はそれを「宿命」とか「運命」とか呼ぶが――互ひに一瞥した瞬間に途轍もなく太い《絆》で結ばれてしまったのは確かだ……。

――ねえ、この古本屋さんに入りましょう

少し強めに雪に握られた右手首を通して雪の心の声が聞こえて来たのであった……

(以降に続く)

2007 08/12 06:13:47 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ニュートリノ

ニュートリノ (Neutrino) は、素粒子のうちの中性レプトンの名称。中性微子とも書く。 ヴォルフガング・パウリが中性子のβ崩壊でエネルギー保存則が成り立つようにその存在仮説を提唱した。「ニュートリノ」の名はβ崩壊の研究を進めたエンリコ・フェルミが名づけた。フレデリック・ライネスらの実験によりその存在が証明された。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8E)を参照

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ニュートリノ振動

ニュートリノ振動(ニュートリノしんどう)は、ニュートリノが質量をもつことでニュートリノの種類(フレーバー)が変わる現象。スーパーカミオカンデが1998年に大気から降り注ぐニュートリノを観測することによって、この現象が実証された。現在日本では人工的にニュートリノを発生させスーパーカミオカンデで振動現象を観測する実験が行われている。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8E%E6%8C%AF%E5%8B%95)を参照

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埴谷雄高・小川国夫『隠された無限 往復書簡〈終末〉の彼方に』【岩波書店:1988年10月28日 第一刷発行】より抜粋(第七信「非在とのっぺらほう 埴谷雄高」152〜153頁)

 宇宙内のすへての物体を透過するニュートリノは、ひたすら無限の空間と永劫の時間へ向って、飛びゆきつづけます。恐らく、ニュートリノに向かって、そうかな、と訊き質したら、そうさ、無限と永劫へ向って「実際」に自己を投げいれる現実的超越者なるものは、俺をおいてほかに何もいないさ、と、ニュートリノのなかの或る異端者、もしくは、或る愚昧者は得意げに答えるかもしれません。しかしまた、ニュートリノはいまだはっきりとは解明されていませんけれども、超微小な質量をもっていることですから、あらゆる物体を透過するとき――例えば、神岡鉱山の直径十五・六メートル、高さ十六メートルの円筒形の三千トンに及ぶ水をたたえた大水槽内部一面に取りつけられている光電子倍増管に、水中の素粒子と衝突したニュートリノが「光」を放つことによって確かめられた「数」を「十三秒内に十一個」と検出されたとき、この光の「数」こそは、絶望とも悲哀とも歓喜とも諦念とも放心ともつかぬ、「心の痛み」の悲痛な呻きの或る前駆症状を提示していると言えるのです。自由無碍に無限永劫へ向って飛びいっていると見えるニュートリノとても、かくのごとくして、つぎつぎと、その「質量」を失いつくした果て、無限永劫の何処か手前で、星の死から発足したニュートリノ自体の死に直面せざるを得なくなることになります。そしてそのとき、ファウストの「憂い」に似たところの或る種の薄暗い原言語が、死を前にしたニュートリノのこれまた薄暗い内部をさっと掠めゆく筈です。さらになお――無限永劫の手前でついに衰滅してしまったこのニュートリノの死骸は、宇宙の未知の蟻群によって何処かの薄暗い巣へ牽かれゆくことになるでしょう。

――略

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『物体』をほぼ全て透過してしまふNeutrino(ニュートリノ)の『孤独』の深さは多分底無しであらう。

『他』にぶち当たって『衝突』や『反射』しない『他』の存在しないNeutrinoの『自己認識』の術は、さて、何であらうか。果たしてNeutrinoは自己が此の世に存在してゐることを『認識』してゐるのであらうか……

――……吾、果たしてこの吾、此の世に《存在》してゐるの……か……

――お前は今、お前を《吾》と言ったが……お前が己を《吾》といふその存在根拠は何かな ?

――……《吾》たる根拠は……何も……無い……

――それではお前に尋ねるが……お前の仲間の極々少数の者が『素粒子』に打つかって微小な微小な仄かな蒼白き『光』を発光して『死んで』いくが……さて……その時以外お前が《吾》が《吾》であったと『自己認識』出来る瞬間は……無いのではないかな……するとだ、お前は『死』以外……己の存在を『認識』することが出来ない……此の世で最も『哀れ』な存在……

――否 !! Neutrino振動を知ってゐるな。《吾》は《吾》であるといふ『自同律の不快』によって《吾》は《吾》とは《異種》の《吾》に変容する……

――はっ。お前でさへ……《吾》なることを……《吾》なることの《底無しの苦悩》を知ってゐるとすると……『自己変容』のみ此の世に『存在』させられた『もの』全ての此の世での慰めか……

――はっ、馬鹿が。『自己変容』 ? 何を甘っちょろいことをぬかしてをるか……『死』のみ此の世に『存在』させられた『もの』全ての慰めさ、はっ。
2007 08/06 07:12:54 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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古本屋との遣り取りはいつも筆談だったので馴染みの古本屋の主人は多分今でも私のことを聾唖者だと思ってゐるに違ひない。それにそこの古本屋の主人は何かと私には親切でその日も「キルケゴール全集」を注文するとどれでも好きな本を一冊おまけしてくれるといふので私は、埴谷雄高の「死霊(しれい)」を凌駕するべく書き出したはいいが、書き出しの筆致の迷ひや逡巡等が取り繕ひもせずに直截的に書き記された現代小説の傑作の一つ、武田泰淳の「富士」の初版本を選んだのである。「富士」を読む時は私は何時もブラームスの「交響曲第1番 ハ短調 op.68」を聴く。どちらも作品を書き連ねることに対する迷ひや逡巡等がよく似てゐると思はないかい ? それに泰淳さんは盟友の椎名麟三が洗礼を受け基督者になった時、埴谷雄高が椎名を誹った事と純真無垢といふのか天衣無縫といふのか埴谷雄高曰く「女ムイシュキン公爵」たる泰淳夫人で著名な随筆家の百合子夫人に対する埴谷雄高の好意への多分「嫉妬」を死すまで根に持ってゐた節があるが、そこがまた武田泰淳の魅力でもある……

さて、雪はSalonの真似事が開かれてゐた喫茶店に着くまで終始私の右に並んで歩き、左手で私の右手首を少し強く握り締めたままであった。

馴染みの古本屋を出たとき、東の空には毒々しいほど赤々とした満月の月が地平から上り始めてゐたが、その満月の「赤」が私の目に張り付いた業火の色に似てゐたのである。

――成程……この業火の色は《西方浄土》の日輪の色を映したものか……

雪が私の右手首を少し強く握り締めてゐたのは多分理不尽な陵辱を受けた「男」に対する恐怖といふよりも

――今暫くは逝かないで

といふ私に対する切願が込められてゐたやうに私は確信してゐる。唯、私は女性に対しては「無頓着」なので雪のしたいやうにさせ、雪に為されるがまま夕闇の古本屋街を二人で漫ろ歩きを始めたのであった。

当然、私は伏目であった。雪は私の右手首を握ってで私を巧く「操縦」してくれたのである。雪は私を捕まへてないと何処か、つまり「彼の世」へ行ってしまふと直感的に感じてゐたのは間違ひない。

――今は未だ逝かないで……

(以降続く)
2007 08/05 07:52:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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四象若しくは四神の北を指す玄武の図柄は、特にキトラ古墳の石室に描かれた玄武の写真を見ると様様な妄想を掻き立てるのである。

一方で玄武に似た『象徴』にギリシアの自らの尾を噛んで『無限』を象徴するウロボロスの蛇があるが差し詰め現代社会を象徴する蛇を図案化すると自らの尾から自らを喰らひ始め、自滅を始めた『蛇』、つまり現代を考えるとき必ず人類の絶滅といふことが頭を過ぎってしまふのである。

閑話休題。

玄武――その『玄』の字から黒を表はすのは直ぐに想像出来る。黒から『夜』へと想像するのは余りに単純だが、思ふに玄武は『北の夜空』の象徴ではないのかと仮定出来る。

さて、キトラ古墳の玄武の蛇はウロボロスの蛇のやうに自らの尾を噛んではをらず、尾が鉤状になって蛇の首に絡んだ格好になってゐるが、これは正に北の夜空の星の運行を端的に表はし、現代風に言へば『円環』若しくはニーチェの『永劫回帰』すらをもそこには含んでゐるやうにも思ふ。日本の古代の人々は蛇が『脱皮』を繰り返すことから『不死』若しくは『永久(とは)』を表はし、また『龍』の化身、更には『水神』をも表はしてゐたらしいので、多分、北極星を象徴してゐるであらう『亀』と併せて考へると玄武は『脱皮』をしながら、つまり『諸行無常』といふ『異質』の概念を敢へて飲み込んだ『恒常普遍』といふ概念が既に考へ出されてゐたと仮定できるのである。更に何処の国の神話かは忘れてしまったが、世界を『支へる』ものとして『亀』が考へられてゐたことも含めると玄武は今もって『普遍』へとその妄想を掻き立てる現在も『生きてゐる』神である。

少なくともキトラ古墳の玄武は千数百年生き続けてゐたのは確かで、さて、現代社会で千年単位で物事が考へられてゐるかといふと皆無に近いといふのが実情ではないかと思ふ。

滅び――現代は『普遍』といふ概念がすっぽりと抜け落ちた『諸行無常』――それは中身が空っぽな概念に思ふ――を自明の事としてしか物事を考へない、つまり数にすれば圧倒的多数である『死者』とこれから生まれてくるであらう未出現の『未来人』の事は一切無視した現在『生存』してゐる人間の事しか考へない『狭量』な『諸行無常』といふ考へに支配された世界認識しか出来ないのではなからうか。

少なくとも千年は生き残る『もの』を現代社会は創造しないと人類の『恥』でしかないやうに思ふ今日この頃である。
2007 07/30 07:23:06 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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眩暈から何事もなかったやうにすっくと立ち上がった私を見て君と雪は初めて見詰め合って互ひに安堵感から不図笑顔が零れたが、その時の雪の横顔は……今更だが……美しかった。雪は何処となくグイド・レーニ作「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」の薄倖の美女を髣髴とさせるのだが、しかし、凛として鮮明な雪の横顔の輪郭は彼女が既に『吾が道ここに定まれり』といった強い意志を強烈に表はしてゐたのである。

―大丈夫?

と雪が声を掛けたが私は一度頷いた切り茜色の夕空をじっと凝視する外なかった……。

何故か――

君は多分解らなかっただらうが――後程雪には解ってゐたのが明らかになるが――私には或る異変が起きてゐたのだ。血の色の業火が目に張り付いたことは言ったが、もう一つ私の視界の周縁を勾玉模様の小さな光雲――これは微小な微小な光の粒が集まった意味で光雲と表現してゐるが――が、大概は一つ、時計回りにゆっくりと回ってゐることである。

人間の体は殆ど水分で出来てゐることと此処が北半球といふことを考慮すると時計回りの回転は上昇気流、つまり、私の視界から何かが――多分それは魂魄に違ひない――が放出し続けてゐることを意味してゐたのである……

勾玉模様の光雲が見えるのは大概は一つと言ったが、時にそれが二つであったり三つであったり四つであったりと日によって見える数が違ってゐた。それは私の想像だが、死者の魂と言ったらよいのか……星がその死を迎えるとき大爆発を起こして色色なものを外部に放出するが、人の死もまた星の死と同じで人が死の瞬間例へば魂魄は大爆発を起こし外部に発散する……。それが此の世に未だ『生きる屍』となって杭の如く存在する私をしてカルマン渦が発生し、それが私の視界の周縁に捉えられるのだ。だから多分、その光雲は一つは私の魂魄でその他は死んだばかりの死者の魂魄の欠片に違ひない……私はさう解釈してしまったのだ……

さて、君と雪と私はSalonの真似事が行はれる喫茶店に向け歩き出した。その途中に古本屋街を通らなければならないのだが、君は気を利かせてくれたのだらう、その日に限って古本屋には寄らず、私と雪を二人きりにしてくれたね。有難う。

私は先づ馴染みの古本屋で白水社版の「キルケゴール全集」全巻を注文しそれから雪とぶらぶらと古本屋を巡り始めたのだった。

(以降続く)
2007 07/29 05:31:18 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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広辞苑より

五蘊

(梵語skandha)現象界の存在の五種類。色(しき)・受・想・行(ぎゃう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色は物質及び肉体、受は感覚・知覚、想は概念構成、行は意志・記憶など、識は純粋意識、蘊は集合体の意。

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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より



場(ば、field、工学では界と訳される)とは、物理量を持つものの存在が別の場所にある他のものに影響を与えること、あるいはその影響を受けている状態にある空間のこと。

場では、座標および時間を指定すれば、(スカラー量、ベクトル量、テンソル量などの)ある一つの物理量が定まる。つまり、数学的には空間座標が独立変数となっているような関数として表現できることがその特徴である。 場に配置される物理量の種類により、スカラー場、およびベクトル場などに分類することができる。

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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ストークスの定理

ベクトル解析におけるストークスの定理は、ベクトル場の回転を曲面上で面積分したものが、元のベクトル場を曲面の境界で線積分したものに一致することを述べたものである;







ここで S は積分範囲の面、C はその境界の曲線である。ストークスの定理を用いることで、電磁気学ではマクスウェルの方程式からアンペールの法則などを導くことができる。

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頭蓋内といふものは考へれば考へる程不思議な時空間に思へてならない。

例へば何かを思考する時、私は脳自体を認識することなく『思考』する。これは摩訶不思議な現象であるやうに思へてならない。

さて、『脳』とは一体何なのか?

『脳』のみ蟹や海老等の甲殻類の如く頭蓋骨内にあり、手や足などの肉体とは違ひ、思考してゐる時、『脳』を意識したところで漠然と『脳』の何々野の辺りが活動してゐるかなとぐらゐしか解らず――それも脳科学者が言ってゐることの『知識』をなぞってゐるに過ぎないが――私には『脳』の活動と『思考』がはっきり言って全く結び付かないのである。これは困ったことで、『脳』の活動と『思考』することが理路整然と結び付かない限り何時まで経っても霊魂の問題は、つまりOccult(オカルト)は幾ら科学が発展しやうが消えることはなく、寧ろ科学が発展すればするほどOccultは衆人の間で『真実』として語られるに違ひないのである。

そこで上記に記したストークスの定理をHintに頭蓋内を『五蘊場』といふ物理学風な『場』と看做して何とか私の内部で『脳』の活動と『思考』を無理矢理結び付けやうとしなければ私は居心地が悪いのである。全くどうしやうもない性分である……。

例へば一本の銅線に電流が流れると銅線の周辺には電磁場が生じる。そこで脳細胞に微弱な電流が流れると『場』が発生すると仮定しその『場』を『五蘊場』と名付けると何となく頭蓋内が解ったかのやうな気になるから面白い。

『脳』が活動すると頭蓋内には『五蘊場』が発生する。それ故『人間』は『五蘊』の存在へと統合され何となく『心』自体へ触れたやうな気分になるから不思議である。

多分、『脳』とは『場』の発生装置で『脳自体』が『思考』するのではなく『脳』が活動することによって発生する『五蘊場』で『人間』は『思考』する。

さて、ここで妄想を膨らませると、世界とか宇宙とか呼ばれてゐる此の世を『神』の『脳』が活動することによって発生した『神』の『五蘊場』だとすると科学の『場』の概念と宗教が統一され、さて、『大大大大統一場の理論』が確立出来るのではないかと思へてくる……

――宇宙もまた『意識』を持つ存在だとすると……

――さう、宇宙もまた『夢』を見る……

――その『夢』と『現実』の乖離がこの宇宙を『未来』に向かせる原動力だとすると……

――『諸行無常』が此の世の摂理だ !!
2007 07/23 09:14:38 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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雪の目から恐怖の色がすうっと消えたと思った瞬間、私は眩暈に襲われたのだ。

――どさっ。

あの時、先づ、目の前の全てが真っ白な霧の中に消え入るやうに世界は白一色になり、私は腰が抜けたやうにその場に倒れたね。意識は終始はっきりしてゐた。君と雪が突然の出来事に驚いて私に駆け寄ったが、私は軽く左手を挙げて

――大丈夫

といふ合図を送ったので君と雪は私が回復するするまでその場で見守り続けてくれたが、あの時は私の身体に一切触れずにゐて見守ってくれて有難う。私が他人に身体を勝手に触られるのを一番嫌ってゐる事は君は知ってゐる筈だから………。

あの時の芝の青臭い匂ひと熊蝉の鳴き声は今でも忘れない。

私が眩暈で倒れた時に感覚が異常に研ぎ澄まされた感じは今思ひ返しても不思議だな……。私は私の身に何が起きてゐるのか明瞭過ぎるほどはっきりとあの時の事を憶えてゐるよ。

それでも眼前が、世界全体が、濃霧に包まれたやうに真っ白になったのは一瞬で、直ぐに深い深い漆黒の闇が世界を蔽ったのだ。つまり、最早私はその時外界は見えなくなってゐたのだ。

するとだ、漆黒の闇の中に金色(こんじき)の釈迦如来像が現はれるとともに深い深い漆黒の闇に蔽はれた私の視界の周縁に勾玉の形をした光雲が現はれ、左目は時計回りに、右目は反時計回りにその光雲がぐるぐると周り出したのだ。

そして、その金色の釈迦如来像がちらりと微笑むと不意と消え世界は一瞬にして透明の世界に変化(へんげ)した……。

その薄ら寒い透明な世界に目を凝らしてゐると突然業火が眼前に出現した。それは正に血の色をした業火だった。

その間中、例の光雲は視界の周縁をずっと廻り続けてゐたよ。

私が悟ったのはその時だ。自分の死をそれ以前は未だ何処となく他人事のやうに感じてもゐたのだらう、まだ己の死に対して覚悟は正直言って出来てゐなかった、が、私が渇望してゐた『死』が直ぐ其処まで来ているなんて……私はその時何とも名状しがたい『幸福』――未だ嘗て多分私は幸福を経験したことがないと思ふ――に包まれたのだ。

――くっくっくっ。

私は眩暈で芝の上にぶっ倒れてゐる間『幸福』に包まれて内心、哄笑してゐたのだ。

しかし、業火は私が眩暈から醒め立ち上がっても目の奥に張り付いて……今も見えてしまうのだ。

さう、時間にしてそれは一分位の事だったよね。私は不図眩暈から醒め何事もなかったかのやうに立ち上がったのは。君と雪は何だかほっとしたのか笑ってゐたね。その時君は初めて雪と目が合った筈だが、君の目には雪はどのやうに映ったんだい? 

私には雪はその時既に尼僧に見えたのだ……

(以降続く)
2007 07/22 06:03:22 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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例へば、関数



x = 0 で に発散し、定義されないので、このとき x = 0 は特異点であるといふ。

《出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)の特異点の項より》

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さて、此の世の時空間に物理学上の特異点は存在しないのかと問はれれば、即、Black holeに存在するが『事象の地平面』で覆はれてゐるため一般的な物理法則の、例へば因果律などでは全く問題ないと教科書的には即答出来るが、しかし、ここで特異点なるものを夢想すると何やら面妖なる『存在』の、若しくは『物自体』の影絵の影絵のその尻尾が捉まへられさうでもある。

先づ、±∞から単純に連想されるものに合はせ鏡がある。

二枚の鏡を鏡に映す事で恰も無限に鏡が鏡の中に映ってゐるが如き幻影に囚はれるが、それは間違ひである。鏡の反射率と光の散乱から鏡の中の鏡は無限には映らないのは常識である。

だが、二枚の鏡をゆっくりと互ひに近づけて行き、最後に二枚の鏡をぴたっと合はせてしまふと、さて、二枚の鏡に映ってゐる闇の深さは『無限』ではないのではなからうか。

――眼前に『無限』の闇が出現したぜ。

眼前のぴたっと合はせられた二枚の鏡の薄い薄い時空間に『無限』の闇が出現する……

――其の名は何ぞ

――無限……

――無限? ふむ……。其に問う、『此の世に《無限》は存在するのか?』

――ふむ。存在してゐると貴君が思へば、吾、此の世に存在す。しかし、貴君が存在してゐないと思へば、吾、存在せず……

――すると、己次第といふことか……唯識の世界だな……

さて、瞼を閉ぢてみる。

――眼前の薄っぺらい瞼の影もまた『無限』の闇か……

すると、闇は闇自体既に『無限』といふことになる。

――光無き漆黒の闇の中には無数の『存在』が隠れてゐる……か……

さうである。闇は何物にも変幻自在に変容し吾の思ふが儘に闇はその姿を変へる。

――何たる事か ! !

――へっ。吾、闇は、水の如し……だぜ。

――するとだ、其はその薄っぺらい薄っぺらい闇自体に全存在を隠し持ってゐる、へっ、例へば創造主か……

――……

――神、其れは『闇』の異名か……、ちぇっ。

私は其の瞬間、眼前の二枚の鏡を床に擲ち、粉々に割れた鏡の欠片に映る世界の景色をじっと何時までも眺め続けたまま一歩も動けなかったのであった……
2007 07/16 06:22:08 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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君も雪の行動が奇妙な点には気が付いてゐた筈だが雪は未だ「男」に対して無意識に感じてしまふ恐怖心をあの時点の自身ではどうしやうもなく、雪は「男」を目にすると雪の内部に棲む「雪自体」がぶるぶると震へ出し雪の内部の内部の内部の奥底に「雪自体」が身を竦めて「男」が去るのをじっと堪へ忍ぶといった状態で雪は君の顔を一切見ず君と話をしてゐたんだよ。

その点雪は私に対しては何の恐怖心も感じなかったのだらう、つまり、雪にとって私は最早「男」ではなく人畜無害の「男」のやうな存在、しかも

――この人の人生はもう長くない……

と、多分だが、私を一瞥した瞬間全的に私といふ存在を雪は理解してしまったと、そんな雪を私は雪の様子からこれまた全的に雪を理解してしまったのだ。

と思ふ間も無く私の右手は雪の頭を撫でる様に不意に雪の頭に置かれたが、雪は何の拒否反応も起こさずこれまた全的に私の行為を受け入れてくれたのだ。

さて、君も薄薄気付いてゐた筈だが、私が何故「黙狂者」となってしまったかを。それは私の生い先がもう短いといふこととも関係してゐたのだらうが、私が一度何かを語り出さうと口を開けた瞬間、我先に我先にと無数の言葉が同時に私の口から飛び出やうと一斉に口から無数の言葉が飛び出してしまふからなのだ。私の内部の「未来」は既に無きに等しいので私の内部の「未来」には時系列的な秩序が在る筈もなく、つまり、私の「未来」は既に無いが故に「渾沌」としてゐたのだ。私が口を開き何かを語り出さうとしたその瞬間に最早全ては語り尽くされてしまってゐて「他者」にはそれが「無言」に聞こえるだけなのだ。つまり、《無=無限》といふ奇妙な現象が私の身に降りかかってゐたのだ。

君は私が雪の頭にそっと手を置いた時私が口を開いたのを眼にしただらう。多分、雪はこれまた全的に私の無音の「言葉」を全て理解した筈だ。君はあの時気を利かせてくれて黙って私と雪との不思議な「会話」を見守ってくれたが、仮に心といふものが生命体の如き物で傷付きそれを自己治癒する能力があるとするならば、雪の心はざっくりとKnifeで抉られあの時点でも未だ雪の心のその傷からはどくどくと哀しい色の血が流れたままで「男」に理不尽に陵辱された傷口が塞がり切れてゐなかったのだ。それが私には見えてしまったので《手当て》の為に雪の頭にそっと手を置いたのだ。

それにしても雪の髪は烏の濡れ羽色――君は烏の黒色の羽の美しさは知ってゐるだらう。虹色を纏ったあの烏の羽の黒色ほど美しい黒色は無い――といふ表現が一番ぴったりな美しさを持ち、またその美しさは見事な輝きを放ってゐた。

さて、君はあの瞬間雪の柔和な目から恐怖の色がすうっと消えたのが解ったかい?

(以降に続く)
2007 07/15 05:43:16 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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William Blake著

《THERE IS NO NATURAL RELIGION》の拙訳

「如何なる理神論も在り得ない」

[a]

論証。人間は教育を除く如何なるものからも道徳の適合性に関する概念を持ち得ない。本来人間は感覚に従属する単なる自然器官である。

一 人間は本来知覚する事が出来ない。自身の自然乃至身体器官を通さずしては。

二 人間は自身の推理力によっては。単に自身が後天的に理解(知覚)した事を比較乃至判断出来るのみである。

三 単に三つの感覚乃至三つの要素のみで構築した知覚から如何なる人間も第四の乃至第五の知覚を演繹出来なかった。

四 仮に人間が器官による知覚の外一切を持たないなら如何なる人間も自然乃至器官による思惟形式以外持ち得る筈もない。

五 人間の希求は自身の知覚によって限られる。如何なる人間も自身が知覚し得ないものを希求することは出来ない。

六 感覚器官以外では如何なる事象も知り得ぬ人間の希求及び知覚は感覚(客体)の対象に対して制限されなければならない。

結語。仮に詩的乃至預言的な表現が此の世に存在しないならば、哲学的及び試論による表現は即ち全事象の数学的比率となり、及び陰鬱な単一反復回転運動を繰り返す以外不可能故に立ち尽す(停止する)のみである。

[b]

一 人間の知覚は認識機構によって制限されない。人間の感覚(どれ程鋭敏であらうとも)が見出す以上のことを知覚(認識)する。

二 推論乃至吾吾が後天的に認識した全事象の数学的比率は。吾吾が更に多く認識すると想定された存在と同じであることはない。

三 欠落

四 枠付けは枠付けした者に忌避される。宇宙の陰鬱な反復回転運動でさへ、即ち車輪複合体たる水車小屋に変容するであらう。

五 仮に多様が単純に還元されると看做す場合、そしてそれに取り憑かれたとき、もっと ! もっと ! は迷妄なる魂の叫びであり、直ちに全事象は人間を満足させる。

六 仮に如何なる人間も自身で持ち得ないものを希求することが出来るとするなら、絶望こそ人間の永劫に亙って与へられし運命であるに違ひない。

七 人間の希求が無尽蔵なら、それを持ち得るといふことは無限であり自身もまた無限である。

応用。全事象に無限を見るものは神を知る。単に数学的比率しか見えぬものは自己しか知り得ない。

それ故、神は吾吾が存在する限り存在し、即ち吾吾は神が存在する限り存在するのであらう。

《ALL RELIGIONS ARE ONE》の拙訳

「全ての宗教は一つである」

荒野の一嘆き声

論証。真の認識法が試みであるなら、真の認識力は経験の能力でなければならない。この能力について論ず。

第一原理 詩的霊性が人間の本質である。及び人間の肉体乃至外観の様相は詩的霊性から派生する。同様に全存在物の形相はそれら自身の霊性から派生する。古代の人々はそれを天使及び霊魂及び霊性と呼んだ。

第二原理 全人類が形相に於いて同等であるなら、即ちそのことはまた(及び等しく無限なる多様性を持つならば)全人類は詩的霊性に於いても同等である。

第三原理 如何なるものも自身の心の深奥から思考し乃至書き乃至話すことは出来ないが、しかし人間は真理へ向かはなければならない。何故なら哲学の全学派は全個人の羸弱さに応じた詩的霊性から派生したものである。

第四原理 既知の領域を見回したところで如何なるものも未知を見出すことは出来ない。即ち後天的に得た認識から人間はそれ以上獲得出来なかった。故に全宇宙型詩的霊性は存在する。

第五原理 あらゆる民族の各宗教はあらゆる場所で預言の霊性と呼ばれる詩的霊性を各民族が多様に感受したことから派生する。

第六原理 ユダヤ教徒及び基督教徒の聖書は詩的霊性から本源的に派生したものである。このことは肉体的感覚の限界性から必然である。

第七原理 全人類は同一(無限の多様性が見えてゐるにも拘はらず)である故に、全宗教及び全宗教的類似物は一つの本源を持つ。

真の人間は自身が詩的霊性であることの源である。

以上、当時のMemoのまま――表現が稚拙で誤訳ばかりであるが――ここに書き記しておく。当時の雰囲気が香ってくるのでね。

さて、君に話し掛けられても私を微笑みながらじっと見続けてゐた雪の顔は、目はフランツ・カフカかエゴン・シーレのSelf-portraitの眼光鋭い眼つきに一見見えるがよくよく見ると雪の目は柔和そのものであった。

(以降に続く)
2007 07/08 05:26:38 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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――今年も芽吹いたか……

その柳を見た時からもう既に数年経つが未だ健在である。何年川の水に浸かってゐるのだらうか。その柳の木を最初に目にした時には既に川の中であった。川に洗われ剥き出しになった根根には空き缶やらPolyethylene-Bucket(ポリバケツ)やらVinyl(ビニール)やら塵が沢山纏はり付いてゐてたので何年にも亙り川の中に在り続けてゐたといふことは想像に難くない。

しかし、その柳は凛としてゐた。

多分、完全に水に没してゐる部分は腐ってゐる筈で、如何様にその柳が完全に水の中に横倒しで生き続けてゐるか摩訶不思議でならないが、その生命力の凄まじさは何時見ても驚きであった。

――何がお前をさう生きさせてゐるのか……

それにしても自然は残酷である。梅雨時の大雨か台風の豪雨かは解らぬがその柳が立ってゐた後が岸辺には今もくっきりと残されてゐた。多分、二本並んで柳は岸に立ってゐた筈で、その片割れは今も岸にしっかりと根を張り泰然と生きてゐるが、其処から数meter離れた岸には濁流がざっくりと抉り取った後が残ってをり、多分、川の中に横倒しで生きてゐるあの柳の木は元元其処に悠然と立ってゐたに違ひない。

――どばっ、どぼっ、どどどどど――

しかしながら濁流は見れば見るほどその凄まじさに引き込まれさうになる不思議な魔力を持ってゐる。

私は台風一過等で起こる川の凄まじき濁流を見るのが好きであった。橋すらゆっさゆっさと揺さぶるほどの強力(がうりき)、この魅力は堪らない。目が濁流の凄まじき流れに慣れると何だか物凄くSlow motionで川が流れてゐるのではないかといふ錯覚が起こる。そこで不意に川に飛び込みたくなる衝動が私に生じ、『あっ』と思って吾に返るのである。その繰り返しが私は多分堪らなく好きなのだらう。濁流に魅せられたらもう其処から少なくとも一時間は動けなくなる。

――あっ、渦が生じた……。木っ端が渦に飲み込まれた……。あっ、大木だ。あっと、大木すら渦が飲み込んだ……。どばん ! ! 大木がConcreteの橋脚に激突した……

……………

それにしてもあの川の中の柳の木はよくあそこで踏み堪えたものだとつくづく思ふ。凄まじき濁流に投げ出されたならば最早流されるだけ流されるしかない筈なのだが、あの柳の木はあそこで止まったのだ。さうして何年も芽吹き生き続けてゐる。これまた凄まじき生命力である。水に浸かった部分は多分もう腐乱してゐる筈である。それでも尚、あの柳の木は川底に多分根を張ってゐるに違ひない。これまた凄まじきことよ……

――お前は何故吾を、この水の中の柳を哀れむのか

――否、感嘆してゐるのさ

――何を ?

――だから……あなたの生命力の凄さを……

――ふっ、馬鹿が

――何故 ?

――『自然』なことの何を感嘆するのか、はっ。

――すると、あなたは『自然』を『自然に』受け入れてゐるのですか ?

――受け入れるも受け入れないもない ! ! 此処が吾の生きられるこの世で唯一の場所だから……受け入れるも受け入れないもない ! !

――すると、

――黙れ ! ! お前に問ふ ! ! お前がこの世で唯一生きられる場所は何処だ ?

――……

――去れ ! ! 此処はお前のゐる場所ではない ! ! はっ。

2007 07/02 05:47:58 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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君は多分解ってゐた筈だが、自同律を嫌悪する私は性に対してもその通りだったのだ。思春期を迎へ夢精が始まり、まあ、それは《自然》のことだから何とか自身を納得させたが自慰行為は幻滅しか私に齎さなかった。射精の瞬間の《快楽》がいけないのだ。その《快楽》は私に嘔吐を反射的に齎すものでしかなかった……

君は「xの0乗 = 1」《(x > 0):0より大きい数の 0 乗は 1 となる》といふことは知ってゐるね。私はこの時自同律の嫌悪を超克するには《死》しかないと確信してしまったのだ。0乗の零が一回転に見え、即ち私にとってそれは現世での《一生》に見えてしまったのだ。生命は死の瞬間確率1にになる。つまり、1=1といふ自同律が《死》で完結するのだ。これで自同律の嫌悪は終はる……

――はっ。

…………

ところで、雪を除いて過去に私を一方的に愛してしまった女性たちは或る時期を過ぎると必ず私に性行為を求めて来たので私は《義務》でそれら全てに応じたが、性行為が終わると《女の香り》が私を反射的に嘔吐させる引き金になってしまったのだ。勿論、私は同性愛者ではない。だから、尚更いけないのだ。或る時、私が射精した瞬間、女性の顔面に嘔吐してしまったのを最後に、私は女性との性行為もしくは性交渉をきっぱりと已めてしまった……

また雪を除いての話だが、それに《女体》の醜悪さはどうしようもなかった。彼女たちは彼女自身の《脳内》に棲む《自身の姿》をDietなどと称しながら自身の身体で体現する《快楽》が自同律の《快楽》だと知ってゐた筈だが、私の嘔吐を見ながらも已めはしなかったのだ。結局彼女たちの理想の体型は痩せぎすの《男の身体》に《女性》の性的象徴、例へば乳房を、しかもそれが豊満だと尚更良いのだが、そんな《不自然な》体型を《女体》と称して私に見せ付けたのだ。これが醜悪でないならば何が醜悪なのか……

そこに雪が現われたのだ。

私が欅の木蔭のBenchにゐた雪を見つけた時、反射的に私の足は雪に向かって歩き始めてしまった。その時、雪は読んでゐた本から目を上げ私を一瞥すると私の全てを一瞬にして理解したやうに可愛らしい微笑を顔に浮かべ私を彼女の《全存在》で受け入れてくれたのだ。君にはこの時の雪と私の間で通じ合ひ、それをお互ひ一瞬で理解したと認識し出来てしまったと多分お互ひ同士感じた筈である感覚は多分理解不能だと思ふが《奇跡的に》それがその時起こってしまったのだ。

吾ながら今もってその時の事は不思議でならないがね……

君は私が《黙狂者》だと認識してゐたので君は多分私と雪との関係をこれまた一瞬で理解したのだらうね、君は駆け出して私より先に雪に声を掛けたね。あの時は有難う。

――君、何の本を読んでゐるの ?

――William Blake(ヰリアム・ブレイク)よ。

――それは丁度いい。良かったならなんだけど、これから僕たちBlakeの《THERE IS NO NATURAL RELIGION》と《ALL RELIGIONS ARE ONE〜The Voice of one crying in the Wilderness〜》をネタにして男ばかりだけど……飲み会みたいなSalonみたいな真似事をしようとしてゐるので……君も来ないかい ?

――いいわよ。

――本当 !? じゃあ、僕らと一緒に行かう。

雪は君と会話してゐる間もずっと私を見て微笑んでゐたのは君も覚えているだらう。その時私には雪が尼僧の像と二重写しで見えてしまっていたのだ……

William Blake著

《THERE IS NO NATURAL RELIGION》

[a]

The Argument. Man has no notion of moral fitness but from
Education. Naturally he is only a natural organ subject to
Sense.
I Man cannot naturally Percieve. but through his natural or
bodily organs.
II Man by his reasoning power. can only compare & judge of
what he has already perciev'd.
III From a perception of only 3 senses or 3 elements none
could deduce a fourth or fifth
IV None could have other than natural or organic thoughts if
he had none but organic perceptions
V Mans desires are limited by his perceptions. none can desire
what he has not perciev'd
VI The desires & perceptions of man untaught by any thing but
organs of sense, must be limited to objects of sense.
Conclusion. If it were not for the Poetic or Prophetic character
the Philosophic & Experimental woud soon be at the ratio of all
things & stand still unable to do other than repeat the same dull
round over again

[b]

I Mans perceptions are not bounded by organs of perception. he
percieves more than sense (tho' ever so acute) can discover.
II Reason or the ratio of all we have already known. is not
the same that it shall be when we know more.
[III lacking]
IV The bounded is loathed by its possessor. The same dull
round even of a univer[s]e would soon become a mill with
complicated wheels.
V If the many become the same as the few, when possess'd,
More! More! is the cry of a mistaken soul, less than All cannot
satisfy Man.
VI If any could desire what he is incapable of possessing,
despair must be his eternal lot.

VII The desire of Man being Infinite the possession is Infinite
& himself Infinite
Application. He who sees the Infinite in all things sees
God. He who sees the Ratio only sees himself only.
Therefore God becomes as we are, that we may be as he is

《ALL RELIGIONS ARE ONE》
〔The Voice of one cryng in the Wilderness〕

The Argument As the true method of knowledge is experiment
the true faculty of knowing must be the faculty which experiences.
This faculty I treat of.
PRINCIPLE 1st That the Poetic Genius is the true Man. and that
the body or outward form of Man is derived from the Poetic Genius.
Likewise that the forms of all things are derived from their Genius.
which by the Ancients was call'd an Angel & Spirit & Demon.
PRINCIPLE 2d As all men are alike in outward form, So (and with
the same infinite variety) all are alike in the Poetic Genius
PRINCIPLE 3d No man can think write or speak from his heart, but
he must intend truth. Thus all sects of Philosophy are from the Poetic
Genius adapted to the weaknesses of every individual
PRINCIPLE 4. As none by traveling over known lands can find out
the unknown. So from already acquired knowledge Man could not ac-
quire more. therefore an universal Poetic Genius exists
PRINCIPLE. 5. The Religions of all Nations are derived from each
Nations different reception of the Poetic Genius which is every where
call'd the Spirit of Prophecy.
PRINCIPLE 6 The Jewish & Christian Testaments are An original
derivation from the Poetic Genius. this is necessary from the
confined nature of bodily sensation
PRINCIPLE 7th As all men are alike (tho' infinitely various) So
all Religions & as all similars have one source
The true Man is the source he being the Poetic Genius

(出典ENGUIN CLASSICS版 「WILLIAM BLAKE――THE COMPLETE POEMS」より頁75〜77)

(以降に続く)
2007 07/01 06:13:18 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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私が何故Televisionを殆ど見ず、街中を歩く時伏目になるのかを君はご存知の筈だが……私には他人の死相が見えてしまふのだ。街中で恋人と一緒に何やら話してゐて快濶に哄笑してゐる若人に死相が見える……体の不自由なご主人と歓談しながらにこにこと微笑み車椅子を押してゐるそのご婦人に死相が見える……Televisionで笑顔を見せてゐるTalentに死相が見える等々、君にも想像は付く筈だがこの瞬間の何とも名状し難い気分……これは如何ともし難いのだ。それが嫌で私はTelevisionを見ず、伏目で歩くのだ。

そんな私が馥郁たる仄かな香りに誘はれて大学構内の欅を見た時、その木蔭のBenchで雪が何かの本を読んでゐるのを目にしたのが私が雪を初めて見た瞬間だった。

その一瞥の瞬間、私は雪が過去に男に嬲られ陵辱されたその場面が私の脳裡を掠めたのである。そんなことは今まで無かったことであったが雪を見た瞬間だけそんな不思議なことが起こったのである。

その時から私は雪が欅の木の下に座ってゐないかとその欅の前を通る度に雪を探すやうになったのである。

君もさうだったと思ふが、私は大学時代、深夜、黙考するか本を読み漁るか、または真夜中の街を逍遥したりしては朝になってから眠りに就き夕刻近くに目覚めるといふ自堕落な日々を送ってゐたが、君とその仲間に会ふために夕刻に大学にはほぼ毎日通ふといふ今思ふと不思議な日々を過ごしてゐた訳だ。

話は前後するが、今は攝願(せつぐわん)といふ名の尼僧になってゐる雪の男子禁制の修行期間は疾うに終はってゐる筈だから、雪、否、攝願さんに私の死を必ず伝へてくれ給へ。これは私の君への遺言だ。お願ひする。多分、攝願さんは私の死を聞いて歓喜と哀切の入り混じった何とも言へない涙を流してくれる筈だから……

さうさう、それに君の愛犬「てつ」こと「哲学者」が死んださうだな。さぞや大往生だったのだらう。君は知ってゐるかもしれないが、私は「てつ」に一度会ってゐるのだ。君の母親が

――家(うち)にとんでもなく利口な犬がゐるから一度見に来て

と、私の今は亡き母親に何か事ある毎に言ってゐたのを私が聞いて私は「てつ」を見に君の家に或る日の夕刻訪ねたのだが、生憎、君はその日に限って不在で君の母親の案内で「てつ」に会ったのだよ。

「てつ」は凄かった……。夕日の茜色に染まった夕空の元、「てつ」の柴赤色の毛が黄金色(こがねいろ)に輝き、辺りは荘厳な雰囲気に覆われてゐた。その瞬間、私にとって「てつ」は「弥勒」になったのさ。私を見ても「てつ」こと「弥勒」は警戒しないので君の母親は私と「弥勒」の二人きりにしてくれた。それはそれは有難かった。暫く「弥勒」の美しさに見蕩れてゐると「弥勒」が突然、私に

――うぁぁお〜んわぅわぅあぅ

と、何か私に一言話し掛けたのである。私にはそれが『諸行無常』と聞こえてしまったのだ。

今でもあの神々しい「弥勒」の荘厳な美しさが瞼の裏に焼き付いてゐる……。あの世で「弥勒」に会へるのが楽しみさ……。

さて、話を雪のことに戻さう。

或る初夏の夕刻、君と一緒にあの欅の前を歩いてゐると雪がBenchに座っていつものやうに何かの本を呼んでゐた。

(以降に続く)

2007 06/24 04:54:46 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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先づ、次の文章が何のことなのか……謎謎である。

『宇宙を普遍的に支配する法則、宇宙の基本的なBalanceは、始終、破られてゐる。Energie(エネルギー)保存則を無視して、真空から、電子や陽子のやうな物質が――まるで手品の空っぽの帽子から鳩や兎が飛び出すやうに――ポンポンと出て来るのである。これを「真空の揺らぎ」と呼ぶのであった。但し、このやうな奇妙な現象は、観測者(主体)が観測してゐない時にしか起きない。一旦、無から生成された物質は、観測者(主体)が――周囲が――Unbalanceに気づく前に、無へと直ちに回帰してしまふ。結局、無から飛び出した電子や陽子たちは、観測者(主体)の眼には、「存在してゐなかった」ことになる。』――引用(『本 読書人の雑誌 2007年6月』【講談社】〜<とき>の思考――大澤真幸著:「独裁者という名の民主主義」〜(一部私が変更)

上記の記述には大澤真幸の理解不足が散見されるが概ね正しいとして、さて、何のことなのか解るだらうか。

先づ科学関係、それも物理学関係の事だとは解ると思ふが、しかし、科学者の間では上記の引用が「常識」なのである。

さう、量子力学のことである。量子力学における現象は一般の常識を越えた事がしばしば起こるが、上記の引用は彼のアインシュタインが生涯受け入れられなかった量子論の基本の基本の考え方である。アインシュタインでさへさうなのだから一般の人々にとっては尚更受け入れられない考え方である。

一言で言ふと私の背中では上記の引用の摩訶不思議としか言へない「現象(?)」が常に起こってゐることになる。

――はっはっはっ、可笑しくて仕様が無い……

さて、しかし、ここが大きな問題である。上記の引用が科学者の「常識」といふ事が――空恐ろしくて悪寒が体を走る――「文明」の基本の基本にある考え方なのだ。

――逃げろ ! !

さう、文明から即刻逃げなければ観測者にされた主体はこの世の「文明世界」で弄り殺され兼ねないのだ。

――奇妙奇天烈な『文明』から……早く、早く、逃げろ ! !

アインシュタインの一般相対性理論と量子論が「統一」された「大大統一理論」が理論物理学の世界で確立されない限り狂気の沙汰としか言へない「文明」から逃げる外、私たち一般の人々が「文明」に弄り殺されずに生き残る術は今の所……無い。

――誰か吾を助け給へ……

童歌の「かごめかごめ」

    籠目籠目
    籠の中の鳥はいついつ出やる
    夜明けの晩に鶴と亀がすべった
    後ろの正面誰


2007 06/18 07:19:27 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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にやりと笑った途端、不意にこの世を去った彼の葬儀に参列した時、亡くなった彼の妹さんから彼が私に残したものだといふ一冊の大学Noteを渡されたのである。英語と科学を除いて勿論彼は終生縦書きを貫いたのでそのNoteの表紙にそのNoteが縦書きで使ふことを断言するやうに『主体、主体を弾劾すべし』と筆書きされてあったのである。

その手記は次の一文から始まってゐた。

『――吾、吾を断罪す。故に吾、吾を破壊する――

これは君への遺言だ。すまんが私は先に逝く。これが私の望む生だったのだ。私はこれで満足なのだ……

君もご存知の「雪」といふ女性が私の前に現はれた時に私は『自死』しなければならないと自覚してしまったのだ。

自分で言ふのも何だが……、私は皆に『美男子』と言はれてゐたので美男子だったのだらう。良くRock BandのU2の『WAR』のジャケットのCover写真の少年(俳優:ピーター・ロワン)に似てゐると言はれてゐたが、ご存知のやうに私は変人だったのでそれ程多くの女性にもてたとは言へないが、生命を生む性である女性の一部はどうしても私の存在が「母性」を擽(くすぐ)るのだらう、彼女らは私を抛って置けず無理矢理――この言ひ方は彼女らに失礼だがね――私の世話をし出したのは君もご存知の通りだ。

しかし、私に関わった全ての女性たちは私が変はらないと悟って私の元から離れて行った。雪を除いては……

私は雪と出会った頃には埴谷雄高がいふ人間の二つの自由――子を産まないことと自殺することの自由――の内、自殺の仕方ばかり考へてゐたが、私には人間の自由は無いとも自覚してゐたので自殺してはならないとは心の奥底では思ってゐたけれども、画家のヴァン・ゴッホの死に方には一種の憧れがあったのは事実だ。自殺を決行して死に損なひ確か三日ぐらゐ生きた筈だが、私もヴァン・ゴッホが死す迄の三日間の苦悩と苦痛を味はふことばかりその頃は夢想してゐたのだ。それに自殺は地獄行きだから死しても尚未来永劫『私』であり続けるなんて御免被るといったことも私が自殺しなかった理由の一つだ。

今は亡き母親がよく言ってゐたが、私は既に赤子の時から変はってゐたさうだ。或る一点を凝視し始めたならば乳を吸ふ事は勿論、排泄物で汚れたおむつを換へるのも頑として拒んださうだ。ふっ、私は生まれついて食欲よりも凝視欲とでも言ったら良いのか、見ることの欲望が食欲より――つまりそこには性欲も含んでゐるが――優ってゐたらしい。赤子の時より既にある種の偏執狂だったのだ。君が私を『黙狂者』と呼んだのは見事だったよ。今思ふとその通りだったのかもしれない。

そんな時だ、雪に出会ってしまったのは……

(以降に続く)


2007 06/17 06:27:24 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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彼は幼い頃から屋根に寝そべって時々刻々とその姿を変容させる雲を見続けてゐる何とも名状し難い心地よさに包まれるその時間を愛して已まなかった。

特に雷雲が遠ざかる時の鬱勃と雷雲に雲が次々と湧いては上昇したために冷えた気団が纏ふ雲が雲団に崩れ沈む様をずうっと眺めてゐる時のその雄大な儚さが何とも堪らなく好きであった。

或る日、彼は特別強い突風が吹かない限り欠かせた事が無い激烈に変化する気候の不思議に魅了されて眺めずにはゐられない雷雲の去来の全てを部屋の窓を開け放って眺め始めたのであった。

先づ、斥候の雲として龍のやうな雲が中空を滑るやうに横切り始めると彼は最早空から目が離せなくなったのである。そして、灰色の氷山のやうな小さな暗雲が次第に群れを成して上空を流れ行く段になるともう直ぐ空が一変する瞬間が訪れるのを彼はわくわくしながら待つのである。

それは雷神が巨大な甕に薄墨をどくどくと注ぎ込みその巨大な甕が薄墨で一杯になったところでその甕の薄墨を空にぶち撒けるやうに薄墨色の暗い雲がさあっと空一面に一気に拡がる瞬間の息を飲むやうな迫力に圧倒されたいが為のみである。

辺りが夜の闇に包まれたかのやうに真っ暗になると雷神の本領発揮である。きらっと暗雲の何処に閃光が走ると

――どどどどど

と腹の底まで響き渡る轟音がこの世を覆ひ包む。

時には稲妻が地上から暗雲へ向けて這い登るその雷神の大交響樂は何時見ても凄まじいものであった。すると、彼は奇妙な感覚にその日は襲われたのである。

――睨まれた ! !

その瞬間であった。一閃の稲妻が地目掛けて駆け落ちた時、蒼白い小さな小さな閃光がこっちへ向かって疾走して来たのであった。その時Radioからワーグナーの「ワルキューレの騎行」が流れてゐた。

その蒼白い小さな小さな閃光はRadioのAntennaの先端に落ちたのであった。すると、「ワルキューレの騎行」は突然大音響で鳴り響き雷神の大交響樂を更にその迫力が鬼気迫る何とも凄まじいものへと変貌させたのであった。

それからである。稲妻が次々と閃光を放っては轟音を轟かせこの世を縦横無尽に駆け回り始めたのである。

――ぼとぼとぼと――

豪雨の襲来である。

その日の雷雨は記録的な降雨を記録した物凄いものであった……
2007 06/11 06:37:30 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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印刷技術を始め様々な科学技術を応用した発明がなければ「知識」は未だに特権階級の独占状態にあった筈であるが、幸か不幸か「知識」は人類共有のものへと世俗化したのである。しかし、現代は人間を魔人「多頭体一耳目」へと変態させてしまったのである。

印刷技術の発達のお蔭で書物が誰でも手にすることが出来るものへ、画家や写真家のお蔭で或る絵画や写真の情景が見る人誰もが共有出来るものへ、Recordの発明のお蔭でで誰もが音楽を共有出来るものへ、そして、映画や団欒のTelevisionのお蔭で誰もが同じ映像を共有出来る時代になったが、さて、ここからが問題である。個室で独りTelevisionやVideo等を見る段階になると人間は魔人「多頭体一耳目」に変態するのである。

――奴とこ奴の記憶すら交換可能な時代の到来か……

つまり、現在「個人」と呼ぶものは既に頭蓋内すら他者と交換可能な、言ひ換えると仮に人類が個室で全員同じ画像を見てゐるとすると将来生まれて来るであらう人類の為には極端なことを言へばたった独り生き残っていれば、否、誰も生き残らなくとも映像さへ残れば良いのである。

――こいつとあいつは頭蓋内の記憶すら交換可能な、つまり、こいつが居ればあいつは無用といふあいつの悲哀……

さて、そろそろ魔人「多頭体一耳目」の正体が解ってきたと思ふが、つまり、魔人「多頭体一耳目」は個室で独りTelevisionやVideo等を見てゐる人間のことなのである。

――俺の存在とは誰かと交換可能な……つまり……俺がこの世に存在する意義は全く無い……

映画館や団欒等、他者と一緒に同じ映像を見てゐるならばは傍に「超越者」たる「他者」が厳然と存在するので魔人「多頭体一耳目」は出現しない。

魔人「多頭体一耳目」を戯画風に描くと一対の耳目を蝸牛の目のやうに一対の耳目をTelevisionやVideo等が映す映像の場所ににょきっと伸ばし、その映像を見てゐる人数分、一対の耳目から枝分かれした管状の器官で頭と肉体が繋がってゐる奇怪な生物が描き出されるのであるが、オタクには失礼かも知れないがオタクこそ魔人「多頭体一耳目」の典型なのである。

さうなると主体が生き延びるには「感性」しかないのであるが、「感性」といっても如何せん頭蓋内の記憶すら同じなので、哀しい哉、「感性」もまた「同じ」やうなものばかりしか育めないのである。

――主体とはこの時代幻想に過ぎないのか……

人間を魔人「多頭体一耳目」に変態させたくなければ同じ映像を見るにしても必ず他者と一緒に見なければそいつは既に魔人「多頭体一耳目」に変態してしまってゐる。

――さう云へば私は最早Televisionを見なくなって久しいが……本能的に魔人『多頭体一耳目』になることを察知してTelevisionを見なくなったのかもしれないな……
2007 06/10 06:17:36 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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高田渡も歌ってゐる黒田三郎の詩『夕暮れ』の第一連から

夕暮れの町で

ボクは見る

自分の場所から はみだしてしまった

多くのひとびとを


……は何とも私の胸奥に響く一節である。特に

自分の場所から はみだしてしまった

多くのひとびとを

……の一節は見事である。

ところが

――自分の場所とは一体何処だ? 

といふ愚問を発する私の内部の声がその呟きを已めないのである。

今ゐる自分の場所は日本国内では、地球上では、太陽系内では、天の川銀河内では、更に何億年か何十憶年か、もしくは何百億年か後に天の川銀河と衝突すると予測されてゐるアンドロメダ銀河との関係性から全て自分の場所、もしくは自分の位置は言葉で指定できるが、さて、宇宙に仮に中心があるとして我々が棲息する天の川銀河は宇宙全体の何処に位置するのかとなると最早言葉では表現出来ずお手上げ状態である。

現代物理学ではこの宇宙は「閉ぢて」ゐると考へられてゐるのでこの宇宙の中心は多分何処かにある筈に違ひないと考へられなくもないが、しかし、宇宙全体の形状すら未だ不確かな状態ではこの宇宙に中心があるのかどうか不明である。仮令この宇宙に中心があったとして、さて、我々が棲息する天の川銀河はこの宇宙の何処に位置するのであらうか……

さて、『水鏡』で宇宙の涯についての妄想を書き連ねたが、仮にこの宇宙が『水鏡』の「林檎宇宙」であるならばこの宇宙の存在物は全て「林檎宇宙」の表皮に存在するといふやうに考へられなくもないのでこの宇宙の存在物全ては宇宙の周縁に存在する、つまりこの宇宙の存在物全ては宇宙の涯と接してゐるといふことになる。私の外部は宇宙外と接した何処かといふことになる。

――吾の隣は既に宇宙外……、はっはっ。

そこでまた『水鏡』の妄想から宇宙の涯が鏡――古代の人々は矢張り素晴らしい。鏡を神器と看做してゐたのだから――であるならば、私が鏡を見る行為は宇宙の涯を見てゐる擬似行為なのかもしれないのだ。鏡を見て自己認識する人間といふ生き物は、もしかすると宇宙の涯との相対的な関係性から自己の位置を認識したいのかもしれないのである。

――さて、吾は何処に存在するのか……

ここで石原吉郎の代表作の一つであり傑作の一つでもある『位置』といふ詩のその凄みが露になる。

――吾は吾の『位置』を言葉で表現し得るのか……


石原吉郎の第一詩集である『サンチョ・パンサの帰郷』(思潮社、1963年)の最初の詩は、『位置』である。

    位 置

   しずかな肩には
   声だけがならぶのでない
   声よりも近く
   敵がならぶのだ
   勇敢な男たちが目指す位置は
   その右でも おそらく
   そのひだりでもない
   無防備の空がついに撓(たわ)み
   正午の弓となる位置で
   君は呼吸し
   かつ挨拶せよ
   君の位置からの それが
   最もすぐれた姿勢である
                     (『石原吉郎全集?』花神社、1979年、5ページ)





2007 06/04 05:36:47 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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彼は絶えず――断罪せよ――といふ内部の告発の声に悩まされ続けてゐたらしい。
彼が何か行動を起こさうとすると必ず内部で呟く者がゐる。
――断罪せよ!!

彼は己の存在自体に懐疑的であった、といふよりも、自己の存在を自殺以外の方法でこの世から葬り去る事ばかり考へてゐたやうであった。
――両親の死を看取ったなら即座にこの世を去らう。それが私の唯一の贖罪の方法だ……

彼には主体なる者の存在がそもそも許せなかったらしい。彼をさうさせた原因はしかし判然としなかった。彼は埴谷雄高が名付けた奇妙な病気――黙狂――を患ってゐたのは間違ひない。
彼はいつも無言、つまり『黙狂者』であった。
――俺は……
といって彼は不意に黙り込んでしまふ。
しかし、彼は学生時代が終わらうとしてゐた或る日、忽然と猛烈に語り始め積極的に行動し始めたのであった。彼を忽然とさう変へた原因もまた判然としなかったのである。

彼は大学を卒業すると二十四時間休む間のないことで学生の間で有名だったある会社に自ら進んで就職したのである。

風の噂によると彼は猛然と二十四時間休むことなく働き続けたらしい。しかし、当然の結果、彼は心身ともに病に罹ってしまったらしいのである。その後某精神病院に入院してゐるらしいのであった。

――自同律の不快どころの話ではないな。『断罪せよ』と私の内部で何時も告発する者がゐるが、かうなると自同律の嫌悪、故に吾は自同律の破壊を試みたが……、人間は何て羸弱な生き物なのか……唯病気になっただけではないか、くっ。自己が自己破壊を試みた挙句、唯病気になっただけ……へっ、可笑しなもんだ。だがしかし、俺も死に至る病にやっと罹れたぜ、へっ。両親も昨年相次いで亡くなったからもう自己弾劾を実行出来るな……
彼の死は何とも奇妙な死であったらしい。にやりと突然笑い出した途端に息を引取ったらしいのである。
――断罪せよ、お前をだ。其の存在自体が既に罪なのだ……
2007 06/03 05:52:17 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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『波紋』のところで横書きと縦書きについて少し触れたが、文字を手にした人類は何を措いても肉筆が森羅万象を表現するのには一番である。

先づ縦書きと横書きについてであるが、横書きは頭上に坐す一神教の神の信者以外の者にとっては使い捨ての文(ふみ)でしかない。『波紋』で「神の視点」といふものを述べたが横書きは一行書くごとに下方へ一段下る。文を認(したた)めるといふ作業もまた周回運動に変換出来、それが綺麗な螺旋運動になってゐることに気が付く筈である。

「神の視点」の神とは『時間の神』、日本で言へば滋賀県大津市にある「天智天皇」を祀る近江神社が「時の神」の神社として有名だが、ギリシア神話で言へば「クロノス」(英語;Chronos、ギリシア語;χρόνοςのことである。一神教、例へばユダヤ教ではヤハウェ、基督教では基督、回教ではアッラーフ(アッラー)に「時の神」は統べられてしまってゐるが……

以上のことから唯一神不在若しくは無信仰の人間の横書きが如何に虚しい作業かは言はずもがなである。

さて、本題の肉筆だが、仏教徒であらうが神道信者であらうが、更に言へば無信仰ならば尚更であるが、日本人ならば先づ縦書きが基本で、『浅川マキと高田渡と江戸アケミ』で述べたやうに文を記すことは現代理論物理学の実践である。ハイデガーのいふ「世界=内=存在」でありたいならば「道具存在」である筆でも万年筆でも鉛筆でも何でもよいが筆記用具を手にして紙に記す行為こそ「世界=内=存在」であり得る。そこでだ、現代理論物理学を実践するならば肉筆に限る。文字を記すときの一点一画を記す行為は「時間」を紙上に封印する行為である。それが肉筆であるならば「個時空」を紙上に封印することである。紙上に肉筆で封印された「個時空」は既にこの世に唯一の「顔」を持ってゐて唯一無二の存在物になるのである。

肉筆原稿が嘗ては活字、今はComputer入力の写植に変貌してしまったが、それでも肉筆で今でも原稿用紙と格闘してゐる作家の文は迫力が違ふのである。これは私だけのことかもしれないが文芸誌などで何某かの作家の作品の一文を読めばその作家が原稿用紙に肉筆で書いたかComputer入力かがたちどころに解ってしまふのである。私にとってComputer入力の作家の作品は其れだけで既に読むに値しない愚作である。今でも肉筆で原稿用紙に書いてゐる、例へば本人には申し訳ないが、私は嫌いである大江健三郎の作品を文芸誌で見つけると嫌いにも拘はらずその作品の一文を読んでしまふと最後まで読んでしまはないと気が済まなくなるのである。写植になっても肉筆で書いたといふ「個時空」若しくは作家の「言霊」が私の魂を鷲摑みにして作品を最後まで読ませてしまふのである。

――何故、現代人はComputer入力で文を認める、つまり己を『のっぺらぼう』にしたがるのかね……

――へっ、己のことを自然を「超えた」若しくは神を「超えた」存在だと錯覚したいだけのことさ、ふっ。
2007 05/28 06:21:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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川面を弱風が吹き渡ると千変万化する風紋が川面に現はれる。

風紋といふ文字の姿も「ふうもん」といふ文字の響きも美しい。何がこんなにも私の魂と共鳴を起こして『美』を想起させるのか……

「揺らぎ」……。揺らぎを語り始めると量子論や宇宙論まで語らなければならないので自然の本質の一つとしてここでは一応定義しておくが、「揺らぎ」については後日語らなければならないのかもしれない……

風紋は風の揺らぎによって無常にその姿を変へ波の紋をこの世に映す。

諸行無常とは正に風紋の如しである。

さて、ここで妄想を膨らませると、風紋は時空間の時間を主体にした時空が姿を与へられてこの世に出現する現象ではないかと思ふ。波は周回運動に変換でき、つまり波は或る物が「揺らぐ」螺旋運動をしてこの世を駆け抜けたその軌跡ではないのではないだらうか。ここでいふ或る物とは正に『時』である。

確率論的に言へば風に幾ら「揺らぎ」があらうが風紋の最終形は直線の筈である。水はその姿を千変万化に変容させるので兎も角、砂丘の砂が例へば真っ平らであって例へ「揺らいだ」風でも万遍無く砂丘の砂にその風を数時間か吹き付け続ければ確率論的には直線の風紋が出来る筈であるが自然はそれを許さない。それは何故か――時空が特に時間が「揺らぐ」螺旋運動をしてゐるとしか考えられないからである。

多分、螺旋運動は自然の宿命なのだ。それ故時空は「揺らぐ」のだらう。

――人間もまた螺旋から逃れられない自然物なのだ。さて、例へばRobotだが、それが自然を超へるといふ人間の宿願を果たす人間の夢想であるならばだ。しかし、それが人間の頭蓋内の思索といふまた「揺らぎ」の螺旋運動から出現したものならば、さて、Robotもまた自然でしかない……………

――さてさて、人類の叡智とやらに告ぐ。……無から何か有を、存在物を……人間よ……創造し給へ。それが出来ない以上、人間よ、自然に隷属し給へ……。それが自然の宿命だからな……、ふっ。


2007 05/27 05:48:10 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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何時もはClaasic音楽漬けの日々、特にシュニトケ(ロシア)、ベルト(エストニア)、グバイドゥーリナ(ソ連->ドイツ)、武満徹などロシアと日本を含めたロシア周辺の現代作曲家の作品を好んで聴く日々を送ってゐるが、時折、日本のMusicianで言へば浅川マキと高田渡と江戸アケミの三人の歌声が無性に聴きたくなることがある。

閑話休題。

音楽と言語は現代理論物理学の実践に他ならないとつくづく思ふ今日この頃だが、量子力学的に言へば、音楽は波を主軸に、言語は量子を主軸に置いた理論物理学の実践である。

先づ音楽であるが、音符などの記号といふ『量子』と、音といふ『波』の二面性がある。しかし、音楽の記譜に用ひる記号は音の状態のみに特化したものなので音楽は感性的で抽象性が強い表現方法である。多分、一流の演奏家は作曲家の頭蓋内を覗き込むかのやうに眼前に記譜された楽曲を理解してゐるに違ひないと思ふが、私のやうな凡人には楽曲の演奏を聴いて魂が揺さぶられるが、何故? と問はれてもそれは言葉では表現出来ないのである。

次に言語であるが、文字といふ『量子』と、読みといふ『波』の二面性がある。特にここでは日本語に絞って話を進めるが、もしかすると理論物理学の実践といふ点で言へば日本語が最先端を行ってゐるのかもしれない。

埴谷雄高は何も書かれてゐない原稿用紙を『のっぺらぼう』と表現し、その『のっぺらぼう』を埴谷雄高独自の宇宙論へまで推し進めたが、『のっぺらぼう』は正に虚体論に直結してゐる。

何も書かれてゐない原稿用紙の『のっぺらぼう』の状態は私がいふ『虚の波体』の状態でのことである。じっと何も書かれてゐない原稿用紙を前にして書くべきものの姿が全く表象出来ない状態が所謂『虚の波体』の状態である。すると頭蓋内の暗黒の中に何やら『存在』してゐるやうな気配が感じられ始めるのだ。これが私のいふ『陰体』である。更に集中し頭蓋内の『それ』へSearchlightを当てるとその『陰体』はその姿を表象する。これがある言葉が出現する瞬間である。

さて、日本語は漢字の読みがいくつもあって、つまり量子力学的に『波が重なり合ってゐる』状態を実践してゐて面白い。書き手の頭蓋内で言葉の量子力学的状態が決したならば書き手は眼前の原稿用紙に先づ一文字を記す。これが言葉の『量子化』である。そして、最初に記された言葉の『状態』を更に固着化するために次の言葉が書き連ねられるのである。これは正に現代理論物理学の最先端の実践に他ならない。特に漢字の読みが幾つもある日本語はその更に先端を実践してゐると思はれる。

閑話休題。

さて、本題に戻ろう。浅川マキ以外はもう故人である。そして私的に数時間ではあるが直接本人と歓談したことがあるのも浅川マキ一人きりである。

浅川マキは浅川マキにしか表現出来ない独自の音楽世界があって彼女はそれとの格闘の日々を過ごしてゐるといっても過言ではない。後はInternetで検索してみれば彼女のことが少しは理解できるかもしれないが、普通の音楽が好きな人には彼女の『異端』の音楽は薦められない。彼女の音楽の核は『詩』である。

次にフォーク歌手の高田渡だが岡林信康や吉田拓郎に代表されるフォークが好きな人には高田渡は「何、これ」と言はれるに違ひない独特の味を持ったフォーク歌手である。何といっても山之口獏の詩を高田渡が歌った楽曲が一番である。高田渡は晩年私の好きな詩人の一人でシベリア抑留を生き延びた石原吉郎の詩を歌ふことに挑戦し始めたが、まだ石原吉郎の詩の言葉の存在感を手なずけられないままあの世へ行ってしまった。石原吉郎の詩の言葉の重さを手なずけた高田渡の歌が聴きたかったが返す返す間も残念無念である。

最後に江戸アケミであるが、彼は知る人ぞ知る伝説のバンド、JAGATARAのVocalistである。パンク、ファンク、レゲエ、中南米の音楽からさて、アフリカ音楽へ挑戦しようとしたところであの世へ行ってしまった。彼の書く歌詞は最高である。全てが江戸アケミの遺言になってゐるのだ。晩年、精神を病んでしまった彼のその人間の壊れ行く姿が克明に彼の音楽には記録されてゐるのでこれまた万人には薦められない音楽である。

浅川マキ、高田渡、そして江戸アケミの三人三様の独自の音楽世界は私の栄養剤である。

2007 05/21 05:57:03 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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螺旋から思ひ付くものの一つに二重螺旋構造のDNA(デオキシリボ核酸)がある。

そして螺旋は螺旋の真ん中を貫く一本の線を想起させる。螺旋の進行方向が螺旋の真ん中を貫く線の方向を決める。また、螺旋は龍巻を連想させる。螺旋状に渦を巻く気流が異常な破壊力の上昇気流を生み龍巻は地上の存在物を破壊する。DNAもまた自然物ならばこの摂理に従ってゐる筈である。DNAの真ん中を電流かその外の何かが流れてゐる筈である。それが何かは分子生物学者に任せてこちらは勝手な妄想を脹らませて主体といふものの仮象構造といったものを造形してみよう。

DNAの構造をフラクタルに拡大したものが人体だらうといふことは想像に難くない。さうすると主体たる人体は渦構造をしてゐるといふことも想像に難くない。一例として血管構造を見てみると動脈を構成してゐるといふ平行に走る弾性板の間を動脈長軸を巻くように斜走する平滑筋細胞が存在しいるらしいので血流がこのことと多少は関係してゐると看做せなくもないのである。

さて、人体を全体から見てみるとそれが渦構造であってもおかしくないと思へるのだ。口から肛門まで一本の管が人体を貫いてゐてそこは主体にとって『外部』である。

ここでカルマン渦の代表格である台風を持ち出してそれと人体の構造を比べると台風の目に相当するのが口から肛門まで貫く一本の管と看做せなくもないのである。そして肉体が台風の積乱雲群となる。

両手を拡げてその場で回転すれば肉体出来た『固時空』台風の出来上がりである。

さて、台風は台風に接してゐて渦を巻く高気圧によって動くが、人体は歩行する。多分、自転車、自動車、飛行機などは全て車輪かEngineの羽の回転運動で進んでゐることから『固時空』で円運動をしてゐるだらう時間を振り子運動に転換して人間は自律的に歩行してゐる筈である。『固時空』たる主体が歩行すれば主体に接して左右に時空のカルマン渦が発生する。つまり、『固時空』たる主体もまた渦構造をした存在に違ひないのだ。

舞踊に回転や渦巻き運動が多く、それが神聖なものと看做されたり死者との対話であったりするのもDNAの二重螺旋から発する『渦』と無関係ではなく、むしろ『固時空』たる主体が渦構造をしてゐると考へた方が自然で合理的だ。

―ーエドガー・アラン・ポーが『ユリイカ』の初めの方で書いてゐる『エトナの絶頂から眼をおもむろにあたりに投げる人は、おもにその場の拡がりと種々相とに心をうたれるのでありますが、これがくるりと踵でひと廻りしないかぎりは、その場景の荘厳な全一というパノラマは所有し得ないわけです。』(出典:創元推理文庫「ポオ 詩と詩論」 訳:福永武彦 他;二百八十四頁から)の実現だ。廻れ廻れ、全て廻れ !!
2007 05/20 15:18:07 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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その犬は私が何か考へ事をしながら川辺をふらふらと歩いてゐた時に不意に葦原から眼前に現れ私の顔を見上げながら尾を振って私の愛撫を待ってゐる様子で私の前に座ったのがその犬との出会いであった。私はその犬が望み通り頭を撫でて一度その犬を抱きかかへ、「高い高い」をして「お前のお家にお帰り」と言って最早その犬のことなど忘れ再び考え事に耽り始め、暫く川辺を散策した後家路に赴いたのであった。

ある交差点で赤信号を待ってゐると不意に私の左脇にあの子犬が私の顔を見上げながら尾を振って座ってゐるのに気が付いたのである。

――お前は捨て犬か……

私はその時この子犬が我が家まで付いてきたなら飼ふと心に決め、その犬に対して敢へて知らん振りをしながら家路に着いたのであったが、案の定、その子犬は我が家まで私にくっ付いてきたのであった。

それが正式名「哲学者」、通常の呼び名は「てつ」との出会いであった。

「てつ」は兎に角倹しい犬であった。食べものといへば一番価格が安く市販されてゐた固形のDogーFoodと煮干少々、牛乳少々と週に一度鶏肉の唐揚げ一つといふのが「てつ」が生涯食べたものの全てである。それ以外のものを上げやうとしても「てつ」は首をぷいっと左に向け決して食べやうとしなかったのである。

「てつ」は柴犬か柴犬の雑種であったが定かではない。「てつ」は昼間は殆ど寝てゐたが夕刻になると茫洋と何処かの虚空を見上げては何十分もそのまま座り続け、散歩の時間までさうして過ごしてゐた。その姿を見て「てつ」を「哲学者」と名付けたのである。そして散歩から帰って食事を済ませると再び何処かの虚空を見て何やら考へ事に耽ってゐるとしか思へないやうに一点に座ったまま一時間ばかり動かなかったのであった。

それが「てつ」の日常の全てであった。

「てつ」の散歩も変はってゐた。「てつ」が我が家に来て一週間は「てつ」は私が行く方向に従って散歩の主導権は私が握ってゐたが、「てつ」は一週間で我が家周辺の地図が「てつ」の頭の中に出来上がって「てつ」はそれ以降、散歩のCourseを自分で決めて「てつ」が思ひ描いたCourseから外れやうものならその場に座って頑として動こうとしなかったのである。仕方なく私は「てつ」に散歩される形になってしまったが、「てつ」との散歩は何時も違ふCourseで全く飽きが来なかったのである。寧ろ「てつ」との散歩は楽しかったのであった。

雲水か修行僧のやうに食べ物に禁欲的であった「てつ」は性欲にも禁欲であった。発情は勿論してゐた筈だが、雌犬を見ても何の反応もせず、また、私の足にしがみ付いて交尾の擬似行為は一切しなかったのである。唯一「てつ」の性器が勃起したのは私とじゃれ付く時のみであった。

「てつ」は自分から私とじゃれ付くことは無く、私が無理矢理「てつ」にじゃれ付くと「てつ」の性器は勃起して「てつ」は私とじゃれ付くことに熱中するのであった。

「てつ」の遊びはそれか゛全てであった。

そんな日常が十七年続いたある日、既に白内障を患ってゐた「てつ」は突然体がふらつき出したのであった。それでも「てつ」は死の二日前まで散歩に出かけてゐたが、「てつ」の最後の散歩時は「てつ」の体は既に冷たくふらふらと何時もの散歩の半分にも満たなかったのである。

「てつ」の最期は眠るやうであった。既に冷たくなってゐた体を犬小屋の中に横たへ「てつ」は最期に生涯最初で最後の愛撫を私にせがんだのである。目で愛撫をせがんでゐるのが解った私は「てつ」を撫であげると物の数分も経たぬうちに「てつ」はあの世へ旅立って行ったのであった。それはそれは物静かで荘厳ですらあった。

さて、そこで亡骸となってしまった「てつ」の性器を見てみると其処に精液が凝固して出来てゐたのであらう、尿道の出口に白い可憐な小さな花を思はせる花にそっくりな精液の凝固物が咲いてゐたのであった。「てつ」は死ぬまで精液が尿道から滴り落ちてゐたのであった。つまり、生涯現役のままあの世へ旅立ったのである。その可憐な白い花を思はせる尿道に咲いた精液の凝固物が「てつ」の満ち足りた生涯を祝福してゐるやうでその白い花は荘厳な美しさを放ってゐた。
2007 05/14 06:21:58 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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例へば宇宙の涯を妄想するには満潮時の流れが澱んだ川面に映る街明かりをぼんやりと眺めながら考へるに限る。それが新月だと尚更いい。

其処は両岸がConcreteの護岸で覆われて葦原の無い都会の街明かりが最も川面の水鏡に映える場所であった。その日は夜もどっぷりと暮れ真夜中近い弓張月が天高く上った頃に満潮を迎える、つまり宇宙の涯を妄想するのに最もよい日であった。いつものやうにConcreteの護岸の一番上に腰掛けて流れの澱んだ川面の水鏡に映る街明かりと月明かりをぼんやり眺めてゐると考えはいつものやうに宇宙の涯へと及んだのである。

――さて、この宇宙が『開いた宇宙』でしかも光速より速く、つまり埴谷雄高のいふ『暗黒速』で膨脹してゐるのであれば、多分、宇宙外にいはしまする神々の目には反物質の暗黒の大海に浮かび急速に肥大化する越前海月のやうに我々が存在するこの宇宙は観えるに違ひない……

一台の自動車が堤防の上にある国道をLightを点けて左から右へと走り行く様が逆様に澱んだ流れの川面の水鏡に映ってゐた。

――しかし、現在の科学ではどうやら宇宙は『閉ぢた宇宙』らしいので暗黒の大海に浮かび急速に肥大化する『海月宇宙』は無いな……

………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………
………………すると……さういへば確か北欧の神話だったと思ふが、この世は『世界樹』だか『宇宙樹』だかで表象されていたな……ここはニュートンに敬意を表してその『世界樹』を林檎の樹に喩へると……さて、我々が存在するこの宇宙はその『林檎の樹』に実ったたった一つの林檎の実でしかないに違ひない……

水鏡にうらうらと明滅する街明かりと月明かり。その明滅するRhythmが心地よい。

――すると反物質は林檎の芯の部分で果肉の部分は重力を深度で表す部分で我々が宇宙と言ってゐるのは林檎の表皮に過ぎないのかもしれないな……この考え方は銀河の分布を描いた宇宙地図で見る銀河の分布の仕方、真ん中がぽっかりと銀河の無い球上の周縁にのみ銀河が存在することとも一致してゐるやうな……無いやうな……まあ良い……今日のところは林檎の樹で行かう……

一尾の魚が水面を跳ね上がり水鏡に波紋がゆっくりと拡がって行く……

――さて、熟した『林檎の実』がぽとんと枝から落ちても『林檎の実の表皮』に過ぎない我々には……多分……宇宙外の『地面』に落下したことすら解らないだらうな……知るのは神のみぞか……さて、『地面』に落下した『林檎の実』は地面と接した部分から朽ち始める……巨大な巨大な巨大なブラックホールの出現だ……そして……その巨大な巨大な巨大なブラックホールも朽ち果てて『林檎の実』宇宙はべちゃっと潰れて反物質である『林檎の種』のみぞ残るのみか……さうして悠久の時を経て『林檎の種』は発芽する……ビックバンか……神の鉄槌の一撃が『林檎の種』に食らはせる……一つの『林檎の種』から『世界樹』は育ち幾つもの『林檎宇宙』実らせる……これを未来永劫繰り返す……か……

また一尾の魚が水面を跳ね上がり水鏡にゆっくりと波紋が拡がって行く……

――さて、今度は宇宙の膨脹が光速以下だとすると宇宙の涯は、さて、鏡のやうなものに違ひないだらう……この世に存在するあらゆるものは当然この宇宙外に飛び出ることはあり得ず光速で宇宙の涯まで到達してしまった光は宇宙の涯で反射する外無い……すると宇宙は光CableのやうなTube状でもよく……すると……この宇宙の形状は閉ぢたものであればどんな形でも構はないことになる……ふっ、宇宙の膨脹が光速以下とする方が今のところ合理的かな……つまり……この宇宙の涯は眼前の水鏡か……

うらうらとうらうらと澱んだ流れの川面に映る街明かりと月明かりが明滅する美しさは飽きが来ない……。

その日は潮が引き始めて川が再び流れ始めてもConcreteの護岸から腰を上げることなく明け方まで川面の水鏡をずっと眺め続けてゐたのであった。
2007 05/13 06:31:51 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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人類が大きな勘違ひをしてゐることが一つある。それは仮令人類が地上から消えようがそれは所詮人類のみの問題であって、地球は勿論、宇宙にとっても人類が滅亡しようが生き残ろうがどうでも良い、即ち問題にすらならないある一つの事象に過ぎず、地球にとっても、まして宇宙にとっても人類の存在なんぞ歯牙にすらかけてゐない、全く下らない事象に過ぎないのだ。

唯、自然がこれ以上人類の存続を許さなかったならば自然は眦一つ動かすことなくその冷徹な手で自然に必要な数の人類を除いて残りは全て自然災害等で間引く、つまり人類の大量虐殺を何の躊躇ひもなく行ふといふことである。

……………………………………………………………………………………………………

それは突然役所で決まって、ある朝、突然畑に舗装道路を通すための測量が始まった。後はAsphalt(土瀝青《つちれきせい》)で舗装すればその道路は完成といふところまでは何の問題もなかったやうに思ふが、さて、いざ土瀝青を敷いて道路を舗装し終へた翌日の朝、舗装された道路やその周辺では大量の蚯蚓(みみず)が死んでゐたのであった。土瀝青の上で力尽き野たれ死んでゐる何百匹の蚯蚓の外にも、まだ蓋のしてない側溝の中にも何百匹もの蚯蚓が力尽き死んでゐたのであった。その異様な光景は多分土瀝青を敷くときに使われた何かの薬品の所為に違ひないのである。地中といふ地球における「未来」に棲む蚯蚓は多分に生物の未来をも担ってゐる筈で、その蚯蚓の大量虐殺は生物の「未来」の抹殺をも意味してゐたに違ひない。

しかし、事はそれで終わらなかったのである。死んだ蚯蚓を喰らったのであらう、数羽の雀が道端で死んでおり、また、側溝の中には何匹もの螻蛄(おけら)と土竜(もぐら)が逃げ道を探して側溝の中で逃げ惑ってゐたのであった。螻蛄と土竜の姿を見るのはそのときが多分初めてであったと思ふが、螻蛄と土竜のその愛くるしさは今も忘れない。螻蛄と土竜を一匹一匹拾い上げて土に戻してあげたのは言ふまでもないが、螻蛄と土竜は蚯蚓の異変を喰らふ直前に察知したのであらう、多分螻蛄も土竜も死んだ蚯蚓を喰らふことなく生き残ったのだと思ふ。

さて、その日の夕方野良猫さへ危険を察知して喰はわずに死体を曝し続けてゐた雀は遠目に何も変わった様子は無かったのであったが、近づいて見ると黒蟻の山が雀の死骸の下に出来てゐたのであった。当然、何匹かの黒蟻は薬品にやられて死んでゐたが黒蟻はその死んだ仲間の黒蟻さへもせっせと自分の巣へ運んでゐたのである。

翌年、黒蟻の姿を余り見かけなかったのは言ふまでもない。

人間はかうも罪深き生き物である。この償いは近い将来必ず人間自らに降りかかって来るに違ひない……
2007 05/07 06:18:43 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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あの身を刺すやうな垂直線が無数に林立する大都会の風景に慣れることは一生無いだらうと腹を括ったつもりでゐたが、いざ大都会の町並みを目の前にすると垂直線の恐怖で身が竦んでゐる自身に苦笑するしかない。

それにしても何故高い住居費を出してまであんな高層階にのかその棲む人の気が知れない。高層ビルはアインシュタインの特殊相対性理論から一種の過去へTime SlipするTime-Machineであることを知って皆あんな高層に棲んでゐるのだらうか。

主体の現在が皮膚の表面といふことと一緒で地球自体の現在は地肌が剥き出しになった地表である。その地表に高層ビルを建てればそれだけ地球の自転による回転速度が地表より増し、特殊相対性理論から高層ビルを流れる時間の流れは地表より極々僅かでしかないがゆっくりと進むのである。高層ビル群に棲んでその時間がゆっくりと進む感覚が感知できない現代人は感覚がとっくに麻痺して感覚器官が退化してゐるといふことで、既に人間では無いのかも知れないのである。これは由々しき問題で多分地表と高層との時間の進み方の違いを感覚的に感知した人間はその理由が解らず深い悲しみと苦悩の中に追い込まれ遂には自殺すると考へられなくもないのである。感覚が敏感な人間は都会に馴染めずあの身を刺す垂直線の地獄から逃れるために「過去」である高層ビルの屋上から「現在」である地面に一気に飛び込んで飛び降り自殺――自殺はまた地獄行きである。何故なら生きていくのが辛い現世の意識と感覚が未来永劫「私」であるといふ地獄に行くのである。そこは正に「嫌だ、嫌だ」といふ呻き声ばかりする阿鼻叫喚の世界である――をして死んでしまひ、時間の感覚に鈍感な「人間」の子孫ばかりが生き残るといふこと、つまり今は人間が退化して「何物」かへと変はる過渡期なのかもしれないが、それが「進化」といふならそんな「進化」は御免蒙るしかないのである。故に高層ビルに棲める都会人は最早退化した人間でしかなく、そんな得体の知れない「人間」とはなるべくなら関わりたくないといふのが本音である。

それとは逆に地下は地表より地球の回転速度が遅いので特殊相対性理論上、「未来」へのTime-Machineとも言へる。だから地下は目的なければ近寄らないほうがよいのである。目的無き未来にぽつんと置かれれば猜疑心や不安等に襲われ一分たりともそこには居たくない筈である。さうでなければ自身を退化した、人間ならざる何物かといふことを自覚して感覚を研ぎ澄ます訓練をしなければ「人間」は絶滅する。

…………………………………………………………………………………………………

矢張り都会に来たのがいけなかったのだ。こんな「人間」ならざる魑魅魍魎が跋扈する不気味な世界からはさっさと退散するに限る。
2007 05/06 04:02:42 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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川面をずうっとゆったりと眺めるのには川の流れの進行方向に対して右岸から眺めるのが一番である。つまり、水が左から右へと流れ行く様が大好きなのである。その理由の淵源を辿って行ったならば八百万の神々に行き着いてしまったのであった。

それは絵巻物を眺める様によく似てゐる。紙自体は右から左へと流れるが紙上に描かれてゐる絵巻は右から左へと流れて行くのである。これは個人的な見解であるが紙に天地を定めこの世の森羅万象を紙上に表せると太古の人々が考えたかどうだかはいざ知らず、しかし、例へば文を記すのにも右上から縦に書き出すそれは、文の進み行く方向、つまり右から左へと一行ごとに進むその右からの視点を「神の視点」とすれば日本語の縦書きは書き手の右に神が鎮座してゐるとも解釈できるのである。さうすると横書きは当然天に鎮座する神といふ事になる。といふことは縦書きは書き手と八百万の神々が平等の位置に居ると解釈できるのである。その解釈からすると紙上に何かを表すとはその八百万の神々との戯れでもある。

………………………………………………………………………………………………

或る日引き潮の時刻を見計らって河口からほぼ二十キロほど上流の川辺へ川を見に出かけたのである。それは偶然にも夕刻のことであった。辺りは次第に茜色に染まり始め見やうによってはこの世が灼熱の火の玉宇宙に化した如くであった。うらうらと茜色に映える川面。その時一尾の魚が丁度羽化した水生昆虫の成虫を喰らふために跳ね上がったのであった。その時生じた波紋。それは神の鉄槌の一撃で爆発膨張を始めたであらう宇宙創成の時の波紋、世界が波打ち時が刻まれ始めてしまった波紋にも似て何やら名状しがたい美しさと恐怖に満ちてゐたのであった。
2007 05/01 07:28:36 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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